第7節 午前零時は、まだ来ていなかった
後部扉が、エレノアの背後で細く閉じた。
蝶番の軋みは、遠ざかる白い外套を追うあいだに、蒸気の吐息へ紛れて消えた。
列車の外は、零番線のホームよりも暗い。
携帯灯の遮光板を下ろしているため、足元には靴一足分の光しか落ちない。
壁と線路の隙間へ設けられた保守路が、列車の後方へ伸びている。
頭上には細い蒸気管。
右手には黄金列車の外板。
左手には、黒く湿った煉瓦壁。
その先を。
白い外套が曲がった。
速くはない。
けれど、追いつかせるつもりもない。
一定の距離を保ち、こちらが足を止めれば向こうも消えそうな、いやに測られた進み方だった。
エレノアは二歩進み。
一度だけ振り返った。
扉はもう、暗闇へ溶けている。
三人へ告げていない。
そう思った瞬間、胸の奥へ小さな引っ掛かりが生まれた。
だが、戻って説明している間に、白い外套は消える。
声を上げれば、ルヴェールへ気づいたことを知らせてしまう。
ここで必要なのは、捕縛ではない。
まず位置を確認し。
進路を見て。
すぐに戻る。
全体を指揮するための偵察だ。
エレノアは手帳から一枚を切り取った。
携帯灯を外套の内側へ隠し、立ったまま短く書く。
《怪盗を見つけた。確認して戻る》
名前を書く代わりに、使い慣れた署名記号を添えた。
紙を後部扉の掛け金へ挟む。
戻る場所を残した。
目的も書いた。
ならば、これは勝手な単独行動ではない。
エレノアは、そう整理した。
伝言を読んだ者が同意したかどうかは、確かめなかった。
白い外套が、もう一つ先の角を曲がる。
エレノアは靴音を殺し、そのあとを追った。
*
「いない」
リラが言った。
それまで。
ニコはホルン=ペグが前方車へ消えた扉を見ていた。
ほかの帰路番へ回収員の侵入を知らせる、とだけ言い残し、老人は保守灯とともに去っている。
テオは機関車側へ半身を向けたまま、制動管の継ぎ目から目を離さない。
「誰が?」
ニコが振り返る。
「エレノア」
四人いたはずの保守車には、三人しか残っていなかった。
ニコが後部扉へ駆け寄る。
「クラウス嬢?」
返事はない。
扉を押すと、掛け金から白い紙片が落ちた。
ニコは床へ着く前に拾い上げた。
走り書きを読む。
もう一度読む。
紙を裏返す。
「続きは?」
「ない」
リラが答える。
「怪盗を見つけた。確認して戻る。たったそれだけだ」
ニコは紙片を指で弾いた。
「待てと言った本人が、いちばん先にいなくなった」
テオは顔を上げなかった。
「見つけたなら追うだろ」
「それをきみが言うと、誰も止められなくなる」
「何を」
「機械を見つけたら追うだろう」
「機械は逃げない」
テオは答えた。
その直後。
黄金列車の奥で、弁の冷える音がした。
かつん。
テオの目が、音のした方向へ動く。
「動くことはある」
「それを逃げると言うかどうかは、今度ゆっくり話そう」
リラは後部扉の外を見た。
「地上へ戻る」
「エレノアを置いて?」
「戻って、大人を呼ぶ」
「彼女が怪盗を見つけたと書いてある」
「だから」
リラの声は短い。
「三人で追えば、四人とも地下に残る」
「地上へ戻っている間に列車が動けば?」
ニコは紙片を手帳へ挟んだ。
「今夜、この列車がいつ動くか、まだ誰も知らない」
「ホルンは午前零時までに移すと言った」
「《までに》だ。零時ちょうどとは言っていない」
「予告状は、零時」
リラが言う。
「だから確かめるんだよ」
ニコはホームへ降りた。
零番線の壁を照らし、古い案内札を探す。
錆と煤に埋もれた文字の中から、半分消えた矢印を見つけた。
《新聞荷揚》
《保存室》
《地上階》
矢印は、ホーム端の保守階段を示している。
「見出しだけじゃなく、版を見る。同じ事件が、どの版で、いつから事実になったかを確かめるんだ」
「新聞を読めば、列車が動くのか」
テオが尋ねる。
「逆だよ。新聞を読めば、列車が動いたことになった時刻が分かるかもしれない」
「同じだろ」
「まったく違う。機関を動かすのは蒸気だけど、街を動かすのは記事だ」
「記事で車輪は回らない」
「読者諸君。技術担当から、新聞印刷の歴史へ重大な異議が出ました」
