第19話 配信は過熱する。「あいつの周りだけ、不可視の守護霊がいるぞ!?」
ドズゥゥゥンッ……!!
大宮ダンジョン第六階層の最奥。
第七階層へと続く巨大な黒曜石の扉の向こう側から、空間そのものを揺るがすような、重く、悍ましい衝撃音が響いた。
それはまるで、深淵に潜む巨大な魔獣が、目を覚まして最初の産声を上げたかのような不吉な鼓動だった。
扉の隙間からは、肺を直接凍らせるような極低温の『死の瘴気』が、黒い霧となって漏れ出している。
【警告。異常なマナの波長を検知。】
【対象エリア内の空間安定率が著しく低下しています。】
無機質なシステム音声が太田佑の脳裏に響く。
後方で腰を抜かしているエリート探索者たちは、その圧倒的なプレッシャーに当てられ、顔面を蒼白にしてガタガタと震え始めた。
「ば、バカな……。中層の扉の奥から、こんな瘴気が漏れてくるなんて……!」
「イレギュラーだ! 深層のモンスターが、空間のバグで中層にまで上がってきてるんだ! おいテイマー、絶対にその扉を開けるな! 死ぬぞ!!」
エリートのリーダーが血を吐くような声で制止する。
だが、佑は黒曜石の扉に手をかけたまま、微動だにしなかった。
狐面の下の瞳は、怯えを装うことすら忘れ、ただ冷徹に扉の向こう側にある『獲物』の気配を分析している。
「(……確かに、この瘴気は中層の枠を越えている。だが、あの『黒死の騎士』本体のプレッシャーには遠く及ばない。おそらく、深層から漏れ出た瘴気に当てられ、異常進化した中層のヌシ、あるいはその眷属といったところか)」
佑は静かに呼吸を整えた。
姉を救うための特級魔石を手に入れるには、この瘴気の源流を辿るしかない。どんなイレギュラーが待ち受けていようと、ここで引き返すという選択肢は、戦国の世を生き抜いた彼の兵法には存在しなかった。
「あ、あの……。なんかすごく怖い音がするけど……お姉ちゃんのために、行かなきゃ……」
佑はドローンのカメラに向かって、か弱い青年を演じる震え声を絞り出しながら、黒曜石の扉を両手で力強く押し開けた。
ギギギギギギッ……!
重厚な扉が開くと同時に、黒い霧の奔流が通路へと吹き込んでくる。
第七階層。そこは、これまでの古代神殿のような荘厳さとは打って変わって、冷たい石畳と無数の墓標が並ぶ、広大な『地下墓所』のような空間だった。
天井からは青白い燐光を放つ魔力結晶がぶら下がり、水彩画の群青色を塗りたくったような、薄暗く陰惨な情景を浮き彫りにしている。
そして、その広大な墓所を埋め尽くすように、黒い霧の中から無数の赤い眼光が浮かび上がった。
『グルルルルルル……』
影そのものが獣の形を成したようなモンスター、『ファントム・ウルフ』の群れだった。
体長は優に二メートルを超え、その肉体は半ば実体を失って黒い煙のように揺らめいている。
物理攻撃を透過し、魔法すらも霧散させる厄介極まりない特性を持つ、中層屈指の暗殺獣たちだ。
しかも、深層の瘴気を吸い込んだことで、その体躯は通常よりも一回りも二回りも大きく、禍々しい紫色の魔力光を帯びていた。
「ひぃぃぃっ! オオカミ!? オオカミがいっぱいいるぅぅっ!」
佑は悲鳴を上げ、ペタンと座り込むような大仰な動作で後ずさった。
『うわぁぁぁ、第七階層ヤバすぎだろ!』
『ファントム・ウルフの異常個体の群れじゃん!』
『あいつら、物理攻撃が三割しか通らないんだぞ! 魔法も半減されるし、どうやって倒すんだよ!』
『しかも影から影へ瞬間移動してくるから、逃げることすらできない!』
『太田ニキの物理トラップ、透過系の敵には相性最悪なんじゃ……!?』
コメント欄が絶望と焦燥に染まる。
視聴者たちの指摘通り、ファントム・ウルフのような『半実体』のモンスターは、物理的な罠をすり抜けてしまう可能性が高い。
エリート探索者でさえ、光属性の広範囲魔法で一網打尽にするしか有効な手立てがない難敵なのだ。
だが。
「(……物理攻撃が透過する? 愚かな。実体がなければ、敵に牙を剥くこともできまい。奴らが攻撃を仕掛けてくるその一瞬、必ず『実体化』する瞬間がある)」
佑は尻餅をつきながら、狐面の下で酷薄な笑みを深めた。
影に潜む獣を狩る。それは、夜襲やゲリラ戦を得意とした太田資正にとって、最も得意とする戦場であった。
「(影に潜むというのなら、その影ごと切り刻んでやろう。……往け、土蜘蛛。この墓所の床一面に、極細の死線を張り巡らせろ)」
シュルルルルッ……!
