第9章 すれ違い
撮影が終わってから、しばらく経っていた。
以前出演したドラマは、直人にとって小さな仕事だった。
セリフも多くはなかったし、名前のある役というわけでもない。
それでも、現場のスタッフは親切だった。演技について声をかけてくれた人もいたし、
撮影が終わるころには、また一緒に仕事ができたらいいですね、と言ってくれた人もいた。
だから、直人は少しだけ期待していた。
今回の仕事が、次につながるかもしれない。
そう思っていた。
撮影が終わったあとも、何度かスマートフォンを確認した。新しい仕事の連絡が来ていないか、メールを開いては閉じる。
けれど、何も届かなかった。
最初のうちは、まだ気にしていなかった。
次の企画が決まるまで時間がかかることもあるだろうし、すぐに仕事がもらえるほど甘い世界ではないことも分かっていた。
だから、待った。
一週間が過ぎた。
二週間が過ぎた。
それでも、何もなかった。
いつの間にか、直人もスマートフォンを確認する回数が減っていた。
期待していないわけではなかった。
ただ、何度も期待して、そのたびに何も起こらないことに慣れようとしていた。
その日、直人は新しいオーディションを受けに行った。
小さな映像作品の出演者募集だった。
募集要項を見つけたとき、直人はすぐに応募した。台本を読み込み、何度もセリフを口に出した。
バイトの休憩時間にも台本を開き、帰宅してからも練習を続けた。
今度こそ。
そう思っていた。
けれど、いざ審査の場に立つと、思うように声が出なかった。
覚えていたはずのセリフが、一瞬だけ頭から抜けた。
慌てて続きを口にしたものの、今度は声に力が入りすぎた。何度も練習したはずなのに、普段ならできることが、うまくできなかった。
審査が終わり、頭を下げて部屋を出る。
廊下を歩きながら、直人は小さく息を吐いた。
分かっていた。
今の演技では、厳しいかもしれない。
それでも、どこかで期待していた。
もしかしたら、少しくらいは評価してもらえるかもしれない。
そんな考えを、完全には捨てられなかった。
数日後、結果が届いた。
スマートフォンに表示されたメールを開く。
このたびはオーディションにご参加いただき、ありがとうございました。
その先の文章を読むまでもなく、直人には分かった。
今回は見送らせていただくこととなりました。
丁寧な言葉が並んでいた。
直人も、最後まで目を通した。
そして、画面を閉じた。
「・・・そっか」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
悔しかった。
練習した。準備もした。
それなのに、本番では思うようにできなかった。
自分が悪かったのだと分かっているからこそ、余計につらかった。
誰かのせいにできれば、少しは楽だったのかもしれない。
けれど、今回ばかりは、自分でも納得できてしまう部分があった。
だからといって、諦められるわけではなかった。
直人は、また次の募集を探した。
その日の夜。
直人が仕事から帰ると、香奈は部屋でテレビを見ていた。
「おかえりー!」
「ただいま」
いつもどおりの声だった。
香奈はソファ代わりにしているベッドの上で、膝を抱えながら笑っていた。
テレビでは、芸人たちが大げさなリアクションをしながら料理を食べている。
「なあ、ナオト。これめっちゃおいしそうやない?」
「ん? ああ、確かに」
「今度食べに行こうや!」
「いいね」
直人は笑って答えた。
香奈と一緒にいる時間は、好きだった。
仕事で疲れて帰ってきても、こうしてくだらない話をしていると、少しだけ気持ちが軽くなる。
だからこそ、今日のことも、できれば忘れていたかった。
夕食を済ませ、二人でテレビを見ていたときだった。
「そういえば、ナオト」
「ん?」
「この前受けたオーディション、どうやったん?」
直人は、手に持っていたコップをテーブルに置いた。
「ああ・・・」
少しだけ間が空いた。
「ダメだった」
「えっ、そうなん?」
「うん。落ちちゃった」
なるべく普段どおりに話したつもりだった。
香奈は一瞬、残念そうな顔をした。
「そっかぁ・・・残念やったな」
「まあ、仕方ないよ。自分でも、あんまりうまくできなかったし」
「でも、ナオトなら絶対いけるって! 次こそ受かるって!」
香奈は、いつもの明るい笑顔で言った。
直人なら大丈夫。
次こそ受かる。
香奈は本気でそう思ってくれているのだろう。
分かっていた。
香奈は、直人を励ましたいだけだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、直人の胸の奥で、何かが引っかかった。
「・・・だから、そんな簡単じゃないんだよ」
思っていたよりも、冷たい声が出た。
「え?」
「いや、だから・・・そんな簡単にいかないんだって」
香奈は少しだけ首を傾げた。
「分かってるって!でも、諦めたらあかんやん。もっと頑張ったら――」
「だから!」
直人の声が、部屋に響いた。
香奈が口を閉じた。
直人自身も、自分の声の大きさに驚いていた。
それでも、一度こぼれ始めた言葉は止まらなかった。
「こっちはバイトもオーディションも、いろいろ頑張ってんだよ!」
「・・・うん。せやから、うちも応援してるやん」
「分かってるよ! 分かってるけど・・・!」
何を言いたいのか、自分でもよく分からなかった。
香奈が応援してくれていることは分かっている。
自分が頑張っていることを、誰よりも近くで見てくれているのも香奈だった。
