後編 ばあやの手を握る日
後編です。
前編から十五年後。
ばあやに叱られ、守られ、愛された少女が、
自分の足で立つ日のお話です。
看取りの描写があります。
「マリアンナ・フューリンゲン。僕は、君との婚約を白紙に戻したい」
フューリンゲン公爵家で開かれた夜会の広間に、その声はよく通った。
あれから十五年が経っていた。
マリアンナは、栗色の髪を美しく結い上げ、榛色の瞳で婚約者を見た。
トーマス・アルデン侯爵令息。
その顔には、正義を為す者の高揚が浮かんでいた。
マリアンナは、泣かなかった。
怒鳴らなかった。
扇を握る指に、わずかに力が入っただけだった。
昔の自分なら、きっと杯を投げていた。
怒りに任せて叫び、周囲に「あれだから公爵令嬢は……」と言わせていただろう。
けれど、今のマリアンナには、耳の奥に残る声があった。
――怒ってもよろしゅうございます。
けれど、怒りにお嬢様を支配させてはなりません。
グレーテの声。
「理由を、伺ってもよろしいかしら?」
マリアンナは静かに言った。
トーマスは、待っていたとばかりに胸を張った。
「君は昔から、モニカ嬢に冷たかったそうじゃないか。彼女はいつも君に怯えていた。人形を暖炉に投げ込もうとしたことさえあったと聞いた。僕は、そんな女性を妻にはできない」
広間がざわめいた。
マリアンナは、扇をゆっくりと閉じた。
「それは、どなたからお聞きになったのですか?」
「それは……」
「モニカ本人から? それとも、お義母様からかしら?」
トーマスの目が、一瞬泳いだ。
その視線の先に、継母であるドミニク夫人が立っていた。
扇の陰で微笑んでいる。
十五年前と同じ微笑みだった。
◇
「モニカ嬢に聞けばいい」
トーマスは声を張った。
「モニカ嬢、君の口から言ってくれ。姉君にどんな仕打ちを受けてきたか」
視線が、金の巻き毛の令嬢に集まった。
モニカは、母の隣に立っていた。
母の手が、娘の背にそっと添えられる。
言うべき言葉は、決まっているはずだった。
その手は優しく置かれているように見えた。
けれど、モニカの肩は小さく強張っていた。
扇を握る指が、白くなる。
長い沈黙のあと、モニカは一度だけ目を閉じた。
それから、母の手から半歩離れて、口を開いた。
「……いいえ」
「モニカ?」
ドミニクの声が、低くなった。
モニカは、母を見なかった。
「お姉様は、わたくしを虐げてなどおりません」
広間のざわめきが大きくなった。
トーマスの顔から、高揚が剥がれ落ちていく。
「人形のことは、本当です。幼い頃、お姉様はわたくしの人形を暖炉に投げ込もうとなさいました」
モニカは続けた。
「けれど、その前に、わたくしがお姉様のお母様を笑ったのです。もういない人だと、笑ったのです」
「モニカ、およしなさい」
母の声を、モニカは聞かなかった。
「昔、グレーテに叱られました。人の悲しむ顔を見て笑うものではない。誰かを悪い子と呼ぶ前に、自分のしたことを振り返れ、と」
モニカは姉を見た。
仲の良い姉妹の目ではなかった。
けれど、嘘をつく者の目でもなかった。
「わたくしは、お姉様が好きではありません。今でも、少し怖い……ですが、嘘に名前を貸すのは、ごめんです」
◇
「この子は、混乱しているのですわ」
ドミニクが進み出た。
扇が忙しなく動いている。
「トーマス様、お聞きくださいな。あの子がどれほど我がままだったか、屋敷の者たちは皆知っていますわ。使用人たちも、ずいぶん苦労させられたはずです」
ドミニクは、壁際へ視線を投げた。
そこには、給仕や侍女たちが控えていた。
公爵家の夜会を支えるために、広間にいた者たちだった。
逆らえるはずがない。
その目は、そう言っていた。
沈黙が落ちた。
その沈黙を破って、一人の侍女が、進み出た。
「……恐れながら、奥様。それは違います」
栗色の髪を質素にまとめた、若い侍女だった。
リーゼ。
かつて、汚れたリボンの前で泣いた侍女見習いは、今はマリアンナ付きの侍女になっていた。
「幼い頃のマリアンナ様は、確かに荒れておいででした。わたくしも、きついお言葉を受けたことがございます。ここから出ていけと、言われたこともございます」
リーゼは、マリアンナを美化しなかった。
