第3節 百年前の新しい傷
「まだ走ってる」
ドワーフの少年は、金色の粉を指先に載せたまま言った。
エレノアの視線が、少年の横顔から灰色の鉄扉へ移る。
「何が?」
「こいつを落とした機械」
少年は短く答えた。
指先を軽く傾けると、金属粉が朝の光を拾った。磨いた金のような明るさではない。煤と油に曇った、重い黄褐色の光だった。
ニコが、空になった新聞鞄を押さえながら身を乗り出す。
「それ、黄金列車の――」
「踏むな」
少年の声が鋭くなった。
ニコの靴先が、金属粉の筋をまたぐ寸前で止まる。
「続報。取材記者、第一歩で証拠を破壊しかける」
「自分の記事にするな」
「ぼく以外に書く人がいないからね」
少年は指先の粉を、工具箱から取り出した黒い検査紙へ落とした。紙を二つに折り、こすり合わせる。
粉は薄く延びず、細かな粒のまま残った。
削られて長く放置された金属なら、湿気と煤を吸って、もっと黒ずんでいる。だが、紙の上に残った粒には、まだ新しい断面の光があった。
エレノアは少年の手元へしゃがみ込んだ。
「黄金列車の部品?」
「列車の部品じゃない。外板を固定する中空防振鋲だ」
「黄金列車の部品で見出しは合ってる」
ニコが即座に言った。
少年が顔を上げた。
「合ってない」
「列車に使う部品なら、合ってるよ」
「《部品》でまとめるな。外板の振動を逃がす鋲と、駆動軸と、蒸気弁じゃ役目が違う。壊れたときに起きることも違う」
「でも見出しに《外板を固定する中空防振鋲》まで入れたら、読者が途中で帰る」
「帰らせろ。間違って覚えられるよりましだ」
「読者を帰らせる新聞売りは、たぶん今日で職を失うな」
「二人とも」
エレノアが割って入った。
「見出しの相談はあと。まず、あなたの名前と、なぜその金属粉を追っているのかを確認するわ」
少年はエレノアを見た。
先ほどまで金属だけへ向けられていた灰緑色の瞳が、今度は彼女の外套、鞄、靴へ動く。ニコほど芝居がかった観察ではない。工具を選ぶときと同じように、目の前の人間が何に使えるかを確かめている目だった。
「先にそっち」
「エレノア=クラウス。クラウス探偵事務所の調査補助よ」
「ニコ=フェン。蒸都新聞の未来を背負う独立取材員」
「朝刊売りでしょう」
「現在の肩書はね」
少年は二人を見比べた。
「テオ=リベット。《リベット修繕工房》の見習い」
「見習い?」
ニコが工具箱を見る。
「その大きさの工具箱を運べるなら、もう一人前でよくない?」
「工具箱を持てるかと、仕事を任されるかは別だ」
テオは検査紙をしまい、床の金属粉を細い刷毛で集め始めた。
「昨日、工房へこれと同じ材質の鋲が持ち込まれた」
「誰が?」
「老人。顔は見えなかった。帽子を深くかぶって、襟巻きも鼻まで上げてた」
「名前は?」
「言わなかった」
エレノアの眉がわずかに寄る。
「出所も?」
「話さなかった。何に使うかも」
テオは刷毛の先を紙袋の中へ払った。
「ネラが断った。《出所を話せない部品へ、勝手に手を入れるな》って。耐圧も荷重も分からない部品を、見た目だけで作り直すことはできない」
「正しい判断ね」
「正しいけど、あれを見て何もしないのは無理だ」
テオは当然のことのように言った。
ニコが口元を上げる。
「ネラさんの言いつけを破った?」
「手は入れてない。見ただけだ」
「そして依頼人を尾行した」
「尾行じゃない。粉を追った」
「本人に気づかれないよう、足跡を追うのは尾行よ」
「人じゃなくて金属を見てた」
「対象の呼び方を変えても、行動は変わらないわ」
エレノアの指摘にも、テオは悪びれなかった。
工具箱の蓋へ指を置き、その薄い埃の上に鋲の輪郭を描く。太い胴。中空の中心。平らに潰された頭部。
「鋲の中へ封止材が残ってた。いま使われている灰色のものだ。古い油や樹脂じゃない」
「それだけで、新しい部品だと分かるの?」
「部品は古い。材質は百年くらい前の黄銅と青銅の合わせだ。いま同じ配合では作らない」
