第3章 君が隣にいる夜
喫煙所を出ると、夜の渋谷は相変わらず賑やかだった。
大きなビルの壁面では広告映像が流れ、交差点には人が途切れることなく行き交っている。
遠くから聞こえる音楽と、誰かの笑い声。車の走る音。
いつもと何も変わらない景色だった。
「ナオトの家って、ここから近いん?」
隣を歩いていた香奈が尋ねた。
「中野だから、電車で二、三十分くらいかな」
「へえー! 中野なんや!」
「来たことある?」
「ないで! どんなとこなん?」
「駅の周りは結構にぎやかだけど、俺の家の近くは静かだよ」
「楽しみやなあ!」
香奈はそう言って、楽しそうに笑った。
「そんなに楽しみ?」
「そらそうやろ! ナオトの家に行くんやもん!」
何でもないことのように言う香奈に、直人は少しだけ返事に困った。
別に、特別な意味があるわけじゃない。
ただ、画面越しに知り合った相手が、今は自分の隣を歩いていて、これから自分の部屋に来る。
それが、まだ少し不思議だった。
駅に向かう途中、香奈は目に入るものについて、あれこれと話していた。
「あっ、あのお店かわいい!」
「ほんとだね」
「ナオト、ああいうお店行くん?」
「いや、あんまり行かないかな(笑)」
「やっぱりなあ!」
「何がやっぱりなの(笑)」
「なんとなく!」
香奈は声を上げて笑った。
直人もつられて笑った。
電車に乗ってからも、香奈は話題が尽きなかった。
直人が普段どんな生活をしているのか。配信がない日は何をしているのか。役者の仕事はどんなことをするのか。
質問されるたびに答えていると、普段なら人に話さないようなことまで、自然と口にしていた。
中野駅に着いた頃には、最初に感じていた緊張も少しずつ薄れていた。
駅前の商店街には、まだ明かりのついた店がいくつもあった。
飲食店からは料理の匂いが漂い、仕事帰りらしい人たちが足早に通り過ぎていく。
そのにぎやかな通りを抜け、住宅街へと入る。
さっきまでの人通りが嘘のように、辺りは静かになった。
「こっちだよ」
「はーい!」
香奈は直人の隣を歩きながら、きょろきょろと周りを見ていた。
やがて、古びた低層のアパートの前で直人は足を止めた。
「ここ」
直人がそう言うと、香奈は建物を見上げた。
「へえー、ここなんや!」
「うん。ちょっと古いけどね」
「ええやん! なんか東京で一人暮らししてるって感じするわ!」
「何それ(笑)」
「いや、分かるやろ! こういうとこに住んでるんやなあって思って!」
香奈は楽しそうに笑いながら、直人の後について階段を上がった。
部屋の鍵を開け、ドアを押す。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす!」
香奈は靴を脱いで部屋に入ると、すぐに辺りを見回した。
「あっ、ここや! 配信で見てた部屋やん!」
「ああ、そうだね(笑)」
「いつもここにスマホ置いてるんやろ?」
香奈は、小さなテーブルの上を指さした。
「そうそう。よく分かったね」
「そら分かるって! 何回も見てるもん!」
そう言いながら、香奈は部屋の中を興味深そうに眺めていた。
六畳ほどの部屋に、ベッドと小さなテーブル、テレビ。
壁際には服を収納する棚があり、隅には普段使っている物がまとめて置いてある。
特別なものは何もない。
自分にとっては見慣れた、いつもの部屋だった。
「なんか不思議やなあ。いつもスマホ越しに見てた場所に、今うちがおるんやもん」
「俺も不思議だよ(笑)」
直人が笑うと、香奈も笑った。
そのあと、香奈は部屋の隅に置いてあったクッションを手に取り、ベッドの端に腰を下ろした。
「なあ、今日、配信せえへんの?」
「今日はしないよ」
「えっ、もしかして、うちがおるから?」
香奈は、少し期待するような顔で直人を見た。
「まあ、せっかく来てるんだしね」
「ほんまに?」
「うん」
「ほな、今日はうちがナオト独り占めやな!」
嬉しそうに笑う香奈を見て、直人も自然と笑顔になった。
「そういうことにしとこうか(笑)」
「なんやそれー!」
香奈はクッションを抱えたまま、直人の肩を軽く叩いた。
その後も、二人は遅くまで話をした。
配信を始めた頃のこと。直人が東京に来た理由。役者としてどんな仕事をしたいのか。
香奈は、直人の話を楽しそうに聞いていた。
「うち、夢がある人ってええと思うで」
「そう?」
