第5章 ふたりの生活
香奈が東京に来る日が、少しずつ近づいていた。
電話越しの香奈は、いつも以上に楽しそうだった。
『なあ、ナオト! 東京、もう寒い?』
「いや、まだそこまでじゃないかな」
『ほんま? こっちは結構寒いで! 上着、何持っていこうか迷っとるねん』
「そんなに荷物持ってくるの?」
『当たり前やん! 女の子にはいろいろ必要なもんがあるんですー!』
「はいはい(笑)」
『なんや、その返事! ちゃんと聞いとる?』
「聞いてるって(笑)」
電話の向こうから、香奈の笑い声が聞こえた。
それだけで、直人の部屋が少し明るくなったような気がした。
これからは、電話を切ったあとも、同じ部屋に香奈がいる。
朝起きたときも、仕事から帰ってきたときも。
そんな生活を想像すると、自然と頬が緩んだ。
香奈が来るまで、あと少し。
直人はその日を、心待ちにしていた。
引っ越しの日が近づいたある日、香奈からメッセージが届いた。
『ナオトー! 服とか化粧品とか、先にそっちに送っといてもええ?』
『もちろん。届いたら部屋に置いておくよ』
『ありがとー! 助かるわ!』
それから数日後、直人の部屋に大きな段ボール箱が届いた。
玄関先で受け取った箱は、思っていたよりも大きかった。
「・・・結構あるな(笑)」
箱を持ち上げながら、直人は思わず笑った。
中身は香奈の服や化粧品、その他の細々とした荷物らしい。
箱を部屋の壁際に置き、直人は少しの間それを眺めていた。
今まで、この部屋にあるものは全部、自分のものだった。
使い古したテーブルも、テレビも、ベッドも。
けれど、これからは少しずつ香奈のものが増えていく。
そう考えると、何だか不思議だった。
まだ本人は来ていないのに、部屋の中に香奈の存在がある。
直人はスマートフォンを手に取った。
『荷物、届いたよ』
すぐに返信が来た。
『ほんま!? よかったー!』
『結構大きい箱だったよ(笑)』
『えー! そんな大きかった?(笑)』
『うん。これ、全部持ってくるつもりだったの?』
『そらそうやん! 女の子はいろいろ必要なんですー!』
また同じことを言っている。
直人は笑いながら、スマートフォンを置いた。
箱の中身が増えたところで、部屋が急に変わるわけではない。
それでも、香奈が来る日が近づいていることを、確かに感じていた。
そして、引っ越し当日。
直人は品川駅の改札近くで、何度も時計を確認していた。
約束の時間まで、まだ少しある。
普段なら、待ち合わせの時間より多少早く着いても、スマートフォンを見ながら適当に時間を潰していた。
けれど今日は、なぜか落ち着かなかった。
人の流れを目で追っていると、少し離れたところから聞き慣れた声がした。
「あっ!ナオトー!」
振り向くと、香奈が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。
「お待たせー!」
「お疲れ。・・・荷物、それだけ?」
直人は香奈の横にあるスーツケースを見た。
「そうやで!」
香奈は胸を張った。
「・・・って、見て分からん? これ、結構重いねんで!」
「いや、そういう意味じゃなくて(笑)」
「ほな、何なん?」
「もっといっぱいあるのかと思ってた」
「失礼やなあ、もう!」
香奈は頬を膨らませたが、すぐに笑った。
直人はスーツケースを受け取った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
駅の中を歩きながら、香奈は何度も周囲を見回していた。
「やっぱ東京って人多いなあ」
「そうだね。品川は特に多いかも」
「うち、これからここで暮らすんやなあ……」
その言葉を聞いて、直人は少しだけ足を緩めた。
これからここで暮らす。
香奈が、東京で。
そして、自分と一緒に。
その事実が、改めて胸に落ちてきた。
「・・・そうだね」
直人が答えると、香奈は彼の顔を覗き込んだ。
「何や、ナオト。嬉しそうやん」
「え? そう?」
「そうやで!」
「・・・まあ、嬉しいよ」
そう言うと、香奈は少し照れたように笑った。
「ほな、ナオトの家に帰ろか!」
何気なく言われたその言葉が、直人には妙に嬉しかった。
帰る場所。
これから二人にとって、同じ場所になるのだ。
*
中野の駅から歩いて、二人は直人の部屋に着いた。
「到着ー!」
香奈は玄関の前で、両手を広げた。
「今日からここがうちの家でもあるんやろ?」
「・・・そうだね」
「なんや、もっと喜んでくれてもええんやで?」
「いや、俺も嬉しいよ(笑)」
「ほんま?」
「ほんと」
香奈は満足そうに笑って、部屋へ入った。
以前、一週間だけ滞在したことのある部屋。
けれど、今日は少し違って見えた。
部屋の隅には、先に送った段ボール箱が置いてある。
「あっ、荷物!」
「うん。届いたから、そこに置いておいたよ」
「ありがとー! これ運ぶん、結構大変やってんで」
「お疲れさま(笑)」
香奈は箱の横にしゃがみ込み、嬉しそうに中身を確認した。
その姿を見ていると、直人も自然と笑顔になった。
これから、この部屋に香奈の服が並ぶ。
洗面台には香奈の化粧品が置かれ、テーブルの上には二人分のものが増えていく。
