第10話 暴走する百鬼夜行。策に溺れた愚者たちへの「狂気」の返礼
ズズズズズズ……ッ!
大宮ダンジョン第三階層の迷路区画が、かつてない規模の地鳴りに激しく揺れていた。
水彩画のような淡い青色を放っていた発光苔の光は、おびただしい数の魔物が巻き上げる土煙と、禍々しい紫色の煙によって完全に掻き消されている。
『ゴガァァァァァァァァァッ!!!』
『ピギャアアアアアアアッ!!!』
理性を失い、ただ目の前の対象を破壊することだけを目的とした狂乱の群れ。
オーク、ゴブリン、ハウンド、そして普段はこの階層に現れないはずの装甲蟲までが、互いの身体を押し潰し合いながら、一本の狭い通路へと雪崩れ込んでくる。
その数は優に百を超えていた。
「ひぃぃぃっ! む、無理無理無理! 死んじゃうぅぅっ!」
太田佑は狐面を被った頭を両手で抱え、情けない悲鳴を上げながら壁際にうずくまった。
ドローンのカメラが、迫り来る圧倒的な死の波と、それに飲み込まれようとしている無力な青年の姿を映し出す。
『あああああ! 終わった!』
『数がさっきの比じゃねえ! 百体はいるぞ!』
『しかも全部目が赤く光ってる! 違法アイテムの『狂乱の香』の匂いがするぞ!』
『誰だよあんなモン持ち込んだやつは!? テロだろこんなの!』
『太田ニキ、逃げろ! ポータルまで走れ!』
同時接続数五万人を超える視聴者たちが、絶望のコメントを滝のように流す。
だが、壁にうずくまる佑の狐面の下の双眸は、氷のように冷たく、そして酷薄な笑みを湛えていた。
「(……なるほど。これが現代の兵器か。戦国の世でも、軍馬に興奮剤を嗅がせて敵陣に突撃させるという外道な策はあったが、まさか自らその標的を用意してくれるとはな)」
佑の視線は、群れの奥で紫色の煙を上げている『狂乱の香』の発生源と、さらにその後方、安全圏からこちらをニヤニヤと見物している赤い鎧の男たち――かつて自分を見捨てた『シルバーウィング』の面々を正確に捉えていた。
「(策に溺れた愚か者どもめ。あの煙の匂いが標的になることくらい、少し考えればわかるだろうに。……戦場において、己の手を汚さずに敵を殺そうとする甘い考えが、いかに致命的か教えてやろう)」
佑は小さく息を吸い込み、極小の声で命じた。
「……管狐。あの忌々しい香炉を奪い、奥のネズミ共の足元に落としてこい」
「チィッ!」
佑の影から飛び出した管狐が、黄金の燐光を引いて猛スピードで地を這う。
狂乱状態の魔物たちは目の前の佑に夢中で、足元をすり抜ける極小の妖怪に気づかない。
管狐は紫の煙を上げる香炉を器用に口で咥え込むと、そのまま迷路区画の奥へとUターンしていった。
その直後。
百を超える魔物の先頭集団が、ついに佑の陣取る丁字路へと到達した。
先ほどオークが自滅した『塗り壁』は、未だそこに鎮座している。魔物たちは再び見えない壁に激突するかと思われた。
しかし、佑は魔物が激突するコンマ一秒前、指先で小さく印を結んだ。
「(――開門)」
ズゥゥゥンッ!
