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本と魔法とふたりの私  作者: 但野 ひまわり
12/17

      Ⅱ

『えいやー!』

『そーりゃー!』

 縄でぐるぐる巻きにされた魚は丸太の上を熊さんたちに押され、じりっじりっと山肌を登って行く。

 先頭で引っ張る熊七郎さんを前に、私たちは魚に巻きつけられた縄を肩にかましてその巨体を押して行く。いくら丸太の上を滑らすと言っても巨体から想像する重さは半端ない。その上極度の傾斜面が私たちを必要以上に苦しめる。

『畑山、もっと頑張りなさいよ』

 そう言うワタさんの手は魚の巨体に当ててはいるが、全然力が入っていない。

「めっちゃ力……入れてますよ! ワタさんこそ、もう少し踏ん張って下さい!」

『入れたいのは山々なんだけど、どうも力が入らないみたい。御免なさいねぇ』

 ワタさんは悪びれる様子もなく、そよそよと吹く風に、ぺらぺらの体を任しているだけだった。それが視界に入るだけで、私の力は奪われるように抜けていく。予想はしていたが、ワタさんは全然役に立たなかった。

『畑山さん、頑張って!』

 足元でルビが応援してくれる。私は顔を引きつらせながらも何とか笑みを見せてルビに答えた。明日には筋肉痛になるだろうな、いや、明後日に来るかもしれない、などと思いながら力を込めた。

『みんなーもう少しだ! 踏ん張れー!』

『えいやー!』

『そーりゃー』

 頑張る他の熊さんたちの額にも汗が滲んでいた。私はというと既に体力は限界に近く、顔は汗でびしょ濡れになっていた。塩辛い液体のせいで目が沁みる。

『よし! 村が見えたぞー!』

『おーっ!』

 その言葉に熊たちのみならず、私のへろへろになっていた士気も何とか上がった。熊七郎さんは私たちと同じように、縄を肩にかけて更に強く押して行く。私も火事場の馬鹿力ならぬ、最後の弱力で魚の巨体を押しまくった。上りの道が緩やかな下りに差しかかったところで、進む魚のスピードに勢いが生まれてしまった。

『ちょっと、このままだと村にぶつかるんじゃない?』

 ワタさんの心配を肯定するように、熊七郎さんの顔に焦りが見え始めた。『やばいな、まずいな』と呟いている。そして慌てて他の熊さんたちに指示を出した。

『おい、お前ら、押すの止めろ』

『そう言われてもお頭、俺たちはもう押してません』

 むしろ、勢いを殺すように少し引いているくらいだ。

『急には止まれないっす』

 と若い熊さんから尤もな答えが返って来ると、熊七郎さんは『そりゃそうだわな』と言いながら、がははと笑った。

「熊七郎さん、どうするんですか?」

『こうなったら村にぶち当たるまでよ』

 熊七郎さんは、腹を括ったように答えた。何かとても男前のような台詞に聞こえるが、危険なことに変わりない。愛しい奥さん熊たちが村にいるにもかかわらず、何て無鉄砲なのだろう。そんなことで大丈夫なのかと考える間もなく、入り口はもうすぐ目の前だった。

『みんな、怪我するんじゃねぇぞ。いいな!』

 長の言葉に、熊さんたちは元気よく、へい! と叫ぶ。

『行くぞー!』

 私は怖くなって目を閉じた。ごぉんと鳴り響く音と共に、私の意識はそこで途絶えてしまった。


 ひんやりとした感触で目が覚めた。熊七郎さんの奥さんであるザボエラさん、ルビが私の顔を心配そうな顔で覗きこんでいる。ワタさんは黙って影絵のような瞳をこちらに向けていたので、悪夢を見ていたような気分になった。

 ザボエラさんは目を覚ました私を見て、ほっと息を吐く。

『大丈夫?』

「えっと……」

(確か熊七郎さんたちと魚を運んでいて……?) 

 考えようとした私の頭を、ワタさんがぺしっと叩いた。

『もうっ。畑山ったら。気を失うなんてびっくりするじゃない』

(そうだ。村の入り口めがけて釣った魚ごと、みんなで突進してしまったんだ)

 そしてあまりの威力と衝撃で、気を失ってしまったらしい。

 ザボエラさんが申し訳なさそうに頭を下げた。

『うちの主人がごめんなさいね。本当に無茶なんだから。旅の人に怪我を負わすなんて』

 ザボエラさんの視線の先には、しょんぼり小さくなりながら、鼻をぽりぽり掻いている熊七郎さんの姿があった。奥さんに頭が上がらないと言っていたのは本当だったようだ。

 私と目が合うと、熊七郎さんはその大きな手を合わせ、しきりにすまなかった、すまなかったと謝っていた。

「もう、大丈夫ですから。えっと、」

 私は見慣れない場所に、きょろきょろと辺りを見回した。どうやら熊七郎さんの家の一室に寝かされているようだった。客室用なのか生活感はあまり感じられず、どこかロッジやコテージのような雰囲気があった。部屋の隅にはそれぞれ蝋燭が置いてある。暗くなるとそれで灯りを取るのだろう。そして壁には丸い窓が一つだけあり、そこから室内に夕日が差し込んでいた。

