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第6節 黄金列車は眠っていない

 黄金列車は、零番線の中央で止まった。


 最後の車輪が継ぎ目を越え。


 低い金属音が、長いホームの奥へ転がっていく。


 白い蒸気が機関車の下から噴き出し、ホームの縁を這った。煤を含んだ霧が四人の靴を包み、やがて線路へ沈んでいく。


 扉の奥に隠されていた巨大な壁は、まだ開いたままだった。


 その暗闇と比べれば、目の前の列車は確かに金色だった。


 だが、近くで見るほど、伝説の黄金からは遠ざかっていく。


 黄銅の外板は煤で曇り。


 青銅の補修板には熱で変色した縁があり。


 寸法の揃わない鋲が、何度も打ち直されている。


 蒸気の雫が無数の工具傷を伝い、車体の下へ落ちていた。


 エレノアは手帳を開いた。


 最初の一行を書こうとして。


 書くより先に、口元が緩むのを止められなかった。


「見つけたわ」


 ニコが、すかさず横から手帳を覗く。


「号外予定。怪盗紳士ルヴェール、獲物より到着が遅れる」


「まだ盗まれていないだけです。捕らえてもいないわ」


「でも、先に見つけた」


「ええ」


 今度は否定しなかった。


 ルヴェールが予告した標的が、目の前にある。


 白い外套の怪盗より早く。


 警察より早く。


 兄たちより早く。


 自分たちが、存在しないはずの零番線へたどり着いた。


 胸の奥で弾んだものを、調査前の油断だと戒めても、完全には抑えられなかった。


 ニコは列車の正面と側面を交互に見ていた。


 瞳が駅灯より明るい。


「誰も撮っていない。誰も数えていない。車輪がいくつあるかも、外板が本当に金なのかも、今日の夕刊は知らない。つまり、この光景を記事にできるのは――」


「ぼく一人、でしょう」


 エレノアが先を取る。


「言わないでくれる? いま、とてもいい調子だった」


「記事にする前に、事実を確認して」


「もちろん。見出しを先に考えてから確認する」


「順番が逆よ」


「見出しがなければ、何を確認すべきか分からないじゃないか」


「それは記者として、かなり危険な発言ではなくて?」


 二人の声を聞いているはずなのに、テオは振り向かなかった。


 工具箱を足元へ置いたまま、列車を見上げている。


 短い煙突。


 左右へ分かれた蒸気管。


 関節でつながれた車台。


 異なる幅の軌条へ対応するため、複雑に重ねられた車輪と伝達部。


 目の前にあるのは、絵本の挿絵でも、工房に残された設計図でもない。


 いましがた自分の前へ走ってきた機関だった。


 テオは片手を上げた。


 外板へ触れようとして。


 指一本分を残し、止める。


「熱いの?」


 エレノアが尋ねる。


「違う」


「では、何?」


「どこから見るか決めてる」


「触れば分かるのでは?」


「触る前に見ろ。触ったら、前からあった油と自分の油が分からなくなる」


 そう答えた声は、いつもと同じように短い。


 だが、上げたままの指先が、わずかに震えていた。


 ニコがそれを見逃さない。


「続報。無口な技術者、伝説を前に感動」


「感動してない」


「手が震えている」


「蒸気で床が揺れてる」


「床に上げた手がつながっているとは知らなかった」


「黙れ」


 テオはようやく振り返った。


 怒っている顔だった。


 その目だけが、子どものころから聞かされてきた物語の中へ、そのまま入り込んだように輝いている。


 リラは三人から離れ、列車とホームの間に立っていた。


 車体へ見入ってはいない。


 車輪の数。


 機関車から保守車までの長さ。


 扉の向こうへ続く線路。


 列車が来た方向。


 そのすべてを、険しい目で確かめている。


 線路へ靴先を近づける。


 まだ残っている振動が、靴底から足首へ伝わった。


「こんなに大きかった」


 誰へ向けた言葉でもなかった。


 エレノアが手帳から顔を上げる。


「黄金列車を見たことはなかったのね」


「音だけ」


「古い道を走っていた音?」


「近い」


 リラは列車を見た。


「近すぎる」


 青緑色の案内灯を握る指へ、力が入る。


