第1章 いつもの街、初めての夜
「直人! そこのテーブル、片付けといて!」
「はい、今行きます!」
厨房から飛んできた声に返事をして、直人は手に持っていたグラスをカウンターへ置いた。
金曜日の夜。
店内は仕事帰りの客で埋まり、あちこちから笑い声が聞こえていた。
焼き鳥の煙と、揚げ物の油の匂い。注文を通す声、食器の触れ合う音、何度も開閉する厨房の扉。
居酒屋の夜は、いつだって騒がしい。
直人は空いた皿を重ね、テーブルの上を手早く片付けていく。
「お兄さん、生ビール追加!」
「はい! すぐお持ちします!」
返事をしながら、頭の中では次にやることを考えていた。
あのテーブルの注文を通して、ドリンクを運んで、それから洗い物を手伝う。
忙しい時間帯は、一つの仕事を終える前に次の仕事がやってくる。
慣れた仕事だった。
東京に出てきてから、こうして何度も夜を過ごしてきた。
「お前、最近動きがよくなったな」
一通り注文を運び終えたところで、背後から声がした。
振り返ると、武田さんがニヤニヤしながら立っていた。
「なんですか、急に」
「いや、最初の頃なんか、注文一つ聞くのにも必死だっただろ」
「それは最初だからですよ」
「そういうもんかねえ」
武田さんは面白そうに笑った。
年上の男性で、仕事はできるのだが、やたらと人のことをからかいたがる。
特に恋愛の話になると、途端に目の色が変わる。
直人は、それをよく知っていた。
「まあ、仕事ができるようになるのはいいことだ。お前、顔だけはいいんだから、もっと愛想よくすれば女の客が増えるぞ」
「顔だけってなんですか」
「ほかに何があるんだよ」
「ひどいなあ」
直人が笑うと、武田さんも声を上げて笑った。
忙しい時間帯は、そんなやり取りをする暇もなく過ぎていく。
気がつけば、店内の客も少しずつ減り始めていた。
最後のテーブルを片付け、床を掃き、厨房の片付けを手伝う。
ようやく仕事が終わった頃には、日付が変わりそうになっていた。
「お疲れさまでした」
「おう、お疲れ。明日も頼むぞ」
武田さんに声をかけ、直人は店を出た。
夜風が頬に触れた。
店内にいたときには気づかなかったが、外は思っていたよりも涼しい。
直人は軽く肩を回し、駅へ向かって歩き始めた。
東京の夜には、まだ人がいた。
駅へ急ぐ人。仲間と笑いながら歩く人。コンビニの前で立ち話をする人。
それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。
直人は、その横を一人で通り過ぎた。
別に、一人でいることが嫌いなわけではない。
東京に来ると決めたのは自分だった。
俳優になりたい。
テレビや舞台の向こう側にいる人間ではなく、自分がその場所に立ちたい。
その夢を叶えるために、地元を離れた。
もちろん、東京に来ればすぐに何かが変わると思っていたわけではない。
それでも、実際に生活してみると、思っていた以上に現実は地味だった。
アルバイトをして、生活費を払って、空いた時間にオーディションを受ける。
たまに小さな舞台に出られることはあった。けれど、名前を覚えてもらえるほどの役は、まだなかった。
それでも、辞めようとは思わなかった。
いつか、何かのきっかけで変わるかもしれない。
その「いつか」を信じていなければ、東京に来た意味がなくなってしまう気がした。
自宅に着いたのは、午前0時を少し回った頃だった。
玄関の明かりをつけ、靴を脱ぐ。
ワンルームの部屋は静かだった。
狭いキッチン。小さなテーブル。壁際に置いたベッド。
その横には、台本やオーディションの資料が重ねてある。
誰かに見せるような部屋ではない。
けれど、今の直人にとっては、ここが東京での自分の居場所だった。
シャワーを浴びて、冷蔵庫から水を取り出す。
一口飲んでから、ベッドの端に腰を下ろした。
スマートフォンを手に取る。
通知を確認していると、配信アプリのアイコンが目を向ける。
「……少しだけやるか」
独り言のようにつぶやき、アプリを開いた。
直人は、ときどき配信をしていた。
俳優としての活動だけでは、誰かに自分を知ってもらう機会は少ない。
配信なら、今の自分でも人と話すことができる。
最初は、暇つぶしのような気持ちだった。
けれど、コメントを通じて誰かと話す時間は、思っていたよりも楽しかった。
配信を始めると、少しずつ視聴者が入ってきた。
「こんばんはー。今日も仕事終わりです」
コメントが流れる。
『お疲れさま!』
「ありがとう。みんなも一日お疲れさま」
直人はカメラの向こうに向かって笑った。
しばらくは、他愛もない話をした。
今日食べたもの。仕事であったこと。最近見たテレビ番組。
誰かが冗談を言えば笑い、質問が来れば答える。
特別な話題がなくても、時間はそれなりに過ぎていった。
やがて、視聴者の一人が尋ねた。
『そういえば、オーディションどうだった?』
「ああ、この前の?」
直人は少し姿勢を正した。
「結果はまだ。まあ、どうかな。受かってたらいいけど」
『絶対受かってるよ!』
「いやいや、そんな甘くないって」
そう言いながらも、口元は緩んでいた。
「でも、次につながるといいな。もっと大きい役、やってみたいし」
コメント欄に応援の言葉が流れる。
直人は一つひとつに返事をした。
画面の向こうにいる人たちが、自分の夢を応援してくれる。
それは、思っていた以上にありがたいことだった。
配信を続けていると、不意に新しいコメントが流れた。
『え、顔かっこよくない?笑』
直人は思わず吹き出した。
「え、急にどうしたの? ありがとう(笑)」
すぐに、もう一つコメントが続いた。
『もう乗ってるやろ笑』
「いや、まだ何も言ってないじゃん!」
画面に向かって突っ込む。
『絶対うれしいやん笑』
「そりゃ褒められたらうれしいよ。でも、初対面でそんなに言う?」
『なんでやねん笑』
直人は声を出して笑った。
「関西の人?」
『せやで!』
「やっぱり(笑)」
そのやり取りを見ていたほかの視聴者も、コメントで笑い始めた。
直人は、画面の端に表示された新しい視聴者の名前を見た。
香奈。
初めて見る名前だった。
「香奈さん、来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね」
『はーい!』
短い返事が流れた。
そのあとも、香奈はときどきコメントを送ってきた。
直人が何か話すと、軽快な調子で突っ込んでくる。
初めて来たとは思えないほど、遠慮がなかった。
「いや、香奈さん、初見なのにめっちゃ突っ込んでくるね(笑)」
『おもろいからええやん!』
「そういう問題なの?」
『そういう問題やで!』
また笑いが起きた。
直人は、初めて来た視聴者とこんなふうに会話が続くことを、少し面白いと思った。
それだけだった。
その夜、直人にとって香奈は、関西弁でよく突っ込んでくる、新しい視聴者の一人だった。
配信が終わる頃には、窓の外の街も静かになっていた。
「じゃあ、今日はこの辺で。みんな、来てくれてありがとう。またね」
配信を切る。
画面が暗くなり、部屋に静けさが戻った。
直人はスマートフォンをテーブルに置き、ベッドに横になった。
明日も仕事がある。
その先には、またオーディションがある。
いつもと変わらない日々。
直人は目を閉じた。
今日、配信に来た香奈という女の子のことも、明日になれば忘れているかもしれない。
関西弁で、よく突っ込んでくる。
覚えているのは、それくらいだった。
そして、眠りについた。




