第5話 生還と、姉の眠る病室。裏で爆発する同時接続数
大宮の空が、夜の深い藍色から、夜明けの淡いオレンジ色へとゆっくりと染まり始めていた。
水彩画の絵の具が滲むように混ざり合う東の空を背に、太田佑は人気のない早朝の公園の水道で、顔と腕にこびりついた血と泥を洗い流していた。
蛇口から流れ出る冷たい水が、熱を持った肉体を現実へと引き戻していく。
折れた肋骨の痛みは、前世から引き継いだ強靭な精神力と、レベルアップによる基礎ステータスの向上のおかげか、呼吸を乱すほどの激痛からは脱していた。
「……ふむ。やはり、あの異形の犬や豚どもを狩ったことで、肉体の器そのものが底上げされているようだな」
佑は濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、自身の内側で静かに脈打つ力の奔流を確認する。
足元の影には、主の無事を見届けて安堵したのか、小さな管狐が丸くなって眠りについていた。
昨晩の激戦で魔石を大量に喰わせた結果、管狐の毛並みはより一層の黄金色に輝き、微かにだが二本目の尾の幻影が揺らめいている。
「よくやったぞ。ゆっくり休め」
佑が影に向かって労いの言葉をかけると、管狐は嬉しそうに「チィ……」と鳴き、完全に影の奥底へと溶け込んでいった。
血の匂いを完全に落とし、破れた上着をリュックの奥底に隠す。
そして、鏡の前で表情筋を緩め、戦場の鬼の顔から、いつもの「気弱で冴えない底辺テイマー」の顔へと完璧に切り替えた。
(さて。まずは姉ちゃんに顔を見せねばな。……心配をかけるわけにはいかん)
佑は重い足取りを演じながら、大宮駅からほど近い、探索者専用の総合病院へと歩みを進めた。
*
早朝の病院は、ダンジョンの血生臭さとは無縁の、消毒液の冷たい匂いに包まれていた。
静まり返った廊下を歩き、佑は慣れた手つきで重症患者用の特別病棟の一室、そのスライドドアをそっと開ける。
窓から差し込む朝陽に照らされたベッドの上。
そこに、かつてトップ探索者として名を馳せた佑の姉、太田凛が、枯れ木のように痩せ細った体で横たわっていた。
「……佑? こんな朝早くに、どうしたの……?」
ドアの音に気づいたのか、凛が薄く目を開け、掠れた声で弟の名を呼ぶ。
その首筋から鎖骨にかけて、まるで茨のタトゥーのような赤黒い痣が、脈打つように這い回っていた。
大宮ダンジョン深層に潜む未知の西洋モンスターから受けた、生命力を削り取る悍ましい『呪い』の痕跡だ。
「姉ちゃん、おはよう。……ごめん、起こしちゃった?」
佑は慌てたようにオドオドとした笑みを浮かべ、ベッドの傍らに設置された丸椅子に腰を下ろした。
痛む脇腹を悟られないよう、極めて自然な動作で背中を丸める。
「ううん……。それより、佑、顔色が悪いわよ。また、無理なポーターの仕事を引き受けたんじゃないの……?」
「そ、そんなことないよ! 昨日はちょっと荷物が重くて、転んじゃっただけ。ほら、かすり傷一つないでしょ?」
佑は両腕を広げて見せ、へらへらと笑う。
凛は痛ましげに目を細め、点滴の管に繋がれた細い手を伸ばし、佑の頬にそっと触れた。
氷のように冷たい姉の手の感触に、佑の胸の奥で、戦国武将としての激しい怒りと殺意が、呪いをかけた未知の存在へ向けて静かに燃え上がった。
「ごめんね……。私がこんな体にならなければ、佑にこんな苦労、させずに済んだのに……」
「姉ちゃんは悪くない! 絶対、僕が呪いを解く方法を見つけるから。だから、そんな顔しないで……」
佑は姉の冷たい手を両手で包み込み、泣きそうな顔で首を振った。
それは演技ではない、弟としての純粋な本心だった。
(……待っていてくれ、姉上。必ずや特級の魔石を手に入れ、この忌々しい呪いを浄化してみせる。あの西洋の化物どもを、一匹残らずこの俺がすり潰してでもな)
表向きは気弱な弟として涙ぐみながら、佑の内心には、小田原の堅陣を睨みつけた時のような、底知れぬ将の執念が渦巻いていた。
凛が再び薬の副作用で浅い眠りに落ちるのを見届けると、佑はそっと病室を後にした。
ドアを閉めた瞬間、彼の顔から一切の感情が抜け落ち、氷のように冷徹な猛禽の瞳が復活する。
「……時間が惜しい。稼いだ低級魔石を換金し、次なる戦の準備をせねばな」
佑は呟き、病院のエントランスへと向かった。
彼自身は全く気づいていなかったが、この時すでに、彼を取り巻く世界は、昨晩の生配信を境に完全に狂い始めていたのである。
*
『おい、お前ら昨日の深夜の【大宮ダンジョン地獄絵図】の配信見たか!?』
『見た見た! つーか今朝のニュースでも切り抜き動画が流れてたぞ!』
『あの荷物持ちの太田佑ってヤツ、完全に頭おかしいだろ!』
『まとめ動画上がってたから見たけど、あいつ泣き叫びながらハウンドの急所百発百中でぶち抜いてたぞ……』
ネット上の巨大匿名掲示板や、動画配信サイトのトレンドは、一人の無名なテイマーの話題で完全に占拠されていた。
