↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/14

第2節 十三番線ではない

 中央環状駅前では、朝だけでも三つの時間が同時に流れていた。


 駅の大時計を見上げ、始業に遅れまいと急ぐ者。


 乗合蒸気車の到着を待ち、手持ち無沙汰に煙草をふかす者。


 そして、新聞を開いたまま立ち止まり、今日の事件へ昨日の噂を継ぎ足している者。


 そのすべてを、一人の少年の声が追い越していった。


「号外予定! 怪盗紳士ルヴェール、存在しない十三番線へ現る!」


 煤霧を切り裂く、よく通る声だった。


 呼びかけられたわけでもないのに、通行人の顔が次々とそちらへ向く。


「黄金列車だって?」


 杖をついた老人が歩みを緩めた。


「ルヴェールが来るの?」


 母親の手を引いた子どもが振り返った。


「号外なのか、予定なのか、どっちなんだ」


 革鞄を抱えた事務員が眉をひそめる。


 少年はそのすべてへ、同じ笑顔では応じなかった。


 老人には秘密を打ち明けるように声を落とし。


 子どもには劇場の幕が上がるように目を見開き。


 事務員には紙面の端を見せながら、いかにも多忙そうに頷いてみせる。


「正式な号外はただいま印刷機へ向かって全力疾走中! こちらは朝刊、事件は続報待ち! 今のうちに予習をどうぞ!」


 少年の腕には、紙紐でくくられた新聞束が抱えられていた。


 濃い灰青のハンチング帽。


 焦茶の短い上着。


 黄土色の細いマフラー。


 斜め掛けの新聞鞄は、何度も補修されている。新聞を差し出す指先には黒いインクが染みつき、爪の脇には紙で切った細い傷がいくつも走っていた。


 けれど、彼が売っている新聞は号外ではない。


 紙面の日付も版も、今朝の通常版だった。


 エレノアは濡れた煉瓦の上で足を止めた。


 彼女が最初に見たのは、少年ではない。


 声に反応した人々だった。


 黄金列車という言葉には、十一人が振り向いた。


 ルヴェールの名には、子どもと若者が目を輝かせ、市警察官らしい男が露骨に顔をしかめた。


 だが、《存在しない》と《十三番線》に反応した者は、ほとんどいない。


 一人を除いて。


 駅の南階段近くに、鉄道員風の濃紺の上着を着た男が立っていた。


 制帽はない。


 襟章も見えない。


 それでも、煤の染みた外套と厚い革手袋は、線路脇で働く者の姿に見えた。


 男は黄金列車にも、怪盗の名にも顔を動かさなかった。


 少年が十三番線と叫んだ瞬間だけ、視線を駅舎の端へ走らせた。


 南口の脇。


 蒸気車の発着所から外れた、古い貨物用通路の方角へ。


 その反応を見届けるより先に、エレノアの口が動いていた。


「十三番線ではないわ」


 少年の声が、ぴたりと止まった。


 ほんの半呼吸だけ。


 次の瞬間には、彼は新聞を高く掲げていた。


「号外予定、早くも訂正! 十三番線ではないとの有力証言――」


「訂正まで売り文句にしないで」


 エレノアは人混みを抜け、少年の前へ立った。


 同年代だと思っていたが、近くで見ると彼のほうが少し小柄だった。


 琥珀を含んだ明るい茶色の瞳が、エレノアの顔から外套、斜め掛け鞄、編み上げ靴へ素早く動く。


 ただ見ているのではない。


 彼女がどこから来て、どれほど急いでいるかまで読もうとしている。


「十三番線じゃないなら、どこなの?」


 少年は無邪気な顔で聞いた。


 それが作られた顔だと分かる程度には、エレノアも人を観察してきた。


「質問の前に、間違いを認めなさい」


「間違いかどうかを確かめるために聞いてるんだよ」


「それを根拠のない噂と言うの」


「根拠なら半分ある」


「残りの半分は?」


「いま探してる」


 悪びれた様子はない。


 エレノアの中で、少年への第一印象が固まった。


 無責任で、口の軽い新聞売り。


「そもそも《号外予定》とは何なの?」


「号外になる予定の事件」


「それは、まだ号外ではないでしょう」


「だから予定と言った」


「普通の朝刊を売りながら、号外の見出しを叫ぶのは詐欺に近いわ」


「ぼくは一度も、この束が号外だとは言ってないよ。号外予定としか言ってない」


「言葉の隙間へ逃げ込まないで」


「ヴェルム=クロウじゃ、子どもが朝を生き延びるのに必要な技術なんだ」


 少年は新聞束を抱え直した。


 その間にも、目だけはエレノアを観察し続けている。


「それで、十三番線じゃないなら、《第十三停車所》?」


 エレノアの眉が動いた。


「違うわ。《第十三停車所》は、事故のあった旧保守区画につけられた非公式の呼び名。《十三番線》は、駅で列車を発着させる線路の番号よ。さらに《第十三転轍線》なら、旧い転轍表で使われる別の符号になる。数字が同じだからといって、勝手に混ぜないで」


「三つもあるんだ」


「あるわ。だから――」


 言いかけて、エレノアは止まった。


 少年の顔には、先ほどまでの芝居がかった驚きがなかった。


 口元には笑みが残っている。


 しかし目だけが、急に静かになっていた。


「なるほど」


 少年は言った。


「黄金列車で立ち止まった人は十一人。ルヴェールで振り向いた人は七人。十三番線がおかしいと怒ったのは、お嬢さま一人だけだ」


「数えていたの?」


「新聞売りは、誰がどの言葉で財布へ手を伸ばすか覚えておかないと困るからね」


 少年は、指先についたインクを親指でこすった。


「しかも、《第十三停車所》と《十三番線》と《第十三転轍線》の違いまで、聞かれてもいないのに説明できる。予告状を読んだか、まだ公表されていない駅図を見た。どっち?」