「これが走ったら、壁が鳴る。水槽も揺れる。寝てる子も起きる」


「生活区の近くを通っているの?」


 エレノアが尋ねた瞬間、リラの顔から表情が消えた。


「聞いてない」


「いま聞いたわ」


「前に」


「前には、列車の大きさが分からなかったでしょう」


「だから、教えなかった」


「理由が逆ではなくて?」


「違う」


 リラはそれ以上答えず、列車の後方へ目を向けた。


 恐れている。


 同時に、怒っている。


 黄金列車を隠してきた者へなのか。


 それを追って地下へ入った自分たちへなのか。


 あるいは、これほど大きなものが近くを走っていたのに知らされなかったことへなのか。


 エレノアには、まだ分からなかった。


 機関車の側面で、圧力が抜ける音がした。


 テオが即座に手を上げる。


「下がれ」


 三人が一歩退いた直後。


 車体下部の弁から蒸気が横へ噴き出した。


 白い帯がホームを横切り、向かいの壁へぶつかる。


 ニコが帽子を押さえた。


「先に言えるなら、もっと先に言ってほしいな」


「音がした」


「ぼくには聞こえなかった」


「じゃあ、聞け」


「耳の性能を注文されても困る」


 噴き出した蒸気が薄れる。


 機関車側面の足掛けが現れた。


 その上に、小さな乗降扉がある。


 扉の隙間から、淡い橙色の灯りが漏れていた。


「内部灯が点いている」


 エレノアは携帯灯を掲げた。


「誰か乗っている可能性があります。合図は同じ。何か見つけても、一人で先へ進まないこと」


 ニコが眉を上げる。


「それは全員に?」


「当然でしょう」


「念のため聞いただけだよ」


「なぜ私を見て言うの?」


「団長は規則を作る側だから」


「まだ団長ではないわ」


「否定が少し遅くなった」


 エレノアは聞こえなかったふりをして、足掛けへ靴を置いた。


「私が先に確認します。テオは機関へ触れる前に声をかけて。ニコは記録。リラは――」


「決めないで」


「では、周囲を見ていて」


「それも決めてる」


「あなたは、言われなくても見るでしょう」


 リラは答えなかった。


 エレノアは、それを同意として扱った。


 扉の把手は温かかった。


 布越しに回すと、内部で二重の掛け金が外れる。


 重い扉が、息を吐くような音とともに内側へ開いた。


 最初に鼻へ入ったのは、古い油の匂いだった。


 次に熱い鉄。


 湿った煤。


 樹脂。


 わずかな薬品臭。


 豪華な客室の香水も。


 王室用の絨毯もない。


 機関室は狭く、壁一面を圧力計と弁、伝声管、細い蒸気管が埋めていた。


 中央には二人が並んで立つだけの床。


 左右に運転梃子。


 奥には関節部へ続く低い通路。


 真鍮の計器は磨かれていたが、飾るためではない。


 針を読み違えないため、数字の周囲だけ煤が落とされている。


「黄金列車というから、もう少し椅子が柔らかいのかと思っていた」


 ニコが入ってくる。


「救難機関よ。客をもてなす列車ではないわ」


「伝説には、機械王の玉座があると書いてあった」


「どの新聞に?」


「駅前で売る読み物」


「新聞ではないでしょう」


「読者は、座れる機関車のほうを好む」


 テオは二人の間を押し分けた。


「どけ」


「感想は?」


「狭い」


「それだけ?」


「狭いから、原型の配管を残したまま直すのが難しい」


 工具箱を機関室の入口へ置く。


 そこからは、急いでいなかった。


 圧力計の針を読み。


 耳を弁箱へ近づけ。


 床へ膝をつき、車台へ落ちた油の色を見る。


 煤の積もった箇所には触れず、すでに誰かの手で拭われている部分だけへ指を添える。


「この軸受は新しいの?」


 エレノアが、車輪上部の分厚い金具を示す。


「新しくない。五十年くらい前」


「十分古いわ」


「この機関よりは新しい」


「なぜ五十年?」


「油溝の切り方が違う。初期型は真っすぐだ。これは斜め。材質も少し硬い」


 テオは携帯灯を借り、軸受の奥へ光を当てた。


 交換された金具の周囲だけ、外板の色がわずかに違う。


「こっちの制動管は、もっと新しい。二十年くらい」


