第4話 噂が一人歩きする
セラ・ヴァイスがギルドを出ていってから、三分。
たったそれだけの時間で、冒険者ギルドは「いつも通り」を完全に失った。
「……なあ、見たか?」
「見たっていうか、見えなかったんだが」
「銀閃の剣が、当たらなかったよな……?」
ひそひそ、という音量じゃない。
それなのに、誰も大声では話さない。
まるで、大声を出した瞬間に“何か”に気づかれてしまうみたいに。
私は受付カウンターの向こうで、必死に表情を保っていた。
ミーナさんの忠告が、脳内で何度もリピートされる。
――特別扱いしない。
――噂を止める。
――増幅させない。
……無理です。
だって、もう止まってない。
「おい、あの雑用係……」
「Sランクが本気で斬って、全部かわしたらしいぞ」
「いや、かわしたどころか、動いてなかったって話だ」
話が、もう盛られてる。
視界の端で、アルトさんが床掃除を続けている。
本当に、何事もなかったみたいに。
バケツの水を替え、雑巾を絞り、丁寧に床を拭く。
「……助かります」
思わず、声が漏れた。
アルトさんが顔を上げる。
「え?」
「あ、いえ。床、綺麗で……」
「そうですか? 良かった」
それだけで満足そうに笑う。
この人、本当にさっきの出来事を“出来事”として認識してない。
その時、カウンター前に数人の冒険者が集まってきた。
見慣れない顔。装備も新しい。
新人だ。
「すみません」
代表らしき青年が、恐る恐る声をかけてくる。
「今の……あの……」
言い淀んで、視線がアルトさんの背中に向かう。
「さっきの、見てて……」
来る。
これ、絶対来る。
「アルトさんって……その……」
私は一瞬で判断した。
「雑用係の方です」
即答。
噂を挟ませない。
余白を与えない。
「え、あ、はい……」
青年は混乱した様子で頷いた。
「じゃ、じゃあ……あの人に話しかけても……」
「普通にどうぞ」
“普通に”。
この言葉を使うたびに、胃がきしむ。
新人冒険者たちは、そろそろとアルトさんに近づいた。
「あ、あの……」
「はい?」
アルトさんは、雑巾を置いて振り返る。
「さっきの……その……」
「?」
完全に困っている。
新人は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「剣、当たらなかったですよね」
「そうですね。危なかったです」
「……え?」
「床、傷つくところでした」
新人たちが、固まった。
その場にいた全員が、固まった。
誰かが、小さく呟いた。
「……基準が違う……」
新人冒険者の一人が、勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
「はい?」
「その……お、おかげで……!」
何のおかげかは言わない。
言えない。
アルトさんは、少し慌てた。
「えっと……何もしてないですけど……」
新人たちは、顔を上げないまま後退していく。
その背中を見送ってから、ミーナさんが私の横に来た。
「……無理ね」
「無理ですね……」
「噂、もう止まらない」
ミーナさんは、カウンターに肘をつき、低い声で言う。
「今からは、“止める”んじゃなくて、“形を整える”フェーズよ」
「形……?」
「そう。どうせ広がるなら、都合のいい形にする」
私は、思わず聞き返した。
「……都合のいい、って?」
「アルトが“危険な存在”だと思われない形」
ミーナさんの目が、鋭くなる。
「強い、だけならまだいい。問題は“何を考えてるか分からない”と思われること。そうなったら、国が動く」
昨日の報告書が、脳裏をよぎる。
騎士団。
王国。
介入。
「だから――」
ミーナさんは、淡々と続けた。
「噂はこう誘導する。“あの人は、強いけど、ギルド専属で、前に出ない”」
「……そんな都合よく……」
「やるのよ。受付の仕事」
ぐうの音も出ない。
その時、ギルドの奥から、低い声が響いた。
「……なるほどな」
ギルドマスター、グランさんだった。
いつの間にか、全部聞いていたらしい。
「噂は止まらん。だが、向きは変えられる」
彼は、アルトさんの背中を一瞬だけ見てから言った。
「あいつは、矢面に立たせない。雑用係のままだ」
「でも……」
「それが一番、安全だ」
安全。
誰にとっての?
答えは、聞かなくても分かる。
アルトさん本人にとって、だ。
その日の夕方。
酒場スペースから、もう新しい噂が聞こえてきた。
「聞いたか? あの雑用係……」
「Sランクが忠告残していったらしいぞ」
「前線に出すな、って」
尾ひれが、背びれになり、羽まで生えている。
私は、カウンター越しにアルトさんを見る。
アルトさんは、帳簿を抱えて、こちらに歩いてきた。
「今日の雑用、終わりました」
「お疲れさまです……」
いつも通り。
声を変えない。
アルトさんは、少し首を傾げた。
「……なんだか、今日は騒がしいですね」
「そ、そうですね」
「祭りでも近いんでしょうか」
私は、思わず笑いそうになった。
――違う。
祭りじゃない。
これは、伝説の準備だ。
本人だけが、最後まで気づかないまま進んでいく。
ギルドの天井の下で、噂は確実に形を変えながら、歩き始めていた。




