熊が住む村 Ⅰ
湖上から放り出された私たちは、再び水に濡れることなく地上へ戻ることが出来た。とは言うものの、体操選手が最後の着地をビシッと決めるように格好良くとはいかず、そのまま数メートル転がってしまった。 ルビは猫の特性を活かし、素早く体を反応させて、無事地面へ降り立っていた。ワタさんは言うまでもなく転がる私を眺めながら、お腹を抱えて笑っていた。
『それにしても、もうちょっとましな送りだし方ってなかったのかしら』
「そうですよね」
さっきまで人の姿を見て笑っていたくせに、ワタさんは湖の王に愚痴をこぼしていた。
思いっきり打ちつけた腰をさすりながら、出来ればトリット族の人たちに、もう少し私の運動神経の無さを考えて欲しかった。
『ねぇ、あれ!』
突然ワタさんが驚いたように何かを指差した。
「あっ!」
湖の周りに生える一本の木に、ページを咥えて行った梟が留っていたのである。
「追いかけなきゃ!」
しかし走り出した瞬間、無情にも梟はその翼を広げ、飛び立ってしまった。
この大自然の中で、人間と鳥とでは、人間の方が分が悪い。これではいつまでたっても捕まえることなんて出来ない。私はこの先、本当に梟を捕まえることが出来るのか、自信が無くなってしまった。いや、初めからあった訳でもないが……。
『まだ、落ち込むのは早いですよ』
がっくり肩を落とす私に、ルビはにこりと笑みを見せた。そして平原の向こうに見える山を前足で差した。
『あの熊山には、狩りの名手がいるそうです。だから、捕まえられるかもしれません』
『何なのそれ』
私とワタさんの疑問にルビが答える。
『字の如く、熊が住んでいる山です。そこには村があるんです。畑山さん、行きましょう』
私の返事も聞かないまま、ルビはぴょんと跳ねながら私たちの前を行った。
『あの案内猫も、強引なのねぇ』
「ルビを強引だなんて言ったら悪いですよ。もっと酷い人がいるんですから」
私はワタさんのことを言ったつもりだったが、当のワタさんは「誰かしら?」と腕を組みながら真剣に考えている。因みにその容疑者の中に自分は入っていないようだった。
『みなさーん! 早くー!』
「はいはい! ほら、ワタさん、行きますよ」
そのまま平原をてくてく歩いて行くと、野生だろうか。道の両脇へと広がる草地に、ある動物があちらこちらで群れをなしていた。
数頭は四本の足を真っすぐ伸ばして佇み、また他の数頭は首だけを起こし、ゆったりとその身を地面に横たえていた。
(奈良公園か、ここは)
と私が錯覚してしまうのも無理はない。その動物は幾重にも分かれた立派な角を頭頂部から生やし、体は茶色に白の斑、おまけにそこら中で転がっているのは、まさしく鹿の糞その物だったからである。唯一違うところは、顔が人と同じ造りになっていることだった。
非常に気持ち悪いのは言うまでもない。私はその出で立ちからその生き物を【鹿もどき】と呼ぶことにした。
まるで着ぐるみのような鹿もどきは、顔が人と同じ造りのせいか、言葉も流暢で、私たちの方を見ては何やらこそこそ、ひそひそと話をしている。
「何か、すごく視線を感じますね」
私が不快さを苦笑いで誤魔化していると、ルビがすぐさま説明してくれた。
『あぁ、あれはこの辺りに生息する、【疑似鹿】という生き物ですよ』
やはり鹿もどきだった。
私が確信めいた頷きをすると、ワタさんは、
『体は動物なのに、顔は畑山と一緒って、何か変ねぇ』
と、けらけら笑った。何気に失礼だった。
好奇の視線を受けながら鹿もどきの群れを越えると、山肌に沿って森が見えて来た。
『この森を抜けたところに熊次郎の村があります』