そんな当たり前の変化が、今は楽しみだった。
「・・・とりあえず、夕飯でも買いに行く?」
直人がそう尋ねると、香奈は少し考えてから顔を上げた。
「なあ、ナオト。カレー作ろうか?」
「え? カレー?」
「うん! カレーやったら簡単やし、いっぱい作れるやん!」
「確かに。いいね、カレー」
「よっしゃ! ほな、近くのスーパー行こ!」
香奈はそう言うと、さっそく財布を手に取った。
あまりの切り替えの早さに、直人は思わず笑った。
「まだ何買うかも決めてないんだけど(笑)」
「じゃあ、スーパーで決めたらええやん!」
「それもそうだね(笑)」
「ほな、行こー!」
玄関へ向かいかけた香奈が、ふと足を止めた。
「あ、そうや。お皿買わなあかんやん!」
「お皿?」
「だって、ナオトの家って一人分しかないんちゃう?」
「まあ、普段使ってるのはそうだね」
「やっぱり!ほな、ちょっと寄ってこ!」
二人はスーパーへ向かう途中、近くの百円ショップに立ち寄った。
店内には、食器やキッチン用品が所狭しと並んでいる。
香奈は迷うことなく食器売り場へ向かった。
「うーん・・・どれがええかなあ」
いくつかの皿を手に取り、見比べる。
直人はその隣で、何となく棚を眺めていた。
「これとか、ええんちゃう?」
香奈が手に取ったのは、少し深さのあるカレー皿だった。
「二人分、同じやつにしよ!」
「いいんじゃない?」
「ほな、これに決まり!」
香奈は同じ皿を二枚、買い物かごに入れた。
さらにスプーンも二本選ぶ。
どれも特別なものではない。
百円ショップで買える、ごく普通の食器だった。
けれど、二枚並んだ皿を見ていると、直人は妙な気持ちになった。
今までは、一人分あれば十分だった。
食事をするときも、洗い物をするときも、自分の分だけ考えればよかった。
それが今日からは違う。
「・・・何か、いよいよ二人暮らしって感じがするね」
直人がそう言うと、香奈は買い物かごを持ったまま振り返った。
「せやろ?」
嬉しそうに笑う。
「これから使うんやもん!」
その言葉に、直人も笑った。
皿を二枚買っただけなのに。
それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
スーパーに着くと、香奈は慣れた様子で食材を選び始めた。
「ナオト、お肉は何が好きなん?」
「カレーなら豚肉かな」
「おっ、うちも豚肉好き!」
香奈は豚肉のパックを手に取り、野菜売り場へ向かった。
玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。
カレールーをかごに入れたあと、飲み物や翌朝の朝食に使うものまで次々と選んでいく。
「結構買うね(笑)」
「だって、これから二人で暮らすんやで? 食べるもん、いろいろいるやん!」
「まあ、そうだけど」
「それに、ナオト、ちゃんと食べとる?」
「食べてるよ」
「ほんまかなあ?」
香奈は疑うように目を細めた。
「ちゃんと食べなあかんで。役者さんなんやから!」
「まだ役者さんって呼ばれるほどじゃないよ(笑)」
「何言うてんの! これからなるんやろ?」
その言葉に、直人は少しだけ黙った。
香奈はいつも、何のためらいもなく言う。
直人が役者になることを、まるで当たり前の未来みたいに。
「・・・うん。なるよ」
「よし!」
香奈は満足そうに頷いた。
二人で食材を買い、袋を提げて部屋へ戻る。
たったそれだけのことなのに、直人には新鮮だった。
自分一人のために買い物をしていた頃とは、何かが違う。
これから何を食べるのか。
明日の朝は何を食べようか。
そんな小さなことを、一緒に考える相手がいる。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
部屋に戻ると、二人はさっそくカレー作りを始めた。
「ナオト、玉ねぎ切ってくれる?」
「分かった」
直人は包丁を手に取り、玉ねぎを切り始めた。
しかし、切り終えたものを見た香奈は、すぐに吹き出した。
「ちょ、ナオト!大きすぎるって!」
「え?そう?」
「そうやって!これ、玉ねぎの存在感すごいやん!」
「カレーなんだから、別にいいでしょ(笑)」
「いやいや、限度があるやろ!」
香奈は笑いながら、直人が切った玉ねぎを眺めた。
「ほんま、料理慣れてへんなあ」
「そんなに言わなくてもいいじゃん(笑)」
「ほな、次はうちがお手本見せたる!」
そう言って香奈は、慣れた手つきで野菜を切り始めた。
直人はその隣で、じゃがいもの皮を剥いたり、鍋を準備したりした。
狭いキッチンに二人で立つと、時々肩がぶつかる。
「ごめん」
「ええよー」
そんなやり取りを何度も繰り返しながら、二人で鍋を火にかけた。
玉ねぎを炒め、肉を入れ、野菜を加える。
水を注いで煮込み始めると、少しずつカレーの匂いが部屋に広がっていった。
「うわあ、ええ匂い!」
香奈が鍋を覗き込む。
「まだルー入れてないよ(笑)」
「分かっとるわ!」
香奈は直人の腕を軽く叩いた。
やがてルーを溶かし、火を弱めて煮込む。
完成したカレーを、買ったばかりの皿に盛りつけた。