「他の熊さんたちは大丈夫ですか」

『大丈夫よ、皆ぴんぴんして宴の準備をしているわ』

さすが厳しい自然の中で生きているだけあって、逞しい。か弱い人である私の結末は、ある意味妥当なものだったに違いない。

若い衆の無事を確認した後、私は体を起こして腕や首、腰などを動かしてみた。どこも怪我はしていようだ。

「うん。私、大丈夫ですよ」

 熊さん夫婦を安心させるように一人納得して頷いていると、ザボエラさんは『いいえ、いけません』と首を振って私を布団に寝かせた。

『まだ気を抜いては駄目よ。旅の疲れもあるでしょうし。夕飯までもうしばらく休んでいたほうがいいわ』

『ワシからもお願いする。ぜひそうしてくれ。これ以上山ちゃんたちに何かあったら、ワシはこの村で生きていけなくなる』

 そんな大袈裟な、と思ったが、いやいや待てよと考え直した。

(愛妻家の熊七郎さんなら、ザボエラさんに嫌われでもしたら、きっと生きていけないかもしれない)

 私は仲睦まじい夫婦の未来のことを考え、分かりましたと答えた。

『ちゃんと休むんだぞ』

 熊七郎さんはそう言って、扉替わりのカーテンを開けて部屋を出て行った。夫の背中を見送って、ザボエラさんは私の手を取り、改めて私に謝った。

『本当にごめんなさいね。悪気はないんだけど、どうもむこうみずで』

「大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしただけです」

 ザボエラさんはありがとうと言いながら、にっこり笑った。すると突然、その背中におぶられていた赤ちゃん熊が泣き出した。泣いている赤ちゃん熊の顔は大人とは違い、ぬいぐるみのようで可愛かった。

『あら、あら。お腹が空いたのね。ちょっと待ってね。今、ミルクあげるから』

 ザボエラさんはエプロンのポケットから哺乳瓶を取り出すと、素早く赤ちゃん熊の口に当てた。途端に赤ちゃん熊は静かにミルクを飲み始めた。

「凄い。ザボエラさん、手際がいいですね」

『私、五頭兄妹の一番上なの。妹や弟の世話をしてたから、こういうことには慣れてるの』

『どうりで。何か落ち着きがあるなと感じてました』

 ルビがそう伝えると、ザボエラさんは可愛くウィンクで答えた。なかなか茶目っけのある奥さん熊である。

『もう一人、息子がいるって聞いたけど』

『えぇ。この子のお兄ちゃん。熊八郎よ』

 ザボエラさんは、そう言いながら、体を上下に揺らして背中の赤ちゃんをあやしている。ミルクを飲んでいる最中なのに大丈夫なのかなと私が心配していると、赤ちゃん熊は親父さながらのげっぷを披露した。

「お兄ちゃん?」

『えぇ。十歳になるわ』

 確か熊七郎さんは新婚だと言っていた。

(ザボエラさんの背中におぶられている赤ちゃんは計算が合うとして、そのお兄ちゃんである熊八郎さんは……)

『熊八郎は主人の連れ子なの。私とは血は繋がってはいないけど、大切な息子よ』

 奥さんに先立たれた熊七郎さんと、一年前に再婚したのだとザボエラさんは教えてくれた。気立ても良くて、働き者のザボエラさんのことだ。連れ子である熊八郎さんとも仲良くやっているのだろう。

『それにしても、熊七郎に熊八郎って。ここの男共のネーミングセンスはどうにかならないのかしら』

 正直私も感じていたことだが、失礼な気がして敢えて口にしなかった。私は躊躇いもせずに聞いてしまうワタさんに、苦笑いしか出て来ない。しかしそんな質問にも、ザボエラさんは笑顔で答えてあげる。