空間に固定されていた塗り壁が、音もなく影の中へと沈み込み、解除される。
突如として障害物が消滅したことで、全速力で突進してきていた魔物たちは、つんのめるようにして佑の横を通り過ぎていく。
「うわあああっ! 助けてえええっ!」
佑はわざとらしく悲鳴を上げながら、壁際に背中を擦り付けるようにして身体を捻った。
だが、その『デタラメな身じろぎ』は、古流武術の極致である無駄のない体捌きだった。
迫り来るオークの斧をミリ単位で躱し、すれ違いざまに解体ナイフの刃先だけを、オークの膝の腱に軽く引っ掛ける。
ゴブリンの槍を狐面ギリギリで避け、その勢いを利用してゴブリンの延髄を柄で軽く叩き潰す。
ドサリ、ドサリと、佑の足元に魔物の死体が積み上がっていく。
だが、百の群れの大部分は佑を無視し、迷路区画のさらに奥――管狐が運んでいった『より濃厚な狂乱の香の匂い』へと向かって、怒涛の勢いで突き進んでいったのだ。
『……えっ?』
『は? 壁が消えた!?』
『魔物が太田ニキをスルーして奥に走ってくぞ!?』
『つーか、スルーされた魔物の中で、太田ニキに近づいたやつだけ全部不自然に死んでるんだがwww』
『暴れてるフリして急所かっ捌いてるの、完全に暗殺者のそれ』
『でもなんで魔物は奥に行ったんだ? あっちには何もないはずじゃ……』
視聴者たちが混乱する中、ドローンのサブカメラが、魔物の群れが向かった先の映像を捉えた。
*
「な、なんだ!? なんで群れがこっちに来るんだよ!?」
シルバーウィングのリーダーである赤い鎧の男は、迫り来る地鳴りと無数の赤い眼光に、顔面を蒼白にしていた。
彼らの足元には、いつの間にか紫色の煙を噴き出す香炉が転がっている。管狐が落としていったものだ。
「リ、リーダー! 香炉が! 俺たちの足元に!」
「クソッ! なんでこんなところに!? あの光る狐か!?」
男が慌てて香炉を蹴り飛ばそうとした時には、もう遅かった。
彼らの衣服にはすでに狂乱の香の匂いがねっとりと染み付いており、百匹の魔物たちの視線は、完全に彼らへとロックオンされていた。
『ゴガァァァァァァァァァッ!!!』
「ひっ……! く、来るな! 『ファイアボール』ッ!!」
仲間の魔術師が半狂乱になって魔法を放つ。
炎の塊が先頭のオークを吹き飛ばすが、狂乱状態の群れは仲間が死ぬことなど意に介さない。
圧倒的な物量と暴力の津波が、エリート探索者たちを飲み込もうと迫る。
「逃げろ! 早く転移結晶を……ッ!」
男が懐から緊急脱出用のアイテムを取り出そうとしたその時。
彼らの背後の通路――唯一の退路であった空間に、水彩画の黒いインクが滲み出した。
ズズンッ!!
突如として床からせり上がってきたのは、苔むした岩の板。
佑が先ほどまで自分の身を守るために使っていた『塗り壁』が、今度は彼らの退路を完全に塞ぐ『絶望の壁』として配置されたのだ。
「な、なんだこの壁!? どけ! どけえええっ!!」
赤い鎧の男が大剣を振り下ろすが、八百キロの質量を持ち、空間に固定された塗り壁はビクともしない。
完全な袋小路。
前方からは百の狂乱モンスター。後方は絶対に壊れない壁。
それはまさに、佑が計算し尽くして作り上げた、愚者たちのための『処刑場』であった。
『ブギャアアアアッ!』
「ぎゃあああああっ!! 足が! 俺の足がああああっ!」
先頭のゴブリンの群れが飛びかかり、魔術師のローブを引き裂く。
オークの重い一撃が、赤い鎧をひしゃげさせ、男の悲鳴が迷宮に響き渡った。
*
その凄惨な光景を、佑は少し離れた安全圏から、ドローンのカメラと共に静かに見下ろしていた。
「あ、あわわ……! あんなところに人が……! だ、誰か助けてあげて……!」
佑は狐面を手で覆い、わざとらしく震える声で叫ぶ。
だが、彼が一歩も助けに行こうとしないことは、画面の向こうの視聴者には完全に伝わっていた。
『うおおおおおっ!』
『あれ、さっきまで配信のコメ欄で暴れてたシルバーウィングの連中じゃねえか!』
『自分たちで香炉投げて、見事に自爆したってことか!?』
『いや違う! 太田ニキが香炉をあいつらの所に運ばせて、さらに退路を見えない壁で塞いだんだ!』
『エグい! エグすぎる!!』
『あいつら、太田ニキを見捨てたクズパーティだろ? 完全に『ざまぁ』じゃねえか!』