 管の継ぎ目へ視線を移す。


「ねじ山の幅が現代規格に近い。でも完全には合わないから、継ぎ輪を削ってある」


 ニコが手帳へ走り書きする。


「五十年前の軸受。二十年前の制動管。百年前の列車。年齢差のある機械一家」


「家族にするな」


「読者には、そのほうが分かりやすい」


「間違って分かるなら、分からないほうがましだ」


 テオは管の下にある六角のボルトへ顔を近づけた。


 縁の一部だけ、銀色の地金が露出している。


「これは最近削られた」


「どのくらい最近?」


「数か月。長くても一年」


「そこまで分かるの?」


「古ければ、削った面にも煤と油が入る。これは浅い」


 指先を近づける。


 今度は触れなかった。


 ボルトの周囲には、黒緑色の樹脂が薄く塗られている。


 リラが、エレノアの肩越しに覗いた。


「その塗り方、古い」


 テオが初めて、機関以外のものを見るようにリラを見た。


「知ってるのか」


「樹脂を熱くして、糸を巻く。隙間へ押す」


「エルフ式だ。管の封止に使う」


「服にも使う。水を通さない袋」


 リラは樹脂の表面を見た。


「これは上手。焦がしてない」


「機械の熱に合わせてる。服より温度を上げてるけど、割れてない」


 テオの声が、わずかに速くなった。


 説明する相手が見つかったからか。


 自分以外にも、この修理の意味を読める者がいたからか。


 彼はさらに奥へ手を入れ、制動管を支える薄い金属板を示した。


「ワッシャーはヒト族の工房。規格外だ」


「印があるの?」


 エレノアが尋ねる。


「ない。穴がずれてる」


「失敗作?」


「違う。合う寸法がなかったから、その場で作った。穴をずらせば、摩耗した受け金から外れない」


 テオは機関室を見回した。


 配管。


 弁。


 軸受。


 継ぎ輪。


 封止材。


 どこを見ても、一つの時代では終わっていない。


「原型の部品は、半分も残ってない」


 ニコの鉛筆が止まる。


「では、偽物?」


「何が」


「機械王の黄金列車としては」


 テオは、すぐには答えなかった。


 床へ落ちた油の筋を追い。


 継ぎ接ぎの弁箱を見て。


 五十年前の軸受へ、もう一度目を向ける。


「機械は、直された場所だけ覚えている」


「詩?」


「違う」


「かなり詩に聞こえたけれど」


「壊れなかった場所には、何も残らない。壊れたから外す。外したから傷がつく。合わない部品を入れたから、削った跡が残る」


 テオは立ち上がった。


「これは百年間残された機械じゃない。百年間、壊れるたびに直された機械だ」


 機関室が静かになった。


 動力を落としたはずの車体の奥で、何かがゆっくり冷えていく。


 かつん。


 かつん。


 金属の縮む音が、百年分の時間を数えるように響いた。


 ニコが、手帳へ新しい一行を書く。


「《黄金列車は眠っていなかった》」


 今度は誰も、見出しが早すぎるとは言わなかった。


 その静けさの下で。


 しゅ、と短い音がした。


 一度。


 間を置いて、もう一度。


 テオが顔を上げる。


 音は、圧力計の並ぶ盤の下から漏れていた。


 彼は工具箱を引き寄せ、床へ片膝をつく。盤の下へ携帯灯を差し込むと、太い駆動管から枝分かれした細い管と、その先に取りつけられた円筒形の装置が浮かび上がった。


 掌ほどの調整輪。


 目盛り板。


 細い押し子。


 王冠に似た大歯車へ、最初の蒸気を送るための補助機構だった。


「補助圧調整器」


 テオは独り言のように言った。


 調整輪を指先で押す。


 動かない。


 根元の合わせ目から、また白い息が漏れた。


 テオは小さな遮断弁を閉じ、目盛りの針が停止域へ戻るのを待った。柄の細い工具を蓋の溝へ差し込み、固着を確かめる。


 それから、誰へ声をかけることもなく、工具箱を開いた。


 四本の留めねじを対角の順に緩める。


 蓋を外すと、内側から黒く硬化した封止環が落ちた。片側が潰れ、細い亀裂が走っている。そこから漏れた蒸気と油が樹脂のように固まり、押し子を斜めに噛ませていた。


 テオは古い封止環を布の上へ置いた。


 工具箱から近い径の交換環を選ぶ。


 重ねてみる。


