第6章 知らなかった世界
香奈と暮らし始めてから、直人の毎日は少しずつ変わっていた。
朝、目を覚ますと、すぐ近くに香奈がいる。
キッチンから聞こえる物音。洗面所を使う順番を取り合う声。どちらが最後に使ったコップを片付けるのか、そんな些細なことで笑い合う時間。
一人暮らしをしていた頃には、想像もしなかった日常だった。
俳優の仕事は、まだ大きく変わったわけではない。
居酒屋のアルバイトも続けているし、オーディションの予定が入れば、台本を読み込む時間も必要になる。
それでも、家に帰れば香奈がいる。
仕事から帰ってきて、今日あったことを話す。くだらないことで笑う。一緒にご飯を食べる。
そんな毎日が、直人には嬉しかった。
その日も、二人はいつもと変わらない朝を過ごしていた。
「ナオト、今日何時に帰ってくるん?」
キッチンで朝食の後片付けをしていた香奈が尋ねる。
「今日は九時くらいかな」
「そっかあ。ほな、晩ご飯どうしよっかな」
「何か食べたいものある?」
「んー・・・ナオトが帰ってきてから考えよ!」
「それ、今聞いた意味ある?(笑)」
「あるある!帰ってきてから一緒に考えるための確認やん!」
香奈は悪びれる様子もなく笑った。
「はいはい(笑)じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃーい!」
玄関まで見送りに来た香奈に手を振り、直人は部屋を出た。
そんな何気ないやり取りをしながら、二人は少しずつ一緒に暮らすことに慣れていった。
翌日の昼過ぎ。
直人は部屋で台本を読み、香奈はソファに座ってスマートフォンを眺めていた。
特に出かける予定もなく、二人でのんびり過ごしていたときだった。
ピンポーン。
玄関のインターホンが鳴った。
「ん?誰だろう」
直人は台本から顔を上げた。
宅配便の予定はなかったし、誰かが訪ねてくる約束もしていない。
「ナオト、誰か来たん?」
「ちょっと見てくるね」
直人は玄関へ向かい、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、見知らぬ男女だった。
女性は落ち着いた雰囲気で、男性もきちんとした身なりをしている。
二人とも、直人の顔を見ると静かに会釈した。
「・・・あの、何か?」
直人が尋ねると、女性が口を開いた。
「突然すみません。香奈の母です」
「えっ・・・?」
思いがけない言葉に、直人は一瞬、返事に詰まった。
隣に立つ男性も、香奈の父親だという。
「香奈さんは、こちらにいますか?」
「は、はい。いますけど・・・」
「少し、話をしたいと思って来たんです」
母親はそう言って、穏やかな表情を崩さなかった。
直人は慌てて頭を下げた。
「そうだったんですね。香奈を呼んできます」
「お願いできますか」
直人はドアを開けたまま、室内にいる香奈を呼んだ。
「香奈、お父さんとお母さんが来てるよ」
「・・・えっ?」
リビングから顔を出した香奈は、直人の言葉を聞いて目を丸くした。
「パパ?ママ?」
玄関まで来た香奈は、両親の姿を見て驚いた。
「何でここにおるん!?」
「香奈、元気にしているの?」
母親は娘の顔を見ながら尋ねた。
「元気やけど・・・! 来るなら連絡してくれたらええのに!」
「連絡したら、都合が悪いこともあるでしょう?」
母親は静かにそう返した。
香奈は少しだけ口を尖らせたものの、それ以上は何も言わなかった。
父親は、そんな二人のやり取りを黙って聞いていた。
直人はどうしたらいいのか分からず、玄関先で立ち尽くしていた。
「・・・あの、ここだと何ですし」
直人が言いかけると、母親は軽く首を振った。
「いえ、長居をするつもりはないの。少しお話しできれば十分ですから」
「そうですか・・・」
結局、四人は玄関先で話をすることになった。
母親は香奈に向き直った。
「それで、香奈。こちらでの生活はどうなの?」
「ん?普通に楽しいで!」
香奈はいつもの明るい調子で答えた。
「ご飯も作るようになったし、買い物も行くし。毎日結構充実しとるで!」
「そう。それならいいけれど」
母親は短くうなずいた。
「大学のことや、これからの仕事については、ちゃんと考えているの?」
「うーん、まあ、何とかなるって!」
「香奈、あなたは昔からそういうところがあるから……」
母親は小さく息をついた。
香奈は「大丈夫やって!」と笑っている。