マリアンナも、それを止めなかった。
「けれど、グレーテさんに叱られてから、マリアンナ様は変わろうとなさいました。わたくしに、謝ってくださいました。五歳のお嬢様が、侍女見習いに、頭を下げてくださったのです」
リーゼの声が、震えた。
「それからは、怒りをぶつけそうになっても、必ず踏みとどまろうとなさいました。間違えた時は、謝ってくださいました。この十五年、ずっと」
◇
一人が声を上げれば、堰は切れる。
食事係の女が進み出た。
「マリアンナ様のお食事だけ、冷めてから運ぶよう命じられたことがございます。奥様のお指図でした」
衣装係が続いた。
「新しいドレスは、いつもモニカ様へ先に回されました。マリアンナ様のお召し物の寸法直しは、何度願い出ても後回しにされました」
古参の使用人が、静かに言った。
「家庭教師の罰が行き過ぎていると、グレーテさんが何度も止めておられました。老いた身体で、お嬢様の前に立たれたことも、この目で見ております」
そして、リーゼが最後に言った。
「グレーテさんが、すべて日誌に残しておられます。日付も、指図をなさった方のお名前も」
一拍おいて、続けた。
「ですが、日誌がなくとも、わたくしたちは見ておりました」
ドミニクの扇が、止まった。
顔から血の気が引いていた。
使用人は逆らわない。
その前提の上に、ドミニクの十五年は建っていた。
その土台が、いま崩れていた。
◇
「マリアンナ……あなた、こんな場で、母を辱めるつもりなの」
ドミニクの声は掠れていた。
マリアンナは継母をまっすぐに見た。
罵倒の言葉なら、いくらでも知っていた。
冷めた食事の数だけ。
擦り切れた袖口の数だけ。
振り上げられた杖の数だけ。
けれど、マリアンナは静かに言った。
「奥様。わたくしは、あなたを憎むためにここへ立っているのではありません」
「な……」
「ですが、あなたがしたことを、なかったことにはいたしません」
それだけだった。
そしてマリアンナは、トーマスへ向き直った。
◇
「ま、待ってくれ!」
トーマスは広間に立ち尽くしていた。
「マリアンナ、僕は騙されていたんだ。君のためを思って――」
「承知いたしました」
マリアンナは、遮った。
「トーマス様との婚約は、白紙に戻しましょう」
「え……」
「ただし、わたくしの名誉を傷つけた発言については、撤回していただきます。この場で、皆様の前で」
トーマスの顔が白くなった。
婚約破棄を突きつけたのは自分なのに、受け入れられた途端、足元が消えたような顔だった。
「待ってくれ、僕は君のために――」
「わたくしのためを思う方は」
マリアンナは、静かに言った。
「わたくしの言葉を聞かずに、罪を決めたりはなさいません」
その夜会から数日のうちに、公爵家は動いた。
グレーテの日誌が改められ、使用人たちの証言が取られ、ドミニクは屋敷の一切の差配から退けられた。
実家へ戻される日、見送る者はいなかった。
アルデン侯爵家からは、フューリンゲン公爵家へ正式な謝罪が届き、婚約は解消された。
噂を鵜呑みにして公爵令嬢を公の場で貶めた令息の名は、社交界を一巡りした。
◇
「マリアンナ」
騒ぎが落ち着いた頃、公爵が娘の部屋を訪れた。
十五年間、屋敷のことは妻に任せていると言い続けた父は、老けて見えた。
「私は……お前を、見ていなかった」
「はい」
マリアンナは、否定しなかった。
「すまなかった。今からでも、私は――」
「お父様」
マリアンナは、静かに遮った。
「わたくしは、もう幼い子供ではありません。ですから、今さら抱きしめてほしいとは申しません」
公爵の伸ばしかけた手が、止まった。
冷たい声ではなかった。
ただ、事実を述べる声だった。
マリアンナは、窓の外を見た。
庭でモニカが一人歩いていた。
母と引き離され――いや、母の正体を知り、行き場をなくした妹だった。
「ただ、これからはモニカを見落とさないでくださいませ」
「……モニカを?」
「あの子は、嘘に名前を貸しませんでした。ずっと母親の望むように振る舞ってきた子が、皆の前で初めて逆らったのです。それがどれほど怖いことか、わたくしは知っています」
公爵は、長いあいだ黙っていた。
それから、深く、頭を下げた。
娘に対して、初めて。
◇
