プロローグ
直人が亡くなった事を知ってから、1年が過ぎていた。
香奈は、ある家の玄関先に立っていた。
何度も深呼吸をした。
ここまで来る間、何を話そうかずっと考えていたはずなのに、いざ目の前にすると、何一つ言葉が出てこなかった。
玄関の向こうから足音が聞こえた。
扉が開く。
「……香奈ちゃん」
直人の母親だった。
以前に会ったときと、変わらない声だった。
それが、かえってつらかった。
「お久しぶりです……」
ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。
母親は何も言わず、静かに微笑んだ。
「寒かったでしょう。上がって」
香奈は小さく頭を下げ、家の中へ入った。
懐かしい匂いがした。
直人が育った家。
ここで直人は子ども時代を過ごしたのだろう。どんなふうに笑って、どんなことで怒られて、どんな夢を見ていたのだろう。
香奈は、そんなことを考えた。
自分は、直人のことをどれだけ知っていたのだろう。
一緒に暮らしていた。
毎日、顔を合わせていた。
くだらないことで笑って、時には喧嘩もした。
同じ部屋で眠り、同じ朝を迎えた。
それなのに。
今となっては、確かめることのできないことが、あまりにも多かった。
「これね……」
向かいに座った母親が、一冊のノートを差し出した。
「直人の部屋を片付けていたら、見つかったの」
香奈は、ノートを見つめた。
直人が普段、何を考えているのか。
どんなことに悩み、どんなことを嬉しいと思っていたのか。
香奈は、それを知っているつもりだった。
でも、このノートの存在は知らなかった。
「読んであげてほしいの」
母親は、それだけ言った。
香奈は両手でノートを受け取った。
表紙に、名前は書かれていなかった。
ただ、少し角が擦れている。
何度も開かれたのだろうか。
香奈は、ゆっくりと表紙をめくった。
最初のページには、日付が書かれていた。
その下に、短い文章が続いていた。
『あの日、俺は初めて、東京に自分の居場所ができた気がした。』
香奈の指が止まった。
東京。
直人が夢を追いかけるために、一人でやって来た街。
そして、自分と出会った街。
ページの文字を、もう一度読み返す。
直人は、あの日、何を思っていたのだろう。
隣で笑っていた自分を、どんなふうに見ていたのだろう。
香奈は、次のページをめくった。
そこには、まだ自分の知らない直人がいた。




