10.診療は始まったばかり
待合の椅子に腰を下ろしたアンナは、診察券を指先でいじりながら待っていた。
歯ブラシは紙袋の中に入れてある。
さっきまで知らなかった道具が、いまは持ち物になっている。
舌先が、また上の歯をなぞる。
触れるたびに、さっきより滑らかだと思う。
つむぎが受付カウンターの内側から顔を出す。
「アンナさ~ん。お会計の準備できました」
アンナは立ち上がりながら言う。
「へぇ、早いね」
すずは帳票を揃えたまま、目だけを上げる。
「………早いんですか……」
アンナは当然のことのように言う。
「会計まで20分待ちとか普通だからね」
つむぎとすずは同時に反応する。
「へぇ……」
アンナはカウンターの上を覗き込み、金額の方へ意識を移す。
「で、いくらだい?」
すずは表示を確認してから口にする。
「えっと……本日は3920円になります」
「へぇ……安いね」
つむぎの返事が少し遅れる。
「………うん」
すずとつむぎは言葉を返さないまま、短い間が落ちる。
(もう何も言うまい)
つむぎは精算機の方へ手を伸ばす。
「お会計はこの機械でお願いします」
アンナは機械を見て、首を傾げる。
「どう使うんだい?」
つむぎは診察券を示しながら説明する。
「さっきの診察券にこの黒いQR……シールを貼ってあるからかざしてもらって……そしたら金額が出てくるからここに紙幣、ここに硬貨を入れてください」
「へぇ……すごいね」
「お金入れ終わって、問題なければOKボタンを押して」
アンナは言われるままに操作する。
診察券をかざす。
画面が切り替わり、金額が表示される。
紙幣と硬貨を入れるところを確認して、順番に入れていく。
最後に、指示された通りにボタンを押す。
「領収書と明細書………今日やった簡単な内容と、金額の受取証明書が出てくるから持って帰ってくださいね」
紙が機械から出てくる音がして、アンナはそれを受け取る。
文字を目で追い、聞き慣れない言葉に目が止まる。
「ふむふむ………これは専門用語なのかい?」
「うん……ここに書いてあるのは専門用語なの」
アンナは紙を折り畳まず、しばらく見つめてから顔を上げる。
「でも、みんなわかりやすく説明してくれたからありがとうね」
すずは次の確認を挟む。
「次回予約も忘れないでくださいね」
アンナは診察券を握り直す。
「わかってるよ~………商業ギルドのみんなにも自慢しよっと」
アンナは出口へ向かい、扉を開けて帰っていった。
アンナが帰ってからしばらくして、診療室側の音が落ち着く。
チェアが起き、器具が戻される。
あすかがサムへ向き直る。
「サムさん……お疲れ様でした。今日の治療は以上になります。また次回上の歯の歯石をとります」
サムはあすかからもらった歯ブラシを手に持ち、手元を見ながら聞いている。
磨き方の動きを真似するように、指先が柄を握り直す。
大地が声をかける。
「サムさん次回も来てくださいね~」
「わかったぞ」
サムはゆかに案内されて受付へ移動する。
待合を通り、カウンターの前に立つ。
「サムさんお疲れ様です」
「すっきりしましたか?」
サムは口を閉じたり開いたりしながら言う。
「あぁ、下の歯がなくなった」
つむぎとすずは顔を見合わせる。
「デジャブ」
つむぎが即座に返す。
「歯はあるよ?」
すずは精算機の準備ができた表示を見て、サムへ向ける。
「あ、お会計準備できたのでサムさんどうぞ」
サムは機械の方へ視線を向ける。
「早いな」
すずは短く返す。
「……はい」
サムも次回予約をとって精算機で会計をする。
診察券をかざし、表示された金額を確認して、指示通りに入れていく。
最後にボタンを押し、紙を受け取る。
「んじゃ、次回もよろしくたのむよ」
「は~い。お大事に~」
サムが扉を出ていき、待合の空気が落ち着いたところで、診療室側から声が飛ぶ。
「……サムさん帰った?」
「はい」
受付にスタッフがぞろぞろと集まる。
それぞれが立ち位置を変えながら、今日の流れを振り返るように息を吐く。
真人が口を開く。
「………まだ2人しか診てないけど………」
「はい」
真人は椅子にもたれず、その場で言い切る。
「疲れた……」
全員が同じ調子で返す。
「はい………非常に疲れました」
まだ診療は始まったばかりだが、疲労感だけが押し寄せてきた。
次章
第6章 『ほほえみデンタル、日常と非日常』は、
4月18日 (土)17時より投稿を開始します。
どうぞ、お楽しみに。




