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第2章 初めての約束

香奈が初めて配信に来た夜から、数日が過ぎた。


その日も直人は、仕事を終えて部屋に戻ると、いつものようにスマートフォンを手に取った。


風呂を済ませ、適当に買ってきた弁当を食べる。

テレビをつけても、特に見たい番組があるわけではない。


明日のオーディションのことを考えながら、なんとなく配信アプリを開いた。


「こんばんはー。今日もやっていきますか」


配信を始めると、少しずつコメントが流れ始めた。


いつも来てくれる視聴者。初めて見る名前。仕事の愚痴を書き込む人もいれば、

直人の話を聞きながら、ただのんびり過ごしている人もいる。


直人はコメントを拾いながら、他愛のない話を続けた。


しばらくして、見覚えのある名前が画面に現れた。


香奈。


「あ、お。香奈、また来たね(笑)」


『来たでー!』


「ほんとに来た(笑)」


『なんなん、来たらあかんの?』


「いや、そんなこと言ってないじゃん」


『ほな、歓迎してや!笑』


「はいはい、いらっしゃいませー」


『雑すぎるやろ!笑』


直人は思わず笑った。


初めて来たときも、こんな調子だった。


まだ何度も話したわけではない。それでも香奈のコメントは、

ほかの視聴者のものとは少し違っていた。遠慮なく突っ込んでくるくせに、妙に気を遣わせない。


配信が終わるころには、香奈はほかの視聴者とも軽いやり取りをしていた。


『ほな、また来るわ!』


「うん、またね。ありがとう」


『おやすみー!』


最後にそうコメントを残して、香奈は配信からいなくなった。


直人はスマートフォンを置き、ベッドに横になった。


特別なことがあったわけではない。


ただ、少し楽しかった。


それだけだった。



それからも、香奈はときどき配信に顔を出すようになった。


毎日必ず来るわけではない。直人が配信を始める時間も、その日によって違った。


それでも、香奈が来ると、直人は自然と名前を覚えていた。


『今日も仕事終わり?』


「そう。今日は忙しかったよ」


『お疲れさん!』


「ありがとう。香奈は?」


『大学やでー。今日めっちゃ眠かったわ』


「ちゃんと授業聞きなよ(笑)」


『聞いとるわ! たぶん!』


「たぶんって(笑)」


そんなやり取りを重ねるうちに、話題も少しずつ増えていった。


大学のこと。仕事のこと。好きな食べ物。休日に何をしているか。


ときには、直人がオーディションに落ちた話をすることもあった。


「いやー、今回もダメだったわ」


『えー、なんでやろな』


「俺が聞きたいよ(笑)」


『見る目ないんちゃう?』


「それは言いすぎだろ(笑)」


『でも、ナオトならいけると思うけどな!』


そのコメントを見たとき、直人は少しだけ手を止めた。


役者を目指していることは、配信でも何度か話していた。


もちろん、応援してくれる視聴者はほかにもいた。けれど、香奈の言葉には、不思議と気負わず受け取れるものがあった。


「ありがとう。頑張るわ」


『うん! 頑張りや!』


それ以上、特別な会話にはならなかった。


香奈はいつもの調子で冗談を言い、直人もそれに返す。


二人の関係は、まだ配信者と視聴者だった。


けれど、その距離は少しずつ近くなっていた。



最初の配信から、二か月ほどが過ぎたころだった。


その日の配信を終えた直人は、スマートフォンを充電器につなぎ、洗濯物を取り込んでいた。


狭い部屋には、洗剤の匂いがかすかに残っている。


明日は朝からオーディションがある。


そろそろ寝ようかと思っていたところで、スマートフォンが震えた。


香奈からのダイレクトメッセージだった。


『ナオトって、普段どの辺におるん?』


直人は、畳みかけていたTシャツを膝に置いた。


「ん?」


メッセージを開く。


『今度、東京に遊びに行こうと思っとるねん!』


その下に、もう一通届いた。


『もしよかったら、会ってみたいなーって思って!』


直人は画面を見つめた。



会う。



文字にすれば、たった二文字だった。


今まで画面越しにコメントを交わしてきた相手と、実際に会う。


考えたことがなかったわけではない。ただ、こうして本人から言われるとは思っていなかった。