テーブルの上には、同じカレー皿が二枚並んでいる。
「いただきます!」
香奈が手を合わせた。
「いただきます」
直人もスプーンを手に取った。
一口食べる。
特別な材料を使ったわけでもない。
店で食べるような、こだわりのカレーでもない。
ごく普通の家庭のカレーだった。
「・・・おいしいね」
直人が言うと、香奈はぱっと顔を上げた。
「ほんま!?」
「うん。普通においしい」
「普通にって何やねん(笑)」
「いや、いい意味でだよ(笑)」
「もう、素直においしいって言うたらええやん!」
香奈は笑いながら、もう一口食べた。
直人も笑った。
以前、香奈が東京に来たときは、一緒に外食をしたり、コンビニで買ったものを食べたりしていた。
それも楽しかった。
けれど、こうして二人で作ったものを、同じテーブルで食べるのは違った。
食べ終わったあとも、香奈はすぐに立ち上がった。
「よし、片付けよ!」
「俺が洗うよ」
「ほな、うちが拭くわ!」
二人で食器を洗い、拭き、棚にしまう。
買ったばかりの皿が二枚、並んで置かれた。
直人はその光景を、何となく眺めていた。
これから、この皿を何度も使うのだろう。
カレーだけじゃなく、いろいろな料理を食べる。
失敗した料理を笑い合う日もあるかもしれない。
そんな先のことまで、自然と想像できた。
香奈が暮らし始めてから、直人の毎日は少しずつ変わっていった。
朝、目を覚ますと、部屋の中に自分以外の気配がある。
洗面所を使う順番を譲り合い、朝食を食べながら、その日の予定を話す。
直人が仕事へ出かける準備をしていると、香奈がソファから声をかけてくる。
「ナオト、今日何時に帰ってくるん?」
「たぶん、夜の十一時くらいかな」
「そっか。ほな、晩ご飯どうしよかなあ」
「俺は帰ってからでも大丈夫だよ」
「えー、でも遅いやん」
「じゃあ、何か買って帰ろうか?」
「うん! それがええ!」
そんな何気ない会話が増えた。
仕事から帰ってくると、香奈がテレビを見ていたり、スマートフォンを触っていたりする。
「おかえりー!」
「ただいま」
その一言を交わすだけで、仕事の疲れが少し和らいだ。
以前は、仕事を終えて部屋に戻れば、静かな空間が待っていた。
誰もいない部屋で食事をし、テレビを見て、眠る。
それが当たり前だった。
今は違う。
帰れば香奈がいて、くだらない話をして、時には一緒に笑う。
特別なことがなくても、一日が少しだけ楽しくなった。
居酒屋の仕事も、相変わらず忙しかった。
「直人! そこのテーブル、片付けといて!」
「はい!」
武田さんの声に返事をして、直人は空いた皿をまとめた。
閉店時間が近づいても、店内は賑やかだった。
ようやく仕事を終え、着替えを済ませると、直人はスマートフォンを確認した。
香奈からメッセージが届いている。
『ナオト、今日何時くらい?』
『今終わったよ。これから帰る』
『お疲れさまー! 気をつけてな!』
短いやり取りだったが、直人は自然と笑っていた。
その様子を見ていた武田さんが、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「直人、最近帰るの早くない?」
「え? いつもこんな感じですよ」
「いやいや、前は仕事終わっても、もうちょっとゆっくりしてただろ」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。最近は終わったらすぐ帰るし、ずいぶん楽しそうだし」
武田さんは直人の顔を覗き込んだ。
「・・・・彼女?」
「まあ、そんなところです(笑)」
「おお、やっぱり! で、どんな子?」
「どんな子って・・・明るい人ですよ」
「それだけ?」
「よく喋るし、よく笑うし・・・一緒にいると楽しいです」
答えながら、直人は香奈の顔を思い浮かべていた。
武田さんは満足そうに頷いた。
「いいねえ。若いっていいねえ」
「武田さん、まだそんなに年変わらないじゃないですか(笑)」
「いや、気持ちの問題だよ、気持ちの」
武田さんは大げさに肩をすくめた。
「まあ、せっかく一緒にいられるんだから、大事にしなよ」
「・・・はい」
その言葉に、直人は素直に頷いた。
店を出ると、夜風が頬に当たった。
直人はスマートフォンをポケットにしまい、家路を急いだ。
早く帰りたい。
ただ、それだけだった。
そんな生活を送りながらも、直人は役者になる夢を諦めてはいなかった。
仕事のない時間には、オーディション情報を探す。
小さな舞台の募集もあれば、映像作品の出演者募集もある。
応募できるものを見つけては、プロフィールを送り、結果を待った。
うまくいかないことの方が多かった。
書類で落ちることもある。
面接まで進んでも、何も言えずに終わることもある。
東京に来れば、もっと簡単にチャンスがつかめると思っていたわけではない。
それでも、実際に何度も不採用の知らせを受け取ると、自分の力が足りないことを思い知らされる。
ある日の夜、直人はテーブルにスマートフォンを置き、ため息をついた。
「・・・またか」
画面には、オーディションの不採用通知が表示されていた。