「誰に話してる」
「百年後の読者」
リラが階段を見上げた。
上から風が下りてくる。
古紙。
錆。
駅灯の油。
人の多い地上に近い匂いだった。
「見たら戻る?」
「必要な記事があれば」
「戻る?」
「戻る。寄り道はしない」
「怪盗は?」
「クラウス嬢が確認して戻るそうだよ」
ニコは、わざと丁寧に答えた。
リラは一度だけ、後部扉の暗闇を見た。
「戻らなかったら」
「そのときは、記事の見出しを変える」
「助けに行くって言って」
「同じ意味だよ」
「違う」
「では、助けに行く。その必要があるかを、先に確かめる」
リラは納得した顔をしなかった。
だが、階段へ足を向けた。
テオはまだ黄金列車を見ている。
ニコが三段上がってから振り返った。
「きみは?」
「機関を見てる」
「見れば見るほど離れられなくなるよ」
「新聞を見れば見るほど持ち出したくなるやつに言われたくない」
「保存版を盗むほど落ちぶれてはいない」
「見出しのためなら、床板も剥がしそう」
「それは必要な事実が床下にある場合だけだ」
リラが階段の途中から言った。
「置いていく」
テオは工具箱を見た。
黄金列車を見た。
最後に、階段上の二人を見る。
「勝手に決めるな」
「来るなら早く」
リラは先に上がった。
テオは工具箱から薄い点検槌と短い探り棒だけを抜き、残りを閉じた。
「戻ったら、圧力計を見る」
「予定へ入れておこう」
「おまえの予定じゃない」
三人の足音が、古い保守階段を上っていった。
*
白い外套は、古い地下連絡路へ入った。
そこは零番線の保守路より天井が高く。
線路もない。
煉瓦の床には、新聞束を載せた手押し車のものらしい、細い轍が二本残っている。
昔は駅売り新聞を運ぶために使われていたのだろう。
壁には行き先札の枠だけが並び。
中の紙は、すべて剥がされていた。
エレノアは角へ手を添えた。
湿っている。
白い外套が触れた跡はない。
床を見る。
煤は薄く乱れている。
だが、靴跡がはっきりしない。
裾が長く、歩くたびに跡を消しているのか。
それとも。
前方で、白が揺れた。
エレノアは思考を切った。
「ルヴェール」
呼びかけても、怪盗は振り向かない。
歩調も変わらない。
「止まりなさい」
返事はなかった。
外套の右袖が、壁へ触れる。
布の擦れる音がした。
それでも、腕は揺れなかった。
肩の高さも変わらない。
エレノアは足を速めた。
白い外套も、わずかに速くなる。
距離は縮まらない。
床の轍から。
小さな金属音がした。
車輪。
そう思ったときには、白い影が連絡路の角へ消えていた。
エレノアは走った。
角を曲がる。
その先には。
左右へ分かれた二本の通路があった。
右は新聞保管室。
左は旧後部記録庫。
どちらにも、白い外套は見えない。
エレノアは立ち止まった。
耳を澄ます。
右。
遠くで鉄扉が閉じる。
左。
何も聞こえない。
怪盗が音を立てたのは、どちらか。
音を聞かせたのは、どちらか。
エレノアは床へ膝をついた。
右の轍には、薄い錆が残っている。
左の轍だけ、表面がこすれて黒い。
鉄扉の音は右からした。
けれど、何かが通ったのは左だ。
「そういうこと」
エレノアは左へ曲がった。
その判断を三人へ伝える方法は、残していなかった。
*
保守階段の最上段には、鉄製の扉があった。
表側から錠を掛ける古い型で、地下側には平たい掛け金しかない。
テオが探り棒を隙間へ差し込む。
「壊さないで」
ニコが言った。
「壊してない」
「開ける前に確認しただけだよ」
「確認してる」
掛け金の裏で、ばねが鳴る。
テオが手首を少し返すと、扉は咳き込むように煤を落とし、内側へ開いた。
冷たい紙の匂いが流れ込んだ。
旧新聞保管室。
中央環状駅の売店や列車内で扱われた新聞を、鉄道開業以来保存してきた部屋だった。
天井は低い。
窓は煉瓦で塞がれている。
壁際には、人の背より高い鉄製戸棚が並んでいた。
扉には年代と新聞社を示す札。
棚の中には、厚紙へ綴じられた記念記事。
事故のたびに刷られた号外。
駅売り版。
夕刊。
廃線記念号。