私はその村の名前を聞いて耳を疑った。と同時に、熊次郎という名前で本当に大丈夫なのか、とこの本の作者であるオラクル・フォンド・リーブルのネーミングセンスを心配した。
そんな私の懸念を察するように、ルビが微笑みながら答えてくれる。
『オラクルは、大の親日家だったんです。きっと作中に、大好きな日本の要素を入れたかったんじゃないでしょうか』
それにしても、何と古風な名前だろう。私は思わず学生時代に友人と歌った、日本昔話のオープニング曲を思い出してしまった。坊やぁで始まるあの曲だ。あぁ、懐かしい。
『その熊五郎って村、ここから近いの?』
『熊次郎です』
『どっちでもいいわ。ともかく、早く行きましょ。こんなところで野宿なんてまっぴらだから』
ワタさんはそう言ってすたすた歩き始めた。
「ねぇ、そこは魔法の種について、何か手掛かりあるのかな」
私が尋ねると、ルビは微笑んだだけで何も答えてはくれなかった。あまり話してしまうとお話のネタばれになってしまうからだろう。それに案内猫は、ここぞという時には必ず私を助けてくれる。じれったいとは思いつつも、私はそれ以上聞くのを止めた。
森の中は獣道というよりも、ちゃんと人が通れるように整備されているようだった。
熊だから人を襲いに山から下りて来たりしないのかと気になったが、ここの熊は肉食ではないので大丈夫ということだった。私は死んだふりをしなくていいことに、少なからずほっとした。
途中、さらさらと流れる音が耳に入った。水の匂いもする。
『近くに川があるみたいですね。ちょっと寄ってみますか』
正直山道に疲れていたので、どこかで休みたかった私はルビの意見に大いに賛成し、水の音が聞こえる方へと向かった。足を進めると、木々の間から川が見えた。
「あそこだー」
『ちょっと待って下さい』
私が喜び勇んで駆け出そうとした瞬間、ルビがそれを制した。
「どうしたの?」
『先客がいるようです』
よく見ると、川の向こう側で熊が川面をじっと見つめている。
「何してるの?」
大きさは、お相撲さん二人分くらいだろうか。身動きせずに佇むその姿は、息を殺しているようにも見えた。
『きっと狩りをしてるんですよ。だから、終わるまで騒がない方がいいですね』
その場をじっと見守っていると、熊は意を決したようにその大きな腕を川面に振り下ろした。捕まえそこなったのか、二度、三度と振り下ろす。その度に、ばしゃりと水飛沫が上がったが、何度やっても釣果は得られなかったようだった。熊はそのうち疲れたような息を吐くと、とぼとぼと川辺を後にした。
熊の姿が完全に見えなくなったのを確認し、私たちは林の中から川辺に出た。途端に水の匂いが濃くなる。
「いぇーい!」
私は久しぶりの川遊びに歳甲斐もなく、はしゃいだ声を出してしまった。恥ずかしくなって周りを見ると、ワタさんは、
『どうぇーい!』
もっと恥ずかしい言葉を発していた。
「わぁーっ。水が綺麗!」
川面を覗くと、底がはっきりと見るほど水が透き通っている。今私の世界でこんな川がお目にかかれるのは、自然が多く残る山間の村や里だけだろう。隣でワタさんは、
『気持ちーわねぇ!』
と言って、両手で水を掬いあげ、顔にじゃばじゃば、かけていた。
その姿に異様な感覚を覚えたが、常識を持ち出しても通用しないことを思い出し、細かいことは気にしないことにした。ルビは足元で、マイペースにぴちゃぴちゃと水を飲んでいる。
私はというと、ジャージのズボンを膝上まで上げ、靴と靴下も脱いで川の中に入った。ひんやりとした水の冷たさが、歩いて火照った体を鎮めてくれる。私はすべって転ばないように、ゆっくりと川底を歩いてみた。
「おっ!」