隣でテレビを見ていた香奈が、顔を向ける。
「どしたん?」
「オーディション。駄目だった」
「そっか・・・」
香奈はそれ以上、すぐには何も言わなかった。
直人はスマートフォンを伏せた。
「まあ、仕方ないけどね。こういうの、よくあるし」
「うん」
「もっと頑張らないとな」
そう言うと、香奈は直人の方へ身体を向けた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「うちは、ナオトがテレビに出るの楽しみにしとるんやからな!」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
直人は一瞬、返事に困った。
「・・・ありがとう」
「いつか絶対出るんやろ?」
「うん。出たいよ」
「ほな、諦めたらあかんやん!」
香奈は当然のことのように言った。
「うちは応援しとるからな!」
直人は小さく笑った。
自分の夢を応援してくれる人がいる。
その事実が、何よりも心強かった。
数日後、直人のもとに一件のオーディション情報が届いた。
テレビドラマの出演者募集だった。
募集されているのは、主人公の職場に登場する若い社員の役。
出番はそれほど多くない。
物語の中心になる役でもなかった。
それでも、台詞のある役だった。
直人は募集要項を何度も読み返した。
「・・・これ、受けてみようかな」
隣でスマートフォンを見ていた香奈が、すぐに顔を上げた。
「えっ、ドラマ!?」
「うん。まだオーディションだけどね」
「すごいやん!」
「いや、まだ受かってないから(笑)」
「受けるんやろ?」
「もちろん」
「ほな、すごいやん!」
香奈は嬉しそうに笑った。
直人は応募フォームを開き、必要な情報を入力した。
何度も確認してから、送信ボタンを押す。
画面に応募完了の表示が出た。
それだけなのに、心臓が少し速くなった。
「・・・送った」
「おおー!」
香奈が小さく拍手をした。
「受かるとええなあ!」
「そうだね」
直人は笑った。
まだ何も決まっていない。
それでも、次の一歩を踏み出せた気がした。
数日後、書類選考を通過したという連絡が届いた。
直人は、画面を見たまま固まった。
「・・・え?」
「どしたん?」
香奈が隣から覗き込む。
「書類、通った・・・」
「ええっ!? ほんま!?」
「うん。次、オーディションだって」
「やったやん、ナオト!」
香奈は直人の腕を掴んで、何度も揺さぶった。
「ちょ、ちょっと(笑)」
「だって、すごいやん!」
直人も、ようやく笑顔になった。
まだ役が決まったわけではない。
けれど、書類選考を通過した。
自分のプロフィールを見て、会ってみたいと思ってくれた人がいる。
それだけでも、嬉しかった。
「よし、今日はお祝いしよ!」
香奈が立ち上がった。
「え? 何の?」
「書類通過のお祝い!」
「いや、まだ早くない?(笑)」
「ええねん! 嬉しいことはお祝いするんや!」
香奈はそう言って、財布を手に取った。
結局、二人は近くの店で小さなケーキを買った。
部屋に戻り、テーブルの上に並べる。
「ほな、乾杯!」
「ケーキで乾杯って(笑)」
「ええやん!」
二人は笑いながらケーキを食べた。
大きな成功ではない。
誰かに自慢できるような実績でもない。
それでも、直人にとっては大切な一歩だった。
そして、その一歩を自分のことのように喜んでくれる人が、すぐ隣にいた。
オーディションの日まで、直人は台本の練習を続けた。
渡された台詞を何度も読み、声に出してみる。
最初は、どうしても台詞を間違えないことばかり考えてしまった。
言葉を覚えることに集中しすぎて、相手の台詞を聞く余裕がなくなる。
その様子を見ていた香奈が、ふと口を開いた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「台詞、ちゃんと言おうって考えすぎてへん?」
「・・・そうかな?」
「うん。何か、次に何を言うかばっかり気にしとる感じする」
直人は台本に目を落とした。
自分では気づいていなかった。
「でも、間違えたら駄目だし・・・」
「そらそうやけど」
香奈は少し考えてから、直人の向かいに座った。
「相手が喋っとるときも、自分の台詞のこと考えとるんちゃう?」
「・・・あ」
「相手の話、ちゃんと聞いてから返事する感じにしたら、もっと自然になるんちゃうかな」
直人は顔を上げた。
言われてみれば、その通りだった。
台詞を覚えることばかりに気を取られて、相手の言葉を受け取ることを忘れていたのかもしれない。
「・・・確かに。そうかもしれない」
「やろ?」
香奈は得意げに笑った。
「ほな、うちが相手役やったるわ!」
「え? いいの?」
「もちろん!」
香奈は台本を手に取った。
何度か読み合わせをするうちに、直人は少しずつ相手の言葉を聞けるようになった。
香奈の言い方や表情を見てから、台詞を返す。
台本に書かれた言葉を口にするだけではなく、その場で会話をしているような感覚。
まだ完璧ではない。
けれど、最初よりずっと自然に感じられた。
「・・・ありがとう、香奈」
「え? 何が?」
「練習、付き合ってくれて」