少し考えてから、返信した。


『いいよ! 東京のどの辺に来るの?』


すぐに返事が届いた。


『まだ決めてへん! 一週間くらいおる予定やで!』


『そうなんだ。じゃあ、予定合えばご飯でも行こうか』


『ほんま!? やったー!』


画面には、喜んでいるのが伝わってくるような文章が続いた。


直人は口元を緩めた。


そのとき、もう一通メッセージが届いた。


『なあ、お願いがあるんやけど』


「ん?」


『東京おる間、ナオトの家泊めてもらうことってできる?』


直人は思わず部屋を見回した。


六畳ほどのワンルーム。ベッドと小さなテーブル、テレビ、衣類を入れた収納ケース。

人を泊めるための部屋ではない。


『うち、ホテル代もったいないし、別に狭くても全然ええから!』


さらに続けて届く。


『あ、嫌やったら全然ええで! 無理にとは言わん!』


直人は少し迷った。


女性を自分の部屋に泊める。


しかも、実際に会うのは初めてだ。


ただ、これまでのやり取りで、香奈に対して嫌な印象を持ったことはなかった。

むしろ、気兼ねなく話せる相手だと思っていた。


それに、東京に来るのなら、一週間くらいゆっくり過ごしてもらえたらいい。


『狭い部屋だけど、それでもよければ大丈夫だよ』


送信すると、すぐに既読がついた。


『やったー!! ありがとう!!』


『めっちゃ楽しみになってきた!』


直人は笑った。


『俺も楽しみにしてるよ』


送信してから、ふと気づいた。


自分は今、誰かが東京に来ることを、こんなに楽しみにしている。


東京に出てきてから、何度も人と会った。仕事仲間もいるし、役者を目指す知り合いもいる。


それでも、誰かが自分に会いに来てくれるというのは、少し違う気がした。


直人はスマートフォンをテーブルに置いた。


明日のオーディションのことを考えようとしたが、なかなか頭が切り替わらなかった。



約束の日。



直人は、品川駅の改札近くに立っていた。


待ち合わせの時間までは、まだ十分ほどある。


それなのに、さっきから何度もスマートフォンを確認してしまう。


『今、駅着いたで!』


香奈からメッセージが届いた。


『どこおる?』


『改札の近くにいるよ。黒い上着着てる』


『おっけー! 探すわ!』


直人は顔を上げた。


品川駅は、想像していた以上に人が多かった。


スーツ姿の会社員が足早に通り過ぎ、旅行用のキャリーケースを引く人たちが行き交う。


駅のアナウンスが響き、どこかから電車の到着を知らせる音が聞こえてきた。


誰もがそれぞれの目的地へ向かっている。


その流れの中で、直人だけが、誰か一人を待っていた。


スマートフォンの画面をもう一度確認する。


プロフィール写真は、何度も見たことがある。


けれど、実際に会うとなると、どんなふうに話せばいいのか、急に分からなくなった。


配信では、コメントを拾って返せばよかった。


言葉に詰まっても、次のコメントが流れてくる。


でも、今日は違う。


目の前にいる相手と、直接話すのだ。


「……何緊張してんだ、俺」


小さくつぶやいた、そのときだった。


「あっ! おった!」


人混みの向こうから、明るい声が聞こえた。


直人が顔を上げると、一人の女性がこちらへ向かって手を振っていた。


プロフィール写真で見覚えのある顔。


香奈だった。


香奈は人の流れを避けながら、まっすぐ直人のところへやってきた。


「ナオト?」


「うん。香奈?」


「そう! やっと会えたなあ!」


目の前まで来た香奈は、にこにこと笑っていた。


直人は、思わず彼女の顔を見つめた。


プロフィール写真で顔は知っていた。

けれど、写真の中の香奈は、当然ながら動かないし、しゃべりもしない。


実際に目の前にいる香奈は、写真で見ていた印象よりもずっと華やかだった。


きれいに整えられた髪。さりげなくおしゃれな服装。きちんとメイクをしているのに、気取った感じがない。


そして、よく笑う。


写真だけでは分からなかった明るさや人懐っこさが、表情や仕草のひとつひとつから伝わってくる。


「……なんや、緊張しとるん?」


香奈が顔を覗き込んできた。


「いや、別に」


「うそやん! めっちゃ固まっとるやん(笑)」


「初めて会うんだから、多少は緊張するだろ」