それなのに、今はその言葉さえ苦しかった。
「毎日バイトして、オーディション受けて・・・それでも何にも変わらないんだよ。
頑張ったって、仕事がもらえるわけじゃないし、次につながるわけでもないんだよ!」
「・・・ナオト」
「簡単に頑張れって言うなよ!」
香奈は黙った。
いつもなら、すぐに何か言い返してくるはずだった。
それなのに、今は何も言わなかった。
その沈黙が、直人をさらに追い詰めた。
自分が何に腹を立てているのか、分かっていた。
香奈ではない。
思うようにいかない自分自身だった。
それでも、悔しさをどうすることもできなかった。
「・・・お前に何が分かるんだよ!」
言った瞬間、直人は自分の言葉に驚いた。
お前。
香奈を、そう呼んだことなんてなかった。
いつだって、名前で呼んでいた。
そのことに気づいたのは、言葉が口から出たあとだった。
香奈の表情から、笑顔が消えていた。
「金持ちのお嬢様のくせに!」
続けて口にした言葉は、さっきよりもひどかった。
言ってはいけない。
どこかで、そう思っていた。
それでも、もう止められなかった。
香奈はしばらく直人を見ていた。
やがて、視線を少しだけ落とした。
「・・・そっか」
小さな声だった。
「・・・うちには、分からんよな」
それだけ言って、香奈は黙った。
直人は何も言えなかった。
本当は、香奈にこんなことを言いたかったわけじゃない。
香奈が自分を応援してくれていることも、いつもそばにいてくれることも、分かっている。
分かっているのに。
謝らなければいけないと思った。
けれど、喉の奥に何かがつかえたようで、言葉が出てこなかった。
「・・・ちょっと、外出てくる」
直人は立ち上がり、上着を手に取った。
香奈は何も言わなかった。
引き止めることもなかった。
直人は、そのまま部屋を出た。
夜の中野は、いつもどおり賑やかだった。
駅前には人があふれ、飲食店からは明るい声が漏れていた。仕事帰りらしい人たちが足早に歩き、若い男女が笑いながら通り過ぎていく。
直人は、あてもなく歩いた。
何をしたいわけでもなかった。
ただ、今は部屋にいられなかった。
少し歩いたところで、駅前の喫煙所が目に入った。
直人はそこに入り、ポケットからタバコを取り出した。
一本くわえ、火をつける。
ゆっくりと煙を吐いた。
目の前を、何人もの人が通り過ぎていく。
誰も、直人のことなんて気にしていない。
当たり前だった。
ここにいる人たちにとって、直人はただの見知らぬ男の一人でしかない。
もう何年も、東京で暮らしている。
それなのに、自分はまだ何者にもなれていなかった。
小さな役でも、仕事が決まれば嬉しかった。
自分の演技がテレビに映ったときは、何度も見返した。
いつか必ず、誰かに自分の名前を知ってもらえる日が来る。
そう信じて、バイトをしながら続けてきた。
それでも、現実はなかなか変わらなかった。
タバコの先が赤く燃える。
直人は、もう一度煙を吐いた。
何やってんだよ、俺。
さっきの香奈の顔が浮かんだ。
自分を心配して、励ましてくれただけだった。
それなのに、自分は何を言ったのだろう。
香奈は何も悪くない。
分かっている。
本当は、自分が一番悔しかった。
頑張っても思うような結果が出ないこと。
自分には才能がないのかもしれないと、心のどこかで考えてしまうこと。
それでも諦められず、何者にもなれないまま毎日を過ごしていること。
そんな自分が嫌で、どうしようもなくて。
気づけば、香奈にぶつけてしまった。
香奈は何も悪くない。
そんなことは、最初から分かっていたはずなのに。
直人は、短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
香奈と出会う前も、こうして一人で東京の街を歩いていた。
人はたくさんいるのに、誰ともつながっていないような気がしていた。
香奈と出会ってから、その感覚は少しずつ薄れていた。
帰れば、香奈がいる。
くだらない話をして、一緒にご飯を食べて、明日のことを話す。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。
俺、何であんなこと言ったんだろう。
答えは分かっていた。
香奈に腹が立ったんじゃない。
自分に腹が立っていたんだ。
直人は、しばらく灰皿の前に立っていた。
もう一本吸おうか迷って、やめた。
「・・・帰るか」
小さく呟いて、喫煙所を出た。
部屋に戻ると、電気は消えていた。
直人は音を立てないようにドアを閉めた。
布団の中では、香奈が横になっていた。
寝ているのだろうか。
直人は声をかけず、着替えだけ済ませると、そっと隣に入った。
背中を向けて横になる。
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、背中越しに小さな声がした。
「・・・ごめん」
香奈の声だった。
直人は目を閉じたまま、少しだけ息を止めた。
何に対する謝罪なのか、分かっていた。
香奈は、直人を応援したかっただけなのだ。
悪いのは自分だった。
それでも、すぐに振り向くことはできなかった。
「・・・俺も、ごめん」
それだけ言うと、直人は再び目を閉じた。
香奈から、それ以上の言葉はなかった。
直人も、何も言わなかった。
二人は背中を向けたまま、同じ布団の中にいた。
いつもなら、香奈は直人にくっついて眠る。
今日は、その温もりが少し遠かった。
けれど、直人は何も言わなかった。
やがて、部屋は静かになった。