ふくらはぎに何かが当たった。川魚である。近くで見る魚に興奮したが、よく見てみると、あっちにも、こっちにも、うようよと魚がいた。
「ワタさん! ルビ! 魚がめっちゃいますよ!」
私の声に、二人も目を凝らしながら川面を覗いた。
『うわっ! 気持ち悪っ!』
『凄いですね』
ひしめき合いながら泳ぐ魚たちに、さすがのワタさんも眉を寄せ、ルビは表情を曇らせている。途端に私もそこにいるのが気味悪くなって、川から出ることにした。しかし足を拭くような物を持っていないことに今更気づき、仕方がないので靴下で足の水滴を拭くことにした。
『それにしても、こんなに魚がいるのに、さっきの熊は一匹も釣れなかったってこと?』
「まぁ、そういうことになりますね」
『まったく熊のくせに魚の一匹も釣れないなんて、熊が聞いて呆れちゃうわ』
ワタさんの目に留ってしまった熊さんが不憫に思えた。これからしばらくは、その毒舌の餌食になるだろう。
「あっ! あれ!」
ふと見ると、視線の先にある木の枝に梟が留っていた。しかし私たちに気がついた途端、梟は森の奥へ飛んで行った。
『ちょうどあの先に熊次郎の村があります。行きましょう』
私たちは急いで梟が飛んで行った先、熊次郎の村へと向かった。
村は山の中腹辺りにあった。村全体を囲う塀のような物はないが、周りの木々が守るようにして生えている。時折心地よい風が吹き、茂る葉がさわさわと音を立てた。
「どこに行ったんだろ」
私たちは村の入口に向かって歩きながら、さっきの梟がどこかにいやしないかと、木々や枝の間を注意深く眺めて行った。
『いないみたいね』
相手は飛びたいように羽ばたき、休みたいように留まる空の生き物である。目の前に落ちている石ころを掴むように、容易く捕まえることなんて出来ない。私は早くも諦めモードに入りそうになった。
『畑山さん、村の熊にも聞いてみましょう』
「熊に?」
途端に私の心の中で、恐怖と不安が渦を巻いた。肉食ではないとは言え、いきなり襲われてしまわないだろうか。
「私たちのような者が入って行って大丈夫ですかね」
私の懸念が理解出来ないのか、二人はきょとんとしている。
「いや、だって明らかに違うじゃないですか。こう、出で立ちというか、種類というか」
山に狩りに出かけた人が、熊に襲われたというニュースをよく耳にする。機嫌が悪かったり、人を見ただけで襲ったりすることもあるかもしれない。しかしワタさんは、ぺらぺらの手をひらひらさせながら、その考えを否定する。
『畑山、人を見かけで判断しちゃいけないわ』
人ではない。熊である。
『それに人の内面を見て付き合わないと、寂しい人間になっちゃうわよ』
だから人ではない。熊である。
『むしろ、こうしてこそこそ覗いてる方が怪しいんじゃないの?』
そんなこと言っても私は平平凡凡な、か弱い一般市民。この世界の住人である二人とは、感覚の差は歴然である。それに、ぬいぐるみのような可愛いお顔立ちならともかく、川越しに見た生き物は、れっきとした熊のそれだった。私の世界では、熊は獰猛な獣の類である。その巣へ身一つで入るのは、かなりの勇気がいることなのだ。
『畑山さん。どのみちこの村には入らなければならないんですよ』
「えっそうなの?」
驚く私に、ルビは、ここにも物語の主人公がいると言った。
魔法の種を芽吹かせる、すなわち最後まで読み進める為には、この世界にいる物語の主人公たちに会わなければならない。私は案内猫が出会った当初に言った言葉を思いだし、仕方なく二人について行くことにした。ワタさんは、まだ顔を曇らせている私を見て『そんなに心配なら確かめてみたら?』と呟いた。
「確かめるって、どうやったら……」