「百年前の材質に、現代の封止材」
エレノアは復唱した。
テオは埃に描いた鋲の頭へ、短い線を何本も重ねた。
「縁に抜き取り傷があった。一度じゃない」
「どうして分かるの?」
「一度抜いただけなら、工具の跡は同じ幅で残る。あれは古い傷の上へ、別の形の傷が重なってた」
さらに角度を変え、細い線を加える。
「古い傷は幅が広い。次は狭い。いちばん新しい傷は、いまの抜鋲具に近い。傷と傷の間で摩耗の深さも違う」
「同じ鋲が、長い間を置いて何度も外されている」
「外して、点検して、戻した。最後に封止したのは五年以内だ」
ニコが口笛を吹いた。
「百年前の鋲を、五年以内に直した人がいる」
「直したとは限らない。抜いて、中を見て、封止し直しただけかもしれない」
「そこ、記事に必要な違い?」
「必要だ」
「第一段落だけで、読者を百人ほど振り落としそうだな」
「間違った百人なら、落とせ」
テオは工具箱の埃を袖で消した。
エレノアは、金属粉の筋を見る。
鉄扉の下端から、煉瓦床のくぼみへ続いている。ところどころ靴底に押され、半月形に広がっていた。
「工房へ来た老人の足跡にも、同じ粉が?」
「右の踵だけについてた。工房の前は雨で消えたけど、駅の荷受け坂でまた見つけた。人の多い場所では途切れた。ここへ下りる階段で、もう一度出た」
「昨日の鋲そのものは、その老人が持ち帰ったのね」
「ああ」
「では、ここにある粉が同じ材質だという根拠は?」
テオは、先ほどの検査紙をエレノアへ差し出した。
「色だけじゃない。粒の割れ方と硬さが同じだ。純粋な黄銅より脆くて、青銅より削れ方が細かい」
エレノアは紙を傾けた。
粒の一つ一つは、金粉と呼ぶには鈍い。だが、百年前の外板を覆っていた金属だと考えれば、《黄金列車》という名が生まれた理由は想像できた。
「つまり」
エレノアは立ち上がった。
「黄金列車のものと同じ時代、同じ用途の鋲が、少なくとも五年以内に点検され、昨日まで誰かの手元にあった」
テオがわずかに頷いた。
「それならいい」
「でも、顔を隠した老人が、怪盗の予告状が届く前日に、百年前の金色の機関部品を持ち込んだ」
ニコが指を折って数える。
「その老人と同じ金属粉が、中央環状駅の閉鎖された貨物入口まで続いている。読者諸君、ここで黄金列車を疑わないのは、慎重じゃなくて意地だよ」
「疑うのと、決めつけるのは違う」
「そこだけは二人とも同じなんだね」
エレノアは鞄から手帳を取り出した。
予告状の文面は、怪盗が選んだ句読点まで変えず、一字ずつ写してある。
「存在しない十三番線から、機械王が最後まで手放さなかった黄金列車を頂戴する」
声に出して読み直す。
《最後まで手放さなかった》。
百年前の新聞は、機械王が自分の最高傑作を隠したと伝えていた。
だが、目の前にある傷は、ひとりの天才が秘密の倉庫へしまい込んだ機械の傷ではない。
「この鋲を触った者は、一人ではない可能性が高いのね?」
「工具を替えた一人の職人かもしれない。でも、何年も使って、外して、また使ってる」
テオは鉄扉を見た。
「百年間眠っていた列車じゃない」
その言葉が、古い貨物通路へ低く響いた。
遠く、地上を列車が通過した。
頭上の石組みがかすかに震え、鉄扉の表面から赤錆が一片落ちる。
三人は同時に扉を見た。
扉には太い鎖が渡され、古い南京錠が下がっている。錠の穴には錆が詰まり、長く開けられていないように見えた。
エレノアが手を伸ばす。
「触るな」
テオがその手首を止めた。
「指紋を残すから?」
「錆が落ちる。床の傷が読めなくなる」
「……そう」
エレノアは素直に手を引いた。
テオは片膝をつき、錠には触れず、扉の上下を調べた。
下端には厚い埃がたまっている。
だが、床と扉の間にできた黒い弧だけは、埃が薄い。扉がわずかに動いた痕だった。
次に、テオは蝶番へ保護眼鏡を近づけた。
「こっちだけ新しい」
