Ⅲ
村に戻ると、宴の準備は完全に整い、主役が戻るのを待つのみとなっていた。村の熊さんたちは広場に集まり、若い熊さんは『姉さん待ってました』とか、『姉さん大丈夫でしたか』と言って、私の帰りを喜んでくれた。
「すみません、遅くなってしまって」
『まぁ、優子さん、ずぶ濡れじゃない』
ザボエラさんは、見えた熊八郎さんの姿にほっとしていたが、濡れ鼠になった私を見て驚いていた。
「ちょっと、熊八郎さんと川遊びをしていて」
私は持っていた魚を、ほら、と自分の顔の前に出した。
『これは?』
「これは熊八郎さんが捕った魚なんですよ」
村の熊たちから一斉にどよめきが起こった。続けて熊八郎さんが自分の持っていた他の魚も披露すると、それはすぐに歓喜の声に変わった。
『八! やったな!』
『待ってたぜ! 八!』
熊八郎さんと同じ歳くらいの若い熊さんたちはそう言って喜び、ご年配の熊さんは、
『熊七郎の息子がとうとうやりおったわい』
と言って熊八郎さんの頑張りを労った。
熊七郎さんもザボエラさんも涙を浮かべ、父は遅かったじゃないかと嬉しさ半分、歯痒さ半分で息子の頭を両手でぐりぐりと挟み、母はよくやったと息子の頭をぽんぽんと優しく慰めた。
『優子さん、あなたのおかげね』
そう言ってザボエラさんは私の手を取った。
「いえ、私は何も。少し熊八郎さんの話を聞いただけです」
ザボエラさんは、そんなことないわ、と言って首を振った。
『これで熊八郎のチャパタを行うことが出来る。それを成し遂げれば、八は、晴れてワシら大人の仲間入りだ』
熊七郎さんは嬉しそうに顔を綻ばせ、私に向かってありがとうと頭を下げた。
『よし、これなら一週間後にはチャパタが出来るな。今日はその前祝いも兼ねての宴だ!』
気の早い夫に苦笑いし、ザボエラさんも嬉しそうだった。
『さぁ! 皆の衆! 今宵は大いに飲んで、騒げ!』
長の掛け声に、老若男女、子供も宴会を始めた。私はザボエラさんに勧められて、熊八郎さんの隣に座った。村長家族の隣を勧められることは、特別な客人にしかしないそうで、私がいかに歓迎されているかが感じられた。私の隣にワタさんが、その隣にはルビが座った。ザボエラさんは、熊七郎さんの向こう側に腰を下ろしていた。
『さぁ、どんどん食べなさい』
片腕ほどの大きな葉っぱの上に、魚料理が所狭しと並べられている。少し熱そうだが、野生の動物を見習って、素手で頬張らなければならないのかも、そう覚悟した私に、ザボエラさんが枝を削って作ったお箸を渡してくれた。私はお礼を言って、取り敢えず目の前に置いてある焼き魚を口に入れた。
むぅ、と私はあまりの美味しさに唸ってしまった。その生きていた時の大きさから、きっと大味だろうと想像していたが、身の締りもよく、程よい弾力がある。脂がのっていて、まるで肉のようにジューシーだ。香辛料を少しだけ掛けたようなシンプルな調理法が、素材の本来の味を引き出しているように思えた。
『お姉ちゃん、これも美味しいよ』
そう言って熊八郎さんが丸い果実のようなものを渡してくれた。
その大きさは、バレーボールほどだ。
熊八郎さんは、こうするんだよと言って、そのボールに爪を立て、二つに割った。割ったボールの中からは、ほかほかと湯気が立っている。嗅いだことがある匂いに、私は熊八郎さんの顔を見た。
『これはロヌという実だよ』
それは、どこからどう見ても白飯に見えた。思わぬ白飯の登場に日本人である私の魂は喜びの声を上げた。焼き魚に白ご飯。合わないはずがない。割ってくれたロヌの実を受け取ると、その半分をそのままお茶碗代わりにし、中の果肉に当たるご飯を頬張った。
(甘い)
