第二話:罪の共鳴、あるいはホルマリンに沈む秘密
新宿の高級マンションで過ごす夜は、本来なら安らぎの時間であるはずだった。ミニマリズムに統一されたリビングで、エドは黒い革のソファに座り、その長い指で朱里のうなじを優しく愛撫していた。
「今日の料理も美味しかったよ、朱里」エドが囁き、彼女の額にキスをした。完璧な理想の夫としての仕草だ。「疲れているようだね。今日のアウェイク・クラニオトミーのせいかな?」
朱里はエドの胸に寄りかかり、安らぎを求めた。しかし、瞳を閉じるたびに、電気刺激を受けた中心後回の閃光が脳裏に浮かび、あの患者の呻き声が聞こえてくる。「私……罪悪感を感じているの、エド。あの患者さん、オペのあと言語機能を失ったでしょう?」
エドの指が止まった。声のトーンが下がり、総毛立つような周波数に変わる。「彼女は機能を失ったのではないよ、朱里。より大きな知識のために、その機能を捧げたんだ。罪悪感という神経伝達物質に、私と一緒にいる時のドーパミンを邪魔させないでくれ」
エドは朱里を膝の上に引き寄せ、息が詰まるような激しさで唇を奪った。世間から見れば、彼らはロマンチックな医療界のパワーカップルだ。しかし朱里にとって、そのキスは良心を封じ込めるための刻印のように感じられた。エドは彼女のホルモンを操作し、朱里に「この男こそが自分の人生における唯一の酸素だ」と思い込ませるのだ。
翌日、東京医科大学病院 ―― 診療録保管庫
倉橋ミオは、患者のログシステムに違和感を覚えていた。几帳面な看護師として、彼女はエドのオペに入った全患者を記録している。
「おかしいわ……」ミオはモニターの前で呟いた。
三日前、急性硬膜外血腫で運ばれてきたホームレスの男性患者がいた。公式のシステム上、彼は「他院へ転院」と記録されている。しかし、転院承諾書もなければ、受け入れ先の医師の署名もない。そして何より奇妙なのは、その患者のバイタルデータが最後に記録された場所が、地下三階へのエレベーター――エド専用の閉鎖研究ラボがあるエリアだったことだ。
ミオは意を決して地下三階(B3)へと向かった。そこは空気が重く、ホルマリンと鉄の匂いが鼻を突く。放置されたアシスタント用デスクの上に、古い革のファイルが残されているのを見つけた。その中には、悍ましいポラロイド写真の数々が収められていた。
それは通常の手術写真ではなかった。生きた人間の神経を解体している写真だ。ケーブルの束のように一本ずつ剥き出しにされた脊髄神経。そこにはエドの手書きでこう記されていた。
『被検体09:延髄の部分切断後、痛みへの反応スケール10/10を確認』
「ここで……何を……?」ミオの心臓は、耳鳴りがするほど激しく鼓動した。
B3 ―― 秘密実験室
同時刻。防音処理が施された鋼鉄の扉の向こうでは、血生臭い匂いが朱里の嗅覚を刺していた。
「開創器をしっかり持っていろ、朱里。決して離すな」エドが命じる。
鉄製の手術台の上で、被検体09――あのホームレスの男――が、まだ浅い呼吸を繰り返していた。エドは彼の脊椎に沿って神経を露出させている。高倍率の手術用顕微鏡を覗き込みながら、エドは実験的な神経切断術を行っていた。
「見てごらん」エドが無影灯を近づける。「運動神経は残したまま、感覚神経だけを遮断する。彼は足を動かすことはできるが、肉体的な傷がないにもかかわらず、永遠に続く灼熱感に苛まれることになる。これは純粋な『痛みの交響曲』だ」
――パチン。
エドがマイクロ剪刀で神経組織を切り裂いた。鮮血が小さく噴き出し、朱里の頬を汚した。
その瞬間、朱里は幻覚を見始めた。頬の血が熱い溶岩のように感じられる。患者の顔が、死んだはずの自分の母親の顔に変わり、憎しみを込めて自分を見つめているように見えた。
「エド……やめて……彼が泣いているわ……」朱里がうわ言のように呟く。患者の口は猿轡で塞がれているというのに。
「彼は泣いていない。それはただの反射性涙液分泌だ」エドは振り向きもせず、狂気じみた精密さで作業を続けた。「集中しろ、朱里! 今ここでリトラクターを離せば、実験が終わる前に彼は死ぬ。君は彼を殺したくないだろう? 良い医者でいたいんだろう?」
再び洗脳が始まった。朱里は足の震えを堪え、冷たい鉄の器具をより強く握りしめた。サイコパスの夫への献身と、目の前で解体される人間の神経という地獄の光景。彼女はその狭間に囚われていた。
突如、ラボの扉にあるインジケーターが赤く点滅した。何者かが看護師用アクセスカードを使って入り口を解錠しようとしている。
エドは執刀の手を止めた。そして、悍ましい笑みを浮かべて扉を見つめた。
「どうやら、観客が来たようだね、朱里。君の熱心な『可愛い看護師さん』だ……。彼女、少々好奇心が強すぎたようだ」