 今度は、エレノアが黙る番だった。


 少年は答えを待っているように見える。


 だが、本当に見ているのは沈黙の長さと、エレノアの目がどこへ動くかだ。


 彼は正しい答えを知らない。


 だから、知っている者の反応を使って空白を埋めようとしている。


 エレノアは少年の腕にある新聞へ視線を落とした。


 折られた一面の隅には、怪盗の予告状を伝える小さな記事が載っていた。


 《機械王》。


 《黄金列車》。


 《午前零時》。


 記事の末尾には、鉄環鉄道局資産回収部長ギデオン=ヴァルツの名で、《該当する現行資産は確認されていない》という短い回答が添えられている。


 だが、少年が何度も強調した一語だけがない。


「《存在しない》は、この記事に載っていないわ」


 少年の笑みが、ほんの少し深くなった。


「よく読んでる」


「逆さだけれどね」


「ぼくも逆さのほうが速く読めるよ」


「褒めていないわ。あなたは予告状の全文を知らない。それなのに、新聞に載っていない《存在しない》という語をわざと強調した」


「新聞社街じゃ、印刷されなかった言葉のほうが速く走ることもある」


「その断片が正しいか、確信はなかった」


「なかったから叫んだんだよ。間違っていれば誰かが笑う。正しければ、知っている人が訂正する」


 少年は新聞を一部抜き取り、エレノアへ差し出した。


「そして、訂正した人は、正解を知っている顔で、正解を言わないお嬢さまだった」


 エレノアは新聞を受け取らなかった。


「根拠のない噂を大声で流す人へ、正解を渡すつもりはないわ」


「おや。ぼくは役に立たない?」


「役には立ちそうよ」


「光栄だな」


「信用はできないけれど」


 少年は嬉しそうに頷いた。


「よかった。そこは同意見だ。ぼくも、正解を隠している人を最初から信用するほど素直じゃない」


 二人は数秒、互いの顔を見た。


 使える。


 そして、信用できない。


 少なくとも、その二点についてだけは意見が一致していた。


 駅の大時計が短く鐘を鳴らした。


 人の流れが変わる。


 改札へ急ぐ者が増え、乗合蒸気車の停留所には新しい列ができる。


 その向こうで、先ほどの鉄道員風の男が動いた。


 濃紺の背中が、駅舎脇の人混みへ紛れようとしている。


 エレノアが追おうとすると、少年が新聞の端で行く手を示した。


「見た?」


「ええ」


「あの人だけ、黄金列車を見なかった」


「旧貨物入口を見たわ」


「正確には、その手前にある案内柱を一度見てから、入口を見た。場所を確かめたんだ」


 男の背中が、荷車の陰へ消える。


 エレノアは外套を翻した。


「追うわよ」


「どうぞ」


 少年は動かなかった。


 腕には、まだ厚い新聞束が残っている。


 エレノアは二歩進み、振り返った。


「あなたも来るのよ。あの男がどの言葉へ反応したか、最初から見ていたのでしょう」


「見てたよ」


「なら、証言して」


「仕事が終わったらね」


 少年は新しい客へ新聞を差し出そうとした。


 エレノアは、その腕を紙ごと押し下げる。