「ええよ、そんなん!」
香奈は笑った。
「ナオトが頑張っとるん、応援したいもん」
直人はその言葉を、胸の中で繰り返した。
この人のためにも、頑張りたい。
そう思った。
オーディション当日。
直人はいつもより早く家を出た。
駅へ向かう途中も、頭の中で台詞を繰り返していた。
会場に着くと、同じようにオーディションを受けに来た人たちが何人もいた。
みんな、自分と同じように役をつかもうとしている。
直人は受付を済ませ、案内された場所で順番を待った。
緊張で、手のひらが少し汗ばんでいた。
名前を呼ばれる。
「はい」
返事をして、部屋へ入った。
スタッフが数人、テーブルの向こうに座っていた。
挨拶をして、簡単な説明を受ける。
そして、台詞を読むことになった。
最初のうちは、やはり緊張していた。
台詞を間違えないように。
声が震えないように。
そんなことばかりが頭をよぎる。
それでも、相手役の台詞が始まると、直人は意識して耳を傾けた。
香奈と練習したときのことを思い出す。
まずは、相手の言葉を聞く。
そして、自分の言葉を返す。
読み終えたあと、スタッフからいくつか質問を受けた。
直人は自分なりに答えた。
すべてがうまくできたとは思わなかった。
会場を出ると、緊張が一気にほどけた。
「・・・終わった」
直人は大きく息を吐いた。
スマートフォンを取り出し、香奈にメッセージを送る。
『オーディション終わったよ』
すぐに返信が来た。
『お疲れさまー!! どうやった!?』
『緊張したけど、何とかやってきた』
『えらい! ほんまにお疲れさま!』
直人は画面を見て笑った。
『結果はまだ分からないけどね』
『大丈夫! ナオトならできるって!』
その言葉を見て、直人は少しだけ肩の力を抜いた。
結果がどうなるかは分からない。
それでも、今日ここまで来て、自分なりにやり切った。
今は、それでいいと思えた。
結果を待つ間も、生活は続いた。
直人は居酒屋で働き、時間があれば台本を読んだ。
香奈と一緒に買い物へ行き、夕飯を作る。
ある日は、スーパーで買った食材を使って野菜炒めを作った。
またある日は、二人でテレビを見ながら、どちらが先に眠くなるか競うようにソファでだらだら過ごした。
何もない休日には、昼過ぎまで寝てしまうこともあった。
「ナオト、もう昼やでー!」
「・・・あと五分」
「それ、絶対起きへんやつやん!」
「起きるって・・・」
「ほな、五分な!」
香奈はそう言いながら、結局、直人が起きるまで隣でテレビを見ていた。
そんな日々が、何よりも心地よかった。
オーディションの結果が気にならないわけではない。
スマートフォンに通知が来るたび、つい画面を確認してしまう。
けれど、以前のように結果だけに気持ちを支配されることは少なくなっていた。
家に帰れば、香奈がいる。
一緒にご飯を食べて、今日あったことを話す。
それだけで、気持ちが少し落ち着いた。
夢を諦めたわけではない。
むしろ、以前よりも頑張りたいと思っていた。
ただ、夢を追いかける毎日の中に、帰りたい場所ができた。
それが、直人には嬉しかった。
そして、ある日の昼下がり。
直人のスマートフォンにメールが届いた。
オーディションの結果だった。
直人は仕事へ出かける準備をしていた手を止めた。
画面を開く。
何度も読み返した。
そこには、出演が決まったという知らせが書かれていた。
「・・・うそだろ」
声が漏れた。
「ナオト?」
香奈が振り返る。
「どうしたん?」
直人はスマートフォンを持ったまま、香奈を見た。
「・・・受かった」
「え?」
「ドラマ。出演、決まった」
一瞬、香奈が固まった。
次の瞬間。
「ええええっ!? ほんまに!?」
部屋中に響くような声だった。
「うん・・・!」
「やったあああ!!」
香奈は飛び跳ねるように喜んだ。
「すごいやん! ナオト、ドラマ出るんやろ!?」
「うん。まだ小さい役だけどね」
「そんなの関係ないやん!」
香奈は直人の腕を掴んだ。
「テレビに出るんやで!? うち、絶対見るからな!」
直人は笑った。
嬉しかった。
自分の夢に、一歩だけ近づけた気がした。
役者として成功したわけではない。
これからも、仕事をしながらオーディションを受け続ける必要がある。
それでも、初めてテレビドラマの役をつかんだ。
その事実は、何よりも大きかった。
「・・・ありがとう、香奈」
「何でお礼言うん?」
「ずっと応援してくれたから」
香奈は少しだけ目を丸くしたあと、照れたように笑った。
「・・・当たり前やん」
その日の夜、二人はまた小さなケーキを買った。
前回は書類選考通過のお祝い。
今回は、出演が決まったお祝いだった。
「ほな、今度こそ本番のお祝いな!」
「本番って(笑)」
「ええねん! めでたいことは何回お祝いしてもええんや!」
香奈は笑いながら、ケーキを直人の前に置いた。
直人はその姿を見て、胸が温かくなった。
自分のことを、こんなにも喜んでくれる人がいる。
そのことが、何よりも幸せだった。
撮影の日が近づくにつれて、直人は再び緊張するようになった。
台本を読み直し、台詞を覚える。
役の設定を確認し、どういう人物なのかを考える。