まるで新米を一番いい方法で炊き上げたかのような美味しさが、口の中に広がった。粒は立っていて、揃っている。噛めば噛むほど旨みが広がり、私はこれならおかわり出来るなと思いながら、ロヌ、魚、野菜と次々頬張った。隣のワタさんは、ちゃんと味わっているのか、ぽいぽいと口の中に料理を放り込み、もぐもぐと咀嚼している。一体どこに入ってるんだという、尤もな疑問を抱きながらルビを見ると、顔を上げているのが惜しいのか、魚の山に顔を埋めていた。
私が視線に気づき顔を向けると、熊八郎さんが少しもじもじしているようだったので、どうかしたのかと尋ねた。
『あ、ありがとう。もう一度チャパタに挑戦できるのも、お姉ちゃんのおかげだよ』
熊八郎さんは照れながらもお礼の言葉を言ってくれた。
「私は別に何も。熊八郎さんが諦めずに頑張ったからだよ」
しかし熊八郎さんは、お姉ちゃんに話を聞いてもらったお陰だと言って引き下がらない。
私は少し困ってしまった。何故なら、熊八郎さんに偉そうなことを言ったものの、あれは自分にも言える言葉だったからである。だからそうやってお礼を言われると、どこかむず痒い。私は話題を変えるべく、それにしても、これ、美味しいねぇとロヌの実を口に入れた。
『ところでお姉ちゃんたちは、どうして旅してるの?』
熊八郎さんが口についた魚の油を拭いながら、尋ねて来た。
(そうだった。)
またしても大切なことを忘れていた。ジャンバラヤ、トリット族と肩透かしを食らってきた。果たしてここに手掛かりがあるのだろうか。
「あの……魔法の種って知ってる?」
私が反応を窺いながら尋ねると、熊八郎さんは『あぁ!』と言いながら心当たりがあるような顔をした。
「知ってるの!」
『確か、この森の奥に魔法使いが住んでるって父さんが言ってた』
(本当に魔法使いはいるんだ……)
その事実に感動すら覚えたが、ここは本の世界だったと思いだし、その気持ちを内に仕舞った。
「その人に会えば、魔法の種のありかが分かるのかな。それともその人から貰えるの?」
熊八郎さんは、唸りながら答えた。
『僕たちは魔法には関わりがないから分からないけど、きっとそうなんじゃないかな』
初めてまともな情報が手に入った。これでようやく魔法の種に辿り着けるかもしれない。
「その魔法使いが住む場所ってどう行けばいいの?」
『確かあそこまでは順番通りに進まないと、魔法の力が迷わせてしまうんだって父さんが言ってた。だからむやみに近づいちゃ駄目だって言われてる。でもお姉ちゃんが行かなきゃならないんだったら、後で父さんに聞いてあげるよ』
私がありがとうと伝えると、熊八郎さんは照れたように笑った。
私はもう一つ大事なことを思い出した。
「ねぇ、紙を咥えた白い梟、見なかった?」
『梟?』
私が頷くと、熊八郎さんは少し考えるように頭を傾げた。
『白い梟だったら森の中で目立つと思うんだけど、見たことないなぁ。それも後で父さんに聞いてみるよ』
私が残念そうな顔をしている隣では、そんなこともお構いなしにワタさんが魚料理を頬張っている。脇目もふらず、魚にむしゃぶりつくワタさんの姿に、何だかなぁと思いながら熊八郎さんの提案に頷いた。
その夜、私たちは再び熊七郎さんの家にお世話になった。
『お姉ちゃん、さっきの話、明日になってからでもいいかな。父さんがこんな感じだから』
彷徨っていた息子に兆しが見えたことが嬉しかったのだろう。熊七郎さんは普段よりもよく飲み、よく笑い、そしてよく食べたようだ。居間で寝転がる熊七郎さんのお腹は、風船に目一杯空気を入れたかのように、ぱっつんぱっつんに膨らんでいる。気持ちよさそうな寝息が呼吸をする度聞こえていた。
ザボエラさんはその光景を見ながら、
『よっぽど嬉しかったのね』
と微笑み、熊七郎さんの体にそっと毛布を掛けてあげていた。
私は熊八郎さんに、じゃぁ明日ね、と声をかけて客室用の部屋に入った。昼御飯が食べれなかった分、私も少々食べ過ぎたようだ。下げた視線の先には、ぽよんと前に向けてアピールしているお腹があった。