佑の足元の影から、無数の見えざる粘糸が音もなく射出され、冷たい石畳の上を地を這うように広がっていく。
それは空中に張る網ではない。床のわずかな凹凸に沿って、数ミリの高さで緻密に張り巡らされた、蜘蛛の巣の『絨毯』だ。
『グルァッ!!』
先陣を切って、三体のファントム・ウルフが黒い煙となって宙を舞い、佑の首筋めがけて飛びかかってきた。
影に溶け込み、空中で実体化して牙を剥く、完璧な奇襲。
「あ、あわわっ! こないでぇぇっ!」
佑は両腕を振り回し、デタラメに暴れるような動作を見せた。
だが、その暴れる腕からこぼれ落ちるように、逆手に握られた解体ナイフが閃く。
ファントム・ウルフが、佑の喉元に牙を突き立てようと完全に実体化した、まさにそのコンマ一秒の隙。
佑の足元に張られていた『土蜘蛛の糸』が、下から弾けるように跳ね上がり、空中の獣たちの四肢を絡め取った。
『ギャウッ!?』
実体化した瞬間に不可視の物理的拘束を受け、体勢を崩すファントム・ウルフ。
空中で完全に無防備となったその喉元へ、佑のデタラメに振り回されたナイフが、吸い込まれるようにして深々と突き立てられた。
ズバァッ! プツンッ!
一切の無駄がない、外科手術のような正確な斬撃。
悲鳴を上げる間もなく、三体のファントム・ウルフは光の粒子となって霧散した。
『えっ……?』
『は!? 今、何が起きた!?』
『太田ニキ、ただ暴れて腕振り回しただけだろ!? なんでファントム・ウルフが勝手に首斬られて死んでんだよ!』
『スローで見てもわかんねえ! あいつら、空中でいきなりビクッて止まって、自分からナイフに首突っ込んでいったようにしか見えない!』
カメラ越しに見る視聴者には、極細の土蜘蛛の糸は完全に不可視だ。
だからこそ、その光景はあまりにも異様だった。
次々と黒い霧から飛び出してくるファントム・ウルフたち。
だが、彼らは佑に触れることすらできない。
右から飛びかかってきた一体は、空中で突然、見えない壁(空間固定された極薄の塗り壁)に激突し、顔面をひしゃげさせて床に転がる。
背後の影から忍び寄った二体は、床に張り巡らされた土蜘蛛の糸に足を取られ、自らの突進の勢いで首の骨をへし折って自滅する。
佑は、ただ「ひぃぃっ!」と悲鳴を上げながら、広大な地下墓所の中央をフラフラと歩き回っているだけだ。
時折、転びそうになって腕を振り回した時だけ、その手にあるナイフが『偶然』、拘束されて身動きの取れない獣たちの急所を正確に貫く。
彼が一歩歩くごとに、魔物たちが血を吹き、空中で折れ曲がり、光の粒子となって消えていく。
まるで、彼の周囲数メートルの空間だけが、神の不可侵領域として設定されているかのように。
『ウソだろ……。物理無効の敵すら、近づく前に全滅していく……』
『あいつの周りだけ、物理法則が完全に狂ってるぞ!?』
『太田ニキが歩くだけで、魔物が勝手に死んでいく……なんだこれ、ホラー映像かよ』
『おい、気づいたか……? あいつの影、なんかおかしくないか?』