撮影現場へ行くのは初めてではない。
けれど、台詞のある役を演じるのは初めてだった。
今までは、エキストラとして現場に立つこともあった。
それでも今回は、自分の演技を見られる。
自分の台詞が、作品の一部になる。
そう考えると、期待と不安が入り混じった。
「・・・どうしよう。緊張してきた」
ある晩、直人が台本を読みながら呟くと、香奈が隣に座った。
「そら緊張するやろ」
「うまくできるかな」
「できるかどうかは、やってみな分からんやん」
「・・・そうだね」
「でも、ナオトが頑張ってきたん、うちは知っとるで」
香奈は台本を覗き込んだ。
「せやから、いつも通りやったらええねん」
「いつも通りって言われてもなあ(笑)」
「ほな、いつもよりちょっとだけ頑張る!」
「それならできそうだね(笑)」
二人で笑った。
香奈は、また台詞の読み合わせに付き合ってくれた。
相手の言葉を聞いて、自然に返す。
何度も繰り返すうちに、直人の中に少しずつ余裕が生まれてきた。
完璧ではない。
それでも、自分なりに準備はできている。
あとは現場でやるだけだった。
撮影当日。
現場に到着した直人は、周囲を見回した。
スタッフが慌ただしく動き、機材が並び、出演者たちがそれぞれ準備をしている。
普段テレビで見ている世界が、目の前にあった。
衣装を確認し、台本を見直す。
やがて出番が近づいてきた。
「お願いします」
直人はスタッフに挨拶し、撮影場所へ向かった。
台詞は覚えている。
練習もしてきた。
それなのに、カメラを向けられると、身体が少し硬くなった。
最初のテイク。
台詞は間違えなかった。
けれど、終わったあと、直人自身にも分かった。
どこかぎこちなかった。
相手の台詞を聞くことよりも、自分の台詞を言うことに意識が向いていた。
監督が近づいてきた。
「台詞はいいんだけど、もう少し自然にやってみようか」
「はい」
「相手の言葉を聞いて、そこから返す感じで。台詞を言おうとしすぎなくて大丈夫だから」
その言葉を聞いた瞬間、直人は香奈との練習を思い出した。
相手の話を聞いてから返事をする。
台詞を言うことばかり考えない。
「・・・分かりました。ありがとうございます」
もう一度、撮影が始まった。
直人は相手役の言葉を聞いた。
その表情を見て、少しだけ間を置いてから返事をした。
今度は、台本の文字を追うのではなく、その場で会話をしているような感覚があった。
撮影が終わる。
監督がモニターを確認したあと、直人に声をかけた。
「今の、よかったよ。自然な感じが出てた」
「・・・ありがとうございます!」
直人は深く頭を下げた。
胸の奥が熱くなった。
大きな役ではない。
撮影現場で褒められたのも、ほんの一言だった。
それでも、自分の演技を認めてもらえた。
それが嬉しかった。
無事に出番を終え、帰り道に直人はスマートフォンを取り出した。
『撮影、終わったよ』
すぐに香奈から返事が来た。
『お疲れさまー!! どうやった!?』
『最初ちょっと緊張したけど、最後は監督に褒めてもらえた』
『えええっ!!すごいやん!!』
『いや、ほんの少しだけどね(笑)』
『それでもすごいことやん!ナオト、頑張ったなあ!』
画面を見ながら、直人は笑った。
早く帰って、香奈に直接話したい。
そう思いながら、足を速めた。
「ただいまー」
玄関を開けると、香奈がすぐに顔を出した。
「ナオト!おかえりー!」
「ただいま」
「撮影どうやったん? 監督に褒められたって、ほんま!?」
「うん。最初は緊張したけど、二回目は少し自然にできたみたい」
直人は、現場であったことを一つずつ話した。
撮影場所のこと。
スタッフのこと。
最初のテイクでうまくいかなかったこと。
監督からもらった言葉。
香奈は、まるで自分がその場にいたかのように、真剣に聞いてくれた。
「うわあ・・・! ええなあ! うちも見てみたい!」
「放送されたら見られるよ(笑)」
「絶対見る! 何回でも見る!」
「そんな何回も見るほど出番ないと思うけど(笑)」
「ええねん! ナオトが出とるんやから!」
香奈はそう言って笑った。
直人も笑った。
役者として、これからどこまでやっていけるのかは分からない。
今回の仕事が、次につながる保証もない。
それでも、自分の夢がほんの少しだけ現実に近づいた。
その喜びを、隣にいる人と分かち合えた。
それだけで、今日は十分だった。
ドラマの放送日。
香奈は、放送時間よりずっと前からテレビの前に座っていた。
「ナオト、もうすぐやで!」
「うん、分かってる(笑)」
「ちゃんと録画もしたからな!」
「そこまでしなくても・・・(笑)」
「何言うてんの! 永久保存版や!」
直人は笑いながら、香奈の隣に座った。
画面の中では、物語が進んでいく。
そして、直人の出番が来た。
ほんの短い場面だった。
台詞も多くはない。
けれど、直人は確かにテレビの中にいた。
「出たー!!」
香奈が大きな声を上げた。
「ナオトや! ナオトおる!」
「いや、見れば分かるよ(笑)」
「すごいやん! ほんまにテレビに出とる!」
香奈は目を輝かせて画面を見つめていた。
直人は、その横顔を見た。