「うん。自分がやりたいことに向かって頑張ってるんやろ? それって普通にかっこええやん」
直人は少し照れくさくなり、頭をかいた。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「うわ、急に真面目やん!」
「いや、そりゃ真面目にお礼くらい言うでしょ(笑)」
「ええって、ええって! 褒めただけやから!」
香奈は大きな声で笑った。
そんな調子で、話題は次から次へと移っていった。
地元のこと。好きな食べ物。学生時代のこと。東京に来て驚いたこと。
普段なら、仕事から帰って一人で過ごすだけの時間だった。
それなのに、その夜は時計を見るのも忘れていた。
気づけば、日付が変わっていた。
「うわ、もうこんな時間やん!」
香奈がスマホを見て声を上げた。
「ほんとだ。そろそろ寝ようか」
「せやなあ……」
香奈はそう言ってベッドを見たあと、直人に視線を戻した。
「なあ、二人で寝る?」
直人は一瞬、言葉に詰まった。
「……え?」
「何その顔(笑)。ベッドあるんやし、ええやん?」
香奈はいつもの調子で笑っていた。
直人は少し迷ったあと、隣に座る香奈を見た。
目が合う。
さっきまで楽しそうに話していた香奈が、ほんの少しだけ照れたように視線をそらした。
それを見て、直人も急に意識してしまった。
画面越しに何度もやり取りしてきた相手。
初めて会ったはずなのに、今日一日、ずっと一緒に笑っていた相手。
今、その香奈がすぐ隣にいる。
「……嫌なん?」
香奈が小さな声で尋ねた。
「いや、そういうわけじゃないよ」
「ほな、ええやん」
香奈はそう言って、そっと直人の手に触れた。
直人はその手を握り返した。
二人はしばらく見つめ合っていた。
やがて、香奈が少しだけ顔を近づけた。
直人も、自然とその距離を縮めた。
唇が触れた。
ほんの短いキスだった。
離れたあと、二人とも何も言わなかった。
香奈は照れくさそうに笑い、直人の手を握ったまま、もう一度そっと唇を重ねた。
それから先のことを、直人はうまく言葉にできない。
ただ、香奈がすぐそばにいることを確かめるように、その温もりを感じていた。
夜が更けていく。
香奈の胸の下に小さなほくろがあることを、直人はその夜、初めて知った。
翌朝、直人が目を覚ますと、隣で香奈がまだ眠っていた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
普段なら、目が覚めれば自分一人の部屋だ。
けれど今日は、すぐ隣に香奈がいる。
直人は起こさないように、そっとベッドから抜け出した。
しばらくして香奈も目を覚ました。
「……んー、今何時?」
「もう十時過ぎだよ」
「うそやん! めっちゃ寝てもうた!」
香奈は慌てて起き上がったものの、すぐにお腹を押さえた。
「……お腹すいた」
「ははっ。じゃあ、何か買いに行こうか」
「行く!」
二人は着替えて、近くのコンビニへ向かった。
おにぎりと飲み物を買い、近くの公園のベンチに座って朝食を食べた。
「外で食べるのもええなあ」
「まあ、天気もいいしね」
「ナオト、いつも朝ご飯こんな感じなん?」
「だいたいね。仕事がある日は、もっと適当なこともあるよ」
「ちゃんと食べなあかんでー!」
「香奈に言われるとは思わなかった(笑)」
「なんでやねん!」
香奈は笑いながら、直人の肩を軽く叩いた。
何でもない朝だった。
特別な場所に行ったわけでも、特別なものを食べたわけでもない。
それでも、誰かと並んで食べる朝ご飯は、一人で食べるものとは少し違っていた。
その日から、香奈が東京を離れるまでの一週間は、あっという間に過ぎていった。
二日目。
二人は中野の商店街を歩いていた。
香奈は店先に並ぶ服や雑貨を見つけるたびに足を止めた。
「あっ、これかわいい!」
淡い色のトップスを手に取って、直人の方を振り返る。
「ナオト、これどう思う?」
「似合いそうだと思うよ」
「ほんま? じゃあ、これ買お!」
香奈は嬉しそうに店内へ入っていった。
しばらくして、買い物袋を持って戻ってくる。
「せっかく東京来てるんやし、楽しまな損やろ?」
「まあ、それはそうだね(笑)」
直人は、香奈が楽しそうにしている姿を見るのが、いつの間にか心地よくなっていた。
三日目には、新宿や原宿へ出かけた。
人の多さに驚いたり、気になる店を見つけては写真を撮ったり。
「なあ、ここで写真撮って!」
「はいはい」
