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「――喉、渇いたでしょう。水でも飲みますか?」
「…………」
「水を飲む気力もありませんか? なら、そろそろ食べ頃かなあ」
ベッドの上の女が暴れる。乱れたピンクベージュの髪。助けを求めて鳴り続ける壁。それをたしなめるように、黒髪の女は人差し指を立てた。
「しーっ。『下の階の人』が起きちゃいますよ」
手足を縛られた女のために用意したペットボトルを床に置き、黒髪の女性はベッドに腰掛けた。
「……私があなたを選んだ理由はなんだと思います?」
唐突な質問に、女は眉根を寄せる。その顔を確認し、「口にガムテープしてましたね」と黒髪の女が失笑した。
「正直、私はあなたの名前も知りませんでしたよ。けど、常連客ともなれば『顔』くらいは覚えてるんですよね。あと、これも印象的だったなあ」
女の耳元で光る青色のピアスに触れ、星井暁は目を細めた。
「――あなたに対する恨みはありません。ただ、嫌だと思っていただけです。スタイル維持のために平気で料理を残し、デザートだけは食べて帰る人。いっつもそうでしたね」
「…………」
「命をなんだと思ってるんですか?」
ピアスを力任せに下方へ引っ張る。女が呻き、ピアスホールに血が滲んだ。
「この前注文されたのは酢豚セットでしたっけ。あの料理にどれだけの命が詰まっていたか分かりますか。豚と、たまねぎ、にんじん、きくらげ、ピーマン。セットメニューでしたから、ライスとスープつきですね。……あの料理のためにどれだけの生物が死んだのか、理解していますか」
枕に血がしたたり落ちたところで、暁はピアスから手を離した。不自然な楕円形になったピアスホールと、赤く染まる枕カバー。
「食べるために命をいただく。……生きている限り、食事は避けられません。『生きるために生きるものを殺す』、自然の摂理です。ただ――殺したものをすべてきちんと食べていますか?」
食べているのなら、残飯入れなんてありませんよね。暁は呟いた。
「生きるのが、食べるのが罪だとは言いません。ただ、人間の勝手な理由で命を残すのは悪だと言っているんです」
侮蔑するような目を女に向け、暁は言い切る。
「私はあなたを食べますよ。可食部はすべて、余すところなく」
女が目を見開き、再び暴れ出す。暁は女の手首を掴み、ベッドに押し付けた。
「食べるためなら殺してもいいんですよね。その理屈で、牛も豚も鶏も魚も植物も殺されている。それとも、人間だけは例外ですか? 何故でしょう? 悲しむ人がいるから? なら、孤独な人間は殺してもいいのでしょうか」
女が激しく首を振る。その様子を見て、暁は微笑んだ。
「逆に、動物や植物は誰も悲しまないとどうして言い切れるのでしょう。……犬は尻尾の動きで感情が読み取れるのだと都合よく思い込み、そういった仕草のない魚や植物は感情がないように見えているだけなのでは?」
「…………」
「食用の動物と、そうでない動物の違いはなんでしょう。――人間が美味しいと思うかどうか、あるいは、飼育のしやすさではないでしょうか。自分たちのエゴで、食べてもいい動物と食べてはいけない動物を決めているだけ。……殺してもいい動物と、殺してはいけない動物を選んでいるだけ。命の重さは平等だなんて、本当に綺麗事ですよね」
暁は言葉を切り、女の手首から手を離した。呼吸もままならない女と、何一つ乱れていない暁。
「……私ね。料理の中にある『命の数』が怖かったんです」
赤色から茶色に変色し始めた枕を見ながら暁は言った。
「一枚の皿にどれだけの命が盛られているのか、考えるのが怖かった。さっきも言いましたよね。酢豚だと豚、玉ねぎ、ピーマン、にんじん、きくらげ。五つの命が使われているって。それだけでも充分多いですが――例えば一人前の酢豚に、ピーマンはふたつ使用されているかもしれません。……白ごはんはどうカウントするのでしょう。一株でひとつの命? それとも、一粒でひとつの命? 仮に後者ならば、茶碗一杯にどれだけの命があるんでしょう」