直人は二人のやり取りを聞きながら、口を挟むことなく立っていた。
香奈が家を出ることについて、両親とどこまで話をしていたのか、直人は詳しく知らない。
ただ、少なくとも、両親がこの同棲を心から喜んでいるようには見えなかった。
やがて、母親の視線が直人へ向いた。
「君は、今、仕事は何をしているの?」
「僕は、普段は居酒屋でアルバイトをしています。あとは俳優を目指していて、オーディションを受けたり、演技の勉強をしたりしています」
直人はできるだけ落ち着いて答えた。
東京に来た理由でもあり、今も諦めずに追いかけている夢だった。
母親は一度うなずいた。
「そうなのね。夢があるのは素敵なことだと思うわ」
その言葉に、直人は少しほっとした。
しかし、母親は続けた。
「でも、夢を追いながら生活していくのは、なかなか大変でしょう?」
口調はあくまで穏やかだった。
心配してくれているのかもしれない。
実際、俳優を目指しながら生活していくことが簡単ではないのは、直人自身が一番よく分かっている。
それでも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
「・・・そうですね。簡単ではないですけど、今はできることを一つずつやっていこうと思っています」
直人はそう答えた。
母親は「そう」とだけ言って、軽くうなずいた。
父親はその間も、口を挟むことなく静かに話を聞いていた。
直人の夢を否定することもなければ、積極的に応援するような言葉をかけることもない。
ただ、礼儀正しく、その場に立っていた。
「香奈」
母親が娘の名前を呼んだ。
「これ、渡しておくわね」
そう言って、バッグから白い封筒を取り出した。
香奈は不思議そうに受け取った。
「何これ?」
「生活費よ。必要なものもあるでしょう?」
「えー、ええのに!」
そう言いながらも、香奈は自然な様子で封筒を受け取った。
「ありがとう、ママ!」
「足りなくなったら、また連絡しなさい」
「はーい!」
直人は、そのやり取りを黙って見ていた。
母親が娘にお金を渡すこと自体は、何も不思議ではない。
ただ、香奈にとっては、こうしてまとまったお金を受け取ることも、ごく自然なことなのだろう。
自分の家庭では、あまり見たことのない光景だった。
その後、両親は香奈にいくつか言葉をかけ、帰っていった。
「また連絡するわね」
「うん! 気をつけて帰ってな!」
母親は直人にも視線を向けた。
「突然お邪魔してごめんなさいね」
「いえ……」
直人は頭を下げた。
父親も軽く会釈をした。
「では、失礼します」
最後まで、二人は礼儀正しかった。
直人に対して失礼なことを言ったわけではない。
それなのに、直人は何となく落ち着かない気持ちを抱えていた。
両親の姿が見えなくなってから、香奈は玄関のドアを閉めた。
「はあー、びっくりした!」
「本当にね。急だったから驚いたよ」
直人がそう言うと、香奈は苦笑した。
「ほんま、来るなら連絡してくれたらええのに」
「でも、どうやってここが分かったんだろう?」
直人が不思議そうに尋ねると、香奈は少し考えてから「あっ」と声を上げた。
「あー……たぶん、ウチが荷物送ったときの伝票の控えを見たんやと思う」
「伝票の控え?」
「うん。前に服とか化粧品とか送ったやん? あれ、実家に残ってたんかもしれへん」
「ああ、なるほど・・・。それで住所が分かったのか」
「たぶんな。まさか、わざわざ来るとは思わんかったけど(笑)」
香奈はいつもの調子で笑った。
直人も小さく笑い返した。
「でも、元気そうでよかったんじゃない?」
「まあな!ウチはめっちゃ元気やで!」
香奈は胸を張った。
それから、手に持っていた封筒に目を落とした。
「・・・そういえば、それ、生活費なんだよね?」
直人が尋ねると、香奈はうなずいた。
「せやで」
「いくら入ってるの?」
「三十万あった」
「・・・えっ?」
思わず聞き返してしまった。
「三十万円?」
「うん。三十万円」
香奈は何でもないことのように答えた。
直人は、封筒と香奈の顔を交互に見た。
「そんなに?」
「まあ、いつもこんな感じってわけちゃうで? 必要なときに言うたら、くれることもあるねん」
「そうなんだ・・・」
直人はそれ以上、何も言えなかった。
三十万円という金額は、直人にとって決して気軽に受け取れるものではなかった。
アルバイトで稼いだお金を生活費に回し、オーディションの交通費や必要なものを考えながら暮らしている。