そんな悩める私にルビが助けを寄越してくれた。
『畑山さん、これを読んでみてください』
近くで倒れていた丸太の上に、ルビは自分の肉球をちょこんと当てた。すると、再びオラクルの文章である文字が浮かび上がった。
緑の匂いが濃く広がるそこは、熊が住処としている場所だった。しかしその住人達は、熊本来の生態を連想させる、獰猛という文字とはかけ離れた闊達な性格で、邂逅を重んじる篤実な熊柄であった。勇猛な好漢揃いは勿論のこと、その伴侶は、女丈夫ばかりである。
木の影から村の様子を窺っていると、丁度お昼ご飯の時間なのか、お腹の虫を刺激する匂いが漂って来た。
『どうですか? イメージ出来ました?』
初めは調子良かったが、三行目のある部分で私の読む気持ちが一旦停止してしまった。
「とはかけ離れた……な性格で、……を重んじる……な」
『畑山さん、飛ばさずにちゃんと読んでください』
「そんなこと言ったって」
当初より文字や文章のレベルが上がったような気がするのは気のせいだろうか。闊達とか、邂逅とか、意味はもちろん、何て読めばいいのか想像もつかない。
「何となくは分かるんだけど」
文字が読めなくても、その前後の文章で何となく理解出来るものである。恐らくここの熊は、そんなに悪くない熊だよ、ということが書かれているのだろう。ただ、女丈夫という意味は全く分からなかった。
突然隣のワタさんが、顔を上げた。そして鼻がありそうな部分をひくひくさせ、
『でもこういうことは真っ先にイメージ出来るのね。だってこれ、御飯の準備をしている匂いでしょ?』
と、半ば呆れ顔でそう言った。どこからか、鼻をくすぐるいい匂いがして来たのである。
普段私の生活の中で楽しみなことと言えば、テレビを見ること意外に食べることがある。好き嫌いは特にないが、ことさら美味しそうな匂いには敏感なのである。だからその部分はスムーズにイメージ出来たのかもしれなかった。
文章を整理してみると、そんなに狂暴ではないここの熊は、今御飯の支度をしているということだ。私が一人納得したような顔をしていると、ルビが厳しい顔で首を振った。
『何となくなんて駄目です。意味が分からないまま読み進めると、物語の世界観はおろか、そこに芽生える情景描写や人物像などが、ぼやけてしまいますよ』
本の中には決まって難しい文字や表現が入っている。それが、私が本を読まなくなった理由の一つだった。何故なら、機嫌よく読んでいても、自分の知らない漢字や言葉が出てくると、そこで読むという動作が一旦止まるからだ。そしてどんどん気持ちが削がれていき、仕舞には読むのを止めてしまう。どうしてもっと簡単な漢字や言葉を使わないのか、毎回抗議したかったくらいだ。
『畑山さん、今こそ魔法の石板を使ってください』
ルビに言われ、私はすっかり忘れていた魔法の石版をジャージのポケットから取り出した。改めて見てみると、それは横向きのはがきを二枚、上下にくっつけたような物で、下部の表面には、アルファベットが書かれた四角い突起が幾つもあった。さながらパソコンのキーボードのようなその下は、横長の形をした窪みがある。
『畑山さん。その窪みの部分に、石版の横についている石筆で【闊達】と書いてみてください』
「石筆?」
探ってみると、ルビの言う通り、石版の側面に石で出来た鉛筆のような物があった。私は言われるまま、そこに文字を書いた。
『そして書いた文字の横にある突起を押して下さい』
見るとそこにはアルファベットの物とは違う、少し大きめの突起があり、【認】という文字が書かれてあった。私はそのボタンのような物を押してみた。
「うわっ」
