第23話 噂の広まり。他ギルドからの引き抜き工作を飄々と躱す
大宮ダンジョン第七階層における『イレギュラー二体同時討伐』と『深層ボスの幻影粉砕』。
その信じがたい光景を全世界へ生配信してしまった翌朝。
日本のインターネットは、もはや制御不能な熱狂の嵐に呑み込まれていた。
『【悲報】ワイらの太田ニキ、ついに物理法則を置き去りにする』
『スロー再生で検証した結果、あのキツネがAランク二体の攻撃軌道をズラして同士討ちさせてる事が判明。ヤバすぎワロタ』
『それより最後だよ! 空間の亀裂をペティナイフ一突きで破壊するとか、どんなチートだよ!』
『「見えない守護霊」説、ついに海外の探索者フォーラムでもガチ議論され始める』
『あの狐面、絶対に国家機密レベルのアーティファクトだろ……』
『で、結局あの泣き虫テイマーは何者なんだよ!? ギルドは情報を隠蔽してるぞ!』
名もなき底辺テイマーが起こした奇跡は、瞬く間にSNSのトレンドを独占し、大手ニュース番組ですら「謎の狐面探索者、現る」と大々的に報じる事態となっていた。
エリート探索者たちが何十人も束になってようやく倒せるような化け物を、たった一人で、しかも魔法を一切使わずに「すってんころりん」と転んだだけで解体してしまう。
その異常な強さと、臆病すぎるキャラクターの凄まじいギャップが、大衆の脳髄を完全に焼き切ってしまったのだ。
*
そんな喧騒を余所に、太田佑はいつもと変わらぬ薄汚れたポーターの服装で、関東探索者ギルド本部へと向かう裏路地を歩いていた。
気持ちの良い淡い青空が広がる、穏やかな朝。
だが、戦国の世を生き抜いた妖将の勘は、背後から付き纏う『無骨な殺気』をとうの昔に察知していた。
「(……朝からご苦労なことだ。昨晩の配信を見て、血相を変えて飛んできたハエどもか)」
佑は足取りを変えず、あえて路地裏のさらに人通りの少ない袋小路へと歩みを進めた。
すると、前方の路地を塞ぐように、一台の漆黒の高級車が音もなく滑り込んできた。
同時に、背後の退路を三人の屈強なスーツ姿の男たちが塞ぐ。
「――おやおや。こんなところで奇遇ですね、太田佑くん」
高級車の後部座席から降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着こなし、傲慢な笑みを浮かべたオールバックの男だった。
その胸元には、関東最大のライバル組織である『東京中央ギルド』の幹部バッジが光っている。
「ひ、ひぃっ……! な、なんですか、あなたたち……! ぼ、僕、何も悪いことしてませんよぉっ!」
佑は大仰に肩をビクッと跳ねさせ、両手で頭を抱えるようにして壁際に縮こまった。
「ハハハ、怯えなくてもいい。私は東京中央ギルドのスカウト部長、桐生だ。……君の昨晩の『素晴らしいショー』を見させてもらってね。ぜひ我がギルドに迎え入れたいと、直接足を運んだ次第だよ」
桐生はそう言うと、懐から分厚い小切手帳を取り出した。
「君が妹さん……いや、お姉さんだったかな? 彼女の呪いの治療費で苦労していることは調査済みだ。我がギルドと専属契約を結べば、契約金として即座に『十億円』を用意しよう。さらに、国内最高の医療チームも手配する」
「じゅ、じゅうおく……!?」
佑は目を丸くして、信じられないものを見るような声を上げた。
だが、その心の中では、北風よりも冷たい嘲笑が渦巻いている。
「(……金と医療で恩を売り、囲い込む。調略の基本ではあるが、いささか下策すぎるな。こちらの急所を握ったつもりだろうが、俺の目的は金ではなく、深層ボスの『特級魔石』そのもの。他人に姉ちゃんの命を預ける気など、毛頭ない)」