「えー? 配信ではあんなにしゃべっとるのに?」


「配信とこれは別だよ」


「なんでやねん(笑)」


香奈は声を上げて笑った。


直人は、その笑顔を見て少し驚いた。


配信中、コメント欄で何度もやり取りしてきた相手。プロフィール写真で顔も知っていた。


それなのに、実際に会ってみると、まるで知らなかった一面を見つけたような気がした。


画面の向こうでは想像するしかなかった声の調子も、笑うときの表情も、今はすぐ目の前にある。


直人の中にあった緊張が、少しずつほどけていった。


「とりあえず、荷物持とうか?」


「あ、ありがとう! これ、ちょっと重いねん」


香奈がキャリーケースの持ち手を差し出す。


「何入ってるの?」


「服とか化粧品とか。あと、なんかいろいろ!」


「なんかいろいろって(笑)」


「女の子はいろいろ必要なんですー!」


「はいはい」


「なんや、その返事!」


直人は笑いながら、キャリーケースを引き受けた。


「じゃあ、まずご飯でも食べに行こうか」


「賛成! お腹すいた!」


「東京に来て最初の一言がそれ?」


「大事やろ、食事は!」


「それはそうだけど(笑)」


二人は改札を離れ、駅の外へ向かった。


直人が東京に来てから、品川駅を利用することは何度もあった。


けれど、誰かを待ち、その人と並んで歩くのは、いつもとは違う感覚だった。



山手線のホームには、帰宅する人たちが集まっていた。


電車が到着すると、ドアの前にいた人たちが降り、その隙間から乗客が流れ込んでいく。


「うわ、すごい人やな!」


香奈が車内を見渡した。


「この時間はいつもこんな感じだよ」


「東京ってほんまに人多いなあ。うち、こんなん毎日乗るん無理かもしれん(笑)」


「慣れれば平気だよ。たぶん」


「たぶんて!」


香奈は笑った。


二人は車内の奥へ進み、空いていた場所に立った。


電車が動き始める。


窓の外の景色が流れ、車内には線路の音と、乗客たちの話し声が混ざり合っていた。


混雑した車内で、香奈は直人のすぐ隣に立っていた。


電車がカーブに差しかかるたび、二人の肩が触れそうになる。


香奈は揺れに合わせて軽く体勢を整え、耳にかかった髪を指先で払った。


その何気ない仕草が、直人には妙に印象に残った。


コメントのやり取りを通じて、香奈がどんな性格なのか、直人なりに分かってきたつもりだった。


明るくて、よく笑って、思ったことを遠慮なく口にする。


文字だけのやり取りでも、そんな人柄は十分に伝わってきていた。


けれど、実際に会ってみると、知らなかったことばかりだった。


話すときの声の調子。笑うときに少し肩が揺れること。何かを見つけると、すぐにそちらへ目を向けること。


画面越しのコメントでは想像するしかなかった香奈の姿が、今はすぐ隣にある。


混雑した電車が揺れるたび、二人の肩が触れそうになる。


香奈の髪から、ほのかに甘い香りがした。


直人は、少しだけ視線を窓の外へ向けた。


別に、好きになったわけじゃない。


ただ、今まで文字でしか知らなかった相手が、目の前で笑い、話し、自分と同じ景色を見ている。


そのことが、なんだか不思議だった。


「なあ、ナオト」


「ん?」


「東京って、夜でもずっと明るいんやな」


香奈は窓の外を眺めていた。


ビルの明かりや、道路を走る車のライトが、暗くなった街を照らしている。


「そうだね。俺も最初はそう思ったよ」


「今は慣れた?」


「まあ、だいぶ」


「そっかあ」


香奈は少しだけ窓の外を見つめたあと、直人の方を向いた。


「でも、こうやって来るのは初めてやから、めっちゃ楽しみやわ」


「東京は何回か来たことあるんじゃないの?」


「あるで。でも、今回はちょっと違うやん?」


「何が?」


「……ナオトがおるから?」


言ったあと、香奈はいたずらっぽく笑った。


「なんてな!」


「なんだよ(笑)」


直人も笑った。


冗談なのか、本音なのか。


そのときの直人には、よく分からなかった。


ただ、香奈が楽しそうにしているのを見ると、自分まで少し気分が軽くなる気がした。



渋谷に着くと、駅前は人であふれていた。


巨大なスクリーンには色鮮やかな広告が映し出され、交差点を渡る人たちの頭上を光が照らしている。