 外径は合う。


 内側だけが、爪の幅ほど厚い。


 細い鑢を取り出し、交換環の内縁を削った。


 しゃ。


 しゃ。


 規則的な音が、機関室の冷える音へ重なる。


 削っては古い環へ重ね。


 押し子へ通し。


 外し。


 もう一度だけ削る。


 やがて交換環は、引っ掛かりなく軸を通った。


 テオは固まった油を掻き出し、新しい環を収めた。蓋を戻し、四本のねじを緩めたときと逆の順で締める。


 調整輪へ指をかける。


 今度は、わずかに動いた。


 テオは遮断弁を一目盛りだけ戻した。


「何をしているの?」


 エレノアが気づいたときには、細い管へ蒸気が通っていた。


 針が停止域から一目盛り上がる。


 補助筒の押し子が指一本分だけ伸び。


 奥で、小さな歯がひとつ噛み合う音を立てた。


 王冠に似た大歯車は動かない。


 テオはすぐに遮断弁を閉じた。


 押し子が戻る。


 合わせ目から漏れていた白い息は、もう出なかった。


「直した」


「触れる前に声をかけて、と言ったでしょう」


「見るだけじゃ、固着の場所が分からなかった」


「だから修理までしたの?」


「補助調整器だけだ。主弁は閉じてる。差動機は動かしてない」


「いま、圧を通したわ」


「一目盛り。押し子の戻りを見ただけだ」


 テオは外した封止環を布で包み、工具箱へ収めた。


「次からは、先に知らせて」


「分かった」


 返事は短かった。


 悪いと思っていないわけではない。


 ただ、直せる故障を見つけたまま、誰かへ許可を求めるという順序が、彼の中ではまだ機械の異音より後にあった。


 煤けた装置の中で、新しく削られた封止環だけが明るい。


 百年間、壊れるたびに直されてきた機関へ。


 いま、もう一つ新しい手の跡が加わっていた。


 機関室の奥には、低い渡り板があった。


 その先が保守車になっている。


 エレノアが扉を開くと、冷たい空気が流れ込んだ。


 保守車の両側には工具棚が並び。


 折り畳み担架。


 包帯を収める浅い引き出し。


 空になった薬瓶の固定枠。


 小型の給水槽。


 蒸気漏れを塞ぐ布と樹脂。


 線路上で車輪を持ち上げるための手動器具。


 が、狭い通路を残して収められていた。


「金塊は?」


 ニコが左右を見回す。


「ないわ」


「王冠は?」


「ないわね」


「機械王の秘密の宝石箱は?」


「救難列車に、なぜ宝石箱を積むの?」


「伝説を信じた読者への配慮」


「あなた自身が期待していたのでしょう」


「取材では、あらゆる可能性を捨てない」


 リラは二人の横を抜け、給水槽へ近づいた。


 側面へ耳を当てる。


「半分」


「何が?」


「水」


 軽く指で叩く。


 高い音と低い音が、境目で分かれた。


「最近入れた」


 テオが槽の下部を確認する。


「受け皿も濡れてる。走らせる準備だ」


 リラの目が鋭くなった。


「どこへ」


「それはまだ分からない」


「分からないまま動かすの?」


「俺に聞くな。入れたやつに聞け」


「見つけたら聞くわ」


 エレノアが言う。


「黄金列車を守っている者が、この近くにいるはずです」


「守ってる?」


 リラは振り向いた。


「走る場所を黙ってるのが?」


「隠す理由があるのかもしれない」


「あなたが言うの?」


 短い問いだった。


 エレノアは答えに詰まった。


 リラも生活区へ近いことを隠している。


 だが、それを指摘すれば、自分が情報を聞き出したいだけだと思われる。


 言葉を選んでいる間に、ニコが保守車の奥から声を上げた。


「宝物庫はなかったけど、落書き部屋ならある!」


「触らないで」


「まだ触っていない。見出しをつけただけだ」


 四人が進んだ先で。


 携帯灯の光が、壁一面の黄銅板を照らした。


 小さな板が、数え切れないほど取りつけられている。


 形は揃っていない。


 四角。


 細長い長方形。


 角の欠けたもの。


 別の部品から切り出したらしく、古い穴が残っているもの。


 そこへ、さまざまな印が刻まれていた。


 工房印。


 縫い目のように並んだ点。


 三本の線。