エレノアも横から覗く。
鉄の継ぎ目に、細い油の筋があった。煤の層を割って流れ、途中でまだ丸い滴を作っている。
「油?」
「古い機械油じゃない。乾いてない」
ニコが反対側の錠を見る。
「錠は百年間の眠りを演じて、蝶番だけ昨夜まで働いていた?」
「錠を使ってないんだ」
テオは扉と石枠の隙間へ薄い金属板を差し込み、手応えを確かめた。
「外からは封鎖されてるように見せる。内側から来たやつは、別の留め具を外して開ける」
「では、誰かが今も向こう側から出入りしている」
エレノアは言った。
「そう見える」
「開けられる?」
「錠を壊すなら早い。壊さないなら、蝶番の軸を抜く」
「どれくらい?」
「道具があれば三分」
テオは工具箱を開き、中を見た。
「でも、この打ち棒じゃ太い。音も出る。工房に細いのと、槌へ巻く覆い布がある」
ニコが駅舎の方角へ顔を向けた。
貨物坂の上を、荷車の車輪が軋みながら通っていく。少し前まで途切れていた人声も、荷受け場の仕事が始まるにつれて近づいていた。
「開けるなら、今じゃないね」
「どうして?」
エレノアが尋ねる。
「昼の南口は荷受けと点検の人間が通る。夜番へ替わる前だけ、見回りが駅舎側へ寄るんだ。最終版を売るとき、いつもここが静かになる」
「何時?」
「九時五十分ごろ。日によって少し違う」
エレノアは駅の大時計を見上げた。
正午の合流まで、もう一時間もない。
ニコの売上帳には、まだ受領印がない。テオの工具も足りない。何より、明るい時間に鉄扉を外せば、追っている相手へこちらの存在を知らせることになる。
手帳へ、油の滴の形と床の弧を描き込む。
「いまは入口を離れるわ。私は正午の報告へ戻る。ニコは売上を納める。テオは工房へ道具を取りに行く」
「勝手に俺の予定を決めるな」
「ほかに必要な道具があるのでしょう」
「ある」
「では、取りに戻る?」
「戻る」
「決まったわね」
テオは不満そうに眉を寄せたが、反論はしなかった。
ニコが二人の間へ手を出す。
「夜、九時四十分。南口の古い昇降機前。見回りが移ったのを確かめて、十時に扉を開ける」
「午後十一時には地上へ戻るわ」
エレノアが付け加えた。
「一時間で足りる?」
「足りる範囲だけ調べるのよ」
その答えを口にしたとき、エレノアは本気でそうするつもりだった。
扉の位置。
錠を使わない開閉。
下へ続く経路があるか。
今夜は、それだけを確かめて戻る。
三人は床の痕跡を踏まないよう、来た道を引き返した。
錆びた貨物用昇降機の脇で別れると、ニコは共同仕分け場へ、テオは工房街へ走っていった。
エレノアは一人、駅前広場へ戻った。
正午。
中央環状駅の大時計が十二度目の鐘を鳴らし終える前に、彼女は時計塔の下へ着いた。
レオンは時計塔の柱へ背を預けていた。
ミラベルは新聞を三紙、腕へ抱えている。
少し離れた場所では、グレアムが市警察官から報告を受けていた。
エレノアの姿を認めると、レオンは懐中時計を閉じた。
「三十秒前だ」
「遅れてはいないでしょう」
「評価は同じではない」
「帰ってきたことも評価して」
「それは前提だ」
いつもの調子で答えながら、レオンの視線はエレノアの靴へ落ちた。
靴底についた金色の粉。
膝へ薄く残った煉瓦の泥。
外套の袖へ移った赤錆。
「入口を見つけたのか」
「どうして、そうなるの?」
「駅前だけを歩いた者の汚れではない」
エレノアは手帳を開いた。
「中央環状駅南側、閉鎖された旧貨物入口。工房へ持ち込まれた百年前の防振鋲と、同じ材質らしい金属粉が続いていたわ。鉄扉は錠を使わず、内側から開閉されている可能性が高い」
描いた見取図を見せる。
粉の筋。
扉の下の弧。
乾いていない油。
レオンは問いを挟まず、最後まで見た。
ミラベルは場所と時刻を自分の手帳へ写す。
「《らしい》と言ったな」
「材質を見たのは、リベット修繕工房の見習いよ。テオ=リベット。断定できる検査まではしていない」