外国語の会話が聞こえ、店先からは音楽が漏れ、道路にはタクシーやバスが途切れることなく走っていた。


直人にとっては、もう見慣れた景色だった。


東京に来たばかりのころは、何もかもが新鮮だった。


夜遅くまで明るい街。どこへ行っても人がいること。知らない店がいくらでもあって、少し歩けば違う景色に出会えること。


けれど、いつの間にか、それらは日常の一部になっていた。


一人で歩く渋谷は、いつも少し騒がしかった。


周りの人たちは誰かと笑い、誰かと待ち合わせ、誰かと一緒に帰っていく。


その中を歩きながら、自分だけが違う場所にいるような気がする夜もあった。


別に、寂しいと認めたかったわけではない。


自分で選んで東京に来たのだ。


夢を追いかけるために、地元を離れた。


だから、うまくいかないことがあっても、簡単に弱音を吐くわけにはいかなかった。


「ナオト、こっち!」


香奈の声に、直人は顔を上げた。


彼女は少し先で立ち止まり、店の看板を指さしていた。


「ここ、めっちゃおいしそうやん!」


「さっきから食べ物の話ばっかりだな(笑)」


「だってお腹すいてるもん!」


「はいはい。じゃあ、ここにする?」


「する!」


二人は、駅から少し離れた居酒屋に入った。


案内された席に座ると、香奈はメニューを手に取り、真剣な顔でページをめくり始めた。


「うわ、これもおいしそう。こっちもええなあ」


「全部頼んだら食べきれないよ」


「分かっとるって!」


「本当かなあ」


「ナオト、うちのこと何やと思っとるん(笑)」


「よく食べる人?」


「失礼やな!」


そう言いながら、香奈は楽しそうに笑っていた。


結局、二人でいくつか料理を頼んだ。


運ばれてきた料理を食べながら、話題は自然と配信のことになった。


「そういえば、香奈って最初、俺の配信に来たとき何してたの?」


「何って?」


「いや、なんで見に来たのかなって」


香奈は箸を止め、少し考えるような顔をした。


「えー? 普通におすすめに出てきたから?」


「本当に?」


「うん。で、顔がかっこええなーって思って、コメントした(笑)」


「そこは隠さないんだ(笑)」


「なんで隠さなあかんの!」


「いや、別にいいけど」


直人は照れくささをごまかすように、水を飲んだ。


香奈はそんな様子を見て、また笑った。


「でも、話してみたらおもろかったから、また来るようになったんやで」


「へえ」


「なに、その反応(笑)」


「いや、うれしいよ。ありがとう」


直人がそう言うと、香奈は一瞬だけ表情を柔らかくした。


「……うん!」


すぐにいつもの明るい顔に戻り、彼女は別の料理に箸を伸ばした。


「ところで、ナオトって役者の仕事はどんな感じなん?」


「まだ全然だよ。小さい舞台に出たり、オーディションも受けてるけど、なかなかね」


「そっかあ」


「まあ、簡単じゃないって分かってたから」


口にしながら、直人は自分の言葉を確かめるような気持ちになった。


簡単じゃない。


そんなことは、東京に来る前から分かっていた。


それでも、実際に思うようにいかない日々が続くと、考えないようにしていることまで頭に浮かんでくる。


このまま続けて、本当に何かが変わるのだろうか。


いつか、自分が思い描いていた場所にたどり着けるのだろうか。


けれど、そんなことを考えても、答えは出なかった。


「でも、諦めるつもりはないんだ」


直人が言うと、香奈はすぐにうなずいた。


「うん。ええやん」


「え?」


「ナオトがやりたいことなんやろ? ほんなら、頑張ったらええやん」


あまりにもまっすぐな言葉だった。


慰めるようでも、無責任に励ますようでもない。


ただ、そう思っているから口にした。


そんなふうに聞こえた。


「……ありがとう」


「なんで急に真面目になんねん(笑)」


「いや、ちゃんと聞いてくれたから」


「そら聞くやろ。ナオトの話やもん」


香奈は何でもないことのように言って、また料理を食べ始めた。


直人は、そんな彼女を見ていた。


この人は、思っていたよりずっと素直なのかもしれない。


そんなことを思った。


香奈は大学の話もした。


授業が面倒なこと。友達と遊びに行くこと。地元のこと。


仕事について聞くと、飲み屋で働いているのだと話した。


