第7章 少しの間、離れて
その日の夕方も、直人は居酒屋の仕事に出かける準備をしていた。
上着を手に取ったところで、部屋にいた香奈が声をかけてきた。
「なあ、ナオト」
「ん?どうしたの?」
「ちょっと相談があるねんけど」
直人は手を止め、香奈のほうを振り返った。
「大学のことでな、ちょっと手続きせなあかんみたいでさ」
「うん」
「せやから、何日か関西に帰ろうと思ってるねん」
「そっか。いつ帰るの?」
「明後日くらいかな? 三日か四日くらいで戻ってくると思う!」
「分かった。気をつけてね」
「・・・ナオト、寂しい?」
香奈がいたずらっぽく笑った。
「そりゃ、ちょっとは寂しいよ(笑)」
「えー!ちょっとだけなん?(笑)」
「いや、結構寂しいかも(笑)」
「よろしい!」
香奈らしい返事だった。
直人も笑いながら、仕事に出かける準備を再開した。
数日とはいえ、香奈がいない生活を想像すると、少し物足りない気がした。
同じ部屋で過ごすことが当たり前になっていたのだと、改めて思う。
それでも、大学の手続きなら仕方がない。
直人は、帰ってくる日を楽しみに待つことにした。
出発の日。
香奈は小さなスーツケースを引きながら、駅へ向かった。
「着いたら連絡するな!」
「うん。気をつけてね」
「ナオトも仕事頑張ってな!」
「ありがとう。香奈もね」
「ほな、行ってきまーす!」
いつもの明るい声を残して、香奈は改札の向こうへ消えていった。
部屋に戻った直人は、二人分の食器が並んだテーブルを見た。
昨日まで、そこには香奈がいた。
たった一人いなくなっただけなのに、部屋が少し広くなったように感じる。
直人は苦笑しながら、仕事へ出かける準備を始めた。
数日なんて、きっとあっという間だ。
そう思っていた。
その日の夜、仕事を終えて帰宅すると、スマートフォンに香奈からメッセージが届いていた。
『ナオトー!無事着いたで!』
『お疲れさま。無事に着いてよかった』
『久しぶりの実家やー!なんか変な感じ(笑)』
『そうなんだ(笑)ゆっくりしてね』
『うん!ナオトもちゃんとご飯食べるんやで!』
『分かってるよ(笑)』
やり取りはいつもどおりだった。
香奈のメッセージを読みながら、直人は自然と笑みを浮かべた。
しばらくして、香奈から電話がかかってきた。
「もしもし」
『あ、ナオト! 今帰ってきたとこ?』
「うん。ちょうど帰ってきたところ」
『お疲れさま!』
「ありがとう。そっちはどう?」
『んー、まあ、ぼちぼちやな!久しぶりやし、なんか落ち着かへんわ』
「実家なのに?」
『実家やからこそ、ちゃう?(笑)』
「そういうものなのかな(笑)」
他愛のない話をしながら、直人はベッドの端に腰を下ろした。
いつもなら隣にいる香奈が、今は電話の向こうにいる。
声が聞けるだけでも嬉しかった。
そのときだった。
電話の向こうから、かすかに男の人の声のようなものが聞こえた。
何を言っているのかまでは分からない。
「・・・ん?今、誰か話してた?」
『え?』
「いや、なんか声が聞こえた気がして」
『あー、テレビちゃう? なんかつけっぱなしやねん(笑)』
「ああ、そうなんだ」
『せやで! それよりナオト、今日何食べたん?』
香奈はすぐに別の話題を振ってきた。
直人も、深く考えることなく夕飯の話を始めた。
テレビの音なら、誰かの声が聞こえてもおかしくない。
それに、実家には家族もいる。
気にするようなことではないと思った。
その夜は、しばらく話してから電話を切った。
『ほな、また明日な!』
「うん。また明日」
『おやすみ、ナオト』
「おやすみ」
電話が切れると、部屋は静かになった。
直人はスマートフォンをテーブルに置き、明日の仕事のことを考えながら眠りについた。
翌日の昼。
直人が休憩中にスマートフォンを見ると、香奈からメッセージが届いていた。
『ナオトー!今日も仕事?』
『うん。今日は夕方から』
『頑張ってなー!』
『ありがとう。香奈は何してるの?』
『大学の手続きとか、いろいろやで!』
『そっか。大変そうだね』
『まあ、なんとかなるやろ!(笑)』
そこまでは、いつもと変わらなかった。
直人は、ふと思いついてメッセージを送った。