するとどうだろう。上部に【闊達】の読み仮名と、その意味らしき物が出て来たのである。
「かつたつ……度量が広く、物事にこだわらないこと」
『他はどうですか?』
私は続けて【邂逅】【篤実】を調べた。
「かいこう……思いがけなく出会うこと、巡り会うこと。こっちは……とくじつ。人情に厚く、誠実なことだって」
子供が宝物でも見つけたかのような顔でルビに話すと、案内猫は嬉しそうににっこり微笑んだ。私はその石版に分からない文字を書き込みながら、再びオラクルの文章を読んだ。そして落ちている枝で、分からなかった文章部分を地面に書いてみるとこうなった。
度量が広く、物事にこだわらない性格で、人と人との巡り合いを重んじる、人情に厚く誠実な熊柄(人柄のような物だろう)であった。勇ましく強く、良い男揃いは勿論のこと、その妻は気が強くてしっかりものばかりである。
『畑山さんの世界で言うならば、電子辞書のような物でしょうか。どうです? 分からないまま読んでいた時より、熊たちの性格や人柄が鮮明に伝わってきたと思いませんか?』
(確かに)
私はうむむと頷きながら、手にある石版をまじまじと眺めた。しかし、どうしてこのような言葉を使うのか、私には理由が分からない。ルビは、その部分も丁寧に説明してくれた。
『作風、そしてジャンルや対象とする読者層によって異なりますが、その文字や言葉を使う方が、その物語の世界観、心情や動きの意味が伝わりやすい場合があるんです。畑山さん。言葉の意味が分かった上で、もう一度オラクルの文章だけを読んでみて下さい』
私はルビに促され、三度オラクルの文章を読んでみた。すると不思議なことに、さっきまで画数が多い漢字がただ連なっているだけにしか見えなかったのに、違和感なく読み進めることが出来た。それにどこか趣さえ感じる。
『本を読む時はこのような物を使うのがお勧めですよ。これなら途中、分からない箇所があっても詰まることがありません』
しかし隣のワタさんは、疑いの眼差しで私を見ている。
『畑山は使うこと自体を面倒臭がるんじゃないかしら? ねぇ?』
さすが私の影。痛い所を突いてくる。しかし聡明な案内猫は、茶化す言葉に怯むことなく、微笑んだままだった。
『畑山さん、さっき読み仮名、そしてその意味が分かった時、どう感じました?』
初めは難しい言葉だなぁと少し嫌な気分だったが、読み仮名、意味が分かった途端、へぇ、そういうことだったのか、と気づけば嬉しさと楽しさを合わせたような気持ちが溢れていた。
『知っている言葉が増えればそれだけ視野も広まり、今まで物語の見えていなかった部分が明確になってきます』
私は石板を眺めながら、ただただ感心するばかりだった。
『それに感性も深まりますよ。言葉から色々感じるのも楽しいですから。しかし、知らないまま放っておけば、停滞どころか衰退するばかりです』
衰退。嫌な言葉だ。
私は思わずぎゃぁと声を上げて、耳を塞ごうとした。これ以上、その言葉を聞きたくなかったのである。しかし既にワタさんが、私の耳元で『老化老化老化』と念仏のように囁いていた。
負けるな私。頑張れ私。
私はその負の力に侵されないように、自分に声援を送った。
『そこで何をしている』
後ろから声を掛けられた。そのどすの効いた野太い声に恐る恐る振り返った。太陽の日差しを背にする形で立っていた生き物は、二つの目だけがきらりと光って見えた。
『君たち、旅の人か?』
雲が陽を隠し、私はようやくその姿を確認することが出来た。
見上げる体には固く黒い毛がびっしりと生え、尖った耳は怪しい音を聞き洩らさないようにと、ぴんと立っている。前に突き出た太い鼻から、ふんっふんっと荒い息を漏らし、額から左の頬にかけてある傷は、大人でも震え上がらせるには十分過ぎる効果があった。そして男魂と書かれてある赤の半被を着ていた。
