第1節 号外になる前の予告状
朝のヴェルム=クロウは、新聞より先に煤を配る。
黒鴉館二階の窓硝子には、夜明けの薄明かりより早く、煙突群から流れてきた煤霧が貼りついていた。通りでは始発の乗合蒸気車が咳き込み、どこかの工房が圧力弁を開く。濡れた煉瓦を、白い蒸気が低く這っていた。
クラウス探偵事務所の中では、石炭ストーブがまだ本気を出していない。
その前で、ブラムが伏せていた。
雄の黒鋼坑道犬は暖を取っているのではない。前脚のあいだに置かれた白い封筒を、夜通し守っていたらしい。
もっとも、いま封筒は空だった。
中身はすでに、レオンの机を占領している。
エレノア=クラウスは兄の椅子へ腰かけ、白い便箋を朝の光へ透かしていた。
「三度目」
読み終えたミラベルが、机の反対側で言った。
取材鞄を椅子の背へ掛けたまま、湯気の薄い茶を両手で包んでいる。夜明け前に新聞社街から駆けつけたため、栗色の髪にはまだ細かな霧粒が残っていた。
「もう三度、声に出して読みました。文字が増えるわけではありませんよ」
「減っていないか確かめているの」
「怪盗の予告状は、読んでいるうちに文字が減るものなんですか?」
「ルヴェールなら、そのくらいはするわ」
エレノアは便箋を裏返した。
白紙である。
もう一度表へ返す。
流れるような筆跡が、朝の薄明かりの中でも妙に鮮やかだった。
「存在しない十三番線から、
機械王が最後まで手放さなかった黄金列車を頂戴する。
午前零時。
帰路を持たぬ王へ、最後の汽笛を。
L’Ouvere」
署名まで読み上げ、エレノアは便箋を机へ戻した。
「やはり、場所がない」
向かいの長椅子から、紙をめくる音がした。
レオン=クラウスは、妹の結論より、彼女が便箋を置いた位置を見ていた。端を机の木目へ揃えたのを確認してから、手元の小さな帳面へ一本線を引く。
「ある」
「どこに?」
「予告状の一行目に」
「それは読みました」
「なら、書かれている」
エレノアは椅子の背へ身を預けた。
「兄さま。朝早くから言葉遊びをするのは、頭が起きていない人に見えるわ」
「君は朝早くから他人の机と椅子を占領している。起きすぎている人間も似たようなものだ」
「これが届いたのは兄さまの事務所よ。クラウス家宛てではありません」
「つまり、僕の机だ」
「細かい男ね」
「細かいから、探偵をしている」
言い返す余地を残さない口調だった。
エレノアは唇を結び、代わりに便箋を指先で押さえた。
レオンはようやく予告状へ手を伸ばした。ただし持ち上げない。文字列の上を、長い指で順に示す。
「午前零時。予告時刻がある」
指が次の行へ移る。
「存在しない十三番線。場所がある」
さらに戻る。
「機械王の黄金列車。盗む物がある」
「三つ書けば、正しい予告状になるの?」
「少なくとも、予告状として必要な三点を欠かしてはいない」
「でも、十三番線は存在しないのだから、場所が書かれていることにならない」
レオンは、そこで指を止めた。
窓の外を始発列車の警鐘が通っていく。橙色の光が煤霧に滲み、机の上を一瞬だけ明るくした。
「存在しないことと、なかったことは同じではない」
それだけ言って、レオンは手を引いた。
エレノアは待った。
ミラベルも待った。
壁際で腕を組んでいたグレアム警部まで、片方の眉を上げた。
しかしレオンは説明を続けなかった。何事もなかったように帳面を閉じ、冷めた茶へ手を伸ばす。
「……それで?」
エレノアが促した。
「それで、とは」
「十三番線は、あったの?」
「調べるべきことを、僕へ聞くのか」
「知っている顔をしているから聞いているのよ」