「大変じゃないの?」


「まあ、いろいろあるけどな。でも、慣れたらなんとかなるで」


「そっか。無理はしないようにね」


「ナオトこそ、ちゃんと寝とるん?」


「寝てるよ」


「ほんまかー?」


「本当だって(笑)」


「絶対うそやん!」


香奈は笑いながら、直人の顔を覗き込んだ。


その距離の近さに、直人は少しだけ戸惑った。


けれど、嫌な感じはしなかった。


むしろ、初めて会ったはずなのに、ずいぶん前から知っている相手と話しているような気もした。


食事を終えるころには、二人の会話は途切れることが少なくなっていた。


配信で話していたときよりも、ずっと多くのことを話した気がした。



店を出ると、夜の渋谷はさらに賑やかになっていた。


香奈は歩きながら、何度も周囲を見回した。


「あ、あれ見て! めっちゃ大きい!」


ビルの壁面いっぱいに映し出された広告を見上げている。


「さっきも似たようなの見たよ」


「ええやん! 何回見てもすごいやん!」


「まあ、そうだけど(笑)」


「ナオト、東京長いから感動せえへんようになったんちゃう?」


「そうかもしれない」


「もったいないなあ」


香奈は、もう一度大きなスクリーンを見上げた。


「こんなにきれいなのに」


直人も、つられて視線を上げた。


見慣れた光景だった。


何度も歩いた道。何度も見た広告。いつも聞こえている音楽と、人々の声。


それなのに、隣で香奈が楽しそうにしているだけで、少し違って見えた。


彼女が何かを見つけて立ち止まるたび、直人も足を止める。


香奈が笑えば、直人もつられて笑う。


たったそれだけのことだった。


けれど、一人で歩いていたときには気づかなかったものが、目に入ってくるような気がした。


「なあ、ナオト」


「ん?」


「今日、めっちゃ楽しいわ」


香奈は前を向いたまま言った。


「……そっか」


「うん!」


直人は、少しだけ笑った。


自分も、楽しかった。


そのことをわざわざ口にするのは、なぜか少し照れくさかった。


「あっ、ナオト! ちょっと待って!」


突然、香奈が足を止めた。


小さな雑貨店の店先に、いくつかの商品が並んでいた。


香奈はその中の一つを手に取った。


「見て、これ! かわいない?」


それは、ライターだった。


淡いピンク色の本体に、小さな白い花が散りばめられている。派手すぎず、けれど目を引くデザインだった。


「ライターか」


「うん! めっちゃかわいいやん」


香奈は手の中でライターをくるりと回し、角度を変えて眺めた。


直人は、ふと思い出したように聞いた。


「香奈って、タバコ吸うの?」


「吸うで! ナオトも吸うん?」


「うん、吸うよ」


「え、そうなんや!」


香奈は少し驚いたように目を丸くしたあと、店先の商品をもう一度見た。


そして、何かを思いついたように顔を上げた。


「なあ、せっかくやし、おそろいにせえへん?」


「……おそろい?」


「そう! 今日、初めて会った記念!」


あまりにも自然に言われて、直人は返事に困った。


「いや、別にいいけど……」


「ほんま!? やった!」


香奈は嬉しそうに、並んでいるライターを探し始めた。


「ナオトはこっちがええと思う!」


そう言って差し出されたのは、濃い紺色のライターだった。


表面には細い銀色の線が交差するように描かれている。シンプルだけれど、少し大人っぽいデザインだった。


「俺、こっち?」


「うん! ナオトっぽい!」


「そうかな」


「そうやって! 絶対似合うもん」


香奈は自分のピンク色のライターと、直人の紺色のライターを並べた。


色も柄も違う。


それなのに、どこか同じ雰囲気があった。


「ほら、ええ感じやん!」


「……確かに」


「よし、決まり!」


香奈は二つのライターを持って、レジへ向かった。


直人が払おうとすると、香奈は首を横に振った。


「ええって。今日はうちが買う!」


「いや、悪いよ」


「初めて会った記念やねんから、ええやん!」


「でも……」


「ほら、早く!」


結局、直人は香奈に押し切られた。


店を出てからも、香奈は手の中のライターを何度も眺めていた。


「いやあ、ええ買い物したわ」


「そんなに気に入ったの?」