「もう一人は」
「ニコ=フェン。朝刊売り。入口へ反応した人物を見つけたのは、彼の観察よ」
エレノアは新しい頁に、夜の予定を書いた。
再集合――午後九時四十分、南口旧貨物昇降機前。
調査開始――午後十時。
帰還予定――午後十一時、中央環状駅南口。
同行者――ニコ=フェン、テオ=リベット。
レオンの目が、三行目で止まった。
「扉の先へ入るのか」
「入口の構造と、下へ続く経路だけ確認するわ。十一時までに戻れる範囲で」
「範囲を決めるのは、距離ではない。戻る時間だ」
「だから書いたでしょう」
「十一時を過ぎたら」
今度はグレアムが言った。
報告を終え、いつの間にか三人の横へ立っている。
「市警を入れる。お前が嫌がってもだ」
「嫌がりません」
「先に言っておく。地下で勝手に予定を変えた人間は、たいてい地上でそう言う」
エレノアは返事を飲み込み、手帳へ一行加えた。
午後十一時を過ぎた場合――市警による捜索開始。
その文字を、レオンとグレアムの双方に見えるよう差し出す。
「これでいい?」
「帰路は」
レオンが尋ねる。
「入った鉄扉。内側から戻せない構造なら、全員で入らず、その場で引き返す」
「伝言は」
「入口の外へ、行き先と時刻を書いた紙を残す」
レオンは頁を見たまま、短く息を吐いた。
「調査員として戻ってこい」
「分かっているわ」
エレノアは手帳を閉じた。
少なくとも、そのときは分かっているつもりだった。
午後、三人はそれぞれの場所で夜を待った。
ニコは共同仕分け場の帳場へ硬貨袋を出し、三十六部の売上を一枚ずつ数え直された。売上帳へ受領印が落ちるまでその場を離れず、印が乾いてから中央環状駅へ戻った。
最終版を売る場所を南口へ変え、客を呼びながら、見回りの市警察官と鉄道警備員がどの角を曲がり、どこで引き継ぐかを目で追った。
テオは《リベット修繕工房》へ戻った。
持ち出した工具と採取した金属粉をネラへ見せ、見つけた鉄扉の構造を説明した。細い打ち棒。槌へ巻く厚い覆い布。蝶番を支える楔。暗所で両手を空けるための額灯。
工具箱へ収める順番は、取り出す順番と逆だった。
いちばん先に使うものを、いちばん上へ。
最後まで使わずに済ませたい救助縄を、底へ。
エレノアは黒鴉館へ戻り、遅い昼食をとった。
靴を替え、灯油を補充し、入口の見取図を清書する。手帳から写した別紙には、三人の名と再集合時刻、旧貨物入口の位置、午後十一時の帰還予定を書いた。
夜、黒鴉館を出る前に、その紙をレオンの机へ置いた。
空が煤色から黒へ沈み、中央環状駅の大時計が午後九時半を告げた。
日中は荷車と人声に満ちていた南側の貨物坂も、いまは別の場所のように静まっている。
壁灯は一つおきに消され、使われなくなった昇降機の鉄骨が、黒い肋骨のように霧の中へ伸びていた。
エレノアが着いたとき、ニコはすでにいた。
新聞鞄は空ではない。売り残したのではなく、中へ小型灯と水筒、巻いた紐を入れている。
「売上は?」
エレノアが尋ねる。
ニコは帳簿の受領印を見せた。
「一枚の不足もなし。未来の大記者、本日の朝刊業務を正式に完了」
「夜の見回りは?」
「九時四十七分。南詰所の二人が駅舎側へ移る。次の巡回が戻るのは十時十二分ごろ」
「二十五分ね」
「秘密の扉を三分で開けるには、十分すぎる」
「三分で開けば、でしょう」
「そこは専門家へ」
二人が振り返るのと、坂の下から重い足音が上がってくるのは同時だった。
テオが工具箱を提げて現れた。
朝と同じ箱だが、革帯が一本増え、蓋の脇へ折り畳んだ額灯が差してある。
「道具は?」
エレノアが尋ねる。
「ある」
「工房へは?」
「話した」
「ネラさんは、何て?」
「機械を見る前に、帰りの扉を見ろって」
テオはそれだけ言い、鉄扉へ向かった。
午前零時まで、あと二時間余り。
三人は壁の陰で待った。
九時四十七分。
南詰所の扉が開き、二人の警備員が駅舎側へ歩いていく。靴音が角の向こうへ消え、引き継ぎの笛が遠くで一度鳴った。