『つい、食べ過ぎました』
ルビも同意見らしい。ワタさんは『あんたたち、だらしないわねぇ』とまだまだ余裕だった。
私はゆっくり体をベッドに横たえると、ふぅと息を吐いた。ルビもベッドにぴょんと乗り、私のちょうど顔の前に腰を下ろした。
『しっかし、ようやくだわね。魔法の種』
ワタさんの言葉に私も頷いた。本当にようやくである。
『その魔法使いってどんな感じなのかしら』
私は一般的な魔法使いをイメージしてみた。
大きなイボがついている鷲鼻に、ケケケと笑う口元。そこから見える歯は、どれだけ虫歯があるんだと言うくらい黒く不揃いで欠けている。そして先の尖がった三角の帽子をかぶり、得体の知れない何かをぐつぐつ鍋で煮ている。しかし魔法使い全てがそうだとは限らない。もしかして赤いくせ毛の女の子が箒に乗りながら、投げキッスをするように呪文を唱えているかもしれない。いや、魔法学校に通いながら父の敵である悪者と戦っている魔法使いだという可能性だってある。私が妄想にふけっていると、ルビが私の頭の方で丸くなり、
『まぁ、明日その場所に行けば分かりますよ。その為にも今日は早く寝ましょう』
と言ってそのまま目を閉じた。それを見て、途端に私も睡魔が襲って来た。お腹がいっぱいになったことで、血液が全部お腹の方へ移動しているのだろう。頭が働くのを止め、目がしょぼしょぼと眠ることを訴えていた。
「じゃぁワタさん、私たち寝ますから。邪魔をしないようにして下さいね」
私が布団に入ろうとしてワタさんの方を見ると、眠気がないはずの影は、既に気持ち良さそうな寝息を立てていた。私は呆れながらも、これで邪魔されずに済むなと胸を撫で下ろした。蝋燭の火を消してすぐ、私も夢の世界に入って行った。
『ちょっと畑山、起きて』
体はまだ睡眠を求めている。私は聞こえない振りをしたが、容赦ない音量が鼓膜を攻撃した。
『ちょっと、いつまで寝てんのよ!』
無理矢理布団を剥がされ、私は仕方なく目を開けた。蝋燭の灯りのなかで窓を見ると、外はまだ暗い。
「いつまで寝てんのよって、まだ夜じゃないですかぁ」
私は剥がされた布団をもう一度かぶり、抗議のサインに変えた。
『畑山さん、起きて下さい。何か、変なんですよ』
「それって、どういうこと?」
ルビの言葉には信用性がある。私は一体何事かと布団から起き上がって改めて尋ねた。
『見て下さい』
ルビはそう言ってぴょこんとベッドから飛び降りると、カーテンをくぐって部屋の外に出て行った。私もワタさんもそれに続いて部屋を出た。
居間では酒に酔ってそのまま寝てしまった熊七郎さんと、それを介抱するザボエラさんの姿があった。
「あれ? 熊七郎さん、まだこんな所で寝てるんですね。ザボエラさんも大変だ」
しかし、何かがおかしかった。
「ザボエラさん?」
眠っている熊七郎さんはともかく、ザボエラさんから返事は返って来なかった。ただ夫を介抱している顔には微笑みがあるだけだ。
「ちょ、どう、なってんの?」
私は慌てて熊八郎さんがいる部屋の前まで行った。カーテン越しに熊八郎さんの名前を呼ぶが、ここでも返事はない。
私は開けるわよと言ってカーテンを開けた。イメージトレーニングでもしていたのだろうか。熊八郎さんは、今日川で魚を捕まえた時のような格好をしたまま止まっていた。
「これって……」
私が困惑しながらルビの方を見ると、案内猫は険しい顔つきで可能性を述べた。
『もしかして、これはあの梟がちぎったページのせいじゃないでしょうか』
あるはずのページ。
それが失われてしまった物語は、前に進むことなく動きを止めてしまった。私は愕然と目の前の光景を眺めた。熊七郎さんもザボエラさんも、そして熊八郎さんも、まるで剥製のように動くことを放棄している。