印刷のずれた試し刷りまでが、紐と金具で束ねられている。
地上の駅を行き交った声が。
文字へ変わり。
百年分の暗がりに押し込められていた。
ニコは、ひと息だけ言葉を失った。
「帰る?」
リラが尋ねる。
「いま、人生で五番目くらいに大事な場所を見つけたところだ」
「一番じゃないの?」
「一番から四番までは、まだ記事にしていない」
ニコは戸棚の札を目で追った。
「百年前。鉄環線開業二十五周年の翌年。機械王の死後――こっちだ」
棚札の番号を手帳へ記す。
新聞そのものは、ここから持ち出さない。
確かめるのは紙面で。
残すのは、その紙へ戻れる記録だけだ。
棚の下から三冊の綴じ込みを抜く。
一冊目は、大判の市内夕刊。
二冊目は、鉄道関係者へ多く売られた薄い新聞。
三冊目は、駅売り用の保存版だった。
紙は茶色く乾き。
端へ触れれば、落葉のように欠けそうだった。
「灯りを近づけて。熱は当てないで」
ニコが言う。
リラは青緑色の案内灯を、紙から腕一本分離して掲げた。
「わたしに決めてる」
「いちばん手がぶれない」
「それも決めてる」
「違うなら、ぶらしてみて」
灯りは少しも揺れなかった。
ニコは笑い、最初の綴じ込みを開いた。
インクの薄れた大見出しが現れる。
《機械王の黄金列車、午前零時に消失》
その下には。
《中央環状駅十三番線より、痕跡なく姿を消す》
とある。
「一紙目」
ニコは手帳へ見出しを書き写した。
二冊目を開く。
欄の位置は違う。
文字の大きさも違う。
しかし、書かれている時刻は同じだった。
《黄金列車、午前零時に消失》
三冊目。
駅売り保存版にも。
《午前零時、十三番線より消失》
「三つとも零時」
リラが言った。
「伝説どおりだ」
テオは記事の挿絵を見た。
「車輪が違う」
「何が?」
「この絵、普通の機関車の車輪だ。関節部もない」
「記者が黄金列車を見て描いたわけじゃない。昔の挿絵を使ったんだろう」
「見てないのに描いたのか」
「新聞では、見ていないものほど大きく描かれることがある」
「自慢するな」
「ぼくは自慢していない。反省すべき伝統を紹介しただけだ」
ニコは三紙を横へ並べた。
見出し。
発生時刻。
場所。
どれも似ている。
似すぎている。
別々の記者が、別々に消失を目撃した記事ではない。
同じ文章を。
同じ時刻に合わせて。
三社がそれぞれの紙面へ入れている。
ニコは一紙目の欄外へ顔を近づけた。
何も言わず、紙を斜めにする。
リラも灯りを傾けた。
紙の端に。
本文よりずっと小さな活字が並んでいる。
記事を読む者へ向けた文字ではない。
印刷所で版と締切を区別するための印。
ニコは指で触れず、鉛筆の先を近づけた。
「父さんに教わった。新聞の表には読者へ見せる時刻が載る。裏には、印刷する側が必要とした時刻が残る」
「裏じゃない」
テオが言った。
「欄外だ」
「意味の話だよ」
「場所を間違えると、探すやつが困る」
「では訂正。紙面の端には、記事がいつ版へ入ったかを示す組版印が残る」
煤けた小さな文字を、ニコは一字ずつ読んだ。
「《十一時二十分・第三版締切》」
言葉が止まった。
リラがニコを見る。
テオは記事の見出しと欄外を見比べた。
「十一時二十分」
「そう書いてある」
「でも、消えたのは零時」
「そう書いてある」
「四十分前?」
リラの問いに、ニコは答えなかった。
もう一度、見出しを読む。
《午前零時に消失》
欄外を見る。
《十一時二十分・第三版締切》
ニコの顔から、保管室を見つけたときの浮ついた笑みが消えていた。
「午前零時は、まだ来てなかった」
古い紙の間へ。
その一言が落ちた。
「この記事を版へ入れたとき、列車はまだ消えていない。少なくとも、記者は零時の出来事を見られない」
「先に知ってた?」
リラが言う。
「違う。先に決まっていたんだ」
ニコは二紙目を引き寄せた。
用語の並びを追う。
三紙目も確認する。
「同じ時刻。同じ場所。同じ言い方。三人の記者が同じ未来を見たんじゃない。誰かが、先に同じ発表を配った」
「鉄道局?」
「ほかに、列車が消える時刻を事前に決められるところがある?」
テオは眉を寄せた。
