表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/2

前編 行かないで、ばあや

全二話の前後編です。

継母による虐待描写、幼い子どもへの叱責・罰の描写があります。

ただし主題は、復讐よりも「叱ること」と「見捨てないこと」

そして老いたばあやと公爵令嬢の絆です。

最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

子供の泣き声は、廊下の一番奥から聞こえていた。


グレーテがフューリンゲン公爵家の敷居をまたいだ、まさにその日のことである。

案内の執事が足を止め、困ったように目を伏せた。

使用人たちが数人、開いた扉の前で立ちすくんでいる。

誰も、中へ入ろうとしない。


グレーテは荷物を床に置き、部屋へ入った。


暖炉の前に、栗色の髪の少女が立っていた。

五つか六つか。

その小さな手に、布の人形が握られている。

暖炉の火は赤く燃えていた。


「返して! わたしのお人形なの!」

泣いているのは、もう一人の幼い娘だった。

金の巻き毛を振り乱し、床に座り込んで泣きじゃくっている。


「この子ばかり、何でももらえるんだもの!」


栗色の髪の少女――マリアンナが叫んだ。

榛色の瞳が、火よりも激しく燃えていた。


「新しいドレスも、お菓子も、お人形も! それなのに、わたくしのお母様のことを笑ったくせに!」


「だって、お母様が言ったんだもの。お姉様は――」

「お母様なんて、もういないくせにって言ったじゃない!」

人形が、暖炉へ振りかぶられた。


「おやめなさいませ、お嬢様」

静かな声だった。


マリアンナが振り返る。

そこに立っていたのは、見知らぬ白髪の老女だった。


「……誰よ。あなたも、わたくしを叱るのね!」

「はい」

老女は目を逸らさなかった。

「今のお嬢様は、悪うございました」



マリアンナは身構えた。

肩をすくめ、目をきつく瞑り、小さな両手をぎゅっと握りしめる。


叱られる子供の構えではなかった。

打たれる痛みが過ぎるのを、ただ待つ子供の構えだった。

慣れた構えだと、グレーテには分かった。


「手をお出しなさいませ」


やっぱり、とマリアンナの顔が歪む。

それでも少女は、震える手を差し出した。

強がりの目で老女を睨みながら。


グレーテはその手を、打たなかった。


節くれだった老いた手で、人形を握った小さな手首を包み、そっと暖炉から遠ざけた。


「お下ろしなさいませ」

「……え?」

「まずは、その子を火から離してさしあげるのです」

マリアンナは戸惑いながら、人形を胸の前まで下ろした。

握りしめていた布の顔は、少し歪んでいた。


「痛みで覚える必要はございません」

グレーテは膝を折り、少女と目の高さを合わせた。

「けれど、ご自分の手で傷つけようとしたものには、ご自分の手で向き合うのです」


マリアンナは何も言わなかった。

ただ、人形を握る手が、さっきとは違う握り方をしていた。


「お返しなさいませ」

「……いやよ」

「お返しなさいませ」

グレーテは、同じ声で繰り返した。


マリアンナは唇を噛んだ。

しばらく人形を握りしめていたが、やがて乱暴に腕を伸ばした。


「……返すわよ」

謝罪にはほど遠い声だった。

けれど、人形は金髪の娘――モニカの手に戻った。



グレーテは立ち上がると、今度は泣いているモニカの前に膝を折った。

「お人形は、戻ってまいりましたよ、モニカ様」

「……お姉様は悪い子だもの」

モニカはしゃくり上げながら言った。

「お母様がそう言ったもの。お姉様は悪い子だから、仲良くしなくていいって」


「モニカ様」

グレーテの声は、優しいままだった。けれど、揺るがなかった。

「人の大切なものを笑ってはなりません。お姉様のお母様は、お姉様の大切な方でございます」

モニカの目が丸くなった。


「誰かを悪い子と呼ぶ前に、ご自分のしたことを振り返るのです」

モニカは、口を開けたまま黙った。

生まれて初めて、自分が叱られたという顔だった。


改心の色はない。

ただ、叱られたことのない子供が初めて叱られた、その沈黙だけがあった。



グレーテは、六十をとうに越えていた。


亡き公爵夫人の実家で、長く子供たちの世話をしてきた女だった。

白髪は結い上げてもほつれ、手の節は太く、階段を上る足はもう速くない。


夫は遠い昔に亡くなり、授かった子も、大人になる前に土へ還した。

それでも、子供の泣き声だけは、聞き逃せなかった。


その日から、グレーテはマリアンナ付きの養育係となった。



屋敷の歪みは、数日のうちに見えてきた。


マリアンナの食事だけが、冷めてから運ばれてくる。

モニカには新しいドレスと菓子が絶えないのに、マリアンナの服は丈が合わず、袖口が擦り切れている。

栗色の髪は絡まったまま、広い寝室は火の気が薄く、冷たい。