佑がオドオドと視線を泳がせていると、桐生は一転して、その顔に冷酷な脅しの色を浮かべた。
「……だが、もしこの誘いを断るというのなら、少しばかり『不幸な事故』が起きるかもしれないね」
「じ、事故……?」
「ああ。ダンジョンというのは恐ろしい場所だ。いつ、どこのギルドの探索者が『誤射』をしてくるか分からない。……それに、病院のセキュリティというのも、案外脆いものでね。呪いで苦しむお姉さんの病室に、もし不審者が入り込んだら……」
桐生が口角を歪めた、その瞬間だった。
「(――愚か者が。戦場において、家族を盾に脅しをかけるのは三流のやることだ。それは相手を屈服させるのではなく、相手の『殺意』のリミッターを外す行為に他ならない)」
佑は怯えてガタガタと震えながら、ゆっくりと桐生に向かって一歩、足を踏み出した。
「あ、あの……。ぼ、僕、そういう難しい話はよく分からなくて……」
「おい、近寄るな。答えだけ言え」
桐生が顔をしかめ、スーツの男たちが佑を制止しようと手を伸ばした。
しかし。
「――っ!?」
桐生の喉元から、ヒュッと息を呑む音が漏れた。
彼が佑を威圧しようと一歩前に出た瞬間、首の皮膚に、信じられないほど冷たく、そして鋭利な『何か』が触れたのだ。
目には見えない。だが、確かにそこにある。
強靭なワイヤーよりも細く、剃刀よりも鋭い『不可視の糸』が、桐生の頸動脈にミリ単位の隙間もなくピタリと巻き付いていた。
「(……土蜘蛛。その首の皮一枚、決して傷つけるな。だが、動けば肉を断つという恐怖だけを、脳髄に刻み込んでやれ)」
佑の影から密かに射出された土蜘蛛の粘糸が、空間にピンと張り詰めている。
桐生が喉仏を動かしただけで、皮膚が微かに切れ、ツーッと一筋の血がワイシャツの襟を汚した。
「な……!? なんだ、これ……は……!?」
桐生は完全に硬直した。
声を出せば首が飛ぶ。動けば頸動脈が裂ける。
圧倒的な死の恐怖が、彼の傲慢な心臓を鷲掴みにし、全身から滝のような冷や汗が吹き出した。
「あ、あわわわっ! 桐生さん、どうしたんですか!? 急に汗かいて……! だ、大丈夫ですか!?」
佑は心底心配そうな、気弱な青年の顔のまま、桐生の顔を覗き込んだ。
その瞳の奥だけが、深淵のように黒く、そして恐ろしいほど冷たく笑っている。
「ぼ、僕、本当にただの底辺テイマーで……契約とか、そういうのはギルドの受付のお姉さんに全部任せてるんです。だから……ごめんなさい。僕の家族のことは、僕が自分でなんとかしますから……」
佑が震える手で桐生の肩にポン、と触れた瞬間。
首に巻き付いていた不可視の恐怖が、幻のようにフッと消え去った。
「ヒューッ……! ハァッ、ハァッ……!!」
桐生はその場に崩れ落ち、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
周囲の部下たちは、自分たちのボスがなぜ突然倒れたのか全く理解できず、狼狽えている。
「な、なんだお前……! 今、何を……!」
桐生が血走った目で佑を睨みつけた、まさにその時。
「――そこまでよ、東京中央のコソ泥さんたち。他所のギルドのシマで、随分と下品な真似をしてくれるじゃない」
カツン、カツンと。
路地裏にヒールを鳴らして現れたのは、白衣を羽織り、妖艶で狂気的な笑みを浮かべた雨宮結衣だった。
彼女の背後には、関東ギルドの重武装した特務部隊が数名控えている。
「あ、雨宮さん……!」
