第11話 深淵との邂逅、そして再開される「魔石のオートメーション回収」
大宮ダンジョン第三階層の空間が、ガラスにヒビが入るような甲高い音を立てて軋んでいた。
先ほどまで百匹近い魔物がひしめき合っていた迷路区画は、一瞬にして絶対零度の静寂に包まれる。
空間の断層――バグによって生じた黒い渦の中から姿を現した、身の丈四メートルを超える漆黒の西洋甲冑。
大宮ダンジョンの深層にのみ君臨するAランク相当のアンデッドボス、『黒死の騎士』。
その兜の奥で揺らめく青白い鬼火が、狐面を被った太田佑を真っ直ぐに見下ろしていた。
「ひっ……! な、なに、あれ……!?」
佑は狐面を手で押さえ、大仰に震えながら後退った。
だが、そののっぺりとした狐の面の下、彼の双眸は氷のように冷え切り、ドロリとした昏い殺意を燃え上がらせていた。
「(……間違いない。あの悍ましい瘴気の波長。姉ちゃんを蝕んでいる呪いの元凶だ)」
前世で幾度も死線を潜り抜けた太田資正の魂が、目の前の圧倒的な『暴力の結晶』を前にして、歓喜と怒りで粟立っている。
現在の佑のレベルと手駒では、正面から打ち合えば一瞬で肉塊に変えられる絶対的な格上。
しかし、妖将の思考は「どう逃げるか」ではなく、「いかにしてこの場で首を獲るか」を瞬時に演算し始めていた。
『おい……嘘だろ……?』
『【黒死の騎士】じゃねえか……! なんでこんな浅層に!?』
『さっきの『狂乱の香』のせいか!? アイテムの異常な魔力濃度にダンジョンのシステムがバグったんだ!』
『逃げろ太田ニキ! 今度ばっかりは罠とかそういう次元の相手じゃない!!』
『特務部隊呼べ! 早く!!』
配信のコメント欄は、先ほどまでの熱狂が嘘のように、完全な絶望とパニックに染まっていた。
ドローン越しの映像ですら、その騎士が放つ死の気配は、視聴者の背筋を凍らせるのに十分すぎたのだ。
『……ギルルォォォォォォッ!!』
黒死の騎士が、錆びた鉄を擦り合わせるような咆哮を上げた。
同時に、その巨腕が身の丈ほどもある大剣を無造作に振り上げる。
狙いは、目の前に立つちっぽけな狐面の青年。
「(……来るか。ならば、今の俺の『城壁』がどこまで通用するか、試させてもらおう)」
佑は逃げるそぶりを見せながら、足元の影に意識を集中させた。
大剣が、空気を叩き潰すような轟音を立てて振り下ろされる。
直撃すれば、岩盤ごと佑の身体を両断する必殺の一撃。
「(――塗り壁、斜角四十五度。衝撃を流せ)」
ズガンッ!!
狐面スレスレの空間に、突如として黒い水彩画のインクが滲み出し、分厚い岩の板が出現した。
だが、佑はそれを「正面からの盾」としては使わなかった。
大剣の軌道に対して斜めに配置し、刃を滑らせる『受け流しの装甲』として機能させたのだ。
ギャリリリリリリッ!!
八百キロの質量を持つ空間固定の塗り壁と、深層ボスの圧倒的な膂力が激突し、凄まじい火花が迷宮を照らす。
完全に防ぎきることはできない。塗り壁の表面の苔が吹き飛び、岩盤に深々と亀裂が走る。
弾かれた大剣の余波だけで、佑の身体は木の葉のように吹き飛ばされ、後方の岩壁に激突した。
「ガ、ハッ……!」
狐面の下で、佑は血の味が滲むのを嚥下した。
肋骨が悲鳴を上げている。だが、致命傷は避けた。
「(……なるほど。完全固定の塗り壁でも、これほどの質量兵器には耐久値が削られるか。だが、数秒の時間を稼ぐには十分だ)」
佑がナイフを逆手に構え直し、次なる一手を打とうとしたその時だった。
ピピピピピピッ!