自分が画面に映っていることよりも、香奈がこんなにも喜んでくれていることが嬉しかった。
放送が終わると、香奈はすぐに直人の方を向いた。
「なあ!めっちゃよかったで!」
「ありがとう(笑)」
「ほんまに!もっと出てほしかったわ!」
「今回はあの役だからね(笑)」
「次はもっといっぱい出るんやろ?」
直人は少し考えた。
次の仕事が決まっているわけではない。
これから先、うまくいく保証もない。
それでも、以前なら不安ばかりが浮かんでいた問いに、今は前向きに答えられた。
「・・・うん。もっと出られるように頑張るよ」
「うん!うち、ずっと応援しとるからな!」
香奈は笑った。
直人は、その笑顔を見て頷いた。
それからしばらくして、香奈が休日の朝に言った。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「スカイツリー、行ってみいひん?」
「スカイツリー?」
「うん! ちゃんと上まで行ったことないねん!」
直人は少し考えてから答えた。
「・・・実は俺も、行ったことないんだよね」
「えっ、うそやん!東京に住んどるのに?」
「いや、東京に住んでるからって、どこでも行くわけじゃないでしょ(笑)」
「せやけど、スカイツリーやで?めっちゃ有名やん!」
「知ってるよ(笑)でも、こっちに来てからは仕事とかオーディションとかで忙しかったし、観光らしいことってほとんどしてないんだよね」
東京に来たとき、直人の頭の中にあったのは役者になることばかりだった。
有名な場所を巡ることよりも、オーディションを受けること。
少しでも多く経験を積むこと。
いつか役者として成功するために、できることを探す毎日だった。
だから、東京の名所について知っていても、実際に訪れたことのない場所は意外と多かった。
「ほな、ちょうどええやん! 二人とも初めてやったら、余計楽しめるやん!」
香奈は嬉しそうに身を乗り出した。
「せっかく東京におるんやし、行こうや!」
「いいね。行こうか」
「やったー!」
香奈は楽しそうに手を叩いた。
直人も笑った。
東京に来てから、仕事や夢のことばかり考えていた。
けれど、こうして誰かと一緒に、行ったことのない場所へ出かけるのも悪くない。
むしろ、今はそれが楽しみだった。
休日。
二人は電車に乗って、スカイツリーへ向かった。
駅を出て、建物が見えてきたとき、香奈は思わず足を止めた。
「うわあ・・・! でっか!」
目の前にそびえ立つスカイツリーを見上げる。
写真やテレビでは何度も見たことがあった。
それでも、実際に目の前にすると、想像していたよりもずっと大きく感じられた。
「ほんとに大きいね・・・」
直人も首を上げたまま、しばらく見つめていた。
東京に住んでいても、こんな場所に来ることはなかった。
毎日、電車に乗って、仕事へ行き、帰ってくる。
限られた時間の中で夢を追いかけることに必死で、街をゆっくり眺める余裕なんてなかった。
けれど、今日は違う。
隣には香奈がいて、二人で同じ景色を見上げている。
「ナオト、写真撮ろ!」
「いいよ」
香奈はスマートフォンを構え、二人でスカイツリーを背景に写真を撮った。
「見て見て!めっちゃええ感じやん!」
「ほんとだね(笑)」
「あとで送るな!」
香奈は満足そうに画面を確認した。
二人は展望台へ上がるため、チケットを購入した。
エレベーターに乗り、ゆっくりと上へ向かう。
扉が開いた瞬間、視界いっぱいに東京の街が広がった。
「・・・うわっ」
直人は思わず声を漏らした。
窓の向こうには、どこまでも続く街並みがあった。
建物も道路も、走る車も、遠くに見える川も。
普段、自分が歩いている街が、まるで別の場所のように見えた。
「すごいな・・・」
隣で香奈も、窓に近づいて外を眺めていた。
「東京って、こんなに広いんやなあ・・・」
「ね。俺も初めて見た」
二人は並んで、しばらく景色を眺めていた。
直人は、今まで自分が歩いてきた道を思い浮かべた。
初めて東京に来た日のこと。
慣れない街で、一人暮らしを始めたこと。
居酒屋で働きながら、何度もオーディションを受けたこと。
思うようにいかず、落ち込んだ夜もあった。
それでも、少しずつ前へ進んできた。
そして今、ここにいる。
隣には香奈がいる。
あの頃の自分は、こんな未来を想像していただろうか。
夢を追いかけるために来た東京で、誰かと一緒に暮らし、同じ景色を見ている。
役者としては、まだ何も成し遂げていない。
これからどうなるのかも分からない。
それでも、今の自分には帰りたい場所がある。
それだけで、東京という街が少し違って見えた。
「ナオト?」
香奈の声で、直人は我に返った。
「ん?」
「何ぼーっとしとるん?」
「いや・・・すごい景色だなって」
「せやなあ!」
香奈は窓の外へ視線を戻した。
「来てよかったな!」
「・・・うん。来てよかった」
直人はそう答えた。
けれど、本当にそう思った理由は、景色だけではなかった。
展望台をゆっくりと歩きながら、二人は何度も立ち止まった。
気になった景色を眺めたり、写真を撮ったり。
香奈は楽しそうに話し、直人も笑いながらそれに答えた。