「ちょっと待って! 今の角度ちゃう!」
「難しいなあ(笑)」
「もう一回!」
香奈は納得するまで何枚も写真を撮らせた。
撮った写真を確認して、ようやく満足したように笑う。
「よし、ええ感じ!」
そんな姿を見ていると、直人まで楽しい気分になった。
途中、直人が役者の話をすると、香奈は足を止めて聞いてくれた。
「ナオトなら、きっとできるって」
「いや、そんな簡単じゃないよ」
「分かってるで。でも、頑張ってるんやろ?」
「……うん」
「ほな、応援してるからな!」
香奈はそう言って、にっと笑った。
直人は少し照れくさくなりながらも、素直に嬉しかった。
四日目は、直人の仕事があった。
香奈は部屋でゆっくり過ごすことになり、直人はいつもの居酒屋へ向かった。
「直人! そこのテーブル、片付けといて!」
「はい!」
忙しい金曜日の店内で、直人はいつも通り働いた。
ただ、いつもと違ったのは、仕事が終わったあとのことを考えていたことだった。
家に帰れば、香奈がいる。
そのことを思うと、自然と仕事にも身が入った。
閉店作業が一段落した頃、武田さんが直人の顔を覗き込んできた。
「なんか今日、機嫌いいな?」
「そうですか?」
「うん。いつもより帰りたそうだし」
「いや、そんなことないですよ(笑)」
直人は笑ってごまかしたが、少し迷ったあと、ふと思い出したように口を開いた。
「……実は今、友達が家に来てるんですよ」
「へえ、友達?」
「はい。関西から来てて、今、うちに泊まってるんです」
武田さんは一瞬、直人の顔を見つめた。
「……なるほどねえ。女やろ?」
「えっ、なんでそうなるんですか(笑)」
「いやいや、男友達が泊まりに来てるなら、そんな言い方しないだろ」
「いや、別にそんなことないですって!」
「はいはい。分かった、分かった」
武田さんは納得したような、していないような顔で笑った。
「まあ、若いうちは楽しんどけよ」
「だから、そういうんじゃないですって(笑)」
直人はそう言いながら、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
仕事を終えて店を出ると、直人は帰り道のコンビニに立ち寄った。
甘いものが好きな香奈の顔が浮かんだのだ。
棚を見ていると、大きなシュークリームが目に入った。
「これでいいか」
直人はそれを一つ買って、家へと急いだ。
部屋のドアを開ける。
「ただいま」
返事はすぐに返ってきた。
「おかえりー!」
香奈は部屋の奥から顔を出した。
そして、直人の手にあるコンビニの袋を見るなり、目を輝かせた。
「……あ! 甘いもん!」
「好きそうだと思って」
「えっ、うちに買ってきてくれたん?」
「うん。仕事帰りに見つけたから」
「やったー!」
香奈は嬉しそうに袋を受け取った。
「ありがとう、ナオト!」
その笑顔を見て、直人は買ってきてよかったと思った。
たった一つのシュークリーム。
それだけで、こんなに喜んでくれる。
直人はそのことが、なんだか嬉しかった。
五日目は、特に予定を決めなかった。
二人ともゆっくり起きて、昼頃になってから近くの店へ出かけた。
帰りにラーメンを食べ、午後は部屋でテレビを見たり、スマホを触ったりして過ごした。
「今日、何もしてへんなあ(笑)」
香奈がベッドに寝転がりながら言った。
「そうだね」
「でも、こういう日もええな」
「うん。俺もそう思う」
香奈はスマホから顔を上げた。
「またこういう日、過ごそうな」
直人は少しだけ驚いてから、笑った。
「……そうだね。また過ごそう」
それだけの会話だった。
けれど、その言葉は直人の中に、静かに残った。
六日目には、下北沢へ出かけた。
香奈は古着屋を見て回り、気に入った店を見つけるたびに直人を呼んだ。
「ナオト、ちょっとこれ見て!」
「今度は何?」
「これ、めっちゃかわいくない?」
「うん、いいんじゃない?」
「やろー!」
香奈は満足そうに笑った。
街を歩きながら、二人で写真も撮った。
駅へ向かう帰り道、香奈はスマホの写真を眺めながら言った。
「いっぱい思い出できたなあ」
「そうだね」
「また来るで!」
香奈は顔を上げ、直人を見た。
「また来てもええやろ?」
「もちろん」
直人は迷わず答えた。
「ほんま? 約束やで!」
「うん、約束」
香奈は嬉しそうに笑った。
直人は、その笑顔を見ながら、次に会える日が楽しみになっている自分に気づいた。