「君も知りたい顔をしている」
「顔を読んで答えの代わりにしないで」
「顔は記録より改竄しやすい。答えの代わりにはしない」
エレノアは机の下で靴先を鳴らした。
兄は答えを教えない。
知らないからではない。エレノアがどこまで自分で確かめるかを見ているのだ。
それが腹立たしい。
そして、その程度の挑発に乗せられていると認めるのは、もっと腹立たしかった。
「兄妹の朝稽古なら、俺が出たあとにしろ」
グレアムが壁から背を離した。
頑丈な外套を羽織り直し、太い革帯へ警笛と手錠を確かめる。駅から直接来たらしく、重い編み上げ靴の縁には、灰色の泥が乾かず残っていた。
「中央環状駅じゃ、昨夜から十二番線と十四番線のあいだを見張らせている。始発は別ホームへ回した。昼までには外周通路も閉じる」
「十三番線ではなく?」
エレノアが聞くと、グレアムは鼻を鳴らした。
「存在しないホームを封鎖する命令書は作れん。十二と十四を閉じれば、そのあいだも客は通らん。それで十分だ」
「壁の裏は確認したんですか?」
ミラベルの問いに、グレアムの眉間へ皺が寄った。
「駅の連中は、この下に線路はないと言っている」
「駅員が知らない線路なら、駅員へ聞いても出てきません」
「それを言う男が、この部屋に一人いる」
「二人よ」
エレノアが訂正した。
グレアムは彼女を見た。
「嬢ちゃん。数に入るのは、無事に帰ってきてからだ」
「帰ってきた回数なら、もう十分でしょう」
「危ない場所へ入った回数を実績に数えるな」
グレアムの声は厳しい。だが、以前のように「来るな」「帰れ」とは言わなかった。
エレノアはそれに気づき、少しだけ顎を上げた。
「怪盗の顔を見つけたら、今度こそ笛を吹きます」
「笛を吹いてから追え。順序を逆にするな」
「状況によります」
「その返事がいちばん信用ならん」
グレアムはレオンへ向き直った。
「クラウス。俺は駅へ戻る。市警へ届いた予告状も同文だ。鉄道局と新聞社にも届いている。昼前には街じゅうが黄金列車の話をしているぞ」
「昼前では遅いかもしれない」
ミラベルが、茶のそばへ置いていた手帳を開いた。
「新聞社街では、もう百年前の縮刷版を引っ張り出しています。黄金列車が消えた夜の記事を、一面へ載せ直すつもりです」
「百年前の昔話で、駅前を余計に混乱させるなと伝えろ」
「記者に『書くな』と言えば、見出しが一段大きくなるだけです」
「なら、あんたが先に読め。間違いがあるなら、印刷される前に見つけろ」
「そのつもりです」
ミラベルは即答した。
明るい声だったが、その手はすでに取材鞄の留め金へ伸びていた。
「機械王の記事を調べます。黄金列車が最後に確認された時刻と、当時の駅の様子。それから、同じ出来事を複数の新聞がどう書いたかも」
レオンが視線を上げる。
「同じ事件が、どの版で、いつから事実になったかを見るといい」
「答えではなく、調べ方だけ教えるんですね」
「答えを知っているなら、君はもう取材を終えている」
「はい。そう言うと思いました」
ミラベルは鞄を肩へ掛けた。レオンの扱い方を、すっかり心得た返事だった。
「私は駅前へ行きます」
エレノアも立ち上がった。
「昨夜の中央環状駅。それから鉄環鉄道局、ヴェルム=クロウ市警、蒸都新聞社、この事務所。五か所へ同じ文章が届いた。でも、街の人たちが予告状のどこまで知っているかは別でしょう」
「誰かが先に話しているかもしれない、ということですか?」
「ええ。特に十三番線の噂。昨夜、駅で予告状が見つかってから今朝までに、誰が最初に口へ出したのかを追う」
エレノアは兄を見た。
「鉄道局の記録は、兄さまに任せます」
