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序幕 存在しない十三番線

挿絵(By みてみん)

 ヴェルム=クロウ中央環状駅から、最後の列車が出ていった。


 鉄輪が遠ざかるにつれ、巨大な硝子天蓋の下へ静けさが戻ってくる。煤霧を吸った夜気が、閉じかけた鉄扉の隙間から細く流れ込み、消灯された切符売場を這った。


 駅員たちは改札鎖を掛け、忘れ物を集め、明朝最初の運行表を確認している。


 その広い駅舎の端で、ひとりの清掃員が十二番線の床を磨いていた。


 長い箒で、切符の半券と靴底から落ちた泥を掃き寄せる。床へこびりついた機械油を布で拭い、次の柱へ移ろうとして。


 清掃員は、手を止めた。


 十二番線と十四番線の間には、横に長い広告板が立っていた。


 時刻表にも、駅内案内図にも、そのあいだの番号はない。


 十二の次は十四。


 開業百周年を記念する広告の女優が、歯車飾りのついた帽子をかぶり、壁いっぱいに微笑んでいる。


 その広告板の継ぎ目から、白いものが覗いていた。


「また、子どもの悪戯かね」


 清掃員は箒を壁へ立てかけ、指先で白いものをつまんだ。


 紙だった。


 一枚の紙を細く折り重ね、羽軸と羽弁まで作り込んだ、小さな羽根。


 ただ丸めて差し込んだものではない。広告板と壁の、針ほどしかない隙間へ、羽軸だけが正確に挟まっている。


 清掃員は目を細めた。


「ずいぶん器用な鳥が、駅に巣を作ったものだよ」


「何かありましたか」


 巡回中の若い駅員が、手提げ灯を揺らして近づいてきた。


「落とし物さ。飛べない鳥のね」


 清掃員が、紙羽根を引き抜いた。


 その瞬間。


 広告板の奥で、汽笛が鳴った。


 低く。


 長く。


 幾重もの煉瓦と鉄骨を隔て、地の底から届いたような音だった。


 二人は動かなかった。


 汽笛の余韻だけが、空になった駅舎を渡っていく。


 若い駅員が手提げ灯を上げた。


「いまのは……」


「聞こえなかったと言うなら、明日の床磨きを代わってもらうよ」


「聞こえました」


 駅員は広告板へ近づき、耳を当てた。


 もう、何も聞こえない。


 拳で二度叩く。


 返ってきたのは、厚い壁の鈍い音だけだった。


「おかしい」


「そりゃ、壁が汽笛を鳴らせばおかしいだろうさ」


「そうではなくて――」


 若い駅員は、広告板の下を覗き込んだ。


 壁際には、清掃用の水桶が置かれていた。


 灰色に濁った水面へ、細い波紋が走っている。


 端から端へ。


 等間隔に。


 見えない何かが、壁の向こうを通過しているように。


 駅員の顔から血の気が引いた。


 駆け寄ってきた夜間責任者が、二人の間へ割って入る。鍵束を鳴らし、壁と水桶を交互に確かめた。


「何があった」


「汽笛です。壁の向こうから」


「十二番線の列車を聞き違えたんだろう」


「最終列車は、もう出たよ」


 清掃員が言った。


「それに、音はそっちじゃない。壁の奥だ」


 夜間責任者は広告板へ手をつき、低い声で断言した。


「この下に線路はない」


 清掃員は、水桶を指した。


「線路がないところを列車が走ったのなら、もっと困るんじゃないかい」


「古い蒸気管だ。圧が抜けた音を、汽笛と聞き違えた」


「蒸気管は、水にこんな波を作るのかね」


 答えはなかった。


 最後の波紋が桶の縁へ触れ、消えた。


 若い駅員は、清掃員が持つ白い紙羽根を見た。


「それを抜いた直後でした」


 三人の視線が、紙羽根へ集まる。


 清掃員は羽軸へ爪を掛けた。折り目に沿って開いていくと、羽根は一枚の便箋へ戻った。


 内側に、流れるような筆跡が並んでいる。


「読むな」


 夜間責任者が言った。


「もう開いたよ」


「そういう意味ではない」


「じゃあ、あんたが読みな」


 押しつけられた便箋を、夜間責任者は受け取った。


 最初の一行を見たところで、眉間の皺が深くなる。


「存在しない十三番線から――」


 若い駅員が息を呑んだ。


 清掃員は、十二番線の柱を見た。


