第10章 いつもの日々
翌朝、直人が目を覚ますと、隣では香奈がまだ眠っていた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
直人はしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと起き上がった。
昨夜のことを思い出す。
オーディションに落ちた悔しさを、香奈にぶつけてしまった。
あんな言い方をするつもりはなかった。
それでも、口から出てしまった言葉は取り消せない。
直人は隣で眠る香奈を一度だけ見て、静かに布団から出た。
顔を洗って戻ると、香奈もちょうど目を覚ましたところだった。
「・・・おはよ」
「