『泣いて怯えてるフリして、自分をハメようとした連中を百匹のモンスターの餌にしてるとか、マジで悪魔だろこのテイマー!』
『最高だ! もっとやれ! 太田ニキ万歳!!』
コメント欄は、かつてないほどの熱狂とカタルシスで爆発していた。
圧倒的な力を持つ者が、力でねじ伏せるのではない。
弱者の皮を被った怪物が、知略と容赦のない盤面操作で、自分を陥れようとした愚者を徹底的にハメ殺す。
その陰湿で泥臭く、しかし芸術的なまでの戦術が、世界中の視聴者の脳髄に強烈な麻薬として刻み込まれていく。
同時刻、関東探索者ギルド本部の特別研究室。
「あはははははっ! 最高っ! 最高よ、佑くん!!」
雨宮結衣は、モニターの前で身をよじらせながら狂ったように笑い声を上げていた。
彼女の目の下のクマは興奮で赤く染まり、白衣の胸元を強く握りしめている。
「質量とベクトルを完全に計算し尽くした空間掌握! そして何より、人間の悪意すらも自身のトラップの『素材』として使い潰す、その冷酷なまでの合理性! ああ、私の見込んだ通り……あなたはダンジョンというシステムを嘲笑う、本物の『バグ』だわ!」
彼女のタブレットには、塗り壁の座標移動データと、管狐の行動軌跡が美しく記録されていた。
魔法の火力など、この少年の頭脳の前ではただの児戯に等しい。彼女はそう確信し、悦びに震えていた。
*
ダンジョン内。
シルバーウィングの面々は、命からがら緊急転移結晶を起動し、半死半生の状態で地上へと逃げ帰っていった。
後に残されたのは、彼らの無残に引き裂かれた防具の残骸と、目標を失ってうろつく狂乱モンスターの群れだけだ。
「……ふむ。ネズミどもは逃げ帰ったか。まあよい、十分な見せしめにはなっただろう」
佑は狐面の下で小さく呟くと、再びナイフを逆手に構え、残ったモンスターの掃討作業――否、魔石の『収穫』へと戻ろうとした。
だが、その時。
ピキッ……、ピキキキキキッ……!
大宮ダンジョン第三階層の空間そのものが、ひび割れるような甲高い音を立てた。
佑の足元の発光苔が、狂ったように点滅を繰り返す。
周囲の冷たい空気が、突如として氷点下まで下がり、息をするだけで肺が凍りつくような異常なプレッシャーが空間を満たした。
「(……なんだ、この異常な冷気は。……それに、この匂い)」
佑のタヌキ親父のような余裕の笑みが、一瞬にして消え去った。
彼の脳裏に、かつて自身を死の淵まで追い詰め、姉・凛に呪いを刻み込んだ、あの悍ましい西洋の気配がフラッシュバックする。
【警告。大宮ダンジョン第三階層における、異常なマナの集中を検知。】
【空間の断層が発生。深層エリアからのイレギュラーな存在の『浮上』を確認しました。】
無機質なシステム音声が佑の脳内に響き渡る。
同時に、迷路区画の最奥――空間が歪んで黒い渦を巻いている地点から、『それ』が静かに姿を現した。
身の丈四メートル。
ボロボロに朽ち果てた漆黒の西洋甲冑を身に纏い、その手には身の丈ほどの巨大な大剣を引きずっている。
兜の奥には顔はなく、ただ二つの青白い鬼火が、呪詛のように揺らめいていた。
「ひっ……! な、なに、あれ……!?」
佑は狐面を手で押さえ、今度こそ本当に冷や汗を流しながら後退った。
ドローンが映し出したその姿に、コメント欄が一瞬にして静まり返る。
『おい……嘘だろ……?』
『あれ、大宮の深層にしか出ないはずの……』
『【黒死の騎士】……Aランク相当のアンデッドボスじゃねえか……!』
『なんでこんな浅い階層に!? 空間バグか!?』
『逃げろ太田ニキ! 今度ばっかりは罠とかそういう次元の相手じゃない!!』
圧倒的な死の気配。
狂乱状態だった百匹のモンスターたちでさえ、その存在を前に恐怖し、道を開けて震え上がっている。
だが、狐面の下の佑の瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく――ドロリと黒く燃え上がる、戦国武将の剥き出しの『殺意』だった。
「(……ようやく見つけたぞ。姉ちゃんに呪いをかけた、憎き元凶め)」
佑は震える演技を続けながらも、ナイフを持つ手にギリッと力を込める。
圧倒的格上のイレギュラー。
底辺テイマーと和風妖怪による、真の死闘の幕が上がろうとしていた。




