↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/14

第1節 号外になる前の予告状

 朝のヴェルム=クロウは、新聞より先に煤を配る。


 黒鴉館二階の窓硝子には、夜明けの薄明かりより早く、煙突群から流れてきた煤霧が貼りついていた。通りでは始発の乗合蒸気車が咳き込み、どこかの工房が圧力弁を開く。濡れた煉瓦を、白い蒸気が低く這っていた。


 クラウス探偵事務所の中では、石炭ストーブがまだ本気を出していない。


 その前で、ブラムが伏せていた。


 雄の黒鋼坑道犬は暖を取っているのではない。前脚のあいだに置かれた白い封筒を、夜通し守っていたらしい。


 もっとも、いま封筒は空だった。


 中身はすでに、レオンの机を占領している。


 エレノア=クラウスは兄の椅子へ腰かけ、白い便箋を朝の光へ透かしていた。


「三度目」


 読み終えたミラベルが、机の反対側で言った。


 取材鞄を椅子の背へ掛けたまま、湯気の薄い茶を両手で包んでいる。夜明け前に新聞社街から駆けつけたため、栗色の髪にはまだ細かな霧粒が残っていた。


「もう三度、声に出して読みました。文字が増えるわけではありませんよ」


「減っていないか確かめているの」


「怪盗の予告状は、読んでいるうちに文字が減るものなんですか?」


「ルヴェールなら、そのくらいはするわ」


 エレノアは便箋を裏返した。


 白紙である。


 もう一度表へ返す。


 流れるような筆跡が、朝の薄明かりの中でも妙に鮮やかだった。


「存在しない十三番線から、

 機械王が最後まで手放さなかった黄金列車を頂戴する。


 午前零時。

 帰路を持たぬ王へ、最後の汽笛を。


                L’Ouvere」


 署名まで読み上げ、エレノアは便箋を机へ戻した。


「やはり、場所がない」


 向かいの長椅子から、紙をめくる音がした。


 レオン=クラウスは、妹の結論より、彼女が便箋を置いた位置を見ていた。端を机の木目へ揃えたのを確認してから、手元の小さな帳面へ一本線を引く。


「ある」


「どこに?」


「予告状の一行目に」


「それは読みました」


「なら、書かれている」


 エレノアは椅子の背へ身を預けた。


「兄さま。朝早くから言葉遊びをするのは、頭が起きていない人に見えるわ」


「君は朝早くから他人の机と椅子を占領している。起きすぎている人間も似たようなものだ」


「これが届いたのは兄さまの事務所よ。クラウス家宛てではありません」


「つまり、僕の机だ」


「細かい男ね」


「細かいから、探偵をしている」


 言い返す余地を残さない口調だった。


 エレノアは唇を結び、代わりに便箋を指先で押さえた。


 レオンはようやく予告状へ手を伸ばした。ただし持ち上げない。文字列の上を、長い指で順に示す。


「午前零時。予告時刻がある」


 指が次の行へ移る。


「存在しない十三番線。場所がある」


 さらに戻る。


「機械王の黄金列車。盗む物がある」


「三つ書けば、正しい予告状になるの?」


「少なくとも、予告状として必要な三点を欠かしてはいない」


「でも、十三番線は存在しないのだから、場所が書かれていることにならない」


 レオンは、そこで指を止めた。


 窓の外を始発列車の警鐘が通っていく。橙色の光が煤霧に滲み、机の上を一瞬だけ明るくした。


「存在しないことと、なかったことは同じではない」


 それだけ言って、レオンは手を引いた。


 エレノアは待った。


 ミラベルも待った。


 壁際で腕を組んでいたグレアム警部まで、片方の眉を上げた。


 しかしレオンは説明を続けなかった。何事もなかったように帳面を閉じ、冷めた茶へ手を伸ばす。