「列車がどこで止まるかなら、運転するやつが決める」
「これは運転の記事じゃない」
ニコは、指先で見出しの《消失》を示した。
「廃車の処理だ。午前零時をもって、黄金列車は廃車になった。車両番号を台帳から消す。使えないことにする。鉄道局がそう発表して、新聞は《消えた》と書いた」
「列車は残った」
テオが言う。
「百年間、直されていた」
「そう。百年前の午前零時に消えたのは、黄金列車そのものじゃないのかもしれない」
ニコは手帳へ一本の線を引いた。
線の左へ《十一時二十分》。
右へ《午前零時》。
零時の下へ、《廃車》《記録抹消》と書く。
「消されたのは、番号だ――そう考えれば筋が通る」
リラは三紙を見た。
「紙から消して、地下へ置いた?」
「その可能性はある。けれど、この記事だけで確かに言えるのは、消失が目撃より先に発表されていたことまでだ。廃車台帳と車両番号を照合しないと、番号を消したとは断定できない」
ニコは手帳に書いた《廃車》《記録抹消》の下へ、二重線ではなく、小さな疑問符を添えた。
「地下へ置いたのが帰路番で、鉄道局が紙から消したなら、二つが同じ夜に起きた。それで百年たって、一つの伝説になったのかもしれない」
保管室の上を。
地上の列車が通過した。
天井の埃が、古い新聞へ細く降る。
ニコは手帳の線を、さらに現在まで伸ばした。
「予告状も午前零時だ」
「ルヴェールは、同じ伝説を使った」
テオが言う。
「使っただけかな」
「何が」
「百年前の午前零時は、列車が動いた時刻じゃない。所有記録が切り替わった時刻だ」
ニコは、ホルンとの会話を思い返していた。
ギデオンの回収員。
十三番線。
公的な鉄道区域。
黄金列車を動かそうとする帰路番。
「今夜も同じだとしたら?」
テオが無言で先を促す。
「午前零時は、ルヴェールが列車を消す時刻じゃない。誰かが、この列車を自分のものにしたと記録する時刻なのかもしれない」
「怪盗が?」
「怪盗か、鉄道局か。あるいは両方が、別々の紙へそう書くつもりなのかもしれない」
「紙へ書けば、持ち主になるの?」
リラが尋ねた。
「ならない。でも、持ち主になったと大勢へ信じさせることはできる」
「列車を見つけてなくても?」
「見つけていないから、動かすんだよ」
ニコは、三紙を見た。
「列車を守る人へ予告状を見せれば、隠し場所から移そうとする。回収員は追えばいい。列車が鉄道局の線へ入ったところで、回収したと発表する。明日の朝、新聞へ《午前零時、黄金列車を正式保護》と載れば――」
「百年前と同じ」
リラが言った。
「物より先に、紙が出来事を決める」
そのとき。
テオが顔を上げた。
「黙れ」
ニコが口を閉じる。
リラも動かない。
保管室には、古紙が乾くかすかな音しかない。
テオは床へ膝をついた。
耳を板へ近づける。
点検槌の柄を床の継ぎ目へ当て、反対側へ耳を添える。
遠い金属音が、木を通って届いた。
こつ。
短い間。
こつ。
また短い間。
こつ。
一定ではない。
少しずつ間が狭くなっている。
「列車?」
ニコが小声で尋ねる。
「弁」
「どの弁?」
「逆止弁。圧が入るたびに閉じてる」
テオは床へ手の甲をつけた。
次に、壁際から立ち上がる古い蒸気管へ近づく。
触れずに手をかざす。
管の周囲だけ、空気がわずかに揺れていた。
「温かい」
リラが言う。
「さっきより上がってる」
「給水じゃない。もう水は入ってた」
テオは床下の音を数えた。
「蓄圧槽へ蒸気を入れてる」
「誰が?」
「見てない」
「いつから?」
「少なくとも、俺たちが上がってから圧が増えてる」
ニコは手帳の《午前零時》へ目を落とした。
「零時に動かす準備?」
「このまま入れれば、もっと前に動かせる」
「もっと前って?」
「機械へ聞け」
「きみがいちばん近い言葉を話すだろう」
「見ないと分からない」
テオは三紙を残したまま扉へ向かった。
「零番線へ戻る」
リラが突然、案内灯を床へ置いた。
片膝をつく。
掌ではなく、指先を三本だけ板へ当てる。
目を閉じた。
「また黙って」
今度はニコも、すぐに従った。
床の下から。
蒸気の脈動とは違う音が来ている。
