第2話
「うわ……実物は初めて見た……」
ドラゴンというモンスターは、ほとんどの人間が一生に一度も目にすることがないと言われるほど、めったに現れない。
最後にドラゴンが発見されたという知らせが届いたのは、俺が生まれるよりも前――百五十年前のことだった。
その時を最後に、どんな本にも、どんな噂にも、ドラゴンを見たという話は出てこなかった。
だが、今はこうして感動している場合ではない。
ドラゴンもそうだ。
そして、ドラゴンと戦っているあの白いヤツもそうだ。
俺が巻き込まれれば、骨すら残らないようなモンスターどもだった。
ひとまず隠れたほうがよさそうだったので、近くにある大きな岩の裏へ身を潜め、二体の様子をうかがった。
グロォァァッ!
白色のモンスターが口を開く。
その口先にマナが集まり始め、眩く輝く球体が凄まじい力を放ちながらドラゴンへ向かって飛んでいった。
空中を舞っていたドラゴンは素早く身を翻してそれを避けると、今度は逆に口を開いた。
炎を圧縮した赤い球体が、白色のモンスターへ向けて何発も放たれる。
ズガガガァン!
轟音とともに、大地が震えた。
洞窟は今にも崩れ落ちそうなほど危うく揺れ、広い空間へつながっていた通路のいくつかは、天井が崩れ落ちて完全に塞がってしまった。
俺が通ってきた通路も、同じだった。
「詰んだな、これ……」
この状況から抜け出すために、俺がやるべきことは一つだけだった。
ほかの通路まで崩れる前に、そこから抜け出すこと。
できるだけ音を殺して進めば、ヤツらには気づかれないはずだ。
俺は身を低くして移動した。
一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、背中を冷たい汗が伝う。
荒くなりそうな息を、どうにか必死に押し殺した。
このまま行けば、見つからずに出られるはずだった。
だが、俺の考えとは違い、ヤツはすでに気づいていたらしい。
『止まれ、人間』
頭の中に響く声。
周囲に人間と呼べる存在は、俺一人だけ。
なら、この声の主は二体のうちどちらかだ。
ドラゴン。
あるいは、地上からドラゴンを見上げ、牙を剥いている白色のモンスター。
ドラゴンは知能が高いという。
なら、この声の主は――
『たしかにドラゴンは知能が高い。だが、人間に声をかけるほど友好的な連中ではない』
まるで俺の頭の中を読んだかのように、ヤツが言った。
この言葉の通りなら、俺の頭の中に語りかけているのは、あの白色のモンスターということになる。
『私を助け、あの爬虫類を私の縄張りから追い払え』
無茶苦茶なことを言う。
人間である俺が、武器も持たずにドラゴンを追い払えだと?
どれほど強い勇者が来たところで、不可能な話だ。
『お前一人で追い払えと言った覚えはない』
なら、どうしろと?
武器もない俺に、お前を助ける方法なんて――
グロォァァァッ!
一度の咆哮。
それと同時に、俺の目の前に光が現れた。
そしてその光は、ある武器の形を成し始める。
鋭い刃。
長い柄。
末端には重心を保つための錘。
柄と刃のつなぎ目には、白い鬣のような毛が飾られている。
槍だった。
『掴め』
俺はゆっくりと手を伸ばし、その武器を掴んだ。
その瞬間。
「同期を開始します」
「……」
「同期が完了しました」
意味のわからない言葉が、素早く耳元を掠めていく。
そして、視界の中央に見慣れない点が現れた。
『私が注意を引きつける。そのあいだに、それをドラゴンの心臓へ投げろ』
勇者の腕力が強いとはいえ、あれほど高く飛んでいるヤツに向かって投げられるわけがない。
『問題ない。お前はただ、目の前に見える点をドラゴンの心臓に合わせて投げればいい』
それなら、難しくはない。
俺の考えを読んだのか、ヤツの瞳が一度だけこちらへ向けられ、それから再びドラゴンへ戻った。
グアァァッ!
大きな咆哮が空間に響き渡る。
高く跳び上がった白色のモンスターの足元に、光の足場のようなものが生まれた。
白色のモンスターはそれを次々と踏みしめながら、ドラゴンへと迫っていく。
一方のドラゴンは、ヤツが近づくのを許すまいとするように、さらに上空へ舞い上がった。
だが、白色のモンスターが思った以上の速さで追いついてくると、今度は逆に、地面へ墜落するような勢いで下降した。
その瞬間を狙っていたのだろうか。
白色のモンスターはドラゴンの上を取ると、下へ向けて口を開いた。
マナが再び集まり始める。
光の球体はみるみるうちに膨れ上がり、そのまま弾けるように放たれ、ドラゴンへ向かって凄まじい速度で飛んでいった。
ドラゴンは紙一重でそれを避けた。
そして白色のモンスターが降下してくるのと同時に、翼を打ち鳴らして再び上昇する。
かなり息が上がっているのか、ドラゴンが深く息を吐いた。
今だ。
ドラゴンが力を削られ、あの白色のモンスターに意識を向けている。
今この状況こそが、絶好の機会だった。
俺は隠れていた岩陰から出て、槍を構えた。
視界に現れた点を、ドラゴンの左胸へ。
心臓へと合わせる。
「行くぞ……」
深く息を吐き、もう一度吸い込む。
そして、ありったけの力を込めて、ヤツへ向かって槍を投げた。
一筋の光を放ちながら、まっすぐ飛んでいく槍。
それはドラゴンの心臓――ではなく、惜しくも翼を貫いていった。
「な……なんだよ、これ……?」
これは俺の力ではない。
昔、剣を投げたことがあるからわかる。
俺の力では、大邸宅よりも高い空に浮かぶ相手へ、あんなふうに一直線に投げることなどできない。
おそらく、これはあの槍の力だ。
いや、視界に見えている点の力かもしれない。
グロォァァッ!