けれど、それがどういう気持ちなのか、まだ深く考えようとはしなかった。
そして、七日目。
香奈が帰る日が来た。
部屋の中では、香奈がバッグに荷物を詰めていた。
化粧品のポーチや充電器をしまい、服を畳んで入れ直す。
「よし、こんなもんかな!」
香奈はバッグの中を確認して、満足そうに頷いた。
直人は部屋の端から、その様子を何となく眺めていた。
一週間前まで、この部屋に自分以外の誰かがいることなんて、ほとんどなかった。
それが今では、香奈の荷物が部屋にあることも、一緒に食事をすることも、少しずつ当たり前になっていた。
たった一週間。
それなのに、明日からまた一人になるのだと思うと、不思議と寂しかった。
「ナオトー、準備できたで!」
「あ、うん。じゃあ、行こうか」
二人は部屋を出て、品川駅へ向かった。
電車の中でも、香奈はいつも通りだった。
今回行った場所の話や、撮った写真の話。次はどこに行きたいか。
直人も笑いながら相槌を打っていたが、心のどこかでは、もう少しだけ一緒にいたいと思っていた。
品川駅に着くと、行き交う人々の中で、香奈は自分の乗る電車を確認した。
「ほな、そろそろ行くわ!」
「うん」
直人は頷いた。
「今回はありがとうな! めっちゃ楽しかった!」
「俺も楽しかったよ」
「またすぐ来るからな!」
「ほんと?」
「ほんまやって! すぐ来る!」
香奈は笑って、直人の顔を覗き込んだ。
「だから、そんな寂しそうな顔せんといてや!」
「いや、そんな顔してないよ(笑)」
「してるって!」
香奈は声を上げて笑った。
直人も笑った。
けれど、別れの時間はあっという間にやってくる。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん! ナオトも仕事頑張ってな!」
「ありがとう」
「また連絡するわ!」
「うん、待ってる」
香奈は手を振り、改札の向こうへ歩いていった。
何度か振り返って手を振ってくれたが、やがて人混みに紛れて見えなくなった。
直人は、しばらくその場に立っていた。
そして、ゆっくりと駅を後にした。
中野の部屋に戻ると、いつもの静けさが待っていた。
テーブルも、ベッドも、テレビも、何も変わっていない。
ただ、さっきまでそこにあった香奈のバッグがない。
部屋が、少し広くなったように感じた。
直人は何となく、部屋の中を見回した。
すると、窓際に置いてある灰皿が目に入った。
中には、香奈が吸ったタバコの吸い殻が一本、残っていた。
東京に来た夜、二人で買ったお揃いのライターを使って、一緒にタバコを吸った。
あのとき香奈は、嬉しそうにライターを眺めていた。
『これ見るたびに、今日のこと思い出せるし』
そう言って笑っていた顔が、ふと頭に浮かんだ。
直人は灰皿に目を向けたまま、しばらく動かなかった。
片付けようと思えば、すぐに片付けられる。
ただの吸い殻だ。
それなのに、なぜか今は、捨ててしまうのが少しだけ惜しかった。
香奈がここにいたことを、まだ何かが覚えていてくれるような気がした。
直人は結局、灰皿をそのままにして、ベッドに腰を下ろした。
スマホを手に取ると、しばらくして香奈からメッセージが届いた。
『電車乗ったでー!』
直人はすぐに返信した。
『気をつけて帰ってね』
少しして、また返事が来た。
『今日はありがとな! めっちゃ楽しかった!』
直人は画面を見つめて、自然と笑っていた。
『俺も楽しかったよ。また来てね』
『絶対行く! 約束やで!』
『うん、約束』
短いやり取りだった。
それだけで、少し気持ちが落ち着いた。
夜、直人はいつものようにベッドに横になった。
静かな部屋。
いつもなら何も気にせず眠れるはずなのに、今日はなかなか寝つけなかった。
隣に香奈がいたこと。
くだらない話をして笑ったこと。
朝、二人でコンビニへ行ったこと。
仕事から帰ると「おかえり」と声をかけてくれたこと。
そんな何気ない場面ばかりが、頭に浮かんだ。
テーブルの上には、二人で買った紺色のライターが置かれている。
直人はそれをしばらく眺めてから、部屋の明かりを消した。
また会える。
香奈はそう言っていた。
だから、寂しがる必要なんてない。
そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。
それでも、その夜、直人は初めて、誰かが帰ってくる日を待ちながら眠った。