やがて、窓の向こうに広がる街を眺めながら、直人はふと思った。
ちゃんと伝えたことがなかった。
香奈と出会えて嬉しかったこと。
一緒に暮らせることが幸せだということ。
これからも、隣にいてほしいと思っていること。
普段の生活の中では、なかなか言葉にできなかった。
けれど、今日は伝えたいと思った。
「・・・香奈」
「ん?」
香奈が振り向いた。
「ちょっと、話してもいい?」
「ええよ? どしたん?」
直人は一度、窓の外へ視線を向けた。
それから、香奈の顔を見た。
「・・・俺、ちゃんと言ってなかったことがあるんだ」
「・・・何?」
香奈は不思議そうに直人を見つめた。
直人は少しだけ息を吸った。
「・・・俺、香奈と出会えてよかったって思ってる」
香奈の表情が、わずかに変わった。
「最初は、配信を見に来てくれた一人だったのにさ。今はこうして、一緒に暮らしてる」
直人は照れくさそうに笑った。
「でも、香奈といると、夢のことだけじゃなくて、毎日の生活も楽しいって思えるようになった」
仕事から帰ってきて、香奈がいて。
くだらない話をして、一緒にご飯を食べて。
時には何もせず、一日中だらだら過ごして。
そんな日常が、直人にとっては大切なものになっていた。
「仕事から帰ってきて、香奈がいて。くだらない話して、一緒にご飯食べて・・・そういうのが、俺、すごく嬉しいんだ」
香奈は何も言わずに、直人の話を聞いていた。
「香奈のこと、大切にしたいと思ってる。これからも、ずっと一緒にいたい」
直人は、少しだけ視線を落とした。
「・・・ちゃんと言っておきたかったんだ」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。
こんなふうに自分の気持ちを言葉にするのは、思っていた以上に勇気がいる。
香奈はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ俯いた。
指先で髪を弄びながら、小さな声で言った。
「・・・何やねん、急に」
「・・・ごめん(笑)」
「そんなん、急に言われたら・・・恥ずかしいやん」
香奈の頬が赤くなっていた。
いつもなら、すぐに冗談を言って笑いに変えるのに。
今日は、そうしなかった。
直人は、その表情を見て少し安心した。
香奈はゆっくり顔を上げた。
「・・・うちも、ナオトと一緒におるの、めっちゃ楽しいで」
「・・・うん」
「朝起きたらナオトがおるし、一緒にご飯食べたり、くだらん話したり……そういう毎日が、うち、好きやねん」
香奈はそこで一度、言葉を切った。
それから、少し照れたように笑った。
「・・・せやから、これからも一緒におりたい」
直人は、何も言えなかった。
ただ、嬉しかった。
香奈も同じ気持ちでいてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「・・・ありがとう」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
香奈は小さく首を振った。
「お礼なんか、ええよ」
そして、そっと直人の手を握った。
直人も、その手を握り返した。
窓の向こうには、東京の街が広がっていた。
二人とも初めて見る景色。
これからも、初めての場所へ行くことがあるだろう。
初めて経験することも、きっとたくさんある。
嬉しいことばかりではないかもしれない。
それでも、今は思えた。
これから先も、この人と一緒にいたい。
その気持ちだけは、確かだった。
スカイツリーを出る頃には、空が少しずつ夕方の色に変わっていた。
帰り道、香奈は直人の手を握ったまま歩いていた。
「今日、楽しかったなあ」
「うん。俺も楽しかった」
「またどっか行こうな!」
「もちろん」
「約束やで!」
「うん、約束」
香奈は嬉しそうに笑った。
帰りの電車の中でも、二人は今日撮った写真を見返していた。
スカイツリーを背景に撮った写真。
展望台から見た景色。
窓の前で並んで撮った二人の写真。
どれも、特別な一日の記録だった。
部屋に帰ると、いつものように二人で夕飯のことを考えた。
「なあ、今日何食べる?」
「どうしようか。何か買って帰る?」
「うーん・・・パスタとか?」
「いいね」
「ほな、決まり!」
いつもと変わらない会話。
いつもと変わらない部屋。
けれど、直人の中では、何かが少しだけ変わっていた。
自分の気持ちを、ちゃんと言葉にできた。
香奈も、自分の気持ちを伝えてくれた。
それだけで、明日が今まで以上に楽しみになった。
夕飯を食べ終え、二人で片付けを済ませる。
香奈はソファに座ると、直人の方へ身体を寄せた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「明日も一緒やで!」
あまりにも当たり前のことを、香奈は嬉しそうに言った。
直人は笑った。
「・・・うん。明日も一緒だよ」
その夜、直人は幸せだった。
夢を追いかける東京で、自分の帰る場所ができた。
そして、その場所には、香奈がいる。
それだけで、明日も頑張れる気がした。