『昔、この村を創った熊が、熊一郎と言う名前だったのよ』

 その熊一郎さんは、村の長として立派な熊だったという。それからその名は偉大な名前として、歴代の村長に受け継がれていくことになったらしい。

「でもそれならどうして村の名前が【熊次郎】なんですか」

『最初は【熊一郎の村】になる予定だったらしいんだけど、熊一郎さんは自分よりも、支えてくれた息子の名を村につけたのよ』

 なんて出来た熊さんなのだろう。それが人の世界であったならば、我がが、我ががと自分の名前をつけたがるに違いない。私は感嘆の息を漏らしてしまった。

「じゃぁ、熊七郎さんは」

『えぇ。七代目の村長なの。あぁ見えても狩りの名手なのよ。そして、熊八郎がいずれ八代目の村長として受け継ぐはずだわ』

「それなら安泰ですね」

 しかしザボエラさんは顔を曇らせ、宴の準備があるからと言ってそそくさと部屋を出て行った。

『どうしたのかしら』

「何か、変でしたね」

 ルビも首を傾げていたが、くるりと私の方に顔を向けた。

『畑山さん、今は念の為、ゆっくり休んで下さい。僕も少し休ませてもらいますから』

 ルビはそう言って私の布団にぴょこんと飛び乗り、足元の方で丸くなって目を閉じた。そしてすぐに気持ち良さそうな寝息をたて始めた。もしかして、言い合う私とワタさんの間に挟まれて、相当疲れていたのかもしれない。小さく丸くなった案内猫を見ながら、罪悪感に苛まれた。いい大人だが、良い大人になろうと思った。心の中で新たな決意が生まれた途端、私も急に睡魔が襲って来て、瞼が重くなった。このまま眠ってしまおう。

『ちょっと、畑山も寝るつもり?』

「えっ? いけませんか」

 もそもそと布団に入ろうとしていた私に、ワタさんは拗ねたように口を尖らせた。ワタさんだけは眠気というものがないので、手持無沙汰なのだろう。しかし私の瞼は重石でも乗せられているかのように、今にもくっつきそうだ。

『あんたはワタシを置いて寝るんだ。そうなんだ。ふーん』

「えぇ、寝ます」

 本当にワタさんを置いて寝ようとした時、私たちがいる部屋の前を誰かが通る気配がした。竪穴の住居の中は、更に幾つも穴が分かれているようで、他にも部屋があるらしい。

『八、今までどこに行ってたんだ。若い衆から聞いたぞ。途中でいなくなったって』

 声は熊七郎さんのものだった。恐らく相手は息子である熊八郎さんだろう。私たちが休んでいることで声を小さくしているようだが、熊七郎さんの声は元々大きいので、こちらにも丸聞こえだ。かと言って、緊迫したような雰囲気から物音を立てられるわけもなく、私とワタさんは息を潜ませ、耳を傾けていた。

『別に……。どこだっていいだろ』

 一方、熊八郎さんは、ぼそぼそと力なく呟いている。

『どこだってって。みんなが心配するだろうが。せめてどこに行くとか、いつ帰るとかぐらい言ってだな』

 熊八郎さんは黙ったままだ。その態度に熊七郎さんが困惑しているのが窺えた。

『今晩は旅の人の訪問を歓迎する宴がある。お前もみんなと一緒に釣った魚の調理を手伝ったらどうだ』

『僕、疲れてるから』

 そう言って熊八郎さんが、のそのそと奥へ歩いていく気配がした。

 熊七郎さんの重い溜息だけが辺りに残り、やがて諦めたように立ち去る足音が遠ざかっていった。

『何か幸せそうな家族に雲行きが怪しくなってきたわね』

「ちょっと。何、面白そうに言ってるんですか。不謹慎ですよ」

 まだ近くに誰かがいるかもしれないので、私はひそひそ話のレベルで声を小さくする。しかしワタさんはお構いなしである。

『だって、あんなに仲睦まじい夫婦なのに、その息子がニートってねぇ』

 まだそうだと決まったわけではない。それに他人様の、いや、他熊様の家庭のことに、部外者がどうこう言うこともない。

「誰だって、どこの家族にだって何かしらの悩みはありますよ」

『え? もしかして畑山にもあるの?』

「そりゃぁ」

 私にだって当然悩みの一つや二つ、いや、もしかして星の数ほどあるに違いない。自分で言うのも何だが、私はこう見えても至って純真なのだ。今まで何気に失礼な言葉を浴びせてきたワタさんに、私は敢えて上から目線でずいっと強く尋ねてみた。

「ないように見えますか?」

『だって現状で満足してそうじゃん』

 ワタさんに痛いところを突かれ、私は上から目線を下向き目線に変えた。

 確かに大学卒業後、就職活動に失敗してから次を探す、探すと言い続けていたものの、その気楽さから結局フリーターの道を突き進んでいた。今働いている飲食店のバイトは五年続いていて、バイトリーダーなんかも任されている。私は一体どこを、何を目指しているのか。「フリーターもいいけど、たまには就職のことも考えてみたら」と心配してくれた友人の言葉も、「そうだね」と言いながら右から左に通り過ぎて行くだけだった。日々の暮らしに流され、考えなければいけない事柄を、考えたくない自分がいた。私は改めて自分の駄目なところを突きつけられたようで、お腹が痛くなった。