「佑くん、怪我はない? ……まったく、私が少し目を離した隙に、こんな有象無象に絡まれるなんて」
雨宮は佑を背後にかばうように立つと、冷酷な視線を桐生へと向けた。
「彼は現在、関東ギルド特別研究室の『最重要保護対象』よ。これ以上の接触を図るなら、東京中央ギルド全体への宣戦布告と見なすわ。……さあ、その首と会社が物理的に吹き飛ぶ前に、とっとと消えなさい」
雨宮の言葉と、先ほどの『不可視の刃』の恐怖。
桐生は顔面を蒼白に引きつらせると、捨て台詞一つ残すこともできず、部下たちと共に高級車へと逃げ込み、逃げるように路地裏から走り去っていった。
「……ふぅ。ありがとう、雨宮さん。助かりました」
「いいのよ。私の最高の検体に、他所の薄汚い手垢をつけられるわけにはいかないもの」
雨宮は妖しく微笑み、佑の耳元へと顔を寄せた。
「でも、佑くん。あなた、今あいつの首に『土蜘蛛』の糸を巻き付けてたわね? ドローンがなくても、私の魔力波長センサーにはバッチリ映ってたわよ。……あやうく、ここで首なし死体を作るところだったんじゃない?」
「……ただの脅しだ。街中で血を流せば、姉ちゃんに心配をかける。戦国の世なら、あの場で首を刎ねて門前に晒してやるところだがな」
佑はタヌキ親父のような酷薄な笑みを微かに浮かべ、狐面をリュックの中で弄った。
その言葉の裏に潜む本物の殺意に、雨宮はゾクゾクと背筋を震わせ、恍惚とした吐息を漏らす。
「ああ……本当に、あなたって男は……。さあ、本部へ行きましょう。あなたを深層へ送り出すための『舞台装置』の準備が、ついに整ったわ」
*
関東探索者ギルド本部、地下特別研究室。
防音と魔力遮断が施された広大な実験室の奥で、佑はテーブルの上に広げられた巨大なホログラムマップを見下ろしていた。
それは、大宮ダンジョン第八階層から先の、これまで誰も完全には解明できていなかった『深層エリア』の立体図だった。
「昨晩のあなたの戦闘データと、回収したAランクの魔石のエネルギー。それをギルドのメインフレームに流し込むことで、ついに深層の『ブラックボックス』の解析に成功したわ」
雨宮は白衣を翻し、ホログラムの一部を指差した。
「第十階層。そこが、あの『黒死の騎士』の本体が鎮座する玉座よ。……ただし、そこへ至る道には、深層の恐るべき重力異常と、空間のバグによって生まれた『死霊騎士団』の群れが配置されている」
「……なるほど。単騎で本陣へ突撃するには、いささか骨が折れそうな数だな」
佑は腕を組み、冷徹な目で盤面を分析する。
だが、その足元では、中層ボスの魔石を喰らって限界突破を果たした三匹の妖怪たちが、今か今かと主の号令を待ちわびていた。
「(……問題ない。俺の『兵』は、すでに最高の状態に仕上がっている。あとは、いかにしてあの漆黒の鎧を罠に嵌め、特級魔石を抉り出すか、それだけだ)」
佑は雨宮へと振り返り、静かに、だが絶対的な自信を込めて告げた。
「明日、俺は深層へ潜る。……牝狐よ、俺の姉ちゃんを救うための特効薬の調合準備、抜かりはないな?」
「ええ、もちろんよ。あなたが特級魔石を持ち帰ったその瞬間に、最高純度の解呪薬を完成させてみせるわ。……だから、絶対に死なないでね、佑くん」
狂気と計算に満ちた二人の笑みが、地下の実験室で交錯する。
世界中が「見えざる守護霊を使役する最強のテイマー」の噂で持ち切りになる中、太田佑の視線はすでに、誰の手も届かない深い深い闇の底――大宮ダンジョンの絶対的な『悪夢』へと、真っ直ぐに突き刺さっていた。