『東京に戻ってきたら、お寿司でも食べに行こうか』
少しして、返信が来た。
『ええやん!行こ行こ!』
『何が食べたい?』
『うーん、サーモン!あとエビ!』
『子どもみたいだね(笑)』
『なんやとー!(笑)』
そこまでやり取りをして、香奈からの返信は止まった。
いつもなら、ここから別の話題が始まったり、何かしら質問が返ってきたりする。
けれど、その日はそれ以上メッセージが来なかった。
直人は少しだけ画面を見つめたあと、スマートフォンをポケットにしまった。
大学の手続きで忙しいのだろう。
そう思えば、特に気にすることでもなかった。
その日の夜。
仕事を終えた直人は、いつものように香奈へメッセージを送った。
『今、仕事終わったよ』
しばらく待っても、返信はなかった。
風呂に入り、夕飯を済ませても、スマートフォンは静かなままだった。
いつもなら、遅くなっても何かしら連絡がある。
直人は少し迷ってから、電話をかけてみた。
呼び出し音が続く。
けれど、香奈は出なかった。
「・・・忙しいのかな」
独り言をこぼし、直人は電話を切った。
もう一度かけようかとも思ったが、何度も電話をかけるのは気が引けた。
大学の用事だけでなく、実家で何か頼まれているのかもしれない。
直人はスマートフォンをテーブルに置いた。
しばらくして、ようやくメッセージが届いた。
『ごめんなー!ちょっとバタバタしててん!』
直人はすぐに返信した。
『そっか。大丈夫?』
『大丈夫やで! 心配せんといて!』
『ならよかった。無理しないでね』
『ありがと!ナオト優しいなあ』
そこで会話は終わった。
いつもより短いやり取りだった。
けれど、香奈が忙しいのなら仕方がない。
直人はそう考えて、スマートフォンを伏せた。
少し寂しかった。
ただ、それだけだった。
翌朝。
目を覚ました直人がスマートフォンを手に取ると、香奈から新しいメッセージが届いていた。
『ナオトー!おはよ!』
『おはよう』
『昨日ほんまごめんな!なんかバタバタしてて、全然連絡できへんかった!』
『大丈夫だよ。忙しかったんでしょ?』
『せやねん!昔働いてた飲み屋さんからちょっと手伝ってほしいって頼まれててさ。帰ってきてる間だけ、手伝うことになってん』
直人は画面を見つめた。
なるほど。
大学の手続きだけではなく、仕事も手伝っているのなら、忙しくなるのも無理はない。
『そうなんだ。大変だね』
『まあ、ちょっとだけやけどな!』
『夜は忙しいの?』
『せやなー。夜はちょっとバタバタするかも!でも大丈夫やで!』
『分かった。無理しないでね』
『うん!ありがと!』
そして、少し間を置いて、もう一通届いた。
『ナオト、大好きやで!』
思わず、直人の頬が緩んだ。
『急にどうしたの(笑)』
『なんとなく言いたなってん!あかん?』
『いや、嬉しいよ(笑)』
『ほな、よかった!』
直人はスマートフォンを持ったまま、小さく笑った。
昨日の夜は少し寂しかったけれど、こうして香奈とやり取りをしていると、いつもの二人に戻ったような気がした。
きっと、慣れない場所での用事や仕事で疲れているのだろう。
直人は、それ以上考えなかった。
その日の昼間は、いつもどおりにメッセージのやり取りが続いた。
香奈は、実家で食べた料理の話や、昔の友達の話をしてくれた。
直人も、仕事であった些細な出来事を話した。
ときどき香奈がふざけたことを言い、直人が笑う。
離れていても、二人の関係は変わっていない。
直人には、そう思えた。
ただ、夜になると、香奈からの返信はまた遅くなった。
直人が送ったメッセージに返事が来るまで、何時間も空くことがあった。
電話をかけても、出ない日があった。
翌朝になれば、香奈から謝罪のメッセージが届く。
『ごめんなー!昨日バタバタしてて返せんかった!』
そして、そのあとには決まって、明るい言葉が続いた。
『早く東京戻りたいわー!』
『ナオトに会いたい!』
『帰ったらいっぱい甘えるからな!』
直人は、そのたびに嬉しくなった。
自分に会いたいと思ってくれている。
帰ってくるのを楽しみにしてくれている。
それが分かるだけで、少し気持ちが軽くなった。
それでも、ときどき考えることがあった。
