第4章 君が帰ってくる場所
香奈が関西に帰ってから、何日かが過ぎた。
直人の生活は、以前と同じように戻っていた。
朝起きて、仕事に行く。居酒屋で働いて、帰宅したら簡単に夕飯を済ませる。
時間があれば配信をして、疲れていればそのままベッドに横になる。
何も変わっていない。
・・・はずだった。
仕事から帰って部屋のドアを開けると、以前よりも静けさが気になるようになった。
この前まで、ここに香奈がいた。
テーブルの向こう側でテレビを見ながら笑っていたり、直人が帰ってくると「おかえり!」と声をかけてくれたり。
そんな何気ない光景が、今になって何度も頭に浮かんだ。
直人はテーブルの上に置かれた紺色のライターを手に取り、タバコに火をつけた。
煙を吐きながら、窓の外を眺める。
香奈が使っていたピンク色のライターは、今ごろどうしているだろう。
そんなことを考えて、直人は小さく笑った。
別に、寂しいわけじゃない。
一緒に過ごした時間が楽しかったのだから、少しくらい思い出すのは普通だ。
そう自分に言い聞かせながら、スマホを手に取った。
香奈とは、帰ってからも毎日のように連絡を取り合っていた。
朝には「おはよー!」とメッセージが届き、仕事の合間にはお互いの近況を報告する。夜になれば電話をすることもあった。
内容は、特別なものじゃない。
今日食べたもの。仕事であったこと。大学のこと。配信を見ていた時の話。
本当に、どうでもいいような話ばかりだった。
それでも、直人にとっては楽しかった。
以前なら、仕事から帰れば配信を始めることが多かった。
今は、スマホを開けば香奈からメッセージが届いていることがある。
そのまま返事をして、やり取りが続いて、気づけば配信をする時間がなくなっている。
配信をまったくしなくなったわけではない。ただ、以前より少しだけ回数が減っていた。
ある夜、いつものように電話をしていると、香奈が笑いながら言った。
『なあ、ナオト』
「ん?」
『最近、前より配信少なくなった気するわ(笑)』
「そうかな?」
『そうやって! 前はもっとやっとったやん』
「まあ、最近ちょっと忙しいからね」
『ほんまかあ?』
「ほんとだって(笑)」
『ふーん。まあ、うちとしては電話できる時間増えるからええけど!』
そう言って、香奈は楽しそうに笑った。
直人もつられて笑う。
「なんだよ、それ(笑)」
『ええやん、別に!』
いつも通りの会話だった。
香奈はよく笑い、思ったことを遠慮なく口にする。
画面越しでも、電話越しでも、その明るさは変わらなかった。
直人は、そんな香奈と話している時間が好きだった。
そして、そんな日々が続いていたある夜。
その日も、直人は仕事を終えて帰宅し、夕飯を済ませてから香奈に電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声がした。
『もしもーし!』
「お疲れ。今、何してたの?」
『んー?別に何も!ちょうど暇しとったとこ!』
「そっか。じゃあ、ちょうどよかったね」
『せやろ?ナオト今日もお仕事やったん?』
「うん。今日は結構忙しかったよ」
『お疲れさまやなあ。ちゃんとご飯食べた?』
「食べたよ。帰ってからだけど」
『えらいやん!』
「子ども扱いしないでよ(笑)」
『いやいや、ちゃんと食べるんは大事やで!』
香奈はいつも、こういうところがあった。
ふざけているようで、何気ないことを気にかけてくれる。
直人はそれが嬉しかった。
そのまま、二人は他愛もない話を続けた。
香奈が今日食べたものの話。直人の職場に来た客の話。テレビで見たおかしな出来事。
ひとしきり笑ったあと、香奈がふと思い出したように言った。
『あ、そうや』
「ん?」
『うち、東京行こうかなあ』
「え? また?」
『うん!』
あまりにも軽い口調だったので、直人は思わず笑った。
「この前、来たばっかりじゃん(笑)」
『ええやん! 東京、楽しかったし!』
「まあ、楽しんでもらえたならよかったよ」
『せやろ? また行きたいなあ』
「いつでも来ればいいじゃん」
直人は何気なくそう返した。
香奈は少し間を置いてから、いたずらっぽい声で言った。
『ほな、ナオトと暮らそかな!』
「……は?」
思わず声が出た。
電話の向こうで、香奈が吹き出した。
『あははは! 何その反応!』
「いやいや、急に何言ってんの(笑)」
『ええやん! ナオトと暮らす!』
「いや、そんな簡単に決めることじゃないでしょ(笑)」
『えー? あかんの?』
「いや、あかんとは言ってないけど……」
『ほな、決まりやな!』
「決まってないって(笑)」
香奈は楽しそうだった。
いつもの調子で、冗談を言っては直人を困らせている。
直人も、最初は本気にしていなかった。
香奈なら、こういうことを勢いで言い出してもおかしくない。
この前だって、思いついたことを次々と口にしていた。
だから今回も、少しふざけているだけだと思った。
ところが、香奈はそのあとも話を続けた。
『でもさ、ナオトの家で暮らしたら楽しそうやんな』
「まあ……一緒にいたら楽しいとは思うけど」
『やろ? 朝起きたらナオトがおって、夜帰ってきたらナオトがおるんやで?』
「それ、俺の家だから俺はいるでしょ(笑)」
『そういうことちゃうって!』
香奈がまた笑った。