『あんたのその肉球で、作者の文章を浮かび上がらせばいいんじゃないの?』
ワタさんの言葉に、ルビは静かに首を振った。
『本から離れてしまったページは、僕の力が及びません。本当に申し訳ないです』
決して彼が悪いわけでもないのに、しょんぼり頭を下げるルビが不憫になった。私は大丈夫だよと声を掛け、文句を言いたげだったワタさんを制した。
「ルビを責めるより、私たちで梟を探し出さないと」
『何か方法でもあるの?』
正直何も無かった。どこにいるのか分からない空の生き物を見つけるなんて、雲を掴むようなものだ。威勢良く言ったものの、先が全く見えないことに、早くも私の頭は暗礁に乗り上げてしまった。
『梟は、きっと畑山さんに近いところにいると思います』
ルビはしばらく考え込んだあと、そう言った。
「えっ。どういうこと?」
『簡単に魔法の種を手に入れさせない為、常に畑山さんの行動を監視しているんじゃないかと思って』
『ちょっと、適当なこと言ってるんじゃないでしょうね』
私はワタさんのうるさい口を手で押さえながら、なるほど、と思った。確かに、わざと私たちの目に留るような場所で姿を現しているような節があった。
『だからきっと、見つけることは出来ると思うんです』
「あとは……」
どうやって捕まえるかだ。
「ねぇルビ、ちょっと手伝ってくれない?」
私のお願いに、案内猫は、もちろんですと答えてくれた。
私たちは熊次郎の村を出て、森の中にいた。そこは全てが闇で塗り潰されてしまったように光がない。時折顔を見せる月明かりだけが、唯一辺りを照らしているだけだった。周りに神経を張りめぐらせていると、どこからか見られている気がした。ルビに目で合図を送って息を大きく吸い込んだ。
「さっき言ったこと、本気にしてないでしょ」
私の大きな声に、ルビが同じように返して来る。
『魔法の種を見つけたって話ですか?』
どこかでばさばさと音がして何かが枝に止まった。そしてその何かは、明らかに聞き耳を立てているような感じがした。私はそちらに視線を向けないように、話を進める。
「そうよ! 私、とうとう見つけたの、魔法の種! 最後まで進まなきゃ駄目だと思ってたけど、これで元の世界に戻れるわ!」
『やりましたね! 畑山さん! おめでとうございます!』
何かが私とルビの話に聞き入っているような気がした。
(もう少しだ)
『でも、どこにあったんですか?』
「それはね……」
その何かの意識が完全に私に向いた瞬間、
『捕まえたわ!』
ワタさんの歓喜の声が辺りに響いた。その方へ視線を向けると、私たちがいた場所のすぐ近くの木の枝で、もがく梟とそれを得意気に両手で捕まえているワタさんの姿があった。
暗がりの中、瞳を閉じ、闇夜にその姿を溶け込ませていたワタさんは、梟が私たちの話に気を取られている隙に、密かにその場所を探し出し、こっそりと影を伸ばしながら近づいて捕まえたのである。ワタさんは体を元の長さに縮めて私たちのところへ戻ると、ほれ、と梟を私の顔の前に差し出したそうとした。その瞬間、再び梟が暴れ出した。
『こ、こら! 観念しなさい!』
「ワタさん! しっかり捕まえてて下さい!」
『そんなこと言っても、こいつ、なかなか大人しくならない!』
「あっ!」
梟はワタさんの手から逃れて飛び立とうとした。私はすかさず、その足を掴む。また梟が暴れ出す。逃げようとする梟の足を再び掴む。私とワタさんは梟と格闘しながら、気づけば見えない森の中をふらふら歩いていた。三度逃げ出そうとした梟の足を間一髪のところで掴んだ瞬間、自分の体を支えているはずの地面がなくなっていた。あろうことか、道から外れ、崖の方まで歩いてしまっていたのである。私は梟を掴んだまま、森の斜面を転がっていった。五回ほど回転したところでようやく止まった。あちこちに激痛が走り、私は痛みを堪えてゆっくり起き上がった。