『何ぐったりしてんのよ』

「あ、いえ、別に」

 将来とは、なんと漠然としているものなのだろう。就職活動に失敗して十三年。日々はあっという間に過ぎていく。もしも未来の猫型ロボットが出してくれる無駄時間取り戻しポンプがあれば、かなり踏み込めるに違いない。私は後悔の念を払うように、非現実的な考えを頭から押しやった。

「それにしても熊八郎さんの様子、気になりますね」

『どうしてこうも男は弱いのかしらねぇ。ジャンバラヤのペパルといい、トリッド族のポセイドンといい、そして今度は熊八郎?もうちょっときりっとした奴はいないのかしら』

 ワタさんはそう言って、かつての恋人、カゲオさんに再び想いを馳せていた。

『畑山さん、休まないんですか?』

「あっごめん。ルビ、起こしちゃった?」

 布団の上で丸まっていたルビが目を開けてこっちを見ていた。しかしまだ眠いらしく、その瞳は少しぼやけている。

「ワタさんに妨害されちゃったのよ。おかげで目が覚めちゃって。ルビは私たちに気にしないで」

 ルビは一つ大きなあくびをした後、

『すみません。そうさせてもらいます。もう、なんだか眠たくて』

 と言いながら、再び目を閉じて寝息を立て始めた。

『よく寝る案内猫ねぇ』

 呆れるように息を吐くワタさんだが、私から言わせれば私たちと同じように眠ることのできないことの方が不便で困る。一人で時間を潰してくれればいいのに、そう言う時に限って絡んで来る、ワタさんは、かなり扱いづらい影だった。

『何か言った?』

 一瞬心を読まれたかと思ってぎくりとしたが、私は至って笑顔を見せて、いいえと答えた。自分の影だけあって、なかなか迂闊なことは考えられない。私は布団から出てベッドの下に置いてあった靴に足を入れた。

「目も覚めてしまったし、ザボエラさんたちを手伝いに行きますか」

『そうね。あの大魚がどんな風に料理されるのか見てみたいしね』

 私はつま先を床でとんとんしながら靴を履き、部屋の出口に行ってカーテンを開けた。部屋の前には居間のような広いスペースがあり、私がいるところを含め、壁には部屋があることを窺わせるカーテンが五つあった。その内の一つに人の気配ならぬ熊の気配を感じたが、私たちはまずザボエラさんのところへ行くことにした。居間から外へ抜ける入口が見える。住居である竪穴を出ると、外は夕日が沈みかけ、薄暗くなっていた。

 井戸の手前の広場では村の熊々たちが集まり、いそいそと宴の準備をしていた。雌熊さんたちは大魚の切り身を串に刺したり、焼いたり野菜と炒めたりと腕を振るっている。雄熊さんたちは大魚の体から、まだ身を切り取っていた。村の入口が気になって見てみたが、勢いのついた大魚の威力は凄まじかったらしく、村を守るように生えていた木は、何本かなぎ倒されたようになっていた。数頭の雄熊さんたちは、入口の補修作業に忙しそうだった。

『おぉ、もう大丈夫か?』

「もう、すっかり」

 私たちに気づいた熊七郎さんは頷いた私を見て、安心したように息を吐いた。

『それは良かった。本当にすまなかったな』

「いえ、いえ本当に大丈夫ですから」

 他の若い熊さんたちも私の顔を見て『良かったですね、あんな経験なかなかできないですよ』とか、『姉さんと一緒に仕事が出来て嬉しかったですよ』とか言ってくれた。私はいつの間にか若い衆の間で姉さんになっていた。隣ではワタさんが、珍しそうに解体作業を眺めていた。

『ねぇ、見たところ十分な料理が並んでるけど、まだ切り取るの?』

 広場には既に出来上がった料理や果物、野菜に木の実がこれでもかと言わんばかりに並べられていて、なんとも美味しそうな香りが辺りに立ち込めている。

『あぁ、あれは保存用のためさ』

 熊七郎さんの言うように、数頭の雄熊さんたちは切り身を干したり塩を振って樽に入れたりしていた。

『あの魚一匹で百頭前ぐらいはあるからな』

「百頭分ですか!」

 私はあまりの凄さに、ほっへーと間抜けな声を出してしまった。

 十人前なら何とか想像できるが、百人前はもう未知の世界である。

『一晩では食べきれないから、そういう場合は干し魚にしておくんだ。塩漬けは更にその保存食用さ』

 なかなか考えられたものである。テレビでやっている野生の生態なんかの番組で、ライオンが食い残した物をハイエナやハゲタカが漁っているのを見たことがあったので、食べれるだけ食べて後は捨てる物だと思い込んでいた。