「……それで?」


 エレノアが促した。


「それで、とは」


「十三番線は、あったの?」


「調べるべきことを、僕へ聞くのか」


「知っている顔をしているから聞いているのよ」


「君も知りたい顔をしている」


「顔を読んで答えの代わりにしないで」


「顔は記録より改竄しやすい。答えの代わりにはしない」


 エレノアは机の下で靴先を鳴らした。


 兄は答えを教えない。


 知らないからではない。エレノアがどこまで自分で確かめるかを見ているのだ。


 それが腹立たしい。


 そして、その程度の挑発に乗せられていると認めるのは、もっと腹立たしかった。


「兄妹の朝稽古なら、俺が出たあとにしろ」


 グレアムが壁から背を離した。


 頑丈な外套を羽織り直し、太い革帯へ警笛と手錠を確かめる。駅から直接来たらしく、重い編み上げ靴の縁には、灰色の泥が乾かず残っていた。


「中央環状駅じゃ、昨夜から十二番線と十四番線のあいだを見張らせている。始発は別ホームへ回した。昼までには外周通路も閉じる」


「十三番線ではなく?」


 エレノアが聞くと、グレアムは鼻を鳴らした。


「存在しないホームを封鎖する命令書は作れん。十二と十四を閉じれば、そのあいだも客は通らん。それで十分だ」


「壁の裏は確認したんですか?」


 ミラベルの問いに、グレアムの眉間へ皺が寄った。


「駅の連中は、この下に線路はないと言っている」


「駅員が知らない線路なら、駅員へ聞いても出てきません」


「それを言う男が、この部屋に一人いる」


「二人よ」


 エレノアが訂正した。


 グレアムは彼女を見た。


「嬢ちゃん。数に入るのは、無事に帰ってきてからだ」


「帰ってきた回数なら、もう十分でしょう」


「危ない場所へ入った回数を実績に数えるな」


 グレアムの声は厳しい。だが、以前のように「来るな」「帰れ」とは言わなかった。


 エレノアはそれに気づき、少しだけ顎を上げた。


「怪盗の顔を見つけたら、今度こそ笛を吹きます」


「笛を吹いてから追え。順序を逆にするな」


「状況によります」


「その返事がいちばん信用ならん」


 グレアムはレオンへ向き直った。


「クラウス。俺は駅へ戻る。市警へ届いた予告状も同文だ。鉄道局と新聞社にも届いている。昼前には街じゅうが黄金列車の話をしているぞ」


「昼前では遅いかもしれない」


 ミラベルが、茶のそばへ置いていた手帳を開いた。


「新聞社街では、もう百年前の縮刷版を引っ張り出しています。黄金列車が消えた夜の記事を、一面へ載せ直すつもりです」


「百年前の昔話で、駅前を余計に混乱させるなと伝えろ」


「記者に『書くな』と言えば、見出しが一段大きくなるだけです」


「なら、あんたが先に読め。間違いがあるなら、印刷される前に見つけろ」


「そのつもりです」


 ミラベルは即答した。


 明るい声だったが、その手はすでに取材鞄の留め金へ伸びていた。


「機械王の記事を調べます。黄金列車が最後に確認された時刻と、当時の駅の様子。それから、同じ出来事を複数の新聞がどう書いたかも」


 レオンが視線を上げる。


「同じ事件が、どの版で、いつから事実になったかを見るといい」


「答えではなく、調べ方だけ教えるんですね」


「答えを知っているなら、君はもう取材を終えている」


「はい。そう言うと思いました」


 ミラベルは鞄を肩へ掛けた。レオンの扱い方を、すっかり心得た返事だった。


「私は駅前へ行きます」


 エレノアも立ち上がった。


「昨夜の中央環状駅。それから鉄環鉄道局、ヴェルム=クロウ市警、蒸都新聞社、この事務所。五か所へ同じ文章が届いた。でも、街の人たちが予告状のどこまで知っているかは別でしょう」