「今すぐ追わなければ、手掛かりを失うわ」


「その今すぐのために、ぼくの束を誰が売るの?」


 すぐには、言葉が返らなかった。


 少年の声は、先ほどまでと変わらず明るい。


 だが、冗談ではなかった。


 エレノアは、自分が追跡へ移る条件を考えていなかったことに気づいた。


 彼女は正午の合流時刻も、地上側の退出経路も手帳へ残してきた。だから、駅前で手掛かりを見つければ追える。少なくとも、自分ではそう考えていた。


 だが、この少年は違う。


 腕の新聞は、冒険の小道具ではない。


 売れ残れば帳簿へ残る。彼が仕事を放り出せば、家の収入がその分だけ減る。


 二人とも同じ朝の駅前に立っている。


 それでも、事件へ向かうために外さなければならない鎖は、同じではなかった。


「残りは何部?」


「三十六部」


 少年は即答した。


 エレノアは鞄から革の小銭入れを取り出した。口金を開き、中身を確かめる。


「全部買うわ」


 少年の笑顔が消えた。


「一部なら銅貨一枚。三十六部なら――」


「計算はできる」


「そういう話じゃない」


「売り切れば、仕事を離れられるのでしょう」


「新聞を読みたくて買うなら、お客さまだ」


「ええ」


「でも、お嬢さまが買おうとしているのは新聞じゃない。ぼくの時間だろ」


 彼はエレノアの小銭入れを見た。


 それから、まだ一枚も減っていない新聞束を見た。


「それじゃ雇われたみたいで気に入らない」


「今はそんなことを言っている場合では――」


「今だから言うんだよ。最初に雇われたら、そのあとの手柄も情報も、全部お嬢さまのものみたいになる」


「そんなつもりはないわ」


「つもりは、記事の訂正欄には載らない」


 少年は新聞束を抱え直した。


「ぼくは仕事を終えたら、ぼくの判断で行く。新聞を買い占めても、その順番は変わらない」


 頑固だった。


 そして、その頑固さには筋が通っていた。


 エレノアは小銭入れを閉じた。


「では、売り切ればいいのね」


「簡単に言うなあ。この時間になると、改札へ向かう客は足を止めない。怪盗の名前で驚かせても、記事が小さいから紙面を見せると逃げる。次の版が出れば、今の束はもっと売れにくくなる」


 少年は肩をすくめた。


「だから、ぼくは客を釣りながら、情報も釣っていたわけ」


「売る場所が悪いわ」


「中央環状駅前より新聞が売れる場所があるなら、ぜひ編集部へ教えてあげて」


「駅前が悪いとは言っていない。立つ位置が悪いの」


 エレノアは周囲を見回した。


 北階段から下りてくる人々は、改札へ向かって歩調を速めている。駅舎正面の馬車寄せでは、御者が客を急かしていた。


 一方、南側の乗合蒸気車乗り場には長い列ができていた。車両はまだ来ていない。並んでいる者たちは動けず、隣の会話と時計を気にしながら待っている。


「乗合蒸気車の列へ移るわ」


「新聞売りは停留所の柵内へ入れないよ」


「入る必要はない。列の先頭ではなく、中央へ立つの。先頭の客は車両が来る方向しか見ていない。最後尾は、自分の後ろが伸びるのを嫌って動かない。中央の人たちだけが退屈している」