「そそそそ、そうです」
私が歯をカチカチ鳴らせながら答えると、熊は、ぐわははと豪快に笑った。その口から鋭く太い牙が見え、私はさらに震え上がった。
『そんな怖がらんでもいいぞ。何も取って食いはせんからな』
さきほど川の向こうで見かけた熊より、二回りは大きいかもしれないその熊は、気さくに私の肩に手を回した。爪が思っていたよりも長くて鋭かったので、一瞬ぎょっとしたが、熊は『よく来た、よく来た』と笑みを浮かべながら村の中に入れてくれた。
『ワシはこの村の長をやっとる熊七郎というもんだ。旅の人は大歓迎。何せワシらが知らんことを教えてくれるからな』
熊七郎さんは、二足歩行で歩きながらよく喋った。きっと話をするのが好きなのだろう。一年前に結婚したばかりだとか、一回り歳の離れた奥さんには頭があがらないとか、奥さんがどれだけ可愛いかとか、子供は二人で最近生まれた娘が可愛くて仕方がないとか。
たくさん話し掛けてくれたおかげで、私の緊張も徐々に解れていった。私は嬉しそうに話す熊七郎さんの顔を見て、怖い顔をしているが、その心は家族を大切にしているんだな、と感心した。魔法の石版を使わず、分からない文字を飛ばして読み進めていたら、こういうことも分からなかったのかも知れなかった。
村の中は意外に広かった。そして入り口付近こそ木々で囲まれているものの、奥になるにつれて岩山に覆われていることに気がついた。中央に井戸があり、昼御飯の準備をしているのだろう。そこでエプロンをつけた雌らしき熊さんたちが野菜を洗っている。そして少し離れたところでは、たき火が横へ連なるように三か所で燃えていて、その一つに鍋がかかっていた。どうやらいい匂いはそこからしてくるらしい。さらに一番奥の広場のようなところでは、草が絨毯のように伸びていて、数頭の幼い熊たちがじゃれあって遊んでいた。
『ワシらは家族ごとに竪穴に住んでいるんだ』
草がぽつぽつ生えている岩肌には、幾つもの洞穴があった。
『今は九家族、二十五頭ばかしが暮らしてるな』
「二十五頭!」
なかなかの大所帯である。
『もうすぐ子供が生まれるところもあるからな。そうすればもっと増える』
私は感心の余り、ふぇーと変な声を発してしまった。
井戸の方へ歩いて行くと、一頭の熊さんが私たちに気付き、顔を上げた。その背中には、赤ちゃん熊がおぶられている。
『あれがワシの奥さんだ。可愛いだろ?』
熊七郎さんはそう私に囁いたが、私には熊七郎さんと同じ顔にしか見えなかった。
『おう! 今帰ったぞ!』
熊七郎さんが手を上げて声を掛けると、奥さん熊は嬉しそうに顔を綻ばせた。他の熊さんたちも私たちの方を見る。
『おかえりなさい。あら? お客さん?』
熊七郎さんの奥さん熊は、そう言って私たちに笑みを向けてくれた。熊七郎さんと同じような顔なのに、可愛らしいく高い声だったので、何だか変な感じだった。
『あぁ。旅の人たちでな。えっと名前は』
「あっ。すみません。名前、まだでしたね。私、畑山優子って言います」
私が頭を下げると熊七郎さんの奥さん熊は『優子さんね、よろしく』と微笑んでくれた。いつも『畑山』と呼捨てで呼ばれている私にとって、奥さん熊の『優子さんね』という言い方がとても柔らかくて優しかったので、私は嬉しくなった。
(優子さん……いい響きだ)
『ちょっと畑山、何にやにやしてんのよ。気持ち悪い』
