第22話 姉弟の絆。日常の温もりと、必ず助け出すという静かなる決意
大宮ダンジョンの地上ゲートを潜り抜けると、むせ返るような夕暮れの空気が太田佑の全身を包み込んだ。
水彩画のオレンジ色をたっぷりと含んだような、鮮やかで、どこか物悲しい夕焼けが、高層ビルの立ち並ぶ大宮の街を照らしている。
ゲートの周辺には、これから夜の探索に向かう者、傷つきながら帰還する者、そして彼らを狙う素材の買い取り業者たちが入り乱れ、現代日本における日常と非日常の境界線を色濃く描き出していた。
佑はのっぺりとした狐面をリュックの奥底にしまい込み、いつもの薄汚れたポーターの服装で人混みをすり抜ける。
すれ違うエリート探索者たちは、誰もこの気弱そうな底辺テイマーが、数十分前に中層のイレギュラーボス二体をハメ殺し、世界中に三十万人規模の熱狂を巻き起こした『歩くバグ』であることなど、微塵も気づいていない。
スマートフォンが、ポケットの中で短く振動した。
画面を見ると、ギルド特別研究室の雨宮結衣からの暗号化メッセージだった。
『中層でのデータ収集、そしてあの幻影の強制解除……完璧だったわ! あなたのおかげで、私の研究は五十年は前倒しになった! 回収した魔石の換金と、第七階層以降の深層突入に向けた準備はこちらで進めておくわ。……今日はゆっくり休んでね、私の最高の共犯者さん』
佑はその狂気に満ちた文面を一瞥し、短く『頼む』とだけ返信して画面を閉じた。
「(……さて。興行と猟はこれで一段落だ。ここからは、俺の『日常』に戻らねばな)」
佑は駅前の雑踏を抜け、探索者専用の総合病院へと足を向けた。
*
消毒液の微かな匂いが漂う、静まり返った白い廊下。
佑は病室の前に立つと、一度深呼吸をして、冷徹な戦国武将の顔から、オドオドとした「気弱な弟」の顔へと完璧に切り替えた。
ドアを静かにノックし、横にスライドさせる。
「……姉ちゃん。ただいま」
病室の中は、ブラインド越しに差し込む夕陽によって、淡い琥珀色に染まっていた。
白いベッドの上で、一人の女性が静かに身を起こそうとする。
佑の姉――かつては将来を嘱望されたトップ探索者であり、大宮ダンジョン深層で致命的な呪いを受けた、太田凛だった。
「佑……おかえりなさい。今日も、ダンジョンに行ってくれていたの?」
「うん。……ちょっとだけだけどね。浅い階層で、スライムの魔石とか、薬草を拾ってきたんだ。これでお姉ちゃんの薬代、今月分はちゃんと払えるから」
佑はリュックの中から、ダミーとして用意していた安物の薬草と低級魔石の袋を取り出し、ベッドサイドのテーブルに置いた。
「ごめんね、佑……。私のせいで、あなたに苦労ばかりかけて……」
「そんなことないよ! 僕、テイマーのスキルで少しだけ魔物を避けられるようになったし……全然、危ないことなんてしてないから!」
佑は慌てたように両手を振り、愛想笑いを浮かべた。
だが、ベッドに近づいた佑の双眸は、凛の容態を冷静かつ残酷なまでに分析していた。
透き通るように白い彼女の肌。その首筋から鎖骨、そして胸元へと向かって、西洋の呪い特有の『赤黒い茨のような痣』が、数日前よりもさらに深く、色濃く侵食している。
呼吸は浅く、わずかに体を動かすだけでも痛みを伴っていることは、彼女の微かな眉の動きで分かった。
「(……呪いの進行が早い。ギルドの最高級の霊薬を投与しても、進行を遅らせることしかできないか。あの深層ボスの影が活性化している証拠だ)」
佑の胸の奥で、ドロリとした昏い殺意が渦を巻く。
だが、その感情を微塵も表に出すことなく、佑はパイプ椅子を引き寄せてベッドの横に座った。
「姉ちゃん、今日の体調はどう? ご飯、ちゃんと食べられた?」
「ええ……少しだけだけど。病院食のリンゴが美味しかったわ」
凛は力なく微笑み、細くなった腕を伸ばして、佑の頬に触れた。
「佑……あなた、少し痩せた? それに、なんだか泥だらけ……。本当に、無理してない?」
「へへっ、ちょっと水たまりで転んじゃっただけだよ。僕、どんくさいからさ」
佑は姉の手の温もりを感じながら、はにかんでみせる。