『畑山さん! 大丈夫ですか!』
「な、なんとかー」
上から聞こえてくるルビの声に、私は頭を摩りながら答えた。
『何、鈍臭いことやってんのよ!』
そして上から聞こえてくるワタさんの声に、私は眉を寄せながら無言で答えた。そんなワタさんは私が落ちる瞬間、自身の影を伸ばしてちゃっかりルビの隣で佇んでいた。
『梟はどうしたの?』
その言葉に一瞬逃してしまったかと焦ったが、片手はしっかりと梟の足を握っていた。一緒に落ちた梟も目を丸くさせている。どうやら気を失っているようだった。
私は梟を片手にしっかりと抱え直し、のびている間に、咥えている紙を嘴から取り戻した。ほっとしたのも束の間、鈍い痛みが走って触ってみると、頭に立派なタンコブが出来上がっていた。
「いったぁ」
『痛いのはこっちの方だ』
腕の中から声がした。視線を下ろすと不貞腐れたような顔をした梟と目が合った。
「しゃ、しゃべ……れるわよね。そりゃ」
梟は、ふんっと荒い息を吐くと、ぷいっとそっぽを向いてしまった。捕まえられている自分の立場が分からないのか、随分な態度だ。
ワタさんは影を縮めて、ルビは崖を駆け降りて来た。
『畑山さん、無事だったんですね』
「まぁ、タンコブ作っちゃったけどね」
私の大きな突起物にワタさんが興味深げな視線を送って来たので、全力で威嚇しておいた。
『よかった。あまり無理しないで下さいよ』
「でも、こうやって梟も捕まえられたし。それに、これ」
私はくしゃくしゃになった紙を広げた。
そこには薄暗い森の挿絵と、
闇夜がその役割を終えて朝陽にその場を譲る時刻、村を出て森の奥深くへと出立する。そこには魔法使いがいるという。長に教えてもらった道を迷わず進むと、【ここから魔法使いの森】という立て札が目に入った。
という文章が書かれてあった。
「うん。間違いなく、本の一ページだな」
『これでようやく前へ進めますね』
奪われたページを取り戻す。何とか一つはクリアできた。
『ったく、よりによってページを破るなんて、とんでもない梟だわよね』
ワタさんは文句をねちねち言いながら、梟の頬を指先でぐりぐりした。
『こ、こら! やめろ! い、痛い、痛い!』
抵抗する梟の声に、ルビがはっと顔を上げた。
『その声……もしかして、藤原さんじゃないですか?』
「え? 藤原さん?」
『誰よ、それ』
私とワタさんが視線を向けると、梟は気まずそうに顔を背けた。
「えっ。この梟が藤原さんっていう名前なの?」
『えらく、人っぽい名前を付けられたものね』
同情しているワタさんの足元で、ルビが首を横に振る。
『藤原さんは畑山さんと同じ、この世界に迷い込んだ読者です』
「えっ!」
私は驚きのあまり言葉が出てこなかった。ルビの言葉が事実であるとするならば、目の前の梟は、まさに最後まで読み進められなかった読者の成れの果てではないか。自分の結末を突きつけられているようで、私は愕然とした。梟は観念したのか、開き直ったような顔で、けっと言葉を吐いた。
『そうだ。俺は藤原拓也だ』
藤原さんは、著名人の名前を合わせたような名前だった。
「な、なんで梟なんかに」
本の中の登場人物として……とゼロムが言っていたので、てっきり人間だと思っていた。人生のみならず、人の姿まで奪われてしまうなんて、もはや絶望に近い。藤原さんは悔しそうに眉を寄せ、私を見上げた。
『俺だって好き好んでこんな姿になったんじゃない』
「だったらどうして」
『俺は……俺は、斜め読みをしてしまったんだ』
「斜め読み?」
私は聞いたことがない言葉に、思わずルビの顔を見た。
『斜め読みとは、物語の筋を掴む為に細かい部分は省いてざっと読むことです。藤原さんはそれどころか、飛ばし読みもしてしまいました』
「と、飛ばし読み?」