現実に引き戻された私は少し悲しくなったが、慌ててワタさんとルビを紹介した。私たちが珍しいのか、ルビを見て『あら、可愛らしいお客さんね』と言って微笑む奥さん熊や『風に吹き飛ばされない?』とワタさんに真剣に尋ねている奥さん熊もいた。
『今日は旅の人たちがこの村を訪れてくれた。村を上げて歓迎したい。みんな、今日は張り切ってくれ!』
熊七郎さんは周りにいた熊さんたちによく通る声でそう言うと、奥さん熊たちは『はいな!』と答えた。そして熊七郎さんは最後にぐわははと豪快に笑った。どうやら最後は笑いで締めたいらしかった。
「他の熊さんたちはどうしたんですか?」
辺りをよく見ると、奥さん熊たちと、子供熊たちの姿しかない。熊七郎さんは顎を撫で
ながら、にんまりと笑った。
『今日は大物が釣れてな。大の大人が数頭集まっても動かせやしないほどの獲物だ。だから村の男熊全員総出さ。ワシは一足早く山を登って丸太で皆たちの道を作ってたわけだ。丸太の上を滑らせれば、でかい魚でも村に運ぶことが出来るからな』
熊七郎さんは、何かを思い出したように、おっとこうしちゃおれん、と呟くと、慌てて村の入口の方に戻ろうとした。
「どうしたんですか?」
『ワシもこれから村の男共と一緒に魚を運ばなきゃならん。君たちは、しばらくゆっくりするがよろしかろう』
そう言って熊七郎さんは村の入り口に向かって歩き出した。私はその言葉に甘えさせてもらうことにした。トリット族の湖からずっと歩きづめで少し疲れていたからだ。足も棒のようにくたくたになっている。運動不足の私にしては、よく頑張って歩いた。
『ちょっと面白そうじゃない?』
自分で自分を労っていると、隣のワタさんが不吉なことを言った。
私はワタさんのぺらぺらした体を肘で小突き、目で今の心情を訴えた。
『畑山、ワタシたちもやってみない? その魚運び』
私の休みましょうよ視線に気づかず、ワタさんは手伝いに前向きな言葉を発した。それが聞こえたのか、歩き出していた熊七郎さんの足が突然止まり、耳がぴくぴく動いている。私は堪らずワタさんを諭しにかかった。
「ワタさん、どういうことか分かって言ってます? さっき熊七郎さんが言ってたでしょ? 大の大人が数頭集まっても動かせないって。私たちが行っても足手まといになるだけですよ」
熊七郎さんは耳をぴくぴくさせたまま、一歩、また一歩と後ろ歩きでゆっくり近づいて来る。
『畑山、あんたの悪いところは、何事も面倒臭がるところよ』
それは正解。大正解である。しかし今だけは神に誓って違うと言える。本当に疲れているのだ。しかしワタさんは、そんな私にお構いなしで、一人青春映画のように熱くなっていた。
『それに、足手まといかどうかなんて、やってみないと分かんないじゃん!』
『よくぞ言った!』
いつの間にか私とワタさんの近くまで戻っていた熊七郎さんが、私たちの前に顔を突き出し微笑んでいた。
『ワシは嬉しい。旅の人が手伝いを申し出てくれるなんて。どうりで動きやすそうな格好をしている』
「いや、ただの部屋着なんですけど」
私のジャージを眺めながら褒める熊七郎さんに説明するものの、村の長はうるうると瞳を滲ませ、一人感動していた。
『いやぁねぇ。当然のことを言ったまでよ』
ワタさんは調子良くそう言って、熊七郎さんの肩をバシバシ叩いていた。私の意志とは関係なく話が丸く収まりそうだったので、私は慌ててワタさんを再び引き寄せ、耳元で囁いた。
「ちょっとワタさん、本当に手伝う気ですか?」
『だってしょうがないじゃない。こんなに喜んでるんですもの。今更やらないなんて言えないじゃない』
私は更にどっと疲れが増したような気がした。足元でルビが憐れむような瞳で私を見上げ『諦めてください』と呟いた。
