第三話:恐怖のシナプスと捕食の罠
地下3階(B3)の鋼鉄の扉。磁気カードリーダーが鳴らす「ピッ」という拒絶音は、ミオの耳には死を告げる鐘の音のように聞こえた。扉は開かない――アクセス権限がないのだ。しかし、点滅する赤いインジケーターは、中にいる「何者か」に侵入者の存在を知らせるには十分すぎた。
ミオは石のように立ち尽くした。呼吸が荒くなる。手にしたファイルの中の悍ましい写真が、激しく震えていた。逃げなきゃ。院長か、さもなくば警察に報を――。
――シュルル。
鋼鉄の扉が、内側から自動で開いた。
現れたのはエドではない。朱里だった。レジデントの顔は土気色で、頬には乾きかけの返り血がこびりついている。その瞳は空虚で、まるで魂を無理やり引き抜かれたかのようだった。
「ミオちゃん……」朱里の声は嗄れていた。「ここで、何をしているの?」
「琴葉先生! ここから逃げましょう!」ミオは朱里の腕を掴んだ。「見てください、これ! 犬神先生は……人体実験をしているんです! 狂ってます! 通報しなきゃ!」
朱里はミオの手にあるファイルを見つめた。瞳に純粋な恐怖が走る。しかし、彼女が答えるより早く、清潔なラテックスの手袋をはめた「手」が暗闇から伸び、朱里の腰を独占的に抱き寄せた。
「通報? 何をかな、倉橋看護師」
エドが現れた。息が詰まるような威圧感を纏い、直立している。マスクはしていない。その微笑みは慈愛に満ち、普段なら患者を安心させるものだったが、この薄暗い廊下では処刑人の笑みそのものだった。
「い、犬神先生……あのホームレスの患者が……中にいるのは分かっているんです」ミオの声が震え、足が後退りする。
エドは低く、心地よく、しかし冷徹な声で笑った。彼はミオの目の前で朱里のこめかみに口づけを落とした。凄惨な状況下での、トキシック(毒)な親密さの誇示。
「朱里、可愛い人。見てごらん。我々の優秀な看護師さんは、どうやら想像力が逞しすぎるようだ。新宿の激務は知っているだろう? 倉橋さんには……心のケア、特別な『処置』が必要かもしれないね」
「彼女、写真を見たのよ、エド」朱里が夫の腕の中で震えながら囁いた。
「ああ、あれか?」エドは愉悦に目を細め、ミオを射抜いた。「あれは比較解剖学の資料だよ、ミオ。非常に専門的なものだ。君のような素人は、献身を残酷さと見誤ることが多い。おいで、誤解を解くために医学的に説明してあげよう」
「嫌! 来ないで!」ミオは翻り、エレベーターへ向かって必死に駆け出した。
エドは追わなかった。ただそこに立ち、朱里のこめかみを愛撫し続けた。
「逃げさせておけ、朱里。この病院に、私の監視下にない場所など一寸たりとも存在しない。監視カメラ、ロックシステム、看護師の適正評価……すべては私の手の中にあるのだから」
30分後 ―― 看護師更衣室
ミオは警察に電話を試みたが、圏外だった。建物の信号が完全に遮断されている。非常口から出ようとしても、電子ロックで固く閉ざされていた。
突如、更衣室のスピーカーが鳴り響いた。エドの声が、静かで高圧的に響き渡る。
『倉橋看護師、至急第7手術室へ。緊急プロトコルだ。琴葉先生が君の助けを必要としている。これは医学的命令だ』
罠だ。行かなければ「職務放棄」として合法的に排除される。行けば……。
第7手術室
ミオが慎重に足を踏み入れると、室内は薄暗かった。中央には朱里が立ち、透明な液体の入ったシリンジ(注射器)を手にしていた。
「琴葉先生……?」ミオが微かな声で呼ぶ。
朱里が振り向いた。頬を涙が伝っている。「ごめんなさい、ミオ……。エドが言ったの。あなたの尺骨神経にこれを打たなければ、あなたの脳をもっと酷い目に遭わせるって。これは……あなたをあなた自身から守るためだって……」
「どういう意味……!?」
カーテンの陰から、エドが現れた。その手には、微かな駆動音を立てる電動の手術用ドリルがあった。
――ズズズ……ズズズ。
「朱里、筋弛緩剤(ニューロマスキュラー・ブロッキングエージェント)を今すぐ打て」エドが命じる。「我々の看護師さんが、二度と余計な書類を手に取れないよう、小さな処置をしよう。綺麗な『労働災害』の出来上がりだ」
エドはミオに歩み寄り、昆虫を観察する学者のような好奇心で彼女を見つめた。
「怖がることはないよ、ミオ。執刀は朱里だ。彼女は私を愛している。私のために何でもする。君を壊すことさえもね」
狂気のメディカル・ゴアが始まった。エドは、暴れるミオの手首に朱里の手で最初のメスを入れさせた。
無影灯の冷たい光の下、真珠のように白い神経組織が、無残に暴かれた。