直人も笑った。
けれど、少しずつ、何かが引っかかり始めていた。
香奈は、ただ冗談を言っているだけなのだろうか。
それにしては、話が具体的だった。
『うち、大学もちょっと休もうかなって思っとるし』
「え?」
直人は笑うのをやめた。
『バイトもしばらく休もうかなって』
「・・・ちょっと待って。それ、本気で言ってる?」
電話の向こうが、ほんの少し静かになった。
それから香奈は、さっきまでと変わらない明るい声で答えた。
『本気やって!』
「いや、でも・・・急にそんなこと決めて大丈夫なの?」
『・・・実はな、ちょっと親と揉めてん』
「え?」
『前からいろいろあってな。今回、ちょっと大きい喧嘩になってもうて』
さっきまでの明るい声が、少しだけ落ち着いたものに変わった。
「そっか・・・」
直人は、それ以上すぐには聞けなかった。
何があったのか、詳しいことは分からない。
ただ、香奈がいつもの調子で冗談を言っているだけではないことは、伝わってきた。
『せやから、ちょっと家を離れたいなって思って』
「・・・うん」
『それで、ナオトと暮らしたいなって』
直人はスマホを持ち直した。
「そっか・・・。でも、大学とかバイトとか、どうするの?」
『なんとかなるって!』
香奈は、いつもの調子でそう答えた。
「いや、なんとかなるって・・・(笑)」
『大丈夫、大丈夫! そんなん、あとから考えたらええやん!』
「いやいや、結構大事なことだと思うけど(笑)」
『分かっとるって! でも、うち、ナオトと一緒に暮らしたいねん』
直人は、思わず言葉に詰まった。
心配がないわけではなかった。
大学を休んで、バイトもしばらく休んで、関西から東京へ来る。
簡単な決断ではないはずだ。
「・・・無理してない?」
思わず、そう尋ねていた。
電話の向こうで、香奈が少し黙った。
『無理なんかしてへんよ』
その声は、さっきより少しだけ優しかった。
『うちがそうしたいって思ったん。ナオトと一緒におりたいねん』
直人は、すぐには返事ができなかった。
香奈が自分を頼ってくれたことが、素直に嬉しかった。
一緒に過ごした時間は、まだそれほど長くない。
それなのに香奈は、自分と暮らしたいと言ってくれている。
もちろん、考えなければいけないことはある。
二人で暮らすということは、遊びに来てもらうのとは違う。
生活費だって必要になるし、お互いの生活も変わる。
それでも。
直人の中では、心配よりも嬉しさのほうが大きかった。
「・・・俺は、来てくれたら嬉しいよ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
電話の向こうで、香奈が黙った。
「ただ、急いで決めて、あとで困るようなことにはなってほしくないけどね」
『・・・ナオト』
「うん?」
『それって、来てもええってこと?』
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
直人は笑った。
「うん。俺は一緒に暮らせたら嬉しいよ」
数秒の沈黙。
そして。
『・・・ほんまに?』
「ほんとだよ」
『・・・やったあ!』
急に、いつもの明るい声が戻ってきた。
『やった! ナオトと暮らせる!』
「まだ何も決まってないからね(笑)」
『ええやん! これから決めていけば!』
「まあ、そうだけどさ(笑)」
『よっしゃー! 楽しみになってきた!』
香奈は本当に嬉しそうだった。
電話越しなのに、笑顔が目に浮かぶようだった。
直人も、自然と笑っていた。
さっきまで頭の中にあった心配事は、まだ消えたわけではない。
それでも、香奈が東京に来る。
そして、今度は帰らずに一緒に暮らす。
そのことが、何より嬉しかった。
電話を切ったあと、直人はしばらくスマホを眺めていた。
香奈が東京に来る。
今度は一週間だけじゃない。
朝、目を覚ませば香奈がいて、仕事から帰れば「おかえり」と迎えてくれる。
そんな生活が、これから始まる。
そう考えると、自然と笑みがこぼれた。
しばらくすると、香奈からまたメッセージが届いた。
『なるべく早く行くで! 待っとってな!』
直人は思わず笑った。
『うん。待ってるよ』
送信してから、少しだけ画面を見つめた。
香奈と一緒に過ごした一週間。
二人でコンビニへ行った朝。
仕事から帰ると「おかえり」と迎えてくれた夜。
自分が買って帰った大きなシュークリームを見て、子どものように目を輝かせていた香奈の顔。
何でもない話で笑って、気づけば遅い時間になっていたこと。
香奈が帰ったあと、灰皿に残った吸い殻を、すぐには捨てられなかったこと。
そんな何気ない場面ばかりが、頭に浮かんだ。
たった一週間、一緒に過ごしただけだった。
それなのに、香奈が帰ってからの部屋は、前より少しだけ広く、静かに感じていた。
その香奈が、今度はここで一緒に暮らす。
直人はテーブルの上の紺色のライターに目を向けた。
また一緒にタバコを吸いながら、くだらない話をして笑いたい。
また一緒に出かけたい。
今度は、帰る時間を気にせずに。
直人はスマホを置き、ベッドに腰を下ろした。
これから始まる生活を想像すると、自然と頬が緩んだ。
明日も仕事がある。
いつもと変わらない一日が始まる。
それでも直人は、久しぶりに、明日が来るのを楽しみにしていた。