『物語や文章の内容を早く理解したいが為に、一部を読まずに先へ進んだりすることです。藤原さんは、僕の助言も聞かずに、解らない漢字や言葉などもそのまま飛ばして進んでしまったんです』
私は熊次郎の村に行くまでのオラクルの文章を思い出した。トリット族の王、ポセイドンさんから貰った石板を使わず、「多分、こういうことが書いてあるのだろう」という自分の考えだけで進んでしまっていたら、村に住む熊たちのことがきっとあやふやになっていたに違いない。私は寸でのところでまだ読者でいられたのだ。
『その案内猫の言う通りさ。俺は忠告を聞かずそのまま進んでいった。そうしたら、途中で物語自体が分からなくなってきた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、気づけばこの姿であのシルクハットの男の所にいたって訳さ』
藤原さんはルビを恨めしそうに眺めた。
『もっと強く俺を止めてくれていれば』
「それは藤原さんの所為じゃ。ルビは悪くないと」
思う。と言いかけたところで藤原さんは声を荒げた。
『案内猫は読者が迷わないようにする為にあるんだろ。俺は実際に迷い、挙句の果てにこの様さ。まったく。何の為の案内猫だよ』
進むのも、止めるのも自分次第のはずだ。
『あんたもいずれこうなる運命だ』
藤原さんは私を見上げながら嘘だと思うなと言った。
『この世界には、俺と同じように迷ってしまった人間が他にもいるんだよ』
一人でも多くの人間を取り込むことが狙い。ルビは出会った当初、本の目的はそうだと言っていた。だとすれば、どれ程の人がこの世界に囚われているのだろう。
私は本当に? と顔でルビに尋ねた。
『それは……。本当です』
案内猫は顔を曇らせながら目を伏せる。
『畑山さん、ジャンバラヤで藤原さんが留まっていたヤシの木、あれは杉野さんです』
本当はヤシの木ではなく、杉の木だったのだ。
『そして新宮内にある巫女の部屋で、僕たちが隠れていた家具、覚えていますか?』
確か、失くした王家の印を探しに来る犯人を待ち伏せするために潜んでいた箪笥だ。
『あれは、元読者だった館山さんです』
「えっ!」
『もう、生き物じゃないわね』
ワタさんは呆れていた。
『僕の力が及ばず、他にもたくさんの人がこの世界の住人になってしまいました。でも僕は案内猫。読者の読書欲を操作することは出来ないんです』
ルビは苦しそうに顔を歪めた。
読者が迷ってしまったことに対し、一番悔しいのは案内猫であるルビかもしれない。
『だから、リタイアしてしまった人の分まで次の読者の方が読み進めれるように精一杯の案内をする。僕はそう心に決めています』
実際、ルビに助けられたことは度々と言っていいほどあった。助言を素直に聞いていなかったら、杉野さんや館山さん、藤原さんらと同じ姿になっていたのかもしれないのだ。
『それにしても、よくそこまで人のせいに出来るもんだわね。だからそんな姿になったんじゃない?』
『何だと!』
普段人の所為にしているワタさんが藤原さんに噛みついた。しかしこの時ばかりは、ワタさんに賛同の拍手を送りたい気持ちになった。このままでは、余りにもルビが不憫である。
『あんたはただ、羨ましいのよ。ここまで読み進めた畑山が。そうでしょ?』
藤原さんは、黙って口ばしを噛みしめている。
『その上自分と同じように迷い込んだ読者を困らせるなんて。その姿がお似合いだわよ!』
しばらく沈黙が流れた後、藤原さんの嗚咽が辺りに響いた。
『お、俺は……くっ』
あれだけ酷いことを言われたのにも関わらず、案内猫は私の腕の中の梟に優しく声を掛けた。
『藤原さん、一緒に進みましょう。館山さんや杉野さんと違って、あなたはまだ生き物の姿です。それはきっと、読書欲を全て捨てた訳ではないからだと僕は考えます。だから』
『ちょっと、どういうこと?』