以前は、電話をかければ当たり前のように出てくれた。
何をしているのか、誰といたのか、そんなことを意識する必要もなかった。
今は、電話がつながらない夜がある。
返信が来ない時間もある。
けれど、それにはちゃんと理由がある。
大学のこと。
実家のこと。
昔働いていた店の手伝い。
どれも、不自然なことではない。
直人は、香奈を疑いたいわけではなかった。
ただ、少しだけ寂しい。
それだけだった。
三日後。
香奈が東京へ戻ってくる日になった。
『今日、帰るでー!』
朝、届いたメッセージを見て、直人は思わず笑みを浮かべた。
『気をつけて帰ってきてね』
『はーい! ナオト、迎えに来てくれる?』
『もちろん。何時に着く?』
『夕方くらい! また分かったら連絡するな!』
それから、直人は仕事の時間を調整し、香奈を迎えに行く準備をした。
数日離れていただけなのに、会えると思うと、妙に落ち着かなかった。
夕方、駅で香奈の姿を見つけたとき、直人は自然と足を速めた。
「ナオトー!」
香奈が手を振りながら駆け寄ってくる。
「おかえり」
「ただいまー!」
香奈は笑顔でそう言うと、直人の腕にぎゅっと抱きついた。
「会いたかったわー!」
「俺も。お疲れさま」
「ほんま?寂しかった?」
「うん。結構ね(笑)」
「よろしい!」
そのやり取りに、直人は笑った。
香奈はいつもどおりだった。
明るくて、よく笑って、思ったことをすぐ口にする。
その姿を見ていると、離れていた数日間の寂しさも、少しずつ薄れていくようだった。
帰り道、二人は夕飯を買うためにコンビニへ立ち寄った。
「なあ、ナオト。今日、何食べたい?」
「うーん、何でもいいよ」
「それ一番困るやつやん!(笑)」
「じゃあ、香奈は?」
「うちはお腹すいてるから、いっぱい食べたい!」
「それなら、いろいろ買おうか」
「やったー!」
香奈は楽しそうに商品を選び、直人もその隣を歩いた。
家に帰って食事をしながら、二人は関西での出来事を話した。
「大学の手続き、ちゃんと終わった?」
「うん!なんとかなったで!」
「よかったね」
「せやろ?うち、やればできる子やからな!」
「自分で言うんだ(笑)」
「当たり前やん!」
香奈は声を上げて笑った。
直人も笑った。
「そういえば、昔働いてた飲み屋の手伝いもしたんだよね?」
「うん。人が足りへんかったみたいでさ。ちょっとだけやけどな」
「夜も忙しかった?」
「せやねん!もう、めっちゃバタバタしててん!」
「そっか。お疲れさま」
「ありがとー!」
香奈はそう言って、直人の肩に寄りかかった。
「でも、やっぱり東京のほうが落ち着くわ」
「そうなの?」
「うん。だって、ナオトがおるもん」
その言葉に、直人は少し照れくさくなった。
「・・・そっか」
「何やねん、その反応(笑)」
「いや、嬉しいなと思って」
「ふふん。もっと喜んでもええんやで?」
「はいはい(笑)」
香奈は満足そうに笑い、直人の腕に抱きついた。
その夜、直人は久しぶりに香奈と同じ部屋で眠った。
隣から聞こえる寝息を感じながら、直人は目を閉じた。
やっぱり、香奈がいると落ち着く。
帰ってきてくれてよかった。
そう思った。
翌日から、二人の生活はまたいつもどおりに戻った。
朝起きれば香奈がいて、一緒にご飯を食べる。
直人が仕事に出かけ、帰ってくれば香奈が迎えてくれる。
くだらない話をして、笑って、同じベッドで眠る。
何も変わっていない。
少なくとも、直人にはそう思えた。
ただ、ふとした瞬間に、関西にいた数日間のことを思い出すことがあった。
夜、何度かつながらなかった電話。
返事が来るまでに空いた時間。
電話の向こうで聞こえた、あのかすかな声。
けれど、思い返してみても、どれもはっきりとした理由があるように思えた。
香奈は大学の手続きをしていた。
昔働いていた店の手伝いもしていた。
忙しかったのなら、連絡が遅れることだってある。
それに、香奈はちゃんと帰ってきた。
今は、こうして隣にいる。
直人は、テーブルの上に置かれた二人分のマグカップを見た。
自分のものと、香奈のもの。
並んでいるそれを見て、少しだけ笑った。
考えすぎる必要なんてない。
今は、香奈がここにいる。
それでいいと思った。