ニコが懐中時計を見せる。
「予定どおり」
エレノアは鉄扉の前へ出た。
朝の金属粉は、踏まれずに残っている。
油の滴は丸みを失い、煤を吸って細い黒線へ変わっていた。
テオは額灯を下ろし、片膝をついた。
朝に差し込んだ金属板で扉と石枠の隙間を確かめる。次に、工具箱から細い打ち棒と、布を幾重にも巻いた小槌を取り出した。
「開けられる?」
「話しかけるな」
「三分を計ろうか?」
ニコが尋ねる。
「黙ってろ」
「それは、はいという意味?」
「ニコ」
エレノアが名を呼ぶと、ようやく静かになった。
テオは鎖にも南京錠にも触れず、油の差された蝶番の軸へ打ち棒を当てた。
覆い布の上から小槌が落ちる。
鈍い音が三度。
一本目の軸が、わずかに上へ浮いた。
さらに二度。
テオは浮いた軸を布でつかみ、ゆっくり引き抜く。
「蝶番側を外すの?」
エレノアが声を落として尋ねた。
「錠が動かないなら、反対を動かす」
「扉を壊さない?」
「軸は戻せる。支えろ。急に傾けるな」
下の蝶番も同じように外す。
三人で扉の端へ手をかけると、錠で固定された側を支点に、重い鉄扉がわずかに斜めへ開いた。
暗い隙間から、温かな空気が流れ出す。
湿った煉瓦。
古い油。
錆。
その奥に、かすかな蒸気の匂い。
テオの顔から、初めて苛立ち以外の表情がのぞいた。
驚きと、抑えきれない期待。
「通れる」
人ひとりが体を横にすれば、どうにか抜けられる幅だった。
エレノアは隙間の向こうを覗いた。
下へ続く石段がある。
壁には灯りがなく、数段先から黒一色に沈んでいた。
彼女は手帳から一枚紙を取り出し、時刻を書き加えた。
午後九時五十四分、三名、旧貨物入口より進入。
帰還予定、午後十一時。
紙を折り、風で飛ばないよう石枠の割れ目へ差し込む。
「入る前に、役割を決めるわ」
エレノアは小型灯へ火を点した。
「私が先頭。ニコは後方を確認して、誰かが追ってきたら知らせる。テオは壁、床、配管の構造を確認。危険があれば止めて」
「誰が団長を決めたの?」
ニコが尋ねた。
冗談めかしてはいたが、目は笑っていない。
エレノアは質問の意味を考えるより早く答えた。
「この中で、事件調査の実務経験があるのは私でしょう」
本気だった。
潜入もした。
旧保守区画も歩いた。
合図と退出経路を決め、危険な状況で情報を運んだ経験もある。
だから、経験のある者が役割を割り振るのは当然だと考えた。
ニコはテオを見た。
「異議は?」
「団長はどうでもいい」
テオは工具箱を持ち上げた。
「先頭が床を踏み抜かなければ」
「踏み抜かないわ」
「見ただけで分かるのか?」
「……危険な床は、あなたが先に教えて」
「だから俺を前にしろ」
「構造全体を見るなら、中央のほうがいいでしょう」
テオは少し考えた。
「それはそうだ」
「交渉成立。臨時探検隊、団長一名、反対票一票、棄権一票」
「探検隊ではないわ。共同調査よ」
「共同なのに団長がいるんだ?」
「必要な指揮役よ」
「その役職名、あとで審議しよう」
「審議する必要はありません」
エレノアは灯りを掲げ、先に隙間を抜けた。
ニコが続く。
テオは工具箱を横向きにして押し込み、最後に自分の体を滑り込ませた。
石段は、途中から金属の保守階段へ変わった。
一段下りるたび、靴音が長く反響する。
頭上を列車が通るたびに、天井の奥で低い轟音が動いた。だが、下へ行くほど地上の音は鈍り、代わりに水滴と配管の唸りが近くなる。
「後方、異常なし」
ニコが芝居がかった報告をする。
「ただし、出口はすでに百段ほど上。読者の不安は高まるばかりです」
「五十二段よ」
エレノアは振り向かずに訂正した。
「数えてたの?」
「退出するときに必要でしょう」
「さすが団長」
「調査補助です」
テオが途中でしゃがみ、床板を小槌の柄で叩いた。
高い音。
少し先は低い音。
「右を歩け。中央は下が空いてる」