かつて、自分を庇って深層のモンスターの攻撃を受け、血まみれになって倒れた姉の姿が、佑の脳裏に焼き付いている。
この温かい手を、二度と失うわけにはいかない。
「そういえば……」
凛はふと、何かを思い出したように目を細めた。
「今日、看護師さんたちが噂していたの。大宮ダンジョンで、すごく強いテイマーの人が動画で話題になっているって。……狐のお面を被って、見えない力でモンスターを倒しちゃうんですって」
「えっ!?」
佑は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そうなんだ! へえ〜、すごい人がいるんだね!」
「ふふっ。看護師さんがね、『背格好が太田さんの弟さんに似てますよ』なんて冗談を言うから……私、少しだけドキッとしちゃった」
凛は優しく笑いながら、佑の顔を覗き込む。
「でも、佑はあんな危ないこと、絶対にしないものね。……私は、佑が無事でいてくれるなら、それだけでいいの。だから、絶対に無茶だけはしないでね」
「う、うん……! もちろん! 僕なんかじゃ、そんなすごいことできないし……」
佑は冷や汗をかきながら、なんとか笑顔を作って頷いた。
姉の鋭い直感に舌を巻きつつも、同時に胸が締め付けられる思いだった。
もし、自分が毎日死線を潜り抜け、何万もの人間の前で惨殺ショーを繰り広げていると知れば、この優しい姉はどれほど心を痛めるだろうか。
「(……嘘を吐き続ける罪は、地獄で被ろう。今はただ、この日常を守り抜くためだけに、俺は道化を演じ切る)」
やがて、夕陽が完全に沈み、病室が夜の静寂に包まれる頃。
疲労からか、凛は穏やかな寝息を立て始めた。
佑は音を立てないようにパイプ椅子から立ち上がり、ベッドの横に立ち尽くした。
気弱な青年の仮面が、音もなく剥がれ落ちる。
のっぺりとした狐面よりも恐ろしい、戦場で何千もの命を刈り取ってきた『妖将』の冷徹な顔が、夜の闇に浮かび上がった。
佑は、シーツの下で、自身の右拳をギリギリと血が滲むほど強く握りしめた。
「(……前世の俺は、愚かだった)」
武州の英傑、太田資正。
幾度も大軍を退け、名将として名を馳せたが、その生涯は裏切りと喪失の連続だった。
己の力不足のせいで、妻子を人質に取られ、家臣に背かれ、守るべき領民を戦火に巻き込んだ。
どれほど優れた兵法を持っていようと、圧倒的な暴力と権力の前には、大切なものを守り切ることはできなかった。
「(あの冷たい泥の中で味わった絶望と無念……二度と繰り返すものか)」
佑の足元の影が、黒い絵の具のようにドロリと滲む。
その深淵から、管狐、塗り壁、土蜘蛛の三匹の妖怪たちが、主の静かなる怒りに呼応するように、微かな霊波を放って蠢いていた。
彼らもまた、第七階層で中層ボスを喰らい、その霊格を限界まで高め、次なる戦いを渇望している。
「(システムがどうした。イレギュラーがどうした。俺の大切な家族を蝕む輩は、深層の主だろうが神だろうが、一匹残らずこの手ですり潰す)」
佑の瞳の奥で、青白い炎が静かに、そして激しく燃え上がる。
呪いの進行限界まで、おそらくあと数日。
時間をかけている暇はない。一気に深層へとダイブし、あの『黒死の騎士』の首を獲り、特級魔石を引きずり出す。
「……おやすみ、姉ちゃん。必ず、助けるから」
佑は極小の声でそう呟き、姉の寝顔に背を向けた。
病室を後にした佑は、暗い廊下を歩きながら再びスマートフォンを取り出した。
雨宮への返信画面を開き、短い文字列を打ち込む。
『明日、深層へのゲートを開け。俺の全戦力をもって、あの騎士の首を獲る』
送信ボタンを押すと同時に、佑は背筋を伸ばし、夜の病院の出口へと向かった。
背後に付き従う目に見えない妖怪たちの気配が、いよいよ始まる最終決戦に向けた、重く冷たいプレッシャーを放ち始める。
底辺職として蔑まれてきた青年と、狂気に魅入られた受付嬢。
そして、数百万の視聴者を巻き込むであろう、大宮ダンジョン最大の異常事態。
戦国の亡霊による『最凶のハメ殺し』の舞台は、ついに前人未踏の深淵へとその扉を開こうとしていた。