翼を貫かれたドラゴンが目を剥き、俺を睨みつけた。
しかし、それだけだった。
翼に穴が開き、ゆっくりと落ち始めたドラゴンは、必死に翼を羽ばたかせて再び飛び上がる。
そして次の瞬間には、あっという間に頭上の大穴の外へ消えていった。
「追い払った……ってことでいいんだよな……」
いくら元勇者の俺でも、あんな巨大なモンスターを前にすれば緊張するに決まっている。
足から力が抜け、俺はその場にへたり込んだ。
ドン、ドン。
白色のモンスターが、俺に向かってゆっくりと近づいてくる。
そして、縦に裂けた黄色い瞳で俺を見下ろした。
俺、助けたんだし。
まさか食うなんてことはないよな。
『食わない』
またしても、ヤツが俺の考えを読んだ。
「お前、いつでも俺の考えを読めるのか?」
『常にではない。私が読もうと思った瞬間だけ、お前の頭の中を読むことができる』
「そりゃ便利なことで」
俺はふらつきながら立ち上がった。
服についた土を払い落とす。
「じゃあ、そろそろ帰してくれるか? 仕事は終わったみたいだし」
『それはできない』
「……は?」
帰してくれない?
「俺はお前を助けたんだぞ? なのに、お前は俺を助ける気がないってことか?」
『私がお前を呼んだのは、ただドラゴンを追い払わせるためではない』
「じゃあ、俺に何を……いや、ちょっと待て。お前が俺を呼んだって?」
俺の言葉に、ヤツは頷いた。
『お前にはこれから、私の住む巣を管理してもらう』
「巣を管理するって……ここを?」
『そうだ』
「つまり……俺にこの巣……いや、このダンジョンを管理しろって言ってるのか?」
『そう言っている』
「そんな馬鹿な話があるかよ……俺は人間だぞ? 人間の俺がどうやってダンジョンを管理しろっていうんだ?」
『お前は勇者だ。いくつものダンジョンを渡り歩いてきたはずだろう。ほかの連中が私の領域を侵せぬよう、お前が管理しろ。これは頼みではない。命令だ』
「なんで俺が、お前みたいなモンスターの命令を聞かなきゃならないんだよ!」
『それは、お前が私と契約した契約者だからだ』
「契約者? 俺がいつ……」
その瞬間、俺の脳裏に、あの槍を掴んだ時の記憶がよみがえった。
あの時聞こえた、同期が完了したという声。
「まさか……」
『そのまさかだ。そして、お前に選択権はない。このダンジョンの主は私だ。お前がこのダンジョンの中にいる限り、私の手から逃れることは不可能だ』
「は……はは……」
詐欺だろ、こんなの……。
本人に何の説明もなく契約するなんて、どこの世界にあるんだよ!
『ここにある』
「知らなくて聞いたと思ってんのか?」
頭では、この状況を理解することを拒んでいた。
だが、一つだけわかることがあった。
ひとまず、俺の人生は詰んだということだ。
元勇者の俺が、モンスターのためにダンジョンを管理しなければならないだなんて。
『むしろ、よい機会ではないか?』
「いい機会?」
『そうだ。かつて勇者だったお前が、今度はダンジョンの主……いや、私の力を後ろ盾に、魔王となる機会だ』
「魔王どころじゃねぇよ。勇者どもが討伐に来ないことを祈るだけで精一杯だ」
『来させればいい。その雑魚勇者どもは、私がすべて処理してやる』
「はは……はぁ……」
なんとも頼もしいことで。
本当に、なんとも……。
外へ出た。
久しぶりに見る空と、澄んだ空気。
このまま街へ向かいたい気持ちは山ほどあったが、何も言わずに立ち去った瞬間、俺の首はそのまま飛ぶだろう。
『くだらぬことを考えていないで、さっさと捕まえてこい』
モンスターって、そんな簡単に捕まるような連中じゃないんだけどな。
『だからこそ、勇者であるお前に任せたのだ』
「は……はは……」
これ以上話しても、頭が痛くなるだけだ。
ひとまず道を探そうとしたのだが……周囲を見回してみると、まったく見覚えのない場所だった。
ここ、どこだ?
『ここはヘルゲルト山脈北部だ』
「ヘ……ヘルゲルト山脈北部……?」
俺がいた街は、たしかフロストベントだった。
南にあるヘフェン帝国の、そのさらに南に位置する街だ。
一方、ヘルゲルト山脈北部は、北方のホセン大公国のさらに北にある場所。
つまり、ほとんど正反対の場所だった。
「いや、そんなところまで俺、どうやって来たんだよ?」
『どうも何も、私の召喚によって来たのだ』
「つまり……俺がここに来た理由は、お前のせいってことか?」
『先ほどからそう言っているだろう』
「クソ……」
俺はてっきり、あのクソ野郎が俺をここに捨てていったのだと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。
すまん、クソ野郎。
『そんな無駄なことを考えている暇があるなら、一匹でもモンスターを捕まえてきたほうが、お前の身のためだと思うが』
その瞬間、背後から冷たい視線を感じた。
「わかった、わかったよ」
本当に、昔の人間が言う通り、人生というものは何が起こるかわからないらしい。
農民だった俺が勇者になり。
勇者だった俺が、今度はモンスターのために巣を管理することになるなんて。
「クソが……」
口から出るのは、長いため息だけだった。