エレノアはすぐ右へ寄った。
ニコもその足跡を正確に踏む。
「構造確認、異常あり。団長、部下の忠告に従う」
「部下とは言っていないわ」
「そこは否定するんだ」
階段を下りきると、煉瓦造りの通路が三方へ分かれていた。
頭上には大小の配管が走り、錆びた継ぎ目から一定の間隔で水が落ちている。
右の通路には潰れた圧力計。
左には半分折れた案内板。
正面は低い蒸気に覆われ、先が見えない。
黄金色の粉は、湿った床へ入ったところで途切れていた。
エレノアは手帳へ簡単な分岐図を描いた。
「地上の位置から考えれば、十二番線と十四番線の間、その下へ向かっているはず」
「十三番線?」
ニコが言う。
「まだ決めないで。ここが旧貨物入口だと分かっているだけよ」
「朝より慎重になったね」
「あなたが勝手に見出しへするからでしょう」
テオは折れた案内板を覗き込んだ。
「文字は読めない。固定具も腐ってる。触るな」
「では、右へ進むわ。床がわずかに下っている」
「根拠は?」
ニコが尋ねる。
「古い貨物設備が地下線へ続くなら、排水勾配に沿う可能性が高い」
「可能性」
「ほかに判断材料がない以上、進んで確かめるの」
「団長らしいお言葉で」
「あなたは後ろ」
「はいはい」
三人は右の通路へ入った。
通路は二度曲がり、低い水路を鉄板で渡り、太い蒸気管の下をくぐった。
テオは床の沈みを見つけるたびに止まり、エレノアへ足を置く位置を示した。
ニコは後ろを振り返り、曲がり角が闇へ消えるたび、聞き耳を立てた。
誰かが追ってくる音はない。
ただし、遠くから響く水滴は、どの方向から来ているのか分からなかった。
やがて通路の先が開けた。
潰れた圧力計。
半分折れた案内板。
正面を覆う低い蒸気。
ニコが立ち止まる。
「ねえ」
「分かっているわ」
エレノアは手帳を開いた。
「同じ形の分岐ね」
「同じ場所じゃないの?」
「似た保守区画は、同じ規格で繰り返し作られることがあるわ」
テオは圧力計の下へしゃがんだ。
台座の左下を指でなぞる。
「同じだ」
「何が?」
「留めボルトが一本ない。破断面も同じ」
エレノアは黙って手帳を見た。
最初に描いた圧力計にも、左下のボルト欠損を記している。
「では、一度戻った」
「見出しは《地下迷宮、早くも一周》」
「迷っていないわ。環状になっていると確認したの」
「迷った人は、よくそう言う」
エレノアは分岐図へ新しい線を書き加えた。
「右の通路がここへ戻るなら、次は正面」
「蒸気がある」
テオが言う。
「熱くはない。けど、先の配管が生きてるかもしれない」
「通れる?」
「壁際なら」
「では進むわ」
「決断が速いなあ」
ニコが帽子を深くかぶり直した。
「遅いほうがいい?」
「記事なら早いほうがいい。地下道なら、たぶん少し考えたほうがいい」
「考えたわ」
「ぼくが一文話す間に?」
「十分よ」
三人は蒸気の中へ入った。
白い霧が灯りを反射し、足元以外を隠す。
エレノアは左手を壁へ添え、右手で灯りを前へ出した。
テオは配管の音を聞きながら進む。
ニコは最後尾で、二人の影が白い蒸気へ溶けない距離を保った。
途中で通路が二つに分かれた。
エレノアは右を選んだ。
テオが何か言おうとしたが、先に進んだ彼女の灯りが曲がり角へ消えかけ、黙って追う。
細い通路。
石段。
下り坂。
錆びた格子戸。
その先で、三人は再び広い分岐へ出た。
潰れた圧力計。
半分折れた案内板。
正面を流れる低い蒸気。
ニコが両手を腰へ当てた。
「続報。環状路線、二周目」
「二度目に戻っただけよ。ここへ来たのは――」
エレノアの言葉が止まった。
最初に立ったときを一回と数えるなら。
右の通路から戻ったのが二回目。
そして今が、三回目。
テオは圧力計の欠けたボルトを見たあと、エレノアを見る。
ニコも気づいたらしい。
だが、彼が口を開くより先に。
頭上から、少女の声が落ちてきた。
「そこ、三回目」