「誰かが先に話しているかもしれない、ということですか?」


「ええ。特に十三番線の噂。昨夜、駅で予告状が見つかってから今朝までに、誰が最初に口へ出したのかを追う」


 エレノアは兄を見た。


「鉄道局の記録は、兄さまに任せます」


「任された覚えはない」


「では、何を調べるつもり?」


「黄金列車の資産記録だ。所有名義、資産番号、保存と廃車の履歴」


「同じでしょう」


「君に任されたわけではない」


「結果が同じなら構いません」


 レオンの眉が、ほんのわずかに動いた。


 ミラベルは笑いを隠すように咳をした。


「では、正午。中央環状駅前の時計塔下で、一度合流しましょう。私は調べた新聞名と版、記事が組まれた時刻を持っていきます」


「私は、予告状が広がった順番と、十三番線を先に知っていた人の名前」


 エレノアが続ける。


「僕は資産記録の照合結果だ」


 レオンが言った。


 グレアムは扉へ向かいながら、三人を振り返った。


「俺も正午に時計塔へ顔を出す。封鎖で動けなければ、南口の市警詰所へ伝言を残す。勝手に壁を壊すなよ」


「僕は壊さない」


「おまえの妹に言った」


「私は必要なら開けるだけです」


「それを世間では壊すと言う」


 扉が閉まる直前まで、グレアムの低い声は続いた。


 階段を下りる重い足音が遠ざかる。


 ミラベルもあとへ続こうとしたが、戸口で足を止めた。レオンがまだ、エレノアを見ている。


「どこで」


 エレノアは外套へ伸ばした手を止めた。


「時計塔の下でしょう?」


「合流地点ではない。君が正午までに調べる範囲だ」


「中央環状駅前です。地上側で予告状の伝播経路を追います」


「退出経路は」


 エレノアは返事をせず、自分の鞄から革表紙の手帳を取り出した。


 以前なら、こんな質問をされる前に外へ出ていた。


 行き先を告げれば止められる。だから黙って行く。それが最も早いと考えていた。


 だが、いま彼女の手帳には、調査補助の札が挟まっている。


 それは好きな場所へ入るための免状ではない。


 誰かと同じ事件を追い、必要なら迎えを求める者の札だった。


 エレノアは新しい頁を開き、四本の線を引いた。


 調査範囲――中央環状駅前広場、地上側。


 調査内容――予告状の伝播経路。十三番線の噂の起点。噂へ反応する人物の確認。


 合流予定――正午、駅前時計塔下。


 地上側退出経路――中央環状駅南口。


 書き終えた頁を、レオンに見える角度で机へ置く。


「これでいい?」


「地下は」


 ペン先が、紙の上で止まった。


 エレノアは顔を上げた。


 レオンは彼女ではなく、手帳の空白を見ている。


「正午までは地上の聞き込みよ」


「それ以降は」


「調べたことを持ち寄ってから決めるわ」


 それは、いま決められる範囲では嘘ではなかった。


 駅前で何が見つかるかは、まだ分からない。


 ルヴェール本人を見つけた場合、追うかどうかも決めていない。相手がどこへ入り、周囲に誰がいて、市警察官がどれだけ配置されているかで判断は変わる。


 決めていない行動は、報告できない。


 だが、正午までに判明したことなら報告できる。


 その先へ進むかどうかは、そのとき選べばいい。


「兄さまは私を送り出したいの? 閉じ込めたいの?」


 レオンは、すぐには答えなかった。


「調査員として出るなら、調査員として戻れと言っている」


 その声は静かだった。


 妹を子ども扱いして、ただ危険から遠ざけようとする声ではない。


 だからこそ、エレノアも軽口では返せなかった。


「正午に戻ります」


「予定が変われば」


「合図を残す」


「誰に分かる形で」


「あなたとグレアム警部に」


 レオンは手帳の四行をもう一度見た。それ以上は追及しなかった。


 エレノアは頁を閉じる。


 完全に認められたわけではない。


 完全に止められたわけでもない。


 その中間に置かれた信頼が、妙に重かった。


 足元で、爪が床を擦る音がした。