「この近くの川は、魚がたくさんいるみたいですね。村に来る前、あまりの綺麗さに川に入ったんです」

 家の水道水であれば、お腹をくだすかもしれないが、飲めば体の方が綺麗になるんじゃないかと思うくらい、その水は澄んでいた。

『魚がうようよ泳いでて、気持ち悪いったらなかったわ』

 熊七郎さんはそんなワタさんを見てがははと笑うと、これでも以前は魚が全く捕れなくて困っていたと言った。

『もうあんなひもじい思いを村の者にはさせたくないからな。だから無理な猟はせずに、その日必要な分だけ捕る。そして今日みたいに大魚があがれば、残った分は保存食として使うようにしているのさ』

『あら、優子さん、もういいの?』

 焚き火のそばで腕を振るっていたザボエラさんが私に気づき、声を掛けてきた。私が「はい」と頷くと、安心したように顔を綻ばせた。

「何か手伝うことないですか?」

『あんなに頑張って魚を運んでくれたのに、これ以上働かせるわけにはいかないわ。今日は優子さんたちが主役だから、じゃんじゃん食べる方にまわってね』

 ザボエラさんは、ウインクしながら愛嬌よく答えた。

『後は、あれと、これを酒蒸しにして……』

 ザボエラさんは料理の段取りを立てながら、あと二十分ほどで出来るから待っていてねと微笑んだ。

『保存用の作業はもう少しかかりそうだ』

 熊七郎さんはそう言って、自分の住居である竪穴の方を見ながら眉を寄せて呟いた。

『全く、八も手伝えばいいものを』

『八ちゃん、帰ってたの?』

 ザボエラさんは心配そうに竪穴の方を見る。

『あぁ。さっき俺が声を掛けたんだがな、疲れてるからとか言って部屋に入って行ってしまった』

 私も先程の二人のやり取りを思い出した。それは思春期によくある親子の雰囲気によく似ていた。

『次の長はあいつだってのに、こんなんじゃ安心して任せられん。ご先祖さんに顔も向けられないわい』

『八ちゃん……。やっぱり駄目だったのかしら』

「あの……」

 家族間のことに、部外者である者が聞いてもいいものなのか正直迷ったが、私たちの為に宴を開こうとしてくれた二人があまりにも悩んでいるようだったので、思い切って尋ねてみることにした。

「熊八郎さん、どうかしたんですか?」

 熊の夫婦はお互いに顔を見合わせると、実は、と言って重たい口を開いた。

 この村ではチャパタといわれる風習があるそうだ。人で言えば成人式のようなものらしい。熊は十歳になると、袴や振袖を着る代わりに川に下り、一人で村の熊全員分の魚を捕る。そうして大人の仲間入りになるそうだ。今年十歳になる熊八郎さんもそのチャパタを行ったが、村の熊全員分どころか一匹も釣れなかったらしい。

 私は村に来る前に川で見た熊が、熊八郎さんだったような気がしてならなかった。

『その後、何度かチャパタを行ったが、八は魚を釣ることが出来なかった。そのうちチャパタどころか何もかも投げやりになってしまってな』

 熊七郎さんはそこで言葉に詰まり、歯がゆさを表すように首を捻った。

『でも八は筋がいいんだ。きっと何回かやればやり遂げることができる。ワシはそう思ってる』

 ザボエラさんもそれを肯定するように頷いていた。

『しかし最近じゃぁ、ワシと話すのも嫌なのか、ロクに口もききやしない』

 熊七郎さんは寂しそうに肩を落とすと、どうしたものかと腕を組んだ。暗く沈んでしまった夫を励ますように、ザボエラさんは努めて明るく振舞った。

『そんな、うじうじしてるようなお父さんなら、ますます息子に嫌われちゃうわ。あなたはどしっと構えてくれていればいいのよ』

『そうだな。でも若いもんの手前、あいつだけ何もしないっていうのもな』

「だったら、私が呼んできますよ」

 身内より、第三者の方が話しやすいということもあるだろう。私も親が疎ましいなと思ったことがある。他人になら、不思議と言いにくい悩みでも、ふっと打ち明けてしまうことが出来るかもしれない。私は心配そうに見つめる夫婦に、行ってきます、と言って手を振り、住居である竪穴に向かった。

 歩いていると、さっきから視線を感じる。

「何ですか?」

 ワタさんは、ふうんと頷きながら私をじっと見ていた。

『畑山って』

「何でしょう?」

『大胆な発言する人だったのねぇ』

 あまりにも自分のことは棚に上げっぱなしだったので、

「ワタさんの魚運び手伝う発言よりマシですよ」

 と言い返してやった。ワタさんの発言は本能のまま、何も考えずに発しているかもしれないが、私が今回のことを買って出たのには理由がある。この世界の登場人物たちは物語の中とは言え、人間味に溢れている。だから、どこか親しみを感じてしまうのだ。とても無視して通れない。