『影から、時々光るキツネみたいなのが一瞬だけ出てる!』
『それだけじゃない! 太田ニキの周りの空間が、一瞬だけ水彩画みたいに黒く歪んだ!』
『もしかして……あいつの周りには、俺たちには見えない『不可視の守護霊』が大量についてるんじゃないか!?』
『死神だ……。あの狐面は、死神を使役してるんだよ!!』
配信のコメント欄は、もはや戦術への驚愕を通り越し、完全な『オカルト的カリスマ性』への熱狂へと変貌していた。
見えない力で敵が次々と自滅していく異常な光景。
それは、視聴者たちの想像力を極限まで刺激し、底辺職のテイマーを「不可解で恐ろしい神格」へと祭り上げていく。
同接数は瞬く間に二十万人を突破し、国内のあらゆる配信プラットフォームの歴代記録を塗り替えようとしていた。
「あ、あはは……。なんか、オオカミさんたち、みんな勝手に転んで消えちゃいました……。僕、運がいいのかな……?」
佑はドローンに向かって、のっぺりとした狐面を傾けながら、オドオドとした声で呟く。
その足元には、数十体ものファントム・ウルフが残した、大量の紫がかった高品質な魔石が転がっていた。
管狐が影から顔を出し、その魔石を次々と丸呑みにしていく。
「(……良き糧だ。透過系の魔物の魔石は、我が手駒たちの『隠密性』をさらに高めてくれる。これで、土蜘蛛の糸も塗り壁の展開も、より視認されにくくなるだろう)」
佑は内心でほくそ笑みながら、手早く魔石を回収していく。
後方の大列柱室から恐る恐る顔を出したエリート探索者たちは、その圧倒的な蹂躙の痕跡を見て、完全に言葉を失っていた。
「バカな……。あれだけのファントム・ウルフの群れを、たった一人で、無傷で……」
「魔法陣の一つも描かず、呪文の詠唱もなしに……。あいつは、本当に人間なのか……?」
彼らの眼に映る太田佑の姿は、もはや人間ではなく、ダンジョンのシステムそのものをハッキングして歩く『歩くバグ』に他ならなかった。
エリートとしての誇りも、魔法への絶対的な信仰も、彼らの心からは完全に消え去り、ただ底知れぬ畏怖だけが深く刻み込まれた。
「(……さて、外野の掃除は済んだ。だが、あの異常な鼓動の主は、まだこの墓所の最奥に潜んでいる)」
佑は立ち上がり、地下墓所のさらに奥深く――青白い燐光が最も濃く集まっている、巨大な祭壇のような場所へと視線を向けた。
そこから漂ってくる瘴気は、先ほどまでの比ではない。
空間そのものがドロドロと溶け出すような、純粋な悪意と呪いの結晶。
「あの、皆さん……。まだ、お姉ちゃんの薬に足りる『すごい魔石』が見つかってないんです。だから、もう少しだけ、奥に行ってみますね……!」
気弱な青年の演技の奥底で、戦国武将の冷徹な殺意がギラリと燃え上がる。
世界中が熱狂し、見えざる守護霊の存在に震え上がる中、太田佑のハメ殺し配信は、いよいよ大宮ダンジョン中層の真の深淵へと、その狂気的な一歩を踏み出そうとしていた。




