第9話 英雄扱いされ始める
変化は、ある日突然ではなかった。
じわじわと、音もなく。
まるで床に染み込んだ水が、いつの間にか靴底を濡らしているみたいに。
冒険者ギルドの空気は、確実に変わっていた。
「……アルトさん、おはようございます」
「はい。おはようございます」
声をかけた中堅冒険者は、無意識に背筋を伸ばしていた。
本人は気づいていない。
気づいていないのは、アルトだけだ。
以前なら、雑用係に挨拶する冒険者は少なかった。
いても、軽く会釈する程度。
今は違う。
すれ違うたびに、誰かが頭を下げる。
深さも、タイミングも、ばらばらなのに――共通しているのは、敬意だ。
「……なんだか、最近みなさん丁寧ですね」
アルトは、リリアにそう言って首を傾げた。
「そ、そうですね……」
否定できなかった。
ギルド内では、もう「雑用係」という言葉はほとんど使われなくなっている。
代わりに、曖昧な呼び方が増えた。
「あの人」
「例の方」
「後ろにいる人」
名前を呼ぶのを、避けている。
――呼んだら、何かが変わってしまう気がして。
昼過ぎ。
酒場スペースの奥で、小さな揉め事が起きていた。
「だからよ、あの依頼は無理だって言ってるだろ」
「でも、報酬が……」
相手は、若い冒険者のパーティ。
明らかに力量不足だ。
周囲は、様子をうかがっているだけで、誰も止めに入らない。
その場に、アルトはいなかった。
それなのに。
「……やめておけ」
低い声が、一言だけ落ちた。
発したのは、別の中堅冒険者だ。
「無理して受ける依頼じゃない」
「でも……」
「後始末が必要になる」
その言葉で、若い冒険者たちは黙った。
後始末。
それが何を意味するか、皆が知っている。
――アルトが出てくる状況。
誰も、そこまで事態を悪化させたくなかった。
結果、依頼は取り下げられた。
被害も出なかった。
アルトは、その場にいない。
何もしていない。
それでも、影響は及んでいる。
***
夕方。
アルトは、ギルド裏の倉庫で荷物整理をしていた。
「これ、古いですね……」
埃を払い、壊れかけた棚を直す。
いつも通りの雑用。
そこへ、グランがやってきた。
「アルト」
「はい」
「最近、居心地はどうだ?」
突然の質問に、アルトは少し考えた。
「……前より、静かですね」
「不満は?」
「いえ。掃除しやすいです」
グランは、思わず苦笑した。
「そうか」
それ以上は聞かない。
聞いてしまえば、何かが壊れる気がした。
その夜。
街の酒場で、新しい噂が流れ始めていた。
「聞いたか? ギルドの……」
「名前、出すな」
「ああ……“あの人”な」
内容は、もう事実と関係がない。
「戦場に出ないのに、全部終わらせるらしい」
「命令一つで、国が動くとか」
「いや、命令すらしない。存在してるだけで……」
尾ひれが、完全に別の生き物になっている。
だが、奇妙なことに。
その噂は、恐怖よりも安心を生んでいた。
「……まあ、あの人がいるなら、大丈夫だろ」
「何があっても、最後は何とかなる」
無責任な期待。
だが、信頼でもある。
翌朝。
アルトは、いつも通りギルドに来た。
掲示板の前で立ち止まり、依頼書を眺める。
「……今日は、これを片付けましょうか」
誰も気づかない。
その一枚が、危険度表記の抜けた依頼だということを。
そして。
誰もが無意識に思っている。
――もし何かあっても、
――あの人が“後ろ”にいる。
英雄扱いは、もう始まっていた。
本人だけが、最後まで知らないまま。
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