「任された覚えはない」
「では、何を調べるつもり?」
「黄金列車の資産記録だ。所有名義、資産番号、保存と廃車の履歴」
「同じでしょう」
「君に任されたわけではない」
「結果が同じなら構いません」
レオンの眉が、ほんのわずかに動いた。
ミラベルは笑いを隠すように咳をした。
「では、正午。中央環状駅前の時計塔下で、一度合流しましょう。私は調べた新聞名と版、記事が組まれた時刻を持っていきます」
「私は、予告状が広がった順番と、十三番線を先に知っていた人の名前」
エレノアが続ける。
「僕は資産記録の照合結果だ」
レオンが言った。
グレアムは扉へ向かいながら、三人を振り返った。
「俺も正午に時計塔へ顔を出す。封鎖で動けなければ、南口の市警詰所へ伝言を残す。勝手に壁を壊すなよ」
「僕は壊さない」
「おまえの妹に言った」
「私は必要なら開けるだけです」
「それを世間では壊すと言う」
扉が閉まる直前まで、グレアムの低い声は続いた。
階段を下りる重い足音が遠ざかる。
ミラベルもあとへ続こうとしたが、戸口で足を止めた。レオンがまだ、エレノアを見ている。
「どこで」
エレノアは外套へ伸ばした手を止めた。
「時計塔の下でしょう?」
「合流地点ではない。君が正午までに調べる範囲だ」
「中央環状駅前です。地上側で予告状の伝播経路を追います」
「退出経路は」
エレノアは返事をせず、自分の鞄から革表紙の手帳を取り出した。
以前なら、こんな質問をされる前に外へ出ていた。
行き先を告げれば止められる。だから黙って行く。それが最も早いと考えていた。
だが、いま彼女の手帳には、調査補助の札が挟まっている。
それは好きな場所へ入るための免状ではない。
誰かと同じ事件を追い、必要なら迎えを求める者の札だった。
エレノアは新しい頁を開き、四本の線を引いた。
調査範囲――中央環状駅前広場、地上側。
調査内容――予告状の伝播経路。十三番線の噂の起点。噂へ反応する人物の確認。
合流予定――正午、駅前時計塔下。
地上側退出経路――中央環状駅南口。
書き終えた頁を、レオンに見える角度で机へ置く。
「これでいい?」
「地下は」
ペン先が、紙の上で止まった。
エレノアは顔を上げた。
レオンは彼女ではなく、手帳の空白を見ている。
「正午までは地上の聞き込みよ」
「それ以降は」
「調べたことを持ち寄ってから決めるわ」
それは、いま決められる範囲では嘘ではなかった。
駅前で何が見つかるかは、まだ分からない。
ルヴェール本人を見つけた場合、追うかどうかも決めていない。相手がどこへ入り、周囲に誰がいて、市警察官がどれだけ配置されているかで判断は変わる。
決めていない行動は、報告できない。
だが、正午までに判明したことなら報告できる。
その先へ進むかどうかは、そのとき選べばいい。
「兄さまは私を送り出したいの? 閉じ込めたいの?」
レオンは、すぐには答えなかった。
「調査員として出るなら、調査員として戻れと言っている」
その声は静かだった。
妹を子ども扱いして、ただ危険から遠ざけようとする声ではない。
だからこそ、エレノアも軽口では返せなかった。
「正午に戻ります」
「予定が変われば」
「合図を残す」
「誰に分かる形で」
「あなたとグレアム警部に」
レオンは手帳の四行をもう一度見た。それ以上は追及しなかった。
エレノアは頁を閉じる。
完全に認められたわけではない。
完全に止められたわけでもない。
その中間に置かれた信頼が、妙に重かった。
足元で、爪が床を擦る音がした。
ブラムが立ち上がっている。