私もワタさんと同じく首を傾げる。
『元の姿、元の世界に戻れるかどうかは僕にも分かりません。でも、ここでこうしているよりも可能性があるとは思いませんか』
腕の中の藤原さんは、じっと何かを考えているようだった。そして、ぽつりと呟いた。
『それは出来ない』
「どうしてですか」
正直、さっきまでは、人の邪魔してこの野郎、と思っていた。しかし、藤原さんもこの世界に迷い込んでしまった読者だったと聞いてしまった今、とてもじゃないが他人事だと思えなかった。私にだって同じような結果にならない保証なんてない。
「藤原さん。ルビの言う通り、可能性があるなら」
しかし藤原さんは、駄目だと目を伏せた。
『きっとあいつ。ゼロムが黙ってないさ。ページを取り返された挙句、一緒に進むなんて、あんたたちにも迷惑がかかってしまう』
確かに手先同様だった梟がこっちに寝返ったとなると、ゼロムはどんな手に出て来るか分からない。でも、同じ読者である藤原さんを放っておくなんて出来ない。私は緩んだ下腹部の筋肉に力を入れ、腹を括った。
「本の目的は、自分が作者に成り変わる為にゼロムを登場させて、読者を途中で諦めさせることだよね?」
案内猫に確認すると、ルビはそうですと頷いた。
「だったら、私は何があっても最後までこの物語を読み切る」
私が力強く宣言すると、藤原さんはふっと笑みをこぼした。
『えらく強気だな。でも言っとくが、ここから先に進んだ読者はいない。なぁ? 案内猫』
え? そうなの? と驚きながらルビの顔を見ると、残念ながら、と俯いた。ということは、未だ最後まで読み切った読者はいないということだ。私はたった今、口にした言葉を撤回したくなった。
『それでもやるっていうあんた、なかなか面白いじゃないか』
見直したのか、藤原さんは私の顔を見上げながら上から目線で笑った。ワタさんが『それだけが畑山の取り柄なのよ』と余計なことを言っていた。
『ゼロムの奴じゃないけど、俺もあんたがどうやって最後まで読み進めるのか見たくなったよ。さっきの案内猫の提案、受けさせてくれ』
藤原さんは私の腕から飛び上がると、右肩にちょこんとその足を置いた。
『そうと決まればさっさと村に戻った方がいいんじゃないか? もうすぐ夜が明ける。ほら、熊に教えてもらうんだろ』
『畑山さん、行きましょう』
私は慣れない足取りで急斜面を登り、村まで戻った。
村に着く頃には朝日が昇り、早起きの奥さん熊たちは村の中央にある井戸の周りで朝食の準備に取り掛かっていた。恐らく失われたページを取り戻したおかげで物語がちゃんと進んだのだろう。竪穴に戻ると居間に熊七郎さんの姿はなく、既に動き出していたザボエラさんがいた。
『散歩でもしてたの?』
と驚いていたザボエラさんに事情を話すと、すぐさま夫を起こしに行ってくれた。
『ほほう。山ちゃんは、魔法使いの森に行きたいのか。しかしあそこの魔法使いはなかなかの変わり者でな。きちんとした手順でないと辿りつけないんだ』
熊七郎さんはそう言うと、居間のテーブルの上に紙を持って来て広げた。そして、あぁだったかな、こうだったかな、といささか不安な言葉を呟きながら魔法使いが住む場所への道のりを描いてくれた。
『この通りに進めば絶対に迷うことはない。安心しなさい』
私が熊七郎さんにお礼を言っていると、部屋で寝ていた熊八郎さんが、眠たそうに目を擦りながら起きて来た。
『あれ? お姉ちゃん、梟見つかったんだ』
私の肩に乗っている藤原さんを見ながら、熊八郎さんは『よかったね』と言ってくれた。しかしその場の雰囲気を感じたのか、顔を曇らせた。
『お姉ちゃん、もう行っちゃうの?』
「うん。私、もう行かなきゃならないんだ」
『僕のチャパタ、見て欲しかったのに』
「ごめんね」
私が謝ると、熊七郎さんが、何言ってんだ、と息子を諌めた。