 欠けた円。


 古いエルフ文字の一字。


 新聞活字を直接打ち込んだらしい、裏返った文字。


 ニコは壁の端から端まで眺めた。


「やっぱり落書きでは? 少なくとも、立派な文章ではない」


「文章じゃない」


 テオが、いちばん手前の板へ近づく。


 板には、短い横線が三本刻まれていた。


 その真下の床板を見る。


 固定鋲の三本だけが、周囲と異なる色をしている。


 テオはしゃがみ、床下へ灯りを差し込んだ。


「ここ、車輪持ち上げ器の支点を替えてる」


「その印が、交換した人の印?」


 エレノアが尋ねる。


「たぶん」


 テオは隣の板へ移った。


 縫い目のような点が、斜めに七つ。


 その位置の裏側には、工具布を支える帯が新しく縫いつけられている。


 さらに奥。


 古いエルフ文字の板の近くでは、給水管の継ぎ目が黒緑色の樹脂で封じられていた。


「印と修理の場所が合ってる」


 テオは、黄銅板を一枚ずつ見ていく。


「名前じゃない。部品を替えた場所へ、自分の印を残したんだ」


「では、これは作業記録?」


 エレノアが壁を見上げる。


「台帳の代わりかもしれない。字を書けない者でも、自分がどこを直したかは残せる」


「待って」


 ニコは手帳の先で、壁の印を数え始めた。


「これを全部、一人ずつの印だとしたら――」


「一人一枚とは限らない」


「分かっている。見出しへ使う人数を決めたいだけだ」


「決めるな。数えろ」


「だから数えている」


「同じ印がある」


 リラが言った。


 彼女は壁の中央を見ていた。


 そこに、右上だけが欠けた円が刻まれている。


 ほかの印より小さい。


 飾りのように見過ごせるほど浅い。


 リラは案内灯を近づけた。


 指先が黄銅板へ伸びる。


 だが、触れる直前で止まった。


「おばあちゃんの印?」


 エレノアが尋ねる。


「違う」


 返事は速かった。


「じゃあ、誰の?」


「分からない」


 リラは欠けた円から目を離さない。


「おばあちゃんは、布に使う。袋の底。薬草を包む布。水を運ぶ布」


「同じ欠けた円を?」


「右を欠く」


「その印を、おばあさんが考えた可能性は?」


「ない」


「なぜ?」


「古いから。おばあちゃんも、前の人に教わった」


 リラは、ようやく板へ触れた。


 爪の先で欠けた箇所をなぞる。


「これは、おばあちゃんじゃないかもしれない」


「でも、おばあさんへ伝わった印と、黄金列車の保守に使われた印が同じなのね」


 エレノアの言葉に、リラは頷かなかった。


 否定もしなかった。


 唇を強く結ぶ。


 生活区で受け継がれてきた印。


 物を運び。


 水を守り。


 誰のものかを、名前を書かずに伝える印。


 それが黄金列車の壁にも残っている。


 地下の暮らしと、この列車は、リラが思っていたよりずっと近くでつながっていた。


「知らなかった」


 声が低い。


「おばあちゃんは、何も言わなかった」


「守るためかもしれないわ」


 エレノアが言う。


「誰から」


 リラが振り向く。


「地上の人? 鉄道局? それとも、わたしから?」


 エレノアは答えられなかった。


 ニコも、見出しを口にしなかった。


 テオだけが壁の下部へしゃがみ込み、黄銅板の陰へ灯りを差し込んでいた。


「ここ、板が二重になってる」


 細い留め金を見つける。


「外す?」


 エレノアが尋ねる。


「壊さない。掛かってるだけだ」


 テオが留め金を少し押すと、横長の黄銅板が手前へ開いた。


 内側には、油紙に挟まれた古い文書の断片が残されていた。


 熱と湿気で、上下は黒く崩れている。


 読めるのは中央だけだった。


 エレノアは調査用レンズを取り出した。


「触らないで。紙が脆くなっています」


「ぼくにも読ませて」


 ニコが横から覗く。


「近いわ」


「目の距離に階級差はない」


「息をかけないで」


「息まで禁止された」


「破れたら、あなたの記事より長く残る損失です」


 エレノアは携帯灯の光を斜めに当てた。


 薄れた文字の凹凸が浮かぶ。


 文書上部の見出しは半分失われていた。