 少年の瞳が停留所へ向く。


 列の中ほどでは、二人の工員が腕を組み、暇そうに駅舎を眺めていた。その後ろでは、商家の使いらしい少女が、前の客が手にする新聞を背伸びして読んでいる。


「なるほど。それで見出しは?」


「長すぎるわ。《号外予定》も《存在しない》も捨てる」


「大事なところを捨てるんだね」


「人を釣るための役目は終わったでしょう。新聞を売るのなら、新聞に書かれている事実だけを叫ぶ」


 エレノアは少年の腕から一部を抜き、記事を確かめた。


「《朝刊。怪盗予告、黄金列車》」


「短い」


「聞き返したくなるところで止めるの。説明を全部叫べば、買わなくても分かった気になるわ」


 少年は口の中で見出しを繰り返した。


 声の高さを変え。


 言葉の間を変え。


 最後に《黄金列車》だけを、遠くまで届く音へ変える。


「悪くない」


「悪くないではなく、それで売って」


「命令?」


「提案よ」


「代金は?」


「手掛かりを共有する」


「信用できない相手の情報か」


「あなたも同じでしょう」


 少年は歯を見せて笑った。


「交渉成立」


 二人は乗合蒸気車の停留所へ走った。


 エレノアは列の流れを妨げず、駅舎の時計と少年の姿が同時に見える位置を選んだ。


 少年は新聞束の紙紐を解く。


 灰青の帽子を少し後ろへずらし、呼吸を整える。


 次に顔を上げたとき、彼はもう先ほどの噂好きな悪童ではなかった。


 誰より早く重大な知らせを届けに来た、誇り高い新聞売りだった。


「朝刊! 怪盗予告、黄金列車!」


 声が停留所の屋根へ当たり、列の端まで走った。


 工員の一人が振り返る。


「黄金列車って、あの機械王のか?」


 少年は記事の位置が見えるよう、新聞を折り返した。


「百年前の列車へ、怪盗から予告状! 今朝の第一報!」


 二人の工員が続けて銅貨を出す。


 その後ろの少女も首を伸ばした。


「ルヴェールが盗むの?」


 少年は彼女一人だけへ秘密を教えるように声を落とした。


「盗むと書いてある。盗めるかどうかは、今夜のお楽しみ」


「私にも一部」


 紙を受け取る者が出ると、列の中ほどで財布を開く者が増えた。


 少年は、相手ごとに別の事件を売った。


 商人には、鉄道局へ予告状が届いたことを。


 工員には、百年前の機関が今も残っているかもしれないことを。


 子どもには、怪盗が午前零時を指定したことを。


 断定してよいことと、まだ噂でしかないことを、危うい速さで切り分けていく。


 エレノアが渡したのは、短い見出しと場所だけだった。


 少年はその二つを舞台に変えた。


 乗合蒸気車が白い蒸気を吐きながら通りの角へ現れたとき、残りは九部だった。


 列が動き出す。


 少年は先頭へ走らず、車両から降りてきた者へ体の向きを変えた。


「中央環状駅へ怪盗の予告! 黄金列車、今朝の詳報!」


 五部。


 三部。


 一部。


 最後の新聞は、乗合車へ乗り損ねた事務員が、不機嫌そうに銅貨を投げて買っていった。


「全部読めば、次の車両はすぐ来ますよ!」


「来なかったら、返品するぞ」


「次の版と交換で!」


 少年は笑顔で新聞を渡した。


 腕の中から、紙の重さが消えた。


「完売」


 彼は新聞鞄から売上帳を出し、短い鉛筆で部数を書き込んだ。硬貨の枚数を指先で確かめ、袋へ収める。


 その動作だけは芝居がかっていない。


 一枚も間違えられない者の、真剣な手つきだった。


「これで仕事は終わり?」


 エレノアが尋ねると、少年は硬貨袋の口を二重に縛った。