まとまったお金が入ることがあれば、まず何に使うべきかを考えるだろう。
けれど、香奈は封筒を手にしても、特別に驚いた様子はなかった。
「香奈の家って、結構裕福なんだね」
直人がそう言うと、香奈は「あー、そうかもなあ」と軽く笑った。
「パパはパパの会社やっとるし、ママも自分の会社持っとるねん」
「えっ、二人とも?」
「せやで!二人とも社長やねん。うち、ダブル社長夫婦の娘やからな!」
香奈は冗談めかして胸を張った。
「ダブル社長夫婦って・・・・・・(笑)」
「何やねん!間違ってへんやろ!」
「いや、間違ってはないけど(笑)」
直人は思わず笑った。
そういうことだったのか、と納得する部分もあった。
香奈の服や持ち物が、自分とは少し違うと感じることは以前からあった。
けれど、それを特別に気にしたことはなかった。
育ってきた環境が違えば、当たり前だと思うことも違う。
それだけの話なのだろう。
「そういえばな、ウチ、マクドって高校生になるまでほとんど行ったことなかってん」
突然、香奈が思い出したように言った。
「えっ、マックに?」
「マクドな!」
「はいはい、マクドね(笑)」
「何で笑うねん!」
香奈は直人の腕を軽く叩いた。
「いや、俺は普通に行ってたからさ。友達と遊んだ帰りとか」
「へえー!そうなんや。ウチ、家族で外食することはあってんけど、マクドに行く機会はあんまりなかってんなあ」
「そうなんだ」
「お寿司もな、家族で行くときは、目の前で職人さんが握ってくれるお店が多かってん」
香奈は懐かしそうに話した。
「回転寿司も行ったことはあるで?でも、家族で行くとなったら、カウンターのお店が多かったんよ」
「へえ・・・。俺の家は、回転寿司が多かったな」
直人はそう言って、子どもの頃のことを思い出した。
家族で出かけた帰りに、みんなで回転寿司に寄る。
何を食べるか迷って、好きなネタを何皿も頼む。
そんな時間が、直人にとっては当たり前だった。
香奈にも、香奈の当たり前があった。
どちらが特別というわけでもない。
ただ、同じものを見て育ってきたわけではないのだと、改めて感じた。
「でもさ、回転寿司も楽しいよね」
直人が言うと、香奈はぱっと顔を上げた。
「せやろ!?ウチ、回転寿司も好きやで!」
「じゃあ、今度一緒に行こうか」
「行く行く!ナオト、何が好きなん?」
「俺はサーモンかな」
「えー!サーモン好きなん?ウチも好き!」
「じゃあ、サーモンいっぱい食べよう(笑)」
「よっしゃ!約束やで!」
香奈は嬉しそうに笑った。
さっきまで少しだけ感じていた緊張が、いつの間にか薄れていた。
翌日。
二人は久しぶりに、特に予定を決めずに出かけることにした。
「今日は何する?」
玄関で靴を履きながら、直人が尋ねる。
「んー、買い物したい!」
「いいよ。どこに行く?」
「とりあえず、ぶらぶらしよ!」
香奈らしい返事だった。
電車に乗り、いくつかの店を見て回る。
香奈は気になる服を見つけるたびに足を止め、直人に「これどう思う?」と尋ねた。
直人が「似合うと思うよ」と答えると、香奈は嬉しそうに鏡の前で合わせてみる。
しばらく歩いたところで、香奈が一着のカーディガンを手に取った。
「なあ、これかわいない?」
淡い色のカーディガンだった。
「うん、香奈に似合いそう」
「やんな!これ欲しいなあ」
香奈はそう言って、値札を確認した。
12,000円。
「・・・これ、12,000円するね」
直人が値札を見て言うと、香奈はもう一度ちらっと目を向けた。
「せやなあ。でも、こんなもんちゃう?」
「まあ、服によるけどさ」
直人は少し考えた。
自分だったら、12,000円のカーディガンを買うとなれば、もう少し悩むと思う。
本当に必要かどうか考えて、ほかの店にも似たものがないか探して、それから決めるかもしれない。
けれど、香奈はカーディガンを鏡の前で合わせると、すぐに笑顔になった。
「うん、やっぱかわいい!これ買お!」
迷いはほとんどなかった。
香奈はそのままレジへ向かい、カーディガンを購入した。
直人は、その様子を見て少しだけ驚いた。
「ナオト、どうしたん?」
「いや、何でもないよ」
「ほんまに?」
「うん。気に入ったなら、いいんじゃない?」
直人が笑うと、香奈も笑った。
「せやろ!今度これ着て出かけるわ!」
「楽しみにしてるよ」
直人はそれ以上、何も言わなかった。