『でもそういうこと、畑山は面倒臭がるかと思ったから』

 意外そうな口振りのワタさんに、私は、そうですね、と答えた。

「確かに本当のところは面倒臭いのかもしれません。でも、物語を進んでいかなければ魔法の種は手に入らないでしょう? だったら、主人公の心にも触れていかないと駄目なのかなぁと思って」

 私がそう言うと、ワタさんは案の定『畑山のくせに何かいいこと言ってるわね』と茶化していた。

 私はそれを聞き流しながら、ジャンバラヤで出会った主人公を思い出していた。シャンシャンさんを愛し、ジャンバラヤの発展を夢見ていたペパルさん。その愛は屈折していたが故、実ることは出来なかったが、これからは新しい巫女と一緒に愛する国を支え続けていくだろう。ルビ曰く、何かの力で話の内容が変わっていたそうだが、国を発展させていく青年と踊り子の話という本来の結末になったのは、きちんと登場人物、主人公と向き合ったことによるものなんじゃないかと私は感じていた。

 竪穴に着き中に入ると、私はさっき熊の気配を感じたカーテンの前まで移動し、声を掛けた。

「熊八郎さん、お父さんが呼んでますよ」

 寝てしまったのか、部外者には口を聞きたくないタイプなのか、返事はなかった。

「熊八郎さ……」

『ちょっと、返事くらいしなさいよ』

 もう一度声を掛ようとした私の前に、ワタさんがしびれを切らしてカーテンを開けた。

『いないじゃない』

 そこに熊影はなかった。布団が敷いてあるだけの部屋は、どこか寂し気にがらんとしていた。

「あれ? ここじゃなかったかな」

 他の部屋を見つめる私の視界に、そのうちの一つからまだ眠そうなルビが出て来た。

『誰か探してるんですか』

「熊八郎さんていう人、いや、熊」

 私が説明をすると、ルビは『もしかしたらあれがそうだったのかな』と呟きながら教えてくれた。

『誰かがこの部屋の前を通って外に行く気配がしたんです。畑山さんたちが来る本当にちょっと前』

『ちょっと、ちょっと。あんたそう言って寝ぼけてたんじゃないでしょうねぇ』

 疑いの眼差しを向けるワタさんに、ルビは、それはありません、ときっぱりと言った。

『のしのしと重い足音だったんで、頭に残っているんです』

「そっか。熊八郎さん、どこに行ったんだろ」

『どこかでサボってんじゃないのぉ?』

 小言のワタさんは放っておいて、私は熊八郎さんが行きそうな所を考えてみた。しかしまだ、私は熊八郎さんのことを何も知らなかった。

「全然分からないな……」

 悩む私のジャージの裾を、ルビが前足で引っ張った。

『畑山さん、僕たちがここに来る前見かけた熊って、その熊八郎さんじゃないですか』

「うん。私もそう思ってた」

 何度も何度も腕を振り下ろしていた熊。川辺を去っていく寂しそうな背中は、漁が出来ない自分への歯がゆさと、次期村長となるプレッシャーからなる物かもしれない。私はそんな熊八郎さんのことが心配になった。今日、村の熊たちは、大魚が捕れたと喜んでいる。

 しかし、何一つその力になれていない熊八郎さんは、村に居づらかったのかもしれなかった。

『どこ行くのよ』

「見かけた川に行ってみます」

 何も確証はないが、そこに熊八郎さんがいる気がしたのである。

『もうすぐ宴が始まるっていうのに』

 とぶつぶつ言いながら、ワタさんも後ろを付いてくる。ルビはしっかりと睡眠が取れたのか、元気にぴょんぴょん跳ねながら前を歩いた。

 私は宴の準備を進める熊七郎さんとザボエラさんに、熊八郎さんを探してくると伝えると、一瞬驚いたような顔をしたが、二人は『ありがとう』と言って申し訳なさそうに頭を下げた。そして熊八郎さんは『蛇には気をつけるんだぞ』と怖い警告をくれた。

「へ、蛇?」

 爬虫類が苦手な私が恐怖に慄いていると、

『大丈夫ですよ。僕が畑山さんの足元を注意して歩いていきますから』

 と、ルビは何とも紳士な言葉を言ってくれた。やはりルビを猫にしておくのはもったいなかった。熊七郎さんは、蛇は音が苦手だからこれを持っていくといいと言って、どこにでもある木の枝を得意気に渡してくれた。