 それから、少し離れた十四番線の柱を。


「十三番線なら、ないはずだろう」


「だから、存在しないと書いてある」


「ずいぶん正直な予告状だね」


 夜間責任者は返事をせず、その先を読んだ。


 機械王が最後まで手放さなかった、黄金列車。


 その言葉だけは、三人とも知っていた。


 百年前。


 煤と歯車の時代を築いた機関設計者、アルド=ケッセル。


 百の機関を従えたことから《機械王》と呼ばれたドワーフが、最後まで誰にも譲らなかったという黄金の列車。


 車体はすべて純金でできていた。


 機械王の財宝を積んでいた。


 王冠に似た、二度と作れない機関を備えていた。


 語る者によって姿を変えながら、黄金列車は百年前の午前零時、中央環状駅から忽然と消えたと伝えられている。


 廃車になったとも。


 解体されたとも。


 存在そのものが新聞の作り話だったとも。


「昔話だ」


 夜間責任者は言った。


「黄金列車は百年前に消えた」


 清掃員が鼻を鳴らす。


「消えた列車なら、壁の奥を走っても不思議じゃないね」


 同じころ。


 鉄環鉄道局では、夜間受付の閉じた窓口へ、白い封筒が一通置かれていた。誰が持ち込んだのか、受付係は見ていない。封蝋の代わりに挟まれた紙羽根を見た上役は、封筒を開く前に命じた。


「当直記録へ残せ。悪戯なら記録に残せ。怪盗なら、なおさらだ」


 開かれた便箋の最初の一行にも、《存在しない十三番線から》とあった。


 蒸都新聞社街では、翌朝の紙面を組んでいた植字工の活字箱へ、いつの間にか白い紙羽根が刺さっていた。文面を読んだ夜番の記者は、組み上がった一面へ赤鉛筆で太い線を引く。


「一段、空けろ。《機械王》《黄金列車》《午前零時》だ。版を閉じるのは、そのあとだ」


 百年間、同じ記事の中でしか並ばなかった言葉が、再び明朝の紙面へ戻されていく。


 ヴェルム=クロウ市警の宿直室でも、白い予告状を市警察官たちが囲んでいた。


「中央環状駅へ確認を」


「怪盗に命じられて動くのか」


「違います。駅に異常があるか、こちらの理由で確かめます」


 短いやり取りのあと、外套と警笛をつかむ音が続いた。鉄扉が開き、複数の靴音が煤霧の夜へ駆け出していく。


 黒鴉館二階。


 灯りの消えたクラウス探偵事務所では、扉の郵便口がひとりでに持ち上がった。


 白い封筒が、床を滑る。


 机の脇で眠っていた黒鋼坑道犬が頭を上げた。


 ブラムは扉を見た。


 低く一度だけ鼻を鳴らし、封筒へ近づく。紙へ鼻先を寄せると、古い機械油と湿った煉瓦の匂いがした。


 白い紙羽根には触れず、その前へ伏せる。


 誰かが戻るまで、そこを動くつもりはないらしかった。


 中央環状駅を含む五つの場所へ届いた予告状には、一字一句、同じ文面が記されていた。


「存在しない十三番線から、

 機械王が最後まで手放さなかった黄金列車を頂戴する。


> 午前零時。

> 帰路を持たぬ王へ、最後の汽笛を。

>

>                L’Ouvere」


 中央環状駅。


 夜間責任者は署名を見つめたまま、長いあいだ口を開かなかった。


 若い駅員が、乾いた唇を舐める。


「ルヴェール……」


「市警へ連絡しろ。十二番線と十四番線を閉鎖する」


「壁の向こうも調べますか」


「壁の向こうには何もない」


 言い切った声は、先ほどより低かった。


 清掃員は箒を取り上げたが、仕事へ戻ろうとはしなかった。


「何もない場所を、どうやって調べるんだい」


 夜間責任者は答えなかった。


 広告板の奥には、初期鉄道時代の信号灯が残されていた。


 配線は百年前に切断されている。


 信号器は固着し、灯油槽も空になっているはずだった。


 誰も触れていない。


 誰も、そこに灯りが残っているとは知らない。


 それでも。


 広告板の継ぎ目から、細い光が漏れた。


 煤けた床を、重い金色がひと筋だけ横切る。


 三人が振り返ったとき。


 百年間動いていないはずの信号灯が、一度だけ金色に点った。

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