 それでも、《共同寄託補記》という語は読み取れる。


 その下。


 文章の大半は欠けている。


 名前を列挙した名簿はない。


 特定の相続人を示す文言もない。


 残っているのは、わずかな一節だけだった。


「《……この機関を……帰還させた手へ……共同して寄託……》」


 エレノアは、文字を一つずつ確かめながら読んだ。


「帰還させた手」


 ニコが《手の壁》を見る。


「人の名前ではなく?」


「少なくとも、この断片には名前がありません」


「では、ここへ印を残した人たちが所有者?」


「まだ断定できないわ」


「補記に書かれている」


「主語も、寄託の条件も、作成者の署名も、この断片では完全に確認できません。《帰還させた手》が誰を指すのかも、法的には定まっていない」


「ずいぶん慎重だ」


「あなたが明日の紙面へ、《黄金列車、地下の修理者へ正式譲渡》と書きそうだからです」


「よい見出しだと思う」


「書かないで」


「候補へ入れただけだよ」


「候補から外して」


 ニコは不満そうに鉛筆を回した。


「では、《機械王の遺言、相続人の代わりに手を指名》」


「遺言かどうかも確定していません」


「記事がどんどん短くなる」


「事実が増えるまで待ちなさい」


 そのとき。


「何を待つ」


 保守車の奥から、低い声がした。


 四人が一斉に振り向く。


 後部車へ続く扉の前に、一人のドワーフが立っていた。


 年老いている。


 背はテオより低いが、肩幅は広い。


 煤色の作業外套。


 厚い革手袋。


 腰には工具袋。


 片手に覆いをつけた保守灯を持っている。


 武器は向けていない。


 老人は、エレノアのレンズも。


 ニコの手帳も。


 リラの案内灯も見なかった。


 最初に見たのは。


 テオの手だった。


「触ったか」


「見ただけだ」


「見ただけの手じゃない」


 老人の視線が、テオの右手を追う。


 親指の付け根。


 人差し指の側面。


 手首の少し上。


 そこに、薄い黒油がついていた。


「軸受の点検蓋を上へ押したな。下から見ただけなら、手首へ油はつかん」


 テオが自分の手を見る。


「蓋を開けただけだ」


「それを触ったと言う」


「外してない」


「外せるかどうか、見た」


「構造を確かめた」


「同じだ」


 老人は保守灯を一段明るくした。


 その横顔を見て、テオの目が細くなる。


「あんた、昨日、工房に来た」


 老人の眉が動いた。


「中空防振鋲を持ってきた。顔は隠してたけど、声が同じだ」


「ネラのところの小僧か」


「テオ=リベット」


「名前は聞いてない」


「そっちの名前は?」


 老人は答えず、四人を順に見た。


 今度は顔ではない。


 靴についた泥。


 煤の位置。


 濡れた裾。


 どの道から来たかを測るような視線だった。


「排水槽から入ったな」


 リラの表情が固くなる。


「家のほうへは行ってない」


「誰が案内した」


「誰も」


「その返事をするやつが案内したんだろう」


 老人は息を吐いた。


「降りろ」


 エレノアが一歩前へ出る。


「あなたが、この列車の保守者?」


「降りろと言った」


「質問への答えになっていません」


「質問する場所じゃない」


「では、どこなら答えるの?」


「地上だ」


「地上へ戻れば、あなたはいなくなるでしょう」


「なら、答えは聞けん」


 ニコが手帳を掲げる。


「取材拒否と記録しても?」


「好きにしろ。ただし、この場所と線路は書くな」


「取材を拒否した相手から、記事の条件を決められるのは珍しい」


「書けば、おまえより先に困る者がいる」


 ニコの鉛筆が止まった。


 リラが老人を見る。


 老人もリラを見返した。


 互いに何かを知っている。


 だが、すべてを共有してはいない。


「名前くらい、教えてもよいでしょう」


 エレノアが言う。


 老人は、しばらく黙っていた。


「ホルン=ペグ」


「帰路番の一人だ」


 聞き慣れない呼び名に、エレノアが眉を寄せる。


「帰路番?」


「役職でも、ひとつの組織でもない」


 ホルンは《手の壁》へ保守灯を向けた。


