第一話:苦痛の振幅と聖なる洗脳
東京医科大学病院の脳神経外科フロアは、常に同じ匂いがする。イソプロピルアルコールの鋭い刺激臭と、張り詰めた緊張感が混ざり合った独特の匂いだ。
「琴葉先生、集中しろ。目の前の中心溝をよく見て」
エドの声は穏やかで、まるで枕元で愛を囁く恋人のようだった。しかし、無影灯の下で響くその声は、神の絶対的な命令のごとく聞こえる。
朱里は息を止めた。目の前の患者は膠芽腫を患う40代の女性。エドが行っているのは標準的な手術ではない。彼は「覚醒下開頭術」を実演していた。運動機能を損なわないよう、患者の意識を保ったまま脳を弄るのだ。
「バイポーラを」エドが倉橋ミオに命じる。
ミオは素早く手渡したが、その目は時折モニターに走る。「先生、血圧が上昇しています。心拍数110。患者に焦燥感が見られます」
エドは振り向きもせず、手術用顕微鏡を覗いたまま朱里を見つめた。「朱里、なぜ彼女は不安がっていると思う? 腫瘍のせいか、それとも吸引器を握る君の手の迷いを感じ取ったせいか?」
「す、すみません、犬神先生……」朱里は指先を震わせながら囁いた。
「私に謝るな。トラウマを負わされるこの脳組織に謝れ」エドは冷淡に遮った。「脳外科に浅薄な共感は不要だ。共感は信号を歪ませるノイズに過ぎない。機械になれ、朱里。冷徹に、正確にな」
次の瞬間、エドはミオが震え上がるような行動に出た。中心後回の領域に、プロトコルを無視した長さで電気刺激を与えたのだ。患者は苦悶の声を漏らした。喉の奥から絞り出されるような、悲痛な呻き。
「先生、運動反応が強すぎます!」ミオが悲鳴に近い声を上げた。
「これは医療ミスではないよ、倉橋看護師。痛みの閾値をマッピングしているだけだ」エドは平然と答え、モニター上で跳ね上がる脳波の振幅を、悦びに満ちた目で見つめた。「見てごらん朱里、この振幅を……人間がただの電気回路の集積であるという生きた証拠だ。美しいと思わないか?」
手術が終わり、患者が回復室へ運ばれると、エドは朱里を最上階にある完全防音の個人診察室へと連れ込んだ。
空気は一変した。エドがマスクを外すと、看護師たちが崇めるあの整った素顔が露わになる。彼は朱里に歩み寄り、死に至るほど甘美な手つきで彼女の髪を撫でた。
「さっきのオペは惨めだったな」低い声が響く。
朱里は俯き、目に涙を溜めた。「私は……彼女が呻くのを聞いて、可哀想だと思ってしまったの、エド。あんなに痛そうなのに……」
エドは朱里の顎を静かに、しかし強く掴み、無理やり顔を上げさせた。「可哀想? だから君は成長しないんだ、朱里。私はすべて、私たちのためにやっている。私たちの名を不滅にする研究のためだ。あんな下っ端の看護師――名前は何だっけ、ミオ?――のような弱さを見せるなら、君は私の荷物でしかなくなる」
「で、でも、あなたを愛しているわ、エド……」
「愛?」エドは瞳の奥が笑っていない薄い笑みを浮かべた。「私を愛しているなら、私のやり方に疑問を持つな。私の推薦がなければ、新宿での君のレジデントとしてのキャリアは一夜にして終わるんだぞ。こんな脆い精神の女を、私以外に誰が受け入れる?」
朱里は息が詰まった。完璧なガスライティングだった。エドは、外の世界は残酷な場所であり、彼の支配下でしか安全ではないと思い込ませる。その安全の対価が、魂の欠片であるとしても。
「ごめんなさい……もっと頑張るから……」朱里は咽び泣いた。
エドは彼女を冷たい抱擁の中に引き寄せた。「いい子だ。今夜、地下ラボに『特別な患者』がいる。身寄りのない男だ。大脳辺縁系の回路テストを行う。忠実な助手が必要なんだ。来てくれるね?」
朱里に拒否権はなかった。トラウマティック・ボンディング(外傷的絆)が彼女を縛り付けていた。窓の外では新宿の雪が積もり始め、反抗しようとする心の声を静かに埋め尽くしていった。