公爵に伺いを立てれば、返る言葉は決まっていた。

「屋敷のことは妻に任せている」


奥様――後妻であるドミニクは、扇の陰で微笑んだ。

「あの子は難しい子なのです。甘やかせば、ますます手に負えなくなりますわ」


グレーテは深く礼をして下がった。

反論はしなかった。

ただ、その夜から、マリアンナの部屋の暖炉には誰に咎められぬ程度に薪が足された。



「毒でも入っているの?」

温かいスープの皿を前に、マリアンナは匙を取らなかった。

「毒を入れるには、少々もったいない良い鶏でございます」


グレーテが真顔で答えると、マリアンナは一瞬きょとんとして、それから、ふん、と顔を背けて匙を取った。

たちまち皿は空になった。


髪を梳こうとすると、少女は肩を強張らせた。

グレーテは、絡まった毛先から少しずつ、櫛を通した。


「痛い時は、痛いとおっしゃいませ」

「……言ったら、怒るくせに」

「怒りません。痛いものは、痛いのでございます」


作法の稽古でも、グレーテは物差しを持たなかった。

「背筋を伸ばすのは、偉そうに見せるためではございません」

丸まった小さな背に、そっと手を添える。

「踏みつけられそうな時に、ご自分で立っているためでございます」


マリアンナが癇癪を起こすことは、少しずつ減っていった。

怒りをぶつける前に、唇を噛んで踏みとどまることが増えた。

その変化を、扇の陰から見ている目があることに、グレーテは気づいていた。



事件は、リボンから起きた。


侍女見習いのリーゼが、衣装箱を運ぶ途中で古いリボンを落とし、床の水で汚してしまったのだ。

色の褪せた、なんでもないリボンに見えた。


だが、それは亡き公爵夫人が、幼いマリアンナに選んでくれた最後のリボンだった。


「触らないでと言ったのに!」

マリアンナの声が、廊下に響いた。

「お前なんか、ここから出ていけばいいのよ!」

リーゼは真っ青になって泣き出した。

遠巻きの使用人たちが、また始まった、と顔をしかめるのが分かった。


「お嬢様」

グレーテが歩み寄った。

「今のお言葉は、いけません」

「だって……だって、お母様のリボンだったのよ!」

マリアンナは汚れたリボンを胸に握りしめ、叫んだ。

目に涙があふれていた。


怒っている。

けれど、それだけではない。

たったひとつ残された母との繋がりまで奪われるのではないかと、幼い心が怯えている。

グレーテには、そう見えた。


「はい。大切なものでございました」

「なら――」

「ですが」

老女は静かに続けた。

「大切なものを傷つけられたからといって、人を傷つけてよい理由にはなりません」


マリアンナは唇を噛んだ。

叱られた。

また叱られた。

叱られた子は捨てられるのだと、この子は思っている。

グレーテには分かっていた。


老女は、そっと手を伸ばした。

マリアンナの肩が、びくりと跳ねる。

打たれると思ったのだ。


けれどグレーテの手は、少女の頭を叩かなかった。

乱れた栗色の髪に絡んでいた細い糸くずを、そっと取っただけだった。


「一緒に洗いましょう」

「……一緒に?」

「はい。大切なものなのでしょう?」


グレーテは汚れたリボンを預かり、ぬるま湯を用意させた。

マリアンナにも、清潔な布を持たせた。


小さな手は不器用だった。

何度も水をこぼし、唇を噛んだ。

それでもグレーテは叱らなかった。

ただ、横にいた。


翌朝、乾いたリボンはマリアンナの枕元に戻された。


リボンの染みは、薄くなっていた。


マリアンナは、その日、自分からリーゼに小さな声で「……ごめんなさい」と言った。

うつむいたまま、消え入りそうな声だった。それでも、言った。



「あなたは、あの子を甘やかしすぎています」


ドミニクの声には苛立ちが滲んでいた。

マリアンナが落ち着くほどに、その苛立ちは濃くなっていくようだった。


「泣くことと、許されることは別でございます」

グレーテは頭を下げたまま答えた。

「ですが、泣くことさえ許されない子供は、いずれ怒ることしか覚えなくなります」


ドミニクの扇が、ぱちりと閉じた。



ドミニクが扇を閉じた翌日、家庭教師はいつもより厳しかった。


一つ間違えればため息をつき、返事が遅れれば眉をひそめる。

背筋がわずかに崩れただけで、わざとらしく首を振る。


「やはり、奥様のおっしゃる通りですわ。マリアンナ様には、厳しさが必要でございます」


その言葉に、マリアンナの頬が赤くなった。

「わたくしは、ちゃんと座っているわ」

「口答えをなさるのですか」

「口答えじゃないわ!」


マリアンナは稽古の本を閉じてしまった。

大きな音が、部屋に響く。


家庭教師の言葉には、尾ひれがついていた。

けれど、すべてが嘘でもなかった。

マリアンナは確かに言い返し、稽古の本を閉じてしまったのだから。