「当たり前やん! 今日のこと、忘れへんやろ?」


「まあ、忘れないと思うけど」


「そやろ? ほな、これ見たら今日のこと思い出せるやん!」


香奈はそう言って、ピンク色のライターを大事そうにバッグへしまった。


直人も、紺色のライターをポケットに入れた。


ただのライターだ。


どこにでもある、火をつけるための道具。


それでも、今日という一日と結びついたことで、少しだけ特別なものになった気がした。



「なあ、ナオト!」


歩いていた香奈が、また声を上げた。


「どうしたの?」


「せっかく買ったんやし、使ってみたい!」


香奈はバッグから、さっき買ったライターを取り出した。


「喫煙所行こ!」


「今?」


「今!」


「分かった、分かった(笑)」


直人は笑いながら、近くの喫煙所へ向かった。


そこには数人の人がいて、それぞれスマートフォンを見たり、煙草を吸ったりしていた。


街の喧騒は少し遠くなり、代わりに煙草の煙と、かすかな車の音が漂っている。


香奈は、さっそく新しいライターを手に取った。


「よし……」


カチッ。


小さな音とともに、火がついた。


「おおー!」


香奈は子どものように声を上げた。


「普通につくやろ(笑)」


「分かっとるわ! でも、新しいのってなんか嬉しいやん!」


「まあ、そうだね」


香奈は煙草に火をつけ、満足そうに笑った。


直人も、紺色のライターを取り出した。


薄暗い喫煙所の中で、小さな炎が一瞬だけ揺れる。


火をつけて、ライターをしまう。


それだけの動作だった。


二人は並んで煙草を吸いながら、目の前に広がる夜の街を眺めた。


遠くには大きなスクリーンが見える。


交差点を行き交う人の波は途切れることがなく、街は相変わらず明るく、騒がしかった。


直人が何度も見てきた、いつもの渋谷だった。


「なあ、ナオト」


香奈が、煙草を持ったまま口を開いた。


「今日のこと、うち、たぶんずっと覚えとると思う」


「今日のこと?」


「うん。初めて会った日やし、このライターもあるしな」


香奈はピンク色のライターを手の中でくるりと回した。


「これ見たら、今日のこと思い出すんやろなあ」


「……そうだね」


直人は、自分のポケットに手を入れた。


紺色のライターの感触が、指先に触れた。


「ナオトも、ちゃんと使ってや?」


「使うよ(笑)」


「ほんまに? 引き出しの奥にしまったらあかんで!」


「そんなことしないって」


「ならよし!」


香奈は満足そうにうなずいた。


直人は、そんな彼女を横目で見た。


今日、初めて会った。


実際に話して、食事をして、街を歩いた。


それだけのことなのに、ずいぶん長い時間を一緒に過ごしたような気がしていた。


香奈は、特別なことを言ったわけではない。


何か大きな出来事があったわけでもない。


ただ、よく笑って、よく話して、目の前にあるものを楽しんでいた。


そして直人も、気づけば同じように笑っていた。


東京に来てから、ずっと一人で歩いていた街。


夢を追いかけるために選んだ場所。


楽しいことばかりではなかったし、思うようにいかない日も多かった。


それでも、ここで頑張ろうと決めたのは自分だった。


だからこそ、寂しさを感じても、あまり考えないようにしてきた。


けれど今、隣には香奈がいる。


同じ景色を見て、同じ夜の空気を吸って、他愛もない話をしている。


そのことが、思っていた以上に心地よかった。


別に、恋をしたわけじゃない。


この先どうなるかなんて、何も分からなかった。


明日になれば、またいつもの生活が始まる。


仕事があって、オーディションがあって、思いどおりにならない現実が待っている。



それでも。


直人はもう一度、隣にいる香奈を見た。


香奈は煙草を吸い終えると、満足そうに息を吐いた。


「よし! ほな、帰ろか!」


「うん。帰ろう」


二人は喫煙所を出た。


夜の渋谷は、相変わらず明るかった。


けれど、直人には、さっきまでとは少し違って見えた。


何が変わったのか、うまく説明することはできなかった。


ただ、その夜。


直人は初めて、東京に自分の居場所ができた気がした。





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