黒い犬は机へ近づき、予告状の下で鼻を動かした。紙の端へ触れそうになると、エレノアは便箋を少し持ち上げる。
ブラムは文字を読まない。
紙に残ったものを読む。
一度、短く鼻を鳴らした。
もう一度、今度は深く息を吸い込む。
耳がわずかに後ろへ伏せられた。鼻先が便箋から机の縁へ、そこから床へ下がっていく。
「何かあるの?」
ミラベルが戸口から戻ってきた。
ブラムの反応を見て、エレノアも膝をつく。首輪の脇へ手を添えると、黒い犬は低く喉を鳴らした。
嫌がっているのではない。
知っている匂いを、遠い場所から思い出しているような声だった。
「機械油ね」
エレノアは予告状へ鼻を近づけた。
紙とインクの匂いの奥に、重い油の気配がある。工房で新しい歯車へ塗る明るい油ではない。煤と金属粉を何度も吸い、古い機関の隙間へ染み込んだ油。
さらに、その下。
雨に濡れた道とは違う、日の差さない煉瓦の湿り気。
「古い機械油と、湿った煉瓦」
ミラベルが表情を引き締めた。
「地下から届いたということですか?」
「匂いだけで、そこまでは決められないわ。でも、駅の応接室で書かれた手紙ではなさそうね」
「ルヴェール本人が運んだとも限らない」
レオンが言った。
「紙についた匂いは経路を示す。差出人の居場所を保証はしない」
「分かっています」
エレノアは答えながら、壁の釘へ掛けてあったブラムの引き綱を取った。
黒い犬の尾が、一度だけ床を打つ。
「ブラム。駅まで――」
言い終わる前に、引き綱の金具が止まった。
レオンが反対側を指で押さえている。
強くつかんだわけではない。
それでも、エレノアの手は先へ動かなかった。
「朝の駅前へ連れていけば、拾う匂いが増えすぎる」
「でも、この匂いを知っているわ」
「だから、いま使わない」
レオンはブラムへ視線を落とした。
「この犬は、一度読んだ匂いを忘れない。正午の合流までに入口の候補が見つかれば、僕が連れていく」
ブラムなら、地上の群衆から一つの匂いを拾える。
暗い通路でも、入ってきた道を覚えている。
だからこそ、見つける前から闇雲に歩かせるのではなく、比べるべき場所へ連れていく。
エレノアは引き綱から手を離した。
「犬を連れていけば、帰路まで残るのに」
「君の帰路は、犬に預けるものではない」
その言葉が、引き綱を持った理由まで見抜いていた。
もし、予定には書いていない場所へ入ることになっても。
ブラムがいれば戻れる。
そう考えたことを、兄は見逃していない。
「私にも帰路は残すわ」
レオンは妹を見た。
「そう願う」
短い言葉だった。
命令でも、許可でもない。
調査員として送り出す者の警戒と、兄として口にできるぎりぎりの願いが、同じ声に入っていた。
エレノアは外套の襟を整えた。
「では、正午に。時計塔の下で」
「私も古い記事の記録を持っていきます」
ミラベルが先に階段へ出る。
「兄さまは、遅れないでね」
「合流時刻を書いたのは君だ」
「守れるかどうかとは別でしょう」
「君にだけは言われたくない」
エレノアは小さく笑い、扉を開けた。
黒鴉館の階段には、朝の冷たい空気が満ちていた。下階から焼きたてのパンと石炭の匂いが上がり、開いた玄関の向こうを、新聞束を抱えた子どもたちが走っていく。
まだ正式な号外は出ていない。
けれど街は、印刷されるより早く事件を嗅ぎつけていた。
エレノアが通りへ降りる。
煤霧の先、中央環状駅前の方角から、少年のよく通る声が響いた。
「号外予定! 怪盗紳士ルヴェール、存在しない十三番線へ現る!」
エレノアの靴が、濡れた煉瓦の上で止まった。
「号外――予定?」
新聞になる前の噂が。
もう、彼女を呼んでいた。




