ニックス②
風向きがいきなり変わってしまった。
数学の授業前、前にいたクラスメートと話していたら、ウィルソンが後ろに取り巻きを連れながら話に混ざってきた。
ウィルソンはうちの寮のシーセットをさらに太々しくした感じで、実際二人がつるんでいるところはよく見かける。それこそわかりやすく、同じ貴族同士で繋がったんだろう。俺は今まであいさつを返されたこともない。
「アルドリッチが呼ばれるぐらいなら、伯爵家嫡男の俺が呼ばれるべきだ。君たちだってそう思うだろ?」
「は、はははは……」
「ウィルソン……。君が入るんじゃなかって噂ももちろんあるよ」
俺たちの話題に乗ってきたものの、それをきっかけにしたかっただけだと思う。ウィルソンの目はワーグナーに向けられていた。
いつも教室の奥の窓際で、謎にいい感じなそよ風に吹かれながらノートを広げているワーグナーは、側から見たら話しかけづらいオーラを纏っている。
ヒエラルキーを重視するウィルソンには”ずっと無視し続ける”という選択肢はとれなかったんだ。すごく凝視してくるウィルソンにさすがのワーグナーも気づいたらしい、握手のための手を出した。
「初めましてウィルソン、ブルムヤード社のハムをよく朝食に食べてたよ」
「ああ、どうも。僕のところの会社だけどよく知ってるな。お前も貴族か? 名前は?」
「ワーグナーだ」
「ワーグナー……?」
貴族であることは否定しないのか。ってことは貴族なのか。納得はできる。ワーグナーは寮監から妙に特別扱いをされていたし。
ここしばらくの謎が解けてすっきりしたけれど、謎の溶け方にすごく納得がいかない。
まさか、聞いてよかったのか。お前、聞いたら普通に答えてくれたのかよ。
「お前貴族だったのか? どうして言わなかったんだ?」
「それは……えーっと、別に大したことじゃないからね」
「目をつけられて大変なんじゃないかって思っていたけど」
権力を持っている上級生の雑役生へのいじめなど、小さいものまであげたらキリがないらしい。パシー先輩は苛烈そうには見えないが、生まれも育ちも違う人間を自分の感覚だけで判断はできない。だから心配してたんだけど。
ほっとしたような、逆にもやついたような。もしかして俺たちが変に気を遣いすぎていただけなのか。
「……そんなことされてないよ。心配はいらない」
その間はなんだ。
「本当に何もないならいいけど」
よくなかった!
ウィルソンに早速嫌がらせを受けている現場を見てしまった。なんとその日の午後だ。
ゴミをぶちまけられていた。
話を聞いても疑問はなくならない。特に落ち込んでいるようには見えないのはよかったけど。でもワーグナーはなぜか俺をじっと見ていた。
「おいおいなんとかなると思う」
「おいおいってなんだ」
「ま、なんとか、なるんじゃないか?」
そして、
「ニックス、ドッヂボールって知ってるか?」
「なんだそれ?」
「巴鬼は?」
「ともえおに?」
聞いたこともないものを俺に尋ね出す。お前が今気にするものって本当にそれでいいのか?