「半分。売上を正午までに共同仕分け場へ納めて、帳簿に受領印をもらうまでが仕事」


「では、急がなければ」


「入口を見る時間くらいはあるよ。中へ入るなら、売上を納めてからだ」


「私も正午に、時計塔の下へ戻る約束があるわ」


「お嬢さまにも、首輪はあるんだ」


「連携のための予定よ」


「言い方を変えるのは、ぼくと同じ技術じゃない?」


「まるで違うわ」


 言い返しながらも、エレノアは駅舎の端へ目を戻した。


 鉄道員風の男の姿は、もうない。


「見失ったわ」


「人はね」


 少年は空になった紙紐を鞄へしまった。


「でも、あの人が見た場所は逃げない」


 エレノアも、旧貨物入口の方角を見た。


「入口だけ確認するわ。正午には、一度ここを離れる」


「賛成。秘密の入口へ入る前に売上を落としたら、母さんのほうが怪盗より怖い」


「その前に名前」


「今?」


「知らない相手と秘密の入口へ行ったら、あとで記事へ何と書けばいい?」


「記事にするつもりなの?」


「するかどうかを決めるためにも、名前は必要だよ」


 エレノアは一瞬迷った。


 少年はすでに、自分が予告状を読んでいると見抜いている。


 ここで偽名を使っても、彼は名前ではなく、偽名を使った事実のほうを覚えるだろう。


「エレノア=クラウス」


 少年の眉が上がった。


「クラウス?」


「名探偵の妹、ではないわ。クラウス探偵事務所の調査補助よ」


「号外! 名探偵クラウスの妹君、独自調査へ――」


「書いたら、二度と情報を渡さない」


 少年は両手を上げた。


「見出し案を読み上げただけ」


「あなたの名前は?」


「ニコ=フェン。将来の記事で署名を見つけたら、今日の新聞代を思い出して」


「あなたの記事は買っていないわ」


「そうだった。時間も買えなかった」


 ニコは帽子のつばを指で弾いた。


「だから、これは共同取材だ」


「共同調査よ」


「見出しにすれば同じようなものさ」


「まるで違うわ」


 言い争いながら、二人は駅舎の南側へ回った。


 正面の喧騒は、石壁を一枚隔てるごとに遠ざかっていく。


 華やかな時計塔も、蒸気車の警鐘も見えなくなり、代わりに古い高架の影と、荷車の轍が残る細い坂道が現れた。


 壁沿いには、使われなくなった貨物用の昇降機が錆びついている。


 その奥に、灰色の鉄扉があった。


 看板の文字は煤と雨に削られ、近づかなければ読めない。


 扉の前だけ、地面へ細い金色の筋が落ちていた。


 エレノアが足を止める。


「踏まないで」


 低い声がした。


 扉の前に、少年が一人、膝をついている。


 ドワーフ族だった。


 同年代よりずっと低い背丈だが、肩幅は広く、肘までまくった袖から太い前腕が出ている。暗い赤銅色の髪は乱れ、右のこめかみに細い編み込みが一本だけ垂れていた。


 額には、左右で縁の違う丸い保護眼鏡。


 脇には、少年の体には不釣り合いなほど重そうな工具箱が置かれている。


 彼はエレノアたちを見なかった。


 床へ散った金色の金属粉を、太い指先でそっと集める。


 親指と人差し指の間ですり合わせ。


 光へ透かし。


 鼻先へ近づけた。


 ニコが息を弾ませる。


「続報。旧貨物入口で、黄金の――」


「黙れ」


 ドワーフの少年は短く言った。


 耳を、鉄扉へ向けている。


 扉の向こうに残る、何かの振動を聞き取ろうとするように。


 やがて彼は、指先の金属粉を見つめたまま呟いた。


「まだ走ってる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。