『山ちゃんは、ちゃんとした目標の為に頑張ってんだ。八も頑張って恩返ししないと駄目だぞ』
ザボエラさんも頷く。
『八っちゃんも優子さんのように、自分に負けないようにしなきゃね』
熊八郎さんは口を真一文字に結び、ぐっと何かを堪えているようだった。
『僕も負けない。お姉ちゃんにも自分にも。だから、お姉ちゃんも頑張って』
いつの間に頼もしくなっていたのだろう。暗く濁っていた瞳には希望の光が灯り、きらきらと輝いている。そんな熊八郎さんを見ることが出来るなんて。
私は「ありがとう」と答えながら未来の長と微笑み合った。私たちのやり取りを見守ってくれていたザボエラさんが『ちょっと待ってて』と言って外に出て行った。しばらくすると、何やら風呂敷で包んだ物を持って来た。
『優子さん、持って行って』
「これは?」
『お弁当。きっと途中でお腹が空いちゃうわ。腹が減っては何とやらでしょ?』
そして愛嬌あるウィンクをしながら渡してくれた。ザボエラさんは私のお母さんかと錯覚してしまうほど、私のお腹のことを考えてくれていた。
「何か、すみません。色々してもらっちゃって」
私が恐縮しながら受け取ると、熊七郎さんたちは揃って首を振った。
『ワシらが山ちゃんにしてもらったことに比べたら、何のことはない。遠慮せずに持って行ってくれ』
私はもう一度お礼を言って、村の入口まで見送ると言ってくれた熊七郎さんたちと竪穴を出た。すると入り口の周りに、たくさんの熊さんたちの姿があった。
『村のみんなも、優子さんを見送りたいって言ってて』
ザボエラさんはお弁当を包みに外へ出た時、村の熊さんたちに私のことを伝えてくれていたようだった。 入口に向かって歩いて行くと、熊さんたちが私たちに駆け寄って来る。私はもみくちゃにされながらみんなの激励を受け取った。乱れた髪を整え、改めて村の熊さんたちの顔を眺めた。
「短い時間でしたが、楽しかったです。本当にありがとう」
お礼を言うと、熊さんたちはその大きな瞳に涙を浮かべ、私たちとの別れを惜しんでくれた。
『お姉ちゃん、頑張ってね』
『体に気をつけるんだぞ』
『無理しちゃ駄目よ』
最後に熊七郎さん家族から温かい言葉を貰い、私たちは手を振ってそれに答えながら村を後にした。
『いい熊さんたちでしたね』
ルビの言葉に頷きながら思う。
村の熊さんたちは、まさに邂逅を重んじる篤実な熊柄だった。私は胸が熱くなるのを感じながら歩を進めた。
道は徐々に獣道へと変わっていく。注意しなければ、どの方向に自分が歩いて行っているのか分からなくなる。
『畑山、ちょっと大丈夫?』
「大丈夫です。熊七郎さんはただ、真っすぐと言ってましたから」
森は深くなるにつれ、葉や枝がより生い茂り、視界を悪くする。太陽はまだ高いはずなのに、あまり陽が差しこまず、薄暗い。視線の先に何かが見えた。それは、
『ここから魔法使いの森』
という古びた立て札だった。
私は魔法使いという文字に、心優しい魔法使いだったらいいな、意地悪な魔法使いだったらどうしよう。私は密かな期待と僅かな不安を抱いた。
「この通りに進んで行けば、迷わないってことだけど……」
手にした熊七郎さんの地図は、村からここまでの道のりを絵で表現してくれているが、ここからは文字だけが書かれていた。
「右、左、右、右……。どういう意味だろう」
『ともかく入ってみれば分かるだろ』
藤原さんは私の肩に乗りながら、ふてぶてしくそう言った。
足を踏み入れると気のせいか、ざわざわと森が騒いでいるような気配がした。
「何か、気味悪いですね」
『気持ちの良い森なんて、早々ないんじゃないの?』
まぁ、それもそうか、とワタさんの言葉に納得しながら歩を進めると、道が三本に分かれていた。
「きっとこの文字の通りに進めっていうことだよね」
私たちは目の前の別れ道を右に進んだ。