どう考えても大丈夫じゃなさそうだったので、第一寮についていくことにした。
そして今度は、——目の前で第一寮の上級生に胸ぐらを掴まれていた。
寮から出て、少し歩いたところで俺は立ち止まった。
「ワーグナー……、今日はひどい目にばかり遭ってたが。お前……」
なんて続ければいいのかわからないんだけど。
「ま、君が助けに入ってくれただろ。ありがとう」
「そうじゃない」
肩を思わずガッと掴んだ。
「ウィルソンだけじゃない、先輩たちにも目をつけられたかもしれないんだぞ!」
「先輩に関しては君も同じようなもんじゃないか」
「何笑ってるんだ」
「いや、ふふ……何もないよ」
「は?」
「まあ、こうなっちゃったら仕方ないよ」
ワーグナーのいつもの微笑みがどこか儚く見えた。
その次の日、寮へ帰る途中でロドニーを見かけた。
「この前は騒ぎを起こして悪かった。あれからひどいことにならなかったか?」
「だ、大丈夫だよぼくは全然っ! でも、あの、君たちの方が大変な目に遭っちゃって……」
「ワーグナーの頼みを聞いただけだろ。気にするなよ」
「……」
そうは言っても責任を感じるのかロドニーは俯いてしまった。気まずさを誤魔化すために話題を変える。
「何を大事そうに持ってるんだ? 静画の複製写真に見えるけど……」
ロドニーは慌ててそれをぎゅっと抱え込んだ。
「ほ、ほあ! これは偶像崇拝じゃない!」
そしてそのまま小走りで逃げるように去ってしまった。
なんだったんだと思いながら寮に入ると、エントランスの正面の階段で年配の寮母が座っていた。
洗濯したシーツを運んでいたら入り口の段差で転けてしまって、たまたま近くにいたワーグナーが、代わりに上の階の部屋に運んでくれている最中らしい。
「足冷やすもの持ってきましょうか?」
「ああ、腫れてはないんです。少し打っただけですよ。ワーグナーくんもニックスくんも優しい子ですね」
寮母が言い終わる前に、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
ワーグナーは都合が良すぎる。俺みたいなやつにとって。
出会ってから声を荒げた姿を見たことがない。自制心が強いんだと思う。誰に対しても親切だ。持っていたすごい焼き菓子も全部くれるし、嫌な思いをしても表情にも口にも出さない。
そして俺を寮の一年のリーダーに推薦した。今朝、外出前にパシー先輩がわざわざ俺に教えてくれた。
実家が貴族や資産家でもないのに一年のリーダーになれるのは普通ではありえない。将来のことを考えると、役職についていたという実績は大きな力になる。それぐらいありがたいものなのに、譲ってくれた。
時々変なことを言っている以外は、それこそ聖人のようだ。
だからこそ、無理をしている部分があるようにも見える。
前々から食欲がないときがあったし、この前は急に倒れて医務室に運ばれていた。目立つ貴族のウィルソンや怖そうな上級生に目をつけられて、隠しているだけで本当は、精神的に相当参っているんじゃないだろうか。
さっきも手紙を読んでいる途中変なくしゃみをしていたし。
クリケット部のトレーニングの最中に、先輩が話しかけてきた。
「どうしたジョン? ずっと上の空じゃないか。何か悩みがあるようだな」
さすが先輩だ。気づかれていたらしい。先輩は俺よりも人生の先輩である。わからないことは素直に聞いてみるべきか。
「先輩、くしゃみって家によって個性があったりするんですかね?」
「そんな話は、俺の今までの分厚い人生経験において聞いたことはないが……。どんなくしゃみなんだ?」
「ふぁーかえっとるー…って聞こえました」
「異常だなそれは。正気じゃないと思うぞ」
夜、夕食の時間ぎりぎりに寮の入り口の扉が開く音がした。
ワーグナーがようやく帰ってきたのか?
日曜日じゃなかったら監督生に罰則を言い渡されていただろう。寮監の方はあいつに甘いので大丈夫だと思うが。
寮監に断りを入れて、食堂を出る。なぜかレニングがついてきた。
「いつも真面目なのに珍しいなって思って」
一緒にエントランスまで向かうと、思った通りだった。
でも様子がおかしい。すごく疲れたようによたよたしている。なぜか全身葉っぱとひっつき虫まみれだった。どこでつけてきたんだ。薮にでも突っ込んだとしか思えない。また嫌がらせを受けたのか? 正気で入るとこじゃないだろ。
レニングがワーグナーの惨状にめちゃくちゃ困惑していた。
「えっな、なに? 何があったんだ?」
「もう無理……。取っても取ってもずっとあるし、全然無くならないし……取ったと思ったらまたくっついてるし…」
ちょっと泣きべそまでかいている。
俺は確信した。やっぱり無理をしすぎたんだ。ワーグナーがとうとう壊れてしまった。




