第8章 知らない顔
その日は、二人とも特に予定のない休日だった。
昼過ぎまでゆっくり過ごし、夕方になってから近所のカフェへ出かけた。
香奈が以前から気になっていた店らしく、直人は言われるままに連れていかれた。
店内は落ち着いた雰囲気で、窓際の席からは通りを歩く人たちが見えた。
香奈はメニューを開くと、迷うことなくケーキの写真を指さした。
「うち、これにする!」
「即決だね(笑)」
「だって、おいしそうやん!」
「俺もそれにしようかな」
「えー、同じなん? せっかくやったら違うの頼んで、ちょっとずつ交換しよや!」
結局、香奈はチョコレートケーキを、直人はチーズケーキを注文した。
運ばれてきたケーキを一口食べると、香奈は満足そうに頷いた。
「んー! これ当たりやわ!」
「そんなに?」
「食べてみ!」
差し出されたフォークから一口もらう。
確かに、おいしかった。
「ほんとだ。これ、いいね」
「やろ?うちの勘、当たるねん」
「ケーキ選びの勘でしょ(笑)」
「何でも大事やん!」
香奈は笑いながら、直人のチーズケーキにも手を伸ばした。
そんなやり取りをしながら、二人はゆっくりと時間を過ごした。
帰り道には服屋にも立ち寄った。
香奈は店内を歩きながら、何着か手に取っては直人に合わせてみた。
「ナオト、こういう色も似合うと思うで」
「そうかな。あんまり着たことないけど」
「絶対似合うって! ちょっと着てみてや」
半ば強引に勧められ、直人は試着室に入った。
着替えて出てくると、香奈は少し離れたところから全身を眺めた。
「ほら、やっぱり!」
「・・・そう?」
「うん! めっちゃええやん!」
そこまで褒められると、少し照れくさい。
結局、その服を買って帰った。
帰宅してからも、香奈は買った服をもう一度広げて、直人に似合っていると繰り返した。
直人は苦笑しながらも、悪い気はしなかった。
自分一人だったら、きっと選ばなかった服だ。
こうして誰かと一緒に暮らすようになってから、自分では選ばないものや、行こうとも思わなかった場所に触れる機会が増えた。
それが、思っていた以上に楽しかった。
夜になると、二人はソファ代わりにしているベッドに並んで座り、テレビを見ていた。
画面の中では、芸人たちが料理を食べながら大げさなリアクションをしている。
「うわ、これ絶対うまいやろ」
直人が呟くと、香奈がすぐに反応した。
「ナオト、ほんま食べることばっかりやな(笑)」
「いや、だってうまそうじゃん」
「ほな、今度食べに行こや!」
「いいね。今度調べておくよ」
「約束やで!」
「はいはい(笑)」
香奈は満足そうに笑い、再びテレビに目を向けた。
何でもない会話。
特別なことがあったわけでもない。
ただ、隣に香奈がいて、同じものを見て、くだらない話をしている。
直人にとっては、それだけで十分だった。
そのときだった。
テーブルの上に置いてあった香奈のスマートフォンが震えた。
画面が光り、着信を知らせる音が部屋に響く。
香奈はスマートフォンを手に取った。
画面を見た瞬間、ほんの一瞬だけ表情が止まった。
直人は、その変化に気づいた。
けれど、何かを尋ねる前に、香奈が顔を上げた。
「ごめん、ちょっと電話してくるな」
「ああ、うん」
香奈は立ち上がり、部屋の少し離れた場所へ移動して電話に出た。
直人はテレビを見続けた。
会話の内容までは聞こえなかった。ただ、香奈の声がいつもより少し小さいように感じた。
「・・・うん」
短い返事が聞こえた。
少し間が空いて、
「分かった。また連絡するな」
それだけ聞こえると、香奈は電話を切った。
時間にすれば、ほんの数分だった。
香奈はスマートフォンを持ったまま戻ってきて、元の場所に座った。
「どうしたの?」
直人が尋ねると、香奈は顔を向けた。
「ん? 何が?」
「いや、なんか静かだから」
「ああ、そう?そんなことないで!」
香奈は笑った。
いつもの、明るい笑顔だった。
「それより、これ見てみ!この店、めっちゃおいしそうやねんけど!」
そう言って、スマートフォンの画面を直人に見せる。
そこには、料理の写真が並んでいた。
「お、いいね。ここ行ってみたいな」
「やろ? 絶対行こな!」
「ああ。今度の休みにでも行こうか」
「うん!」
香奈は嬉しそうに頷いた。
それから二人は、テレビを見ながらまた他愛もない話を続けた。
直人は、それ以上電話のことを尋ねなかった。
香奈にも、自分には話していない友達や知り合いがいるのだろう。
誰にでも、自分だけの付き合いはある。
そう思った。
しばらくすると、テレビ番組も終わり、部屋の中が少し静かになった。
直人がテーブルの上を片付けていると、先に布団に入った香奈が声をかけてきた。
「ナオトー、まだー?」
「もうちょっと待って。今片付けてるから」
「はよ来てやー。眠たくなってきたわ」
「はいはい(笑)」
片付けを終え、直人も布団に入った。
すると香奈は、待っていたと言わんばかりに身体を寄せてきた。
「・・・寒いなあ」
「そう? 別に寒くないけど(笑)」
「うちは寒いねん!」
そう言って、香奈は直人の腕にぎゅっと抱きついた。
直人は笑いながら、その肩に手を回した。
暗い部屋の中で、テレビの消えた画面に小さな明かりが映っている。
今日も、いつもと変わらない一日だった。
香奈と出かけて、笑って、一緒に帰ってきて、同じ布団で眠る。
直人は目を閉じた。
隣から聞こえる香奈の穏やかな寝息を感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。