『#太田ニキ』『#泣き虫の処刑人』というハッシュタグが瞬く間に世界を駆け巡り、昨晩のアーカイブ動画は、すでに数千万回という異常な再生数を叩き出している。
『俺、元傭兵でナイフ格闘の教官やってたんだけど、あの太田って少年の動き、完全に人間の構造を理解しきった『暗殺術』のそれだわ。恐怖で暴れてるように見せて、攻撃の軌道に一切の無駄がない』
『プロが解説キター!』
『でもアイツ、魔法一切使ってなくね? テイマーなのに光る狐一匹しか出してないし』
『逆にそれがヤバい。あの狐の目眩ましと、地形の利用だけで、Bランクのライカンとオークの群れをハメ殺してるんだぞ?』
『落石トラップも偶然じゃないらしいな。有志がスロー再生で検証したら、岩盤の脆い部分にピンポイントで狐を突撃させて崩落を誘発してる』
『サイコパスすぎワロタwww 完全に『狩り』を楽しんでるだろアイツ!』
『でも最後、ポータルに着いた時、へたり込んでマジ泣きしてたぜ?』
『だからそれが名演技なんだよ! 俺たちは一生、太田ニキの掌の上で転がされるんだ!』
視聴者たちは、佑の演じる「気弱な青年」という建前と、隠しきれない「圧倒的な殺戮の才能」という本音のギャップに、完全に脳を焼かれていた。
彼らは佑の行動の一つ一つに深読みを重ね、勝手にオカルト的なカリスマ性を付与していく。
力押しで魔法をぶっ放すだけのエリート探索者たちの動画はすっかり色褪せ、泥臭く、陰湿で、しかし徹底的に合理的な「太田佑のハメ殺し」こそが、新たなエンターテインメントの頂点として君臨しようとしていた。
さらには、有名ギルドのトップ探索者たちまでもがSNSで反応を示し始める。
『(有名S級エクスプローラーの投稿)
大宮のルーキーの動画を拝見した。魔法を使わずにあの立ち回り……。彼が意図的にやっているとすれば、我々の常識は根底から覆るかもしれない。一度、お手合わせ願いたいものだ』
無自覚なままに垂れ流された惨劇の記録は、一夜にして太田佑という青年を、世界で最も注目される「怪物」へと押し上げていた。
*
「ふぅ……。外はすっかり明るいな」
病院の自動ドアを抜け、眩しい朝陽に目を細める佑。
まずは換金所へ向かおうと歩き出したその時だった。
キキィィィッ!
けたたましいブレーキ音と共に、三台の黒塗りの大型SUVが、佑を取り囲むようにして病院のエントランス前に急停車した。
周囲を歩いていた一般の探索者たちが、何事かと驚き道をあける。
ドアが開き、中から屈強な体格をした黒スーツの男たちが次々と降りてきた。
彼らの胸元には、関東探索者ギルド本部の『特務部隊』を示す銀色のエンブレムが光っている。
完全に逃げ道を塞がれた形となった佑は、即座に肩をビクッと跳ねさせ、怯えた青年の仮面を被った。
「ひっ……!? な、なんですか……? 僕、何も悪いことしてませんよ!?」
両手を顔の前に掲げ、後ずさりする佑。
だが、男たちは無言のまま動かない。やがて、中央のSUVの後部座席のドアがゆっくりと開き、一人の女性が姿を現した。
「ふふっ……あはははっ! 素晴らしいわ。画面越しで見るより、ずっと怯えた演技が板についてるじゃない」
タイトなスーツの上に、皺だらけの白衣を乱雑に羽織った女性。
目の下には深いクマがあり、ボサボサの髪を鉛筆で纏めたその風貌は、どう見ても重度のワーカホリックか、マッドサイエンティストだ。
彼女はギルドのトップ層のみが持つ特別通行証を首から下げ、血走った熱い瞳で、獲物を品定めするように佑を舐め回した。
「は、初めまして……ですよね? あの、人違いじゃ……」
「人違いなわけないでしょう? 一晩中、あなたの美しすぎる『殺戮』の記録に釘付けだったんだから」
女性はヒールを鳴らして佑の目の前まで歩み寄ると、その顔を覗き込むようにしてニィッと妖艶に笑った。
「関東探索者ギルド本部、特別研究室所属。……やっと見つけたわよ、太田佑くん。あなたのその異常な物理演算と、未知の使役獣について、たっぷりと『解剖』させてもらうわ」
圧倒的なプレッシャーと、狂気を孕んだ熱視線。
周囲の黒服たちがジリジリと間合いを詰める中、佑は震える声で「ひぃっ」と悲鳴を上げた。
しかし。
腕で顔を隠したその奥で。佑の双眸は、一切の恐怖を感じてなどいなかった。
(……ほう。ただの捕縛ではない。この女の目、純粋な『知への渇望』だ。ギルドの特務を私兵のように動かせる地位。……使えるな)
盤面を俯瞰するタヌキ親父の如き冷徹な計算が、佑の脳内で瞬時に弾き出される。
これは危機ではない。最速で大宮ダンジョン深層へ至るための、最強の『手駒』が向こうから歩いてきたのだ。
「す、助けてぇ……! 誰かぁ……!」
表面上は情けなく助けを求めながら、佑の口角は、白衣の女にすら見えない角度で、三日月型に深く、深く吊り上がっていた。