一日にどれだけの命を消費しているか、あなたは知っていますか。
暁は女を見る。女は、答えなかった。
「それが、人間一人を食べる場合。――成人の身体だと、可食部は約三十キロ。総エネルギーは八万キロカロリーを超えるそうです。ハイツの人間で分けあっても、ひとつの命で数日はもちますよ。自分たちで解体し、感謝しながら食べますから、『命が残され捨てられる場面』に出くわすこともありません」
暁は歌うように言う。
「同道さんのルックスと口車にのせられる馬鹿。津賀さんの――若い人妻の身体目当てのゲス。料理を平気で残すゴミ人間。……殺す命は、厳選したクズばかり。罪のない動物を殺すよりかは、理に適ってると思いません?」
女が極限まで目を見開き、暁を見る。信じられない、といった顔。暁はそれを意に介する風もなく続けた。
「脳も内臓も美味しくいただけますし、新鮮ならば肝臓なんかは生でも問題ありません。膀胱は丁寧に洗う必要がありますが、案外抵抗なく食べられます。食べられないのは骨――これが八キロあります。あとは爪と体毛。毛髪は刻んでみたりもしたんですが、食用には不向きですね。あなたの場合は長さもありますし」
暁はピンクベージュの髪を一束すくい、ぱらぱらとベッドに落とした。乾いた毛先がシーツに広がる。ヘアコロンの香りはすっかり飛んでしまっていた。
「男性の場合は本当に申し訳ないんですけど、睾丸だけはどうしても食べられないんですよ。固くて噛みきれないし、とにかく臭くて。誰も欲しがらないから、骨と一緒に溶かしてしまいます。――女性の場合は重宝されますよ。男性よりも肉が柔らかいですし。胸は案外硬くて調理の仕方が難しいんですけど、そこら辺は戸坂さんがうまくやってくれます。……お尻は香草焼きにして、一度くらい先輩にお裾分けしてみようかなあ」
血液も残さずいただきますよ、と暁。
「血抜きする時、捨てずに取っておくんです。――それをそのまま放置しておくとね、勝手に固まるんですよ。フィブリノーゲンとかフィブリンとか、生物の時間に習ったあれです。血餅って言うとおもちみたいですけど、私は寒天に近いと思います。スプーンをさした時の感触なんかが、特に」
寒天はしゅうくんが好きなんですよね。暁はくすくすと笑う。
「練乳をかけてもいいですけど、私はお砂糖をまぶすのが好きです。血液は常温で固まりますけど、口の中に入れるとすーっと溶けるんですよ。上品なスイーツみたいにね。……あなたにも食べさせてあげたかったなあ」
女が、泣きながら拳を動かす。
――どん、と力なく壁は鳴る。誰もいない隣室へ向けて。
「どんなに嫌いな人間でもね、食べてみたら美味しいんです。癖になっちゃうくらい。……あ、そうだ。味の麓を料理に使うと、なんでも『美味しく』なるって知ってました? 焼肉に振ってもいいし、卵焼きに混ぜてもいいですし。あなたもぜひ試してみればいい。――この先、生きてたらね」
暁が立ち上がると、女は首を振った。涙で流れたアイラインと、浮いたファンデーション。暁は冷笑する。
「そろそろ、彼を呼んできます。……安心してください、私は誰かのように食べ残したりしませんから。骨の髄までとは言いませんが、心臓ならば残さず食べます。あなたは文字通り血肉となり、私の中で生き続ける。――ね、そう考えたら食べられるのって素敵でしょう?」
優しく、諭すような声を出す暁。
口を塞がれてもなお、懸命に叫ぼうとする女。
悲鳴をあげる壁。
誰にも届かない、音。
部屋を出ようとしていた暁は扉の前で振り返り、その場で言うには不適切な、けれども忘れてはならない言葉を言う。
心を込め、感謝をし、最大限の敬意をこめて。
「――いただきます」