罰の場には、ドミニク付きの侍女が細い杖を持って立っていた。

ドミニクが扇の陰から見ている。


廊下に控えていた執事の姿が、いつの間にか消えていた。


「打てばいいわ!」

マリアンナは顎を上げた。

「どうせ、みんなそうしたいのでしょう!」


強がりの声だった。

けれど、背中に組んだ小さな手は、震えていた。

杖が振り上げられる、その前に。

老いた身体が、少女の前に立った。


杖をつくほどではない。

けれど、長く立っていれば膝が笑う年だった。

その老いた足で、グレーテはマリアンナの前に立った。


「この子を打つなら、まずこの老いぼれをお打ちなさいませ」


侍女の手が止まらなかった。


止めようとして、止めきれなかったのかもしれない。

あるいは、ドミニクの視線に逆らえなかったのかもしれない。


振り下ろされた杖は、グレーテの肩先をかすめる寸前で逸れ、すぐ脇の床を打った。


乾いた音が、部屋に響いた。


マリアンナの顔から、血の気が引いた。


自分が打たれる時とは、違った。

痛みを我慢することはできた。

けれど、自分のために誰かが打たれるのを見る覚悟など、マリアンナにはなかった。


「下がりなさい、グレーテ」

ドミニクの声が尖った。

「これは教育です」

「いいえ、奥様」

グレーテは、頭を下げなかった。

「これは教育ではございません。怖がる子供を黙らせることを、教育とは申しません」


長い沈黙があった。


老いたばあやを打ったとなれば、使用人の口を完全に塞ぐことはできない。

ドミニクも、それは分かっていた。


やがてドミニクは扇を開き、「……興が削がれましたわ」とだけ言った。


だが、その目は冷えていた。


「この者を、今すぐ屋敷から下がらせます」

ドミニクの声は、怒りで震えていた。

「教育に口を出し、使用人の分を越え、わたくしに逆らいました。これ以上、マリアンナのそばには置けません」


その時、低い声がした。

「それはならん」

扉の前に、マリアンナの父、フューリンゲン公爵が立っていた。


いつからそこにいたのか、誰にも分からなかった。

けれど、その顔には不快そうな皺が刻まれていた。


「グレーテは、亡き妻の実家で長く子どもを見てきた女だ。私が頼んでマリアンナ付きの養育係として来てもらった。下がらせるなら、私の許しを得てからにしろ」

「あなた……」

「屋敷のことは、君に任せている」

公爵はドミニクを見た。


「だが、ようやく娘が馴染み始めた養育係を、ここで替えれば外聞が悪い。それに、亡き妻の実家にも顔が立たん。しばらく様子を見ろ」

ドミニクは、何か言い返そうとして、唇を閉じた。


公爵はそれ以上、何も言わなかった。

ちらりとマリアンナを見た。

けれど、それだけだった。

抱き寄せることも、何があったのかと尋ねることもしなかった。


マリアンナは、その視線を受けても動かなかった。

ただ、グレーテのスカートを、小さく握っていた。



その夜、マリアンナは寝台の上で膝を抱えていた。

ろうそくの灯りの中で、榛色の瞳が、部屋を整えるグレーテの背中を追っている。


「……どうして?」

小さな声だった。

「あなたは、わたくしを悪いと言ったのに。稽古を投げ出したのは、悪いことだって。それなのに、どうして、前に立ったの」


グレーテは手を止め、寝台のそばに腰を下ろした。

「悪いことをした時は、悪いと申し上げます。今日のお嬢様は、悪うございました」


マリアンナの肩が、小さく揺れた。


「ですが、お嬢様が悪いことをしたからといって、誰かが傷つけてよい理由にはなりません」

それは、リボンの日に少女自身へ告げた言葉と、同じ形をしていた。


「叱ることと、見捨てることは違います」

マリアンナは、何も言わなかった。

ただ、抱えた膝に顔を埋めた。

小さな肩が、震えていた。


グレーテは灯りを整え、静かに立ち上がった。

扉へ向かう。


袖が引かれた。


振り返ると、寝台から身を乗り出したマリアンナが、老女の袖を掴んでいた。

その小さな指先は、驚くほど冷たかった。

榛色の瞳から、こらえていたものが零れていた。


「行かないで、ばあや」

グレーテは、その冷えきった手を、両の手で包んだ。

節くれだった、けれど温かい手だった。

「参りません。お嬢様が、もうよいとおっしゃる日まで」


その夜、マリアンナは初めて、誰かの手を握ったまま眠った。

寝顔は、気難しい公爵令嬢のものではなかった。


母を亡くし、父に見落とされ、誰にも抱きしめられなかった――ただの、幼い子供の寝顔だった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

後編では、「行かないで」と泣いた少女が、どのように成長したのか。

最後まで見届けていただけましたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