 森に入ると空を覆う枝葉のせいで、村よりも辺りが薄暗い。風でざわざわ騒ぐ木々の音が一層薄気味悪く、夜の森は一番行ってはいけない場所だなと私は改めて確信した。次から森に出かける時は、朝にしようと密かに心に誓った。

 ザボエラさんが持たせてくれた松明を掲げながら歩く。整備されている道がなかったら、間違いなく遭難していることだろう。この道を造った初代村長、熊一郎さんの偉大さが、少し分かったような気がした。

 熊七郎さんにもらった枝で、両脇に伸びている草を払いながら歩いていくと、私の足元を歩いているルビが、たまに前に出てふーっと威嚇の姿勢を取るので、私はその度にそこに蛇がいるのかと恐怖に慄いた。ワタさんはこの薄闇に溶け込んだように馴染んでいて、注意して見なければ、どこにいるのか分からなくなっていた。

 ワタさんはそのことを知ってか知らずか、影絵のような目を閉じて私の反対側に回り、突然目を開けて私を驚かしては喜んでいた。

 水の匂いがするにつれて、ばしゃん、ばしゃんと水を弾く音が聞こえる。林の間から川の様子を窺ってみると、一頭の熊が、こちら側に背を向けて暗い川面に腕を振り下ろしていた。しかし飛沫が上がるだけで、魚は捕れていないようだった。そのうち熊は諦めたように腕を下ろし、膝を抱えるようにしてその場に腰を下ろした。

 私たちは林を抜けて川辺に出て、熊八郎さんが座っている場所へと近づいて行った。しかし顔を合わせたことがない、ましてや話もしたこともない初対面の熊さんに、私はどう声を掛ければいいのだろう。

 今日はいいお天気ですねぇ。私もよくここに来るんですよ。釣りは最高ですなぁ。どれも違う気がした。

『何しょぼくれてんのよ』

 私がああだ、こうだと考えている隙に、ワタさんは本能のまま言葉を口に出した。振り返った熊八郎さんの顔には驚きと困惑が浮かんでいた。

『だ、誰?』

「驚かせてごめんなさい。私、畑山優子っていうの」

『もしかして、父さんが言ってた旅の人?』

 私が頷くと、熊八郎さんは、ほっとしたように息を吐いた。私は続けてワタさん、ルビを紹介した。

『そろそろ歓迎の宴が始まるんじゃない? 戻った方がいいよ』

 熊八郎さんはそう言って、視線を川面に戻した。一瞬、熊八郎さんも一緒に戻ろうと言いかけたが、自分の存在意味に疑問を抱いているかもしれない熊八郎さんが、首を縦に振ることはないだろう。

 私は持っていた松明を川辺に転がっている石の間に差し込むと、ジャージのズボンを膝上まで上げ、川に向かって歩き出した。

「ここはいい所ね。空気がよくって、緑があって川があって」

『お姉ちゃんのところにはないの?』

 私が両手を広げて深呼吸をしていると、熊八郎さんは不思議そうにそう尋ねた。おばさんとは言わず、自然に私のことをお姉ちゃんと呼んだ熊八郎さんは可愛いなと思った。

「今住んでるところにはないかな。でも昔はおばあちゃんの所へ遊びに行く度、よく山や川で遊んだ」

 私は靴を脱ぎ、ひゃっほうと叫びながら川に入った。昼間とは違って、今の時間の水は格段に冷たかった。私と繋がっている足が水につかったワタさんは、迷惑そうに私の顔をじっと見つめていた。

「わっ。魚がいっぱい!」

 決して生きた魚介類が得意ではない私だったが、頑張って気持ちよさそうに泳いでいる魚を捕まえにかかった。ここの魚は警戒心があまりないのか、簡単に尻尾を掴むことができる。そのまま片手を胴体に回し、抱えようと試みたが、魚はくねくねと体を泳がせて私の手からするりと逃げてしまった。

「あぁー。残念。昔っから何でも上手くいったことないんだよね」

『えっ。お姉ちゃんも?』

 熊八郎さんは、驚いたように目を見開いた。

「うん。何回も何回も失敗した」

『嫌にならなかった?』 

「そりゃぁ、嫌になったよ」

 私が重ねてそう言うと、熊八郎さんは『お姉ちゃんもそうなのかぁ』と呟き、考え込むように下を向いた。

 私は川から上がり靴を履こうとしたが、何も拭くものを持っていないことに気がついた。またやってしまったと思いながら、ポケットに入れたままにしておいた靴下で、こっそり足の水滴を拭った。

 私は靴を履いてジャージのズボンを元通り下ろし、熊八郎さんの隣に座った。しばらく一人と一頭、一匹、一影で、川面を眺めた。さらさら流れていく水の音だけが、心地よく耳を通り過ぎていく。ふいに熊八郎さんが思い詰めたように口を開いた。