「あなたを皇太子妃に望むのは、フューリンゲン公爵令嬢だからではありません」
オスカー皇太子がそう言ったのは、それから一ヶ月後のことだった。
あの夜会には、皇室からオスカー皇太子も招かれていた。
彼は騒ぎの中心から離れた場所で、静かに事の成り行きを見ていた。
婚約破棄の茶番も、モニカの証言も、使用人たちの声も、そしてマリアンナの立ち姿も、すべて見られていた。
「傷つけられてなお、他者を踏みにじらない方だからです」
オスカーは続けた。
「あなたは、あの方を罵倒しなかった。妹君を潰さなかった。使用人たちの証言を、怒りの刃にはしなかった」
そして、静かに言った。
「傷つけられた過去は、あなたを冷たい方にはしなかった。あの場で、あなたは誰のことも踏みつけなかった」
マリアンナは、扇の内で小さく息をついた。
褒められるようなことではない、と思った。
――大切なものを傷つけられたからといって、人を傷つけてよい理由にはなりません。
あの日、汚れたリボンを握りしめて泣いた自分に、グレーテはそう言った。
五歳の自分は、その言葉の意味が分からなかった。
二十歳になっても、守れているかは分からない。
ただ、守ろうとしてきた。
それだけだった。
「わたくしは、生まれつきこうだったのではありません」
マリアンナは言った。
「昔は、人形を火に投げ込もうとする子供でした。使用人に、出ていけと叫ぶ子供でした」
「知っています」
オスカーは、少し笑った。
「叱られて、変わった方だと聞きました。私は、生まれつきの聖女より、そちらを信用します」
◇
それからさらに半月ほどして、婚約は正式に整った。
その頃にはドミニクの処分も定まり、トーマスは社交界での信用を失い、モニカは母から離されて、公爵の目の届くところで学び直すことになっていた。
公爵は、遅すぎた責任を、遅いなりに取り始めた。
そして、マリアンナの皇太子妃教育が始まった。
帝国史。
外交儀礼。
宮廷作法。
慈善事業の差配。
かつて、匙の持ち方から教えられた少女が、今は帝国史と外交儀礼を学んでいる。
かつて、髪を梳かれることすら嫌がった少女が、栗色の髪を美しく結い、皇太子妃となるための礼を身につけている。
扉のそばでは、白髪のグレーテが静かに見守っていた。
もう、長くは立っていられない。
椅子に腰かけ、膝の上で節くれだった手を重ねている。
講義の声を聞きながら、時折、うとうとと舟を漕ぐ。
マリアンナは、その姿を横目に見るたび、講義の内容が一つ、頭から抜けた。
◇
老いは、細部から見えた。
手が震える。
櫛を落とす。
針に糸が通らない。
階段の途中で息が上がる。
呼びかけに返る声が細い。
ある朝、グレーテがマリアンナの髪を梳こうとして、櫛を落とした。
かつん、と乾いた音がした。
「申し訳ございません、お嬢様」
グレーテが身を屈めるより早く、マリアンナが拾った。
「ばあや、今日はもう休んで」
「いいえ。お嬢様のお支度がまだでございます」
「もう、わたくしは一人で支度できるわ」
言ってから、マリアンナは胸が痛んだ。
かつては、一人で支度することさえできなかった。
髪は絡まり、匙も持てず、背中も伸ばせなかった。
グレーテがいたから、できるようになった。
一人でできる、という言葉は、グレーテが教えてくれた十五年の証だった。
それなのに、突き放す言葉のように響いた。
マリアンナは、櫛を握ったまま、しばらく立っていた。
それから、グレーテの肩に手を置き、鏡台の前の椅子へ、そっと座らせた。
「ばあや。じっとしていて」
「お嬢様?」
マリアンナは、白髪に櫛を通した。
結い上げてもほつれる、細くなった白髪だった。
絡まないよう、毛先から少しずつ。
かつて、自分がそうされたように。
「今度はわたくしが、あなたの髪を梳く番ね」
鏡の中で、グレーテが困ったように笑った。
「皇太子妃になられる方が、ばあやの髪など」
「わたくしが五歳の頃、あなたは公爵令嬢の髪を梳いてくれたわ」
櫛は、ゆっくりと通っていく。
「痛い時は、痛いと言ってちょうだい」
グレーテは、鏡の中で目を細めた。
「……痛くは、ございません。ちっとも」
◇
婚約から、季節がひとつ移ろうとしていた頃だった。
グレーテは、起き上がれなくなった。