【システムエラーの修復を実行中。空間断層の強制閉鎖プロセスを開始します。】
突如、迷宮内に無機質なシステム音声が鳴り響いた。
同時に、黒死の騎士の背後にあった黒い渦が、凄まじい吸引力を発し始めたのだ。
『ギルォォォッ!?』
ダンジョンの自浄作用によるバグの修正。
浅層の空間は、深層ボスの膨大な魔力質量を維持できず、騎士の巨体はズルズルと渦の中へと引きずり込まれていく。
「(……チッ。逃がすかよ)」
佑が床を蹴ろうとした瞬間、彼の脳裏に『ここで深追いすれば、己も深層に引きずり込まれる』という冷徹な軍師の警告が走った。
姉を救う前に、無駄死にするわけにはいかない。
バチュンッ!!
空間が弾けるような音とともに黒い渦は完全に消滅し、黒死の騎士の姿も幻のように消え去った。
後に残されたのは、ひび割れた岩肌と、静寂を取り戻した第三階層の冷たい空気だけだった。
「……あ、あはは……。消え、た……? 僕、生きてる……!」
数秒の沈黙の後、佑はへたり込み、狐面を押さえて安堵の声を上げた。
それは心からの安堵ではない。獲物を取り逃がした悔しさを隠すための、完璧な演技だ。
『えっ……消えた!?』
『ダンジョンの空間バグが直って、強制送還されたのか!』
『よかったあああああ!! マジで心臓止まるかと思った!』
『てか、今の一撃、どうやって防いだ!? なんか黒い影みたいなのが見えたぞ!』
『太田ニキの不可視のスキルだろ! あの見えない壁、深層ボスの一撃すら弾くのかよ!』
『ヤバすぎる。運が良かったとはいえ、あの一撃を凌いだルーキーなんて聞いたことないぞ』
コメント欄は、極限の緊張状態からの解放と、佑の生存に対する歓喜で爆発していた。
同時刻、関東探索者ギルド本部の特別研究室。
「あははははっ! 素晴らしい! 素晴らしいわ、佑くん!!」
白衣の受付嬢・雨宮結衣は、モニターの前で身をよじらせながら恍惚の笑声を上げていた。
彼女のタブレットには、先ほどの塗り壁による『衝撃の受け流し』のデータが克明に記録されている。
「あの状況で、絶対防壁をあえて斜めに配置し、ベクトルの向きを変えて即死を回避するなんて……! 咄嗟の物理演算の極致! ああ、本当にあなたは、私の期待を裏切らない最高の検体ね!」
狂気的な研究者の瞳は、すでに佑の底知れぬ戦術の深淵に完全に魅了されていた。
*
一方、ダンジョン内。
シルバーウィングの面々は、先ほど管狐に香炉を落とされた直後、命からがら緊急転移結晶を使って地上へと逃げ帰っていた。
そのため、この場に彼らの姿はない。
しかし、彼らが残していった違法アイテム『狂乱の香』の匂いは、未だ薄らと迷路区画に漂い続けていた。
「ふぅ……。本当に、死ぬかと思いました……。でも、お姉ちゃんの薬代、まだ全然足りないや……」
佑は立ち上がり、服の埃を払う。
狐面の下の双眸は、再び冷徹なタヌキ親父のそれへと戻っていた。
「(……ボスは取り逃がしたが、あのネズミ共が残してくれた『極上の撒き餌』はまだ生きている。……匂いに釣られて、さらに奥の区画から有象無象が集まってきているな)」
佑の足元から、微かな振動が伝わってくる。
先ほどのボスのプレッシャーで一度は逃げ散った魔物たちが、再び狂乱の香の匂いに引き寄せられ、第二波として迷路区画へと殺到してきているのだ。
その数は、およそ五十。
「(戦場において、敵の残した物資は最大限に利用する。これこそが兵法の基本だ)」
佑は、ひび割れた『塗り壁』を一旦影の中に帰還させ、霊力を循環させて瞬時に修復した。
そして、先ほどと同じ丁字路の角――完璧な死角となる位置に、再び見えない岩の板を空間固定する。
「あ、あれ? なんかまた、いっぱい足音が聞こえるような……」
ドローンのカメラに向かって、ワナワナと震えてみせる佑。
『おいおいおい! まだ来るのかよ!』
『狂乱の香の匂いが残ってるんだ! 早く逃げろ太田ニキ!』
『せっかくボスから助かったのに、今度は物量に押し潰されるぞ!』
視聴者たちが再び悲鳴を上げる中、迷路の奥から、血走った目をした『シャドウ・ゴブリン』と『ホーン・ラビット』の群れが、怒涛の勢いで押し寄せてきた。
一直線の狭い通路。逃げ場はない。
だが、先頭を走っていたゴブリンが角を曲がった瞬間。
彼らはまたしても、見えない『絶対防壁』に全速力で激突した。
ズドォォォォォォォンッ!!!