「車輪を見る者。水を満たす者。線路を守る者。帰れなくなったものを、次に走れる場所へ返す手を、地下ではそう呼ぶ。全員が同じ道を知ってるわけでもない」


 灯りの中で、異なる印を刻まれた黄銅板が鈍く光った。


 テオがすぐに尋ねる。


「この機関を直したのか」


「全部は直せん」


「王冠差動機の起動は?」


「聞くな」


「知ってるんだな」


「小僧」


 ホルンの声が低くなる。


「機械の前で、知りたいことを全部聞けると思うな。答えを知った手は、動かしたくなる」


 テオは反論しかけた。


 だが、自分の手についた油を見て、口を閉じた。


 エレノアは《手の壁》を示す。


「この印を残した者たちが、《帰還させた手》?」


「読んだのか」


「断片だけです」


「なら、断片のままにしておけ」


「鉄環鉄道局は、この列車が廃車になったと記録しています。けれど、列車は百年間、修理され続けてきた。なぜ隠したの?」


「隠したから残った」


「残すために、何へ使ったの?」


「それも聞くな」


 リラがホルンへ近づいた。


「どこを走る」


「おまえは戻れ」


「どこを走るの」


「古い線だ」


「それじゃ分からない」


「分からんほうがいい」


「よくない」


 リラの声が強くなった。


「壁が揺れてる。水も揺れる。近くを走るなら、先に言って」


 ホルンの目に、一瞬だけ迷いが走る。


「今夜、ここから移す」


「どこへ?」


 今度はエレノアが尋ねた。


「もっと深い保守庫だ」


「なぜ今夜なの?」


 ニコが白い紙羽根を思わせる仕草で、指先をひらつかせる。


「怪盗紳士のお手紙が届いたから?」


 ホルンの顔が険しくなった。


「予告が出た以上、ここへ置いておけん。午前零時までに移す」


「ルヴェールは、存在しない十三番線から盗むと予告したのよ。零番線からではありません」


 エレノアは、ホルンの表情を見た。


「あなたは十三番線へ向かわないつもりなのね」


「おまえに話すことじゃない」


「けれど、十三番線へ通じる道を知っている」


 ホルンは答えなかった。


 沈黙は肯定ではない。


 それでも、質問が的外れなら、彼は先ほどまでのように即座に切り捨てたはずだった。


 エレノアは続ける。


「ギデオン=ヴァルツの回収員が、すでに地下へ入っています」


 ホルンの手が、保守灯の把手を強く握った。


「何人だ」


「確認できたのは複数。旧貨物入口から入り、私たちを追って排水路まで来ています」


「靴底は?」


 テオが答えた。


「正規保守員じゃない。鋲の並びが違った」


「灯りは細い白。道を見る灯りじゃない」


 リラが言う。


「物の番号を読む灯り」


 ニコも続ける。


「駅前で《十三番線》へ反応した者と同じ外套だ。黄金列車という名前ではなく、数字を聞いて入口を見た」


 ホルンは後部車の扉へ目を向けた。


 何かを計算している。


 残された時間。


 列車を動かす手順。


 封じなければならない入口。


 連絡しなければならない者。


「だから急ぐ」


 ホルンは言った。


「今夜中に移す。あいつらが線路を押さえる前にだ」


「待って」


 エレノアは一歩、彼の進路へ入った。


「どけ」


「急がされた時点で、相手の計画どおりかもしれない」


 ホルンの足が止まった。


 ニコが、エレノアを見る。


 テオも顔を上げる。


 リラだけが、ホルンの反応を見ていた。


「どういう意味だ」


「ギデオンは黄金列車の正確な場所を知らなかったのかもしれません」


 エレノアは、分かっている事実だけを順に並べる。


「けれど、ルヴェールの予告が出れば、列車を守る者は動かそうとする。移動には、線路を開ける必要がある。給水し、圧を入れ、いままで使っていなかった経路へ列車を出す」


 給水槽へ視線を向ける。


「回収員は、列車そのものを見つけなくてもよい。動き出すのを待てば、隠し場所も進路も分かる」


 ホルンは何も言わない。


「予告状を利用しているのがギデオンなのか。ギデオンの動きを利用しているのがルヴェールなのか。あるいは、二人とも別の目的であなたが動くのを待っているのか。まだ確定できません」