香奈の買い物の仕方が、自分とは少し違う。
ただ、それだけだった。
買い物を終えた二人は、近くのカフェに入った。
香奈はメニューを開くなり、目を輝かせた。
「うわ、ケーキいっぱいあるやん!」
「本当だね」
「ナオト、何食べる?」
「俺はコーヒーでいいかな」
「えー、ケーキは?」
「んー・・・どうしようかな」
直人はメニューを見ながら少し悩んだ。
ケーキを食べたい気持ちがないわけではない。
ただ、値段を見ると、つい考えてしまう。
そんな直人をよそに、香奈はショーケースを見て、すぐに決めた。
「ウチ、このいちごのケーキにする!」
「じゃあ、俺はコーヒーにするよ」
「ええやん!ケーキ、ちょっと食べる?」
「いいの?」
「もちろん!一人で食べるより、一緒に食べた方がおいしいやん!」
香奈は当たり前のように言った。
結局、直人はコーヒーを頼み、香奈はケーキと飲み物を注文した。
運ばれてきたケーキを前に、香奈はさっそくフォークを手に取る。
「はい、ナオト。あーんはせえへんで?(笑)」
「いや、そこまでは頼んでないよ(笑)」
「何やねん!ちょっとくらい期待したんちゃうん?」
「してないって(笑)」
二人で笑いながら、香奈はケーキを小さく切り分けて直人の皿に置いた。
直人は一口食べた。
甘さが口の中に広がる。
「おいしいね」
「やろー!」
香奈は満足そうに笑った。
窓の外を眺めながら、二人は他愛のない話を続けた。
次はどこへ行くか。
回転寿司はいつにするか。
最近見たテレビ番組のこと。
直人が受けてみたいと思っているオーディションのこと。
話題は次々と変わっていった。
香奈はよく笑い、直人の話を楽しそうに聞いてくれる。
そんな時間が、直人は好きだった。
カフェを出る頃には、外の空気が少し冷たくなっていた。
「楽しかったなあ!」
香奈は買ったばかりのカーディガンが入った袋を持ちながら、満足そうに言った。
「そうだね」
「また買い物行こな!」
「うん、行こう」
直人は笑ってうなずいた。
香奈と一緒にいると、自分とは違う考え方に触れることがある。
お金の使い方も、子どもの頃の思い出も、何を当たり前だと思ってきたのかも。
きっと、知らないことはまだたくさんある。
一緒に暮らしているからといって、相手のすべてを知っているわけではない。
それは、少し不思議なことだった。
でも、知らないことがあるからといって、すぐに不安になる必要もないのだと思う。
これから一緒に過ごす時間の中で、少しずつ知っていけばいい。
直人は、隣を歩く香奈を見た。
「ん? 何?」
視線に気づいた香奈が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、何でもない」
「何それー!気になるやん!」
「本当に何でもないって(笑)」
「絶対うそやー!」
香奈は笑いながら、直人の腕に自分の腕を絡めた。
そのまま二人は、駅へ向かって歩いていった。
家に帰ると、香奈はさっそく買ったばかりのカーディガンを取り出した。
「なあ、ナオト。これ、次のデートで着ていってもええ?」
「もちろん。似合うと思うよ」
「ほんま?やった!」
香奈は嬉しそうに笑い、カーディガンを大切そうに畳んだ。
直人はその様子を見ながら、ふと思った。
自分とは違う環境で育ってきた香奈。
自分が知らないものを、たくさん知っている香奈。
これからも、そんな一面を見つけることがあるのだろう。
そのたびに、少し驚くこともあるかもしれない。
それでも、香奈と一緒にいる時間は楽しい。
一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、出かけて、笑い合う。
そんな毎日を、これからも続けていきたいと思った。
「ナオトー!ちょっと手伝ってー!」
キッチンから香奈の声がした。
「何?」
「明日の朝ご飯、何にするか考えとってんけど、ナオトの意見も聞きたい!」
「今から明日の朝ご飯?(笑)」
「当たり前やん!大事なことやで!」
直人は笑いながら、キッチンへ向かった。
「はいはい。何が食べたいの?」
「それを今から一緒に考えるんやん!」
「またそれ?(笑)」
「ええやん!一緒に考えるのが楽しいんやから!」
香奈はそう言って、直人に笑いかけた。
直人も笑った。
二人の生活は、今日も続いていく。
まだ知らないことがあってもいい。
これから知っていけばいいのだから。