『あのさ……僕だけ、村の中で漁をすることが出来ないんだ』

 村では十歳で行われるチャパタに向けて、五歳になる頃から親に漁の仕方を教わるらしい。熊八郎さんも五歳から熊七郎さんに漁を教わったそうだが、今まで一匹も釣ったことがないということだった。

『自分自身に腹が立つ。何でこんなにも出来ないのかって』

 熊八郎さんはそう言いながら、膝の前で組んでいた手をぎゅっと握り締めた。熊七郎さんは、息子の為に何度もお手本を見せてくれたそうだ。

『父さんがやると、何であんなに簡単に出来るんだろうって思う。それくらい、上手いんだ』

 父親のことを嫌っているのかと思っていたが、熊七郎さんを思い出しながら語る熊八郎さんの目は、素晴らしいものでも見るかのように、きらきらとしていた。父親をまねるように腕を振り上げ、身ぶり手ぶりで熊七郎さんの漁を再現してくれる。ふいにその腕が、静かに下りた。

『父さんも母さんも、僕に期待してくれているのもよく分かる。それに答えられない自分が嫌になる』

 漁の出来ない熊八郎さんのことを悪く言う熊はいない。しかしその事実が、却って熊八郎さんを苦しめているように思えた。

『僕、村にいない方がいいのかな……』

「村を出たら、それこそ自分で魚を捕らないと生きていけないよ」

 熊八郎さんはそのまま黙ってしまった。

「焦らなくていいんじゃない? もっと、こう、気楽に考えて」

『その考えも気をつけた方がいいわよ。この畑山なんか、年がら年中気楽に考えてこの歳まで来ちゃったんだから』

「この歳までっていうのはいらないでしょ」

 その言い草に、となりの影へ向けて眉を寄せたが、正直なところ私はワタさんの言葉に耳が痛くなった。 確かにこの歳まで来てしまったのである。

「これは熊八郎さんが決めることだけど、失敗したまま過ごしていたら、そこから前には進めないよ。ずっとそのままの自分でもいいの?」

 悩める熊八郎さんに、私は思わず声を掛けていた。

 隣のワタさんはと言えば、

『辛気臭いわね、もうちょっと熊は熊らしく、どんと構えてなさいよ』

と容赦がなかった。

熊八郎さんはしばらく考え込んでいたが、すっくと立ち上がり、

『僕、もう一度やってみる』

 と呟いた。

『そうそう、その意気よ』

ワタさんはそう言うと自分のぺらぺらした腕をしならせ、勢いよく熊八郎さんの体をばんっと叩いた。その威力は思いの他大きく、決して小さくない熊の体は川へと投げ出された。大丈夫かなと心配したが、川底に尻をつけた熊八郎さんは、びしょ濡れになった顔をそのままにしながら愉快に笑っていた。熊八郎さんは『やったなぁ』と言いながら、ワタさんに反撃の水飛沫を浴びせる。すぐ隣にいた私もびしょ濡れになってしまった。

 最後には、私もワタさんも川に入り、年甲斐もなく水かけっこをして遊んだ。ルビだけは、そんな私たちを見て微笑んでいた。

『あっ。こんなにも魚がいる』

「本当。さっきはよく見えなかったけど、こうして近くで川の中を見てみると、夜でも結構いるもんだね」

 熊八郎さんは川の中で泳いでいる魚をじっと眺めていたが、そっと手を中に入れてその尻尾を掴んだ。私たちは騒がず、その様子を見守ることにした。熊八郎さんはタイミングを計るように、じっとしていたが、次の瞬間、素早い動きで魚の体に手を回し、抱え上げた。

「熊八郎さん!」

 信じられないというような熊八郎さんの腕の中で、魚はぴちぴちと元気よく動いている。

『あんた、やれば出来るじゃない!』

 熊八郎さんは今まで捕れなかったことが嘘のように、その勢いに乗って、二匹、三匹と捕まえた。

 熊八郎さんは川から出ると、川辺の上に釣った魚、合計九匹を置いて、まじまじと見つめた。

『ぼ、僕が……捕ったんだ』

「そうだよ! 熊八郎さんが捕ったんだよ!」

 きっと熊八郎さんは難しく考え過ぎていたのだろう。今まで一匹も捕れなかったのにいきなり九匹も捕まえるなんて、熊七郎さんの言う通り筋がいいに違いない。

「これを持って、早く熊七郎さんの所へ報告しに行こう!」

 私はポケットに入れていた靴下で三度足の水滴を拭き、靴を履いた。熊八郎さんは魚を草の蔦で縛ると、そのまま肩に担ぐ。熊八郎さんが持ちきれない魚一匹は、私が持つことにした。




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