「だったら、なおさら急ぐべきだ」


「いいえ。少なくとも、予定していた移動経路が知られていないか確認すべきです」


「確認してる間に、入口を塞がれる」


「急いで列車を出せば、待っている場所へ自分から入るかもしれないわ」


「ここへ置けば、奪われる」


「移せば安全だと、なぜ言えるの?」


 ホルンの顎が固くなる。


 答えはなかった。


 彼は黄金列車を守る手順を知っている。


 だが、秘密を守ることと。


 列車を動かすことと。


 地下で暮らす者を危険から遠ざけること。


 そのすべてを同時に選べるわけではない。


 ニコが、重くなった空気へ鉛筆を一本差し込むように言った。


「号外候補。《黄金列車、盗まれる前に自分から出発》」


「笑い事じゃない」


 ホルンが睨む。


「笑っていないよ。見出しにすると、妙なところがよく見える」


 テオは機関車側を振り返った。


「このまま動かすのか」


「動くようにしてある」


「安全装置は継ぎ接ぎだ。制動管も全部同じ規格じゃない。圧を入れる前に、接続を見ないと――」


「おまえは触るな」


「見れば分かる」


「見た手で蓋を開けただろう」


「壊してない」


「壊さないことと、動かしていいことは別だ」


 テオの顔から反論が消えた。


 ホルン自身にも返ってくる言葉だった。


 リラが、さらに低い声で尋ねる。


「移す線の近くに、人はいる?」


 ホルンは答えなかった。


「いるの?」


「全経路を知ってる者はいない」


「それは、いないって意味じゃない」


「分かってる」


「分かってるなら、先に知らせて」


「知らせれば、線が漏れる」


「知らせなければ、逃げられない」


 リラの言葉が、保守車の金属壁へ鋭く返った。


 欠けた円の印が、彼女の背後にある。


 ホルンはその印を見た。


 次に、リラを見る。


 長い沈黙のあと。


 彼は保守灯を下げた。


「少し考える」


 追い出す声ではなかった。


 決定を撤回した声でもない。


 ただ、いままで一人で守ってきた手順へ、初めて疑いが差し込んだ声だった。


 エレノアは息を吐いた。


「では、まず回収員の位置を――」


 後部車の窓を。


 白いものが横切った。


 ほんの一瞬。


 蒸気の白ではない。


 暗い地下では不自然なほど、汚れのない白。


 外套の裾。


 窓枠の右から左へ流れ。


 列車後部の闇へ消える。


 エレノアだけが、その方向を見ていた。


 心臓が強く打つ。


 ルヴェール。


 間違えるはずがなかった。


 時計塔の夜に見た、あの白。


 体格も。


 歩幅も。


 声も変えられる怪盗が、ただ一つ、自分の舞台へ残す色。


「まず、追手がいまどこにいるか確かめるべきだね」


 ニコが言っている。


「上階からなら、入口の灯りが見えるかもしれない」


「先に機関だ」


 テオはホルンへ食い下がる。


「動かすなら、圧を入れた場所を全部見せろ」


「おまえには見せん」


「見せないで壊れたら、誰が直す」


「おまえ以外にもいる」


「どこに」


「だから聞くな」


 リラは、欠けた円の板を見たまま動かない。


「わたしは戻る。移すなら、先に知らせる」


「待て」


「待たない」


 三人の声が重なる。


 誰も、エレノアを見ていなかった。


 告げるべきだった。


 白い外套を見た。


 ルヴェールが後部車の外にいる。


 全員で位置を確認し、合図を決め、追うかどうか相談する。


 それが、自分で決めた手順だった。


 けれど。


 声を上げれば、ルヴェールは気づく。


 ホルンが動けば、逃げ道を閉ざされる。


 ここで見失えば、次に現れるのは午前零時かもしれない。


 確認するだけ。


 姿を確かめ。


 行き先を見て。


 すぐ戻る。


 自分が全体を把握するために必要な偵察だ。


 三人へ知らせるのは、確かな情報を得てからでよい。


 エレノアは、そう判断した。


 手帳を閉じる。


 携帯灯の遮光板を下ろす。


 靴音を殺し、後部車へ続く扉の脇を抜けた。


 ホルンはテオの手を見ている。


 ニコは追手の位置を尋ねている。


 リラは移動経路を聞き出そうとしている。


 誰も気づかないまま。


 エレノアは後部扉を細く開けた。


 冷たい蒸気が頬を撫でる。


 遠く。


 白い外套の裾が、もう一度だけ闇へ翻った。


 エレノアは四人へ告げず、そのあとを追った。

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