第2話 受付嬢は何かを察する
受付カウンターの下で、私はこっそり自分の手を握りしめていた。震えないように、震えないように、と。
朝はいつも通りだったのに。
アルトさんが、いつも通りに「雑用の依頼ください」と言って、いつも通りの穏やかな笑顔で依頼書を受け取って、いつも通りに軽く会釈して出ていった――そこまでは。
なのに今、ギルドのロビーは、誰かが息をする音さえためらうような沈黙に包まれている。
「……倉庫整理として処理する」
ギルドマスターの低い声が落ちて、そこでようやく皆が「呼吸していいんだ」と思い出したみたいに、空気がふわっと動いた。
でも、動いたのは空気だけ。人の顔色は青いままだ。
私は、喉がからからになりながら、アルトさんを見た。
アルトさんは、困ったように眉を下げている。まるで「床、ちょっとへこんだくらいで大騒ぎしなくても」とでも言いたそうな顔だ。いや、本人は本気でそう思っていそうで怖い。
「り、リリア。ちょっと奥に来い」
横から小声で呼ばれた。ベテラン受付嬢のミーナさんだ。私は反射的に背筋を伸ばし、カウンター奥の事務スペースへと移動する。
扉を閉めると、外のざわめきが布越しみたいに遠くなった。代わりに、紙とインクの匂いが濃くなる。
「……あなた、さっきの聞いた?」
ミーナさんは、いつも通りの無表情に見えた。でも、机の上の羽ペンを持つ指がほんの少し震えている。
「き、聞きました。『災害級魔物』って……」
「言っちゃダメ」
「え?」
「声の大きさじゃない。概念として。アルトの前で、その単語を成立させちゃダメ」
概念として、って何だろう。怖い。
ミーナさんはため息をついて、棚から一冊の分厚い台帳を引きずり出した。表紙には『依頼完了記録(倉庫周辺)』とある。
「これ見なさい。今朝の“倉庫整理”の依頼番号」
私は台帳のページをめくる。依頼番号、依頼者、内容、危険度――そこまでは普通の書式。
でも、危険度の欄が、妙に空白になっている。
「あれ……?」
「本当は書けないの。書いたら、このギルドが燃える。比喩じゃなく」
ミーナさんは淡々と言った。
私は、背中がぞわっとした。
「でも、倉庫整理ですよね? 依頼書にも……」
「依頼書は表向き」
「表向き……?」
そこで、事務室のさらに奥の扉が開いた。
ギルドマスター――グランさんが、重たい足音もなく入ってくる。大柄なのに、気配が薄い。こういう人が本気を出したら怖いんだろうなと、今さら思う。
「リリア、だったな」
「は、はい!」
「今日の件の処理を、ミーナと一緒にやれ。……あと、これは口外するな」
言い方が命令というより、忠告に近かった。
私は反射的に頷いた。頷くしかない。
「その……ギルドマスター。アルトさんは……」
何者なんですか、と言いかけて、喉の奥で言葉が凍った。
グランさんの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「雑用係だ」
「……」
「少なくとも、本人にとってはな」
その言い方が、もう答えじゃないですか。
グランさんは机の上に、一枚の紙を置いた。薄いけれど、紙質が違う。役所が使う高級紙だ。
そこにはこう書かれていた。
――緊急報告:王国第二倉庫周辺における災害級魔物の消失について
――現場の痕跡より、上位冒険者の関与が疑われる
私の目が点になる。
「こ、国に……?」
「行く。最遅でも今日の夕方には騎士団が来る」
「そんな……」
ミーナさんが、羽ペンを机に置いた。
「ねえ、ギルドマスター。どうするの。あの人、また『掃除しづらいもの』って言ってたわよ」
「言わせておけ」
「言わせておけ、じゃないのよ。本人が本人のことを『普通』だと思ってるのが一番危ないの」
ミーナさんが「危ない」をそういう意味で使う人だとは思わなかった。今日だけで世界がひっくり返っていく。
グランさんは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「リリア。アルトを見て、何を感じた?」
「え……」
何を、感じた。怖い? 尊敬? 混乱? 全部だ。
でも一番は――。
「……優しい、と思いました」
口に出してから、自分で驚いた。こんな状況なのに、優しいだなんて。
でも本当にそうだった。アルトさんは、帰ってきたとき真っ先に「すみません」と言った。誰も責めていないのに。
「床、壊しちゃいましたか……?」って、あんな災害級魔物を消しておいて、気にするのが床。
何それ。意味が分からない。
グランさんは、少しだけ口元を緩めた。笑ったというより、納得したような表情だ。
「そうだ。あいつは優しい。だからこそ、面倒が起きる」
「面倒……?」
「優しい奴は、助ける。頼まれたら断れない。目の前で困っているなら、手を出す。……そして、手を出した結果が“今日”だ」
私は、背筋が冷えた。
アルトさんが強いのは、もう疑いようがない。問題は、強いこと自体じゃない。強いのに、それを強いと思っていないこと。そして、優しいこと。
ミーナさんが台帳をトントン叩いた。
「リリア。あなたの仕事は簡単よ」
「……なんですか?」
「アルトが帰ってきたら、いつも通りに接する。過剰に怯えない。過剰に崇めない。絶対に“特別扱い”しない」
「む、無理です……! だって、災害級を――」
「だから言っちゃダメ」
ミーナさんは眉一つ動かさず、淡々と続ける。
「あなたが変に崇めたら、周りも崇める。噂が膨らむ。国が嗅ぎつける。騎士団が来る。王都が騒ぐ。結果、アルトが居づらくなって、どこかに消える」
「消える……?」
「そうなったら、最悪よ。あの人が“居場所”を失ったら、どこで何をするか分からない。本人は静かに暮らしたいだけなのに、世界が放っておかない」
私の頭の中に、ひとつの光景が浮かんだ。
アルトさんが、疲れた顔で笑いながらギルドを出ていく姿。
誰も追いかけられない。追いかけたら、もっと傷つける。
胸がぎゅっと痛くなった。
「……私が、守る、って……」
言ってしまった。口が勝手に動いたみたいに。
ミーナさんが、初めて少しだけ目を丸くした。
グランさんは、何も言わずに立ち上がる。そして扉に向かう途中、振り返った。
「守る、か。……それは、多分正しい」
そう言って、出ていった。
残された私は、手のひらに汗をかいているのに気づく。
「リリア」
ミーナさんが、紙束を私の前に置いた。
「これ、今日の処理。倉庫整理。危険度は“F”。報酬は通常通り。討伐記録は――」
「書かない、ですよね」
「書けない」
ミーナさんは短く言い切った。
私は、紙束の一枚目にペンを走らせる。震えが止まらない。けれど書く。受付嬢の仕事だから。
書きながら、耳を澄ませると、外のロビーで誰かが小さく囁く声が聞こえた。
「……あの雑用係、やっぱり……」
噂はもう始まっている。
私は歯を食いしばった。
アルトさんが、居場所を失わないように。
アルトさんが、今日も「いつも通り」に笑えるように。
その時、扉の向こうで穏やかな声がした。
「すみません。依頼の報告、いいですか?」
私は反射的に立ち上がった。心臓が跳ねる。
――帰ってきた。
私は深呼吸を一つして、カウンターへ向かう。
いつも通りに。
特別扱いしない。
でも、絶対に目を離さない。
私の“受付嬢としての仕事”は、今日から少しだけ形を変えた。
きっと、誰にも気づかれないように。