『ギャッ!?』
顔面がひしゃげ、首の骨が折れる鈍い音が響く。
そして、先ほどと全く同じ惨劇の連鎖が始まった。
『ギギャッ!?』
『ピギャアアッ!』
先頭で倒れた仲間の死体に足を取られ、後続の魔物たちが次々と玉突き事故を起こしていく。
狭い通路は、再び魔物自身が自らの肉体と運動エネルギーで作り上げた「地獄の圧搾機」と化した。
「あ、あれ……? またみんな、勝手に転んでる……?」
佑は間の抜けた声を出しながら、塗り壁の背後の隙間からひょっこりと顔を出した。
そして、身動きが取れずにもがいている魔物たちの顔面や首筋に、まるで工場のライン作業のように、淡々と解体ナイフを突き立てていく。
ズブッ、プツン。ズブッ、プツン。
一切の感情を交えず、ただ力学的に最も柔らかい急所だけを正確に破壊する。
血飛沫は最小限。悲鳴を上げる間すら与えない。
わずか数分の間に、五十体の魔物の群れは、一匹残らず光の粒子となって霧散していった。
後に残ったのは、コロコロと床に転がる大量の魔石の山だけだ。
『………………は?』
『えっ、ちょっ、デジャブ???』
『また見えない壁に突っ込んで自滅した!?』
『そして太田ニキが順番にトドメ刺してる……』
『さっきまでの絶望感返してくれよwww』
『完全に『魔石のオートメーション回収工場』じゃねえかwww』
『ボスが出てきた時はどうなるかと思ったけど、このサイコパス工場長、メンタル鋼すぎるだろ』
『匂いを逆手にとって、安全圏から乱獲してやがる……』
『このテイマー、性格が悪すぎる(褒め言葉)』
配信のコメント欄は、先ほどの絶望的な空気から一転し、戦慄と爆笑が入り交じった異常な熱狂に包まれていた。
エリート探索者たちが汗水垂らして魔法を放ち、ポーションをがぶ飲みしながら戦うのと同じ階層で、この底辺職の青年は、指一本触れさせることなく敵を全滅させたのだ。
「ひ、拾わなきゃ……! これなら、お姉ちゃんの薬、たくさん買えそう!」
佑は慌てたふりをして、床に散らばった魔石を拾い集める。
その裏側で、管狐がこっそりといくつもの魔石を丸呑みし、力を蓄えている。
さらに、影の中に潜む『塗り壁』もまた、大量の敵を圧殺した経験値と魔力エネルギーを吸収し、その霊格を確実に高めていた。
「(……良き収穫だ。手駒の練度も上がり、資金も潤った。あのネズミ共には、感謝の言葉でも送ってやりたいくらいだな)」
狐面の下で、タヌキ親父の冷酷な笑みが深くなる。
だが、佑の瞳の奥にある真の目的はブレていない。
あの『黒死の騎士』を屠り、特級魔石を手に入れること。
「(待っていろ、深淵の騎士よ。次に出会う時は、貴様の首を刎ね、我が軍門に降らせてやる)」
無自覚に垂れ流される惨劇の配信は、同接数七万人を突破し、ついに世界のトレンドランキング1位へと躍り出ようとしていた。
誰も見たことのない、冷徹で陰湿な『ハメ殺し』のエンターテインメントが、今、新たな時代を切り拓こうとしている。




