第四寮②
夜、上級生の汚ねえ革靴を磨きながら、俺は思索を巡らしていた。
ガキとアダルトを分ける定義について、持論を一つ述べさせてもらうなら、自分の機嫌を自分で取れるかどうかだと思う。
たとえいかなる激情に飲み込まれようとも、よく吟味し、多方面から客観的かつ冷静な判断を下し、己の中でなんとか折り合いをつけ、歯を食いしばって進んでいくのが大人ってもんじゃないのか。
決して周囲に、特に立場の弱い相手に対して、理不尽をぶつけるようなことがあってはならない。
そう考えると…………。まあ、所詮パシーもティーンだ。
16か17か知らないけど、前世に照らし合わせると高二病真っ盛りといったところか。まだまだ未熟だ。大人ぶりたがるただの子供。アンガーマネジメントのアの字も知るまい。
メンタル的には大人の俺が飲み込むしかないのだろう。悪くなくても。
今日の夜は、珍しいことに一年は手洗い場には俺しかいなかった。みんな朝やるつもりなのか? それはそれで混みそうだが。
手際のいい二年はすでに仕上げて帰っているので、今の俺は純然たるぼっちだった。それでも健気に靴磨きを終わらせて手を洗った。靴墨がなかなか落ちないのが嫌寄りの嫌である。
おかげさまで手は入学以来荒れ始めている。思わずぢっと見てしまう。はたらけどはたらけど、なお我がくらし……。
「パシー先輩、靴磨き終わりました。扉を開けていいですか?」
いつものように扉をノックして呼びかけるが、返事はない。夜の礼拝も終わってないのに寝ているはずがないのに。俺は居留守だと確信していた。
夕方のテニス部のあれからずっとこれ。
正直なところ、いまいちよくわからないが、状況から鑑みるにショックだったらしい。俺が演劇部じゃなくてテニス部に入ったことが。……全然わからん。
他人の癇癪の理由などいちいちわかるはずがない。
「……先輩? いないんですか?」
——……。
だが、不利益が生じていることは確かだ。
いつもならサクッと部屋に入って靴を置いて終わりなのに、こんな風に無駄な時間を食っているんだから。
多少雑談をすることはあるから、トータルじゃそこまで時間のロスじゃないのかな。いやでも、開くかわからないドアの前で立っているのは心理的なストレスも発生し得る。
「……部屋の前に置いときますね」
この状態が続くようなら、解消する方法だけでも見つけた方がいい。
「遅かったな」
「ちょっと考え事をしちゃっていてね」
部屋に戻ると、珍しくみんな真面目に自習をしていた。俺も自分のベッドのそばに磨きたてほやほやの革靴を置いて、勉強机の椅子を引いて座る。
「あれ? ソネットの暗記明日だったっけ?」
「ああ」
忘れてた。さっきからニックスが夢中で石板に何か書いているなと思ったら、そういうことか。遠慮なく鞭打ちしてくるからな、あの先生。そういうことか。だからみんな靴磨きを後回しに。ほーん。
「ワーグナーはもう覚えた?」
「あなたを夏の日にたとえようかの次から怪しいな」
「やばくないか」
「今から頑張るんだよ」
一夜漬け職人の夜は長い。まずは水を一杯飲んで心を平静に保つこと。それから、とりま糖分チャージが急務である。
俺はベッドの下から木箱を引きずり出……、
「?」
なんか、トランクとか木箱の位置が朝から変わってる気がする。トランクの鍵を検分するが、開けられてはなさそう。いじられた跡っぽいのがあるようなないような。
木箱は鍵こそかけてなかったが、彩色された丸いお菓子のブリキ缶と寒くなった時用の上着しか入ってないのですぐに確認は済んだ。触られた形跡はない。
「? 無事ではあるのか?」
「何してるんだ?」
「いや、そろそろ夜食の時間じゃないかとね……」
丸缶のラベルを剥がして、蓋を開ける。プラリーヌが詰められていた。
日曜日外出したときに、パシー先輩がお土産で買ってくれたやつである。欲しいものを正直に言ったら評価が下がりそうだったので、無難におすすめスイーツを頼んだらこれが来た。
これはシティーの風吹かされてるな。
俺は安全確認のため一粒取って食べてみた。
「……っ」
こ、これは……。
「みんな、こちらを見たまえ」
「!? ワーグナー。お前またすごいもの出してきたな」
「どこからそんなの持ってきてるんだよ」
「一体トランクには何が入ってるんだ…」
怪訝な表情を浮かべながらも、欲望に弱いのでぞろぞろ掲げられたお菓子に群がってくる。
その数秒後、レニングが「夏じゃなくてナッツだ!」と唸りながら五体投地する様子が観測された。
まあ、アーモンドをキャラメリゼして不味かったら世界がおかしいよな。
こいつらがこの衝撃でソネットのデータをロストすることに期待しつつ、机に向かおうとしたら、礼拝の時間になってしまった。
寮監教師の朗読を聞きながら、俺と目が合わないパシーを眺めて思った。
もしや……俄には信じ難いが……、もしや俺にも小指の爪の先ほどの過失があったりするのか?
あんな美味いものをくれたパシー先輩が、可愛い後輩を無視するという愚行をまともな理由もなしにするとは考えづらい。俺の歩み寄りが若干足りない部分があったりしたのでは……?
消灯時間が過ぎても全員しばらく暗記を頑張っていたが、力尽きたやつから倒れていく。最後に残った俺に、最後から二番目がベッドに倒れ込みながら言った。
「見回りに気をつけて。寝るときランプ消し忘れるなよ。…おやすみ」
「ああ、おやすみ」