『ザボエラ! ワシは旅の人たちと一緒に若いもんと汗を流して来るから、飯の支度は頼んだぞ!』
ザボエラという名前だった熊七郎さんの奥さん熊は、私たちが男仕事を手伝うことに『まぁ!』と手を口元に当てて驚いていたが、いってらっしゃいと快く笑顔で送り出してくれた。正直、そこは引き留めて欲しかった。他の奥さんたちも、頑張ってね、とにこやかに手を振り、それは無謀だから、やめておいた方がいいよと諭す熊は誰もいなかった。
『じゃ、改めて行ってくる』
嬉しそうにずんずん前を進む熊七郎さんに、私は心配になって急いで声を掛けた。これは私というものを、ちゃんと知っておいてもらわなければならない。
「あのぉ。私、そんなに力がないんですけど」
最近運動といえるものを全くしていない。筋力も落ちているだろうし、何より体力のなさには自信があった。その数字は、宇宙人が襲ってきたら真っ先に殺されるキャラクターのように零に等しい。
『力がなくとも手伝おうとした精神、あっぱれだわい』
しかし熊七郎さんは全く気にも留めない。私は慌てて付け加える。
「いや、そう言うんじゃなくて、あまり力になれないというか、もしかしたらお邪魔になってしまうんじゃないかと」
『そんな気持ちがあるにもかかわらず、手伝いを申し出た精神、あっぱれだわい!』
もう何を言ってもあっぱれだわい! で片付けられそうだったので、何も言わないことにした。足元でルビが、それが賢明ですね、とぼそっと呟いた。
ワタさんと言えば、調子よく熊七郎さんと談笑している。こうなったらワタさんに頑張ってもらおうと私は心に決めた。
熊七郎さんに付いて行き山道を下りて行くと、しばらくして川が見えた。私たちが遊んでいた場所より下流に当たるそこは、上流よりも流れが遅い。道なりに進んで川辺に出ると、開けた場所が現れた。
『何か、池のような物がありますね』
ルビが言った通り、川から流れて来た水が一旦池のように集まり、そこから更に下流へと流れていた。
『おう、あそこだ、あそこ』
熊七郎さんが指し示すところを見ると、熊七郎さんと同じ法被を着た十数頭の熊さんたちが、見上げるほどの大きな魚に縄を這わしているところだった。熊さんたちは『えいほ! えいほ!』とお互いに声を掛けながら、段取りよく動いている。
『おう! どうだ、按配は』
『お頭!』
雄熊さんたちは熊七郎さんの登場に、これで百万馬力だとか、これで安心だとか、その頼もしさを口にしていた。
『あれ? 今日はお連れさんですか?』
若い熊さんの問いかけに、熊七郎さんは胸を張りながら得意気に私たちを紹介した。
『こちらは旅の人で、山ちゃんに、ワタさん、ルビ君だ。微力ながら、ワシたちに力を貸してくれることを約束してくれた』
熊七郎さんはいつの間にか私のことを山ちゃんと呼んでいた。名字の下の部分であだ名をつけられると、一瞬誰のことか分からなかった。
「そんな力を貸すだなんて」
私 がいや、いや、と両手を全力で振りながら否定していると、誰も私のことが目に入っていないのか、それは助かるとみんな喜んでいた。少しは私の気持ちにも気づいて欲しかった。
『よし、縛りは終わってるみたいだな。ワシの方も準備が整っている。皆の衆、今宵は勇気ある旅の人の為、この魚を宴の肴にしようじゃないか!』
『おー!』
一斉に声が上がった。十数頭から繰り出される獣の咆哮は、大地を揺るがすように辺りに響いた。
『村で待ってる愛しい家族たちに、ワシたちの力を見せようじゃないか!」
再び男たちの威勢に包まれる中、熊七郎さんが若い一頭の熊さんに何か囁いた。その内容ははっきりと聞き取れなかったが、その返事を聞いた熊七郎さんの顔が、残念そうに曇っていた。