苦しんでいる様子はなかった。
熱もなく、痛みもなく、ただ、長く働き続けた身体が、ようやく休むことを思い出したようだった。
医師は静かに首を振った。
あとは、穏やかに、と。
マリアンナは、皇太子妃教育を休んだ。
宮廷からは何も言われなかった。
言わせなかった、というべきかもしれない。
マリアンナは、グレーテの部屋に椅子を運び込み、そこで本を読み、刺繍をし、時折、眠るばあやの白髪を撫でた。
「お嬢様」
グレーテが目を覚ますたび、同じことを言った。
「お勉強に、お戻りくださいませ」
「ええ、あとでね」
マリアンナも、同じ返事をした。
あとで、は来なかった。
◇
オスカー皇太子が見舞いに訪れたのは、数日後のことだった。
供も最小限に、忍ぶように来た皇太子は、寝台のそばに立つと、驚くグレーテに向かって、深く頭を下げた。
「殿下、おやめくださいませ。老いぼれの養育係に、そのような――」
「あなたが育ててくださった方を、私は妃に迎えます」
オスカーは、頭を上げなかった。
「どうか、安心してお任せください」
グレーテは、しばらく声が出なかった。
それから、皺だらけの顔で、深く息をついた。
安堵の息だった。
自分が育てた少女は、もう一人ではない。
叱ってくれる人がいなくなっても、あの子はもう、自分で立てる。
そして、隣に立つ人がいる。
「……もったいのう、ございます」
それだけ言って、グレーテは目を閉じた。
眠ったのではない。
祈るような、長いまばたきだった。
◇
マリアンナはグレーテの手を握っていた。
節くれだった、小さくなった手だった。
かつて、暖炉の前で自分の手を包んだ手。
杖の前に立った時も、震えることなくマリアンナを守った手。
何百回、何千回と、栗色の髪に櫛を通した手。
「お嬢様」
グレーテが、目を開けた。
ろうそくの灯りの中で、老いた目が、栗色の髪と榛色の瞳を映した。
怯えて、怒って、疑ってばかりいた少女は、もうどこにもいなかった。
そこにいるのは、背筋を伸ばして座る、一人の女性だった。
踏みつけられそうな時に、自分で立てる人だった。
「お嬢様は、もう大丈夫でございますね」
マリアンナは、頷いた。
「ええ……あなたが、そう育ててくれたから」
涙は、溢れた。
けれど、声は震えなかった。
震えさせなかった。
この人の前で、最後に見せるのは、泣き崩れる姿ではないと決めていた。
けれど。
「ばあや……」
その一言だけは、駄目だった。
その声は、皇太子妃となる令嬢のものではなかった。
かつて暗い部屋で「行かないで」と袖を掴んだ、幼い少女の声だった。
グレーテは、微笑んだ。
「はい、お嬢様」
いつもの返事だった。
十五年間、何千回と聞いた返事だった。
その夜、グレーテは静かに息を引き取った。
眠るような最期だった。
十五年前の夜、グレーテの袖を掴んだマリアンナの指先は、驚くほど冷たかった。
今、グレーテの手を包むマリアンナの手は、温かかった。
最期まで握られていた手は、少しも冷たくなかった。
◇
後日。
マリアンナは、宮殿に用意された控えの間で、鏡台の前に座っていた。
今日から、皇太子妃教育が再開される。
侍女たちが支度に控えている。
その中には、リーゼの姿もあった。
「お髪を、お結いいたします」
「ええ……少しだけ、待って」
マリアンナは、引き出しから古い櫛を取り出した。
歯の欠けた、飴色の櫛だった。
白髪のばあやが、何度も何度も、自分の髪を梳いてくれた櫛。
遺された品々の中から、マリアンナが唯一、自分の手元に残したものだった。
栗色の髪に、一度だけ、そっと通す。
痛くはなかった。
ちっとも。
「行ってまいります、ばあや」
返事はない。
けれど、マリアンナはもう、ひとりで歩ける。
そう育ててくれた人が、いたから。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
今回は、ざまぁよりも「叱ってくれた人」「見捨てなかった人」「最後まで手を握ること」を大切にして書きました。
グレーテとマリアンナの物語が、少しでも心に残りましたら幸いです。
よろしければ、評価・ブックマーク・感想などで応援していただけると励みになります。