硬い靴底。
鋲の打音。
一つの集団が、古い貨物入口側から零番線へ近づいている。
それとは別に。
もっと高い場所。
新聞保管室へ続く連絡路の向こうから、同じ硬い音が返ってきた。
近い。
だが、進む速さが違う。
「二つ」
リラが言った。
「何が?」
「さっきの人たち」
「回収員?」
「同じ靴」
リラは立ち上がり、案内灯を拾った。
「二手に分かれた」
「一方が列車」
テオが床下を見る。
「もう一方は?」
「上から回ってる」
リラは、エレノアが消えた方向へ顔を向けた。
「出口を塞ぐか、白い人を追うか」
「両方かもしれない」
ニコは綴じ込みへ視線を戻した。
持ち出せば証拠になる。
だが、百年間ここで保存されてきた紙を、急いで運べば壊す。
それに、新聞があった場所まで残してこそ、あとから同じ事実を確かめられる。
彼は《十一時二十分・第三版締切》を正確に手帳へ写した。
新聞名。
発行日。
版。
棚の番号。
組版印の位置。
紙を元の位置へ戻す。
綴じ込みの角を揃え、金具を閉じた。
「エレノアを待つ?」
リラが尋ねる。
ニコは手帳に挟んだ伝言を取り出した。
《怪盗を見つけた。確認して戻る》
紙面を、二人へ向ける。
「団長の命令なら、ここで待つべきかな」
「団長じゃない」
テオが言う。
「本人が戻って、そう主張するまではね」
「戻る道が塞がる」
リラが言った。
「列車も動く」
テオは扉を開ける。
「状況が変わった」
ニコは伝言を畳み、手帳へ戻した。
「報告しようにも、報告を受ける本人がいない」
「なら、どうする」
テオが尋ねる。
ニコは一瞬だけ考えた。
いつものように見出しを作るためではない。
三人が同じ言葉を聞き、同じ方向へ動けるようにするためだった。
「続報。調査隊は三人で行動する。まずクラウス嬢と合流。それから零番線へ戻って、起動準備を止める」
「止められるかは見てから決める」
テオが訂正する。
「訂正。起動準備を確認する」
「回収員を、家のほうへ行かせない」
リラが条件を加えた。
「追わない。道も残さない」
「さらに訂正。エレノアと合流し、機関を確認し、回収員を生活路から遠ざける」
「長い」
リラが言った。
「見出しじゃないからね」
「早く」
三人は保管室を出た。
一列ではない。
リラが床と空気の流れを読む。
テオが扉と蒸気管を見る。
ニコが背後の足音を数える。
誰かが役割を命じたわけではなかった。
それぞれが、自分で必要な位置へ入った。
保守扉が閉じる。
百年前の新聞は、再び暗闇へ戻った。
けれど。
その欄外に残された四十分は。
もう、百年前の紙の中だけにはなかった。
*
エレノアは走っていた。
左の連絡路は、少しずつ狭くなっている。
壁へ取りつけられた古い案内札には、《後部記録庫》の文字。
その先で。
白い外套が止まっていた。
背を向けている。
通路の終わりにある鉄扉へ、片手を伸ばしているように見える。
エレノアは速度を落とした。
怪盗との距離は、十歩。
その先に逃げ道はない。
左右の壁には細い工具棚があるだけ。
天井の通風口も、人が抜けられる大きさではなかった。
「そこまでよ、ルヴェール」
白い外套は答えない。
「こちらを向きなさい」
右袖が、わずかに動いた。
鉄扉の把手へ手を掛けたように見える。
エレノアは床を蹴った。
十歩を六歩で詰める。
白い外套が逃げるより早く。
肩口の布をつかんだ。
「捕まえた――」
軽い。
人の肩にあるはずの重みがない。
つかんだ勢いで、白い外套が振り向いた。
いや。
回った。
足元の小さな車輪が、錆びた轍の上で鳴る。
外套の内側から現れたのは。
木と鉄で組まれた胴。
関節の動かない腕。
蒸気漏れや車両間隔を調べるための、古い保守用人形だった。
頭部には、白い帽子。
肩へ針金を入れ。
遠目には人が歩いているよう、外套を張ってある。
背中から伸びた細い索は、天井の滑車を通り。
通路の奥で切れていた。
エレノアの指の中で。
白い布だけが、力なく潰れた。
背後から。
楽しげでも。
嘲るだけでもない声がした。
「君は仲間を待たせるのが、ずいぶん上手になった」