 ブラムが立ち上がっている。


 黒い犬は机へ近づき、予告状の下で鼻を動かした。紙の端へ触れそうになると、エレノアは便箋を少し持ち上げる。


 ブラムは文字を読まない。


 紙に残ったものを読む。


 一度、短く鼻を鳴らした。


 もう一度、今度は深く息を吸い込む。


 耳がわずかに後ろへ伏せられた。鼻先が便箋から机の縁へ、そこから床へ下がっていく。


「何かあるの?」


 ミラベルが戸口から戻ってきた。


 ブラムの反応を見て、エレノアも膝をつく。首輪の脇へ手を添えると、黒い犬は低く喉を鳴らした。


 嫌がっているのではない。


 知っている匂いを、遠い場所から思い出しているような声だった。


「機械油ね」


 エレノアは予告状へ鼻を近づけた。


 紙とインクの匂いの奥に、重い油の気配がある。工房で新しい歯車へ塗る明るい油ではない。煤と金属粉を何度も吸い、古い機関の隙間へ染み込んだ油。


 さらに、その下。


 雨に濡れた道とは違う、日の差さない煉瓦の湿り気。


「古い機械油と、湿った煉瓦」


 ミラベルが表情を引き締めた。


「地下から届いたということですか?」


「匂いだけで、そこまでは決められないわ。でも、駅の応接室で書かれた手紙ではなさそうね」


「ルヴェール本人が運んだとも限らない」


 レオンが言った。


「紙についた匂いは経路を示す。差出人の居場所を保証はしない」


「分かっています」


 エレノアは答えながら、壁の釘へ掛けてあったブラムの引き綱を取った。


 黒い犬の尾が、一度だけ床を打つ。


「ブラム。駅まで――」


 言い終わる前に、引き綱の金具が止まった。


 レオンが反対側を指で押さえている。


 強くつかんだわけではない。


 それでも、エレノアの手は先へ動かなかった。


「朝の駅前へ連れていけば、拾う匂いが増えすぎる」


「でも、この匂いを知っているわ」


「だから、いま使わない」


 レオンはブラムへ視線を落とした。


「この犬は、一度読んだ匂いを忘れない。正午の合流までに入口の候補が見つかれば、僕が連れていく」


 ブラムなら、地上の群衆から一つの匂いを拾える。


 暗い通路でも、入ってきた道を覚えている。


 だからこそ、見つける前から闇雲に歩かせるのではなく、比べるべき場所へ連れていく。


 エレノアは引き綱から手を離した。


「犬を連れていけば、帰路まで残るのに」


「君の帰路は、犬に預けるものではない」


 その言葉が、引き綱を持った理由まで見抜いていた。


 もし、予定には書いていない場所へ入ることになっても。


 ブラムがいれば戻れる。


 そう考えたことを、兄は見逃していない。


「私にも帰路は残すわ」


 レオンは妹を見た。


「そう願う」


 短い言葉だった。


 命令でも、許可でもない。


 調査員として送り出す者の警戒と、兄として口にできるぎりぎりの願いが、同じ声に入っていた。


 エレノアは外套の襟を整えた。


「では、正午に。時計塔の下で」


「私も古い記事の記録を持っていきます」


 ミラベルが先に階段へ出る。


「兄さまは、遅れないでね」


「合流時刻を書いたのは君だ」


「守れるかどうかとは別でしょう」


「君にだけは言われたくない」


 エレノアは小さく笑い、扉を開けた。


 黒鴉館の階段には、朝の冷たい空気が満ちていた。下階から焼きたてのパンと石炭の匂いが上がり、開いた玄関の向こうを、新聞束を抱えた子どもたちが走っていく。


 まだ正式な号外は出ていない。


 けれど街は、印刷されるより早く事件を嗅ぎつけていた。


 エレノアが通りへ降りる。


 煤霧の先、中央環状駅前の方角から、少年のよく通る声が響いた。


「号外予定! 怪盗紳士ルヴェール、存在しない十三番線へ現る!」


 エレノアの靴が、濡れた煉瓦の上で止まった。


「号外――予定?」


 新聞になる前の噂が。


 もう、彼女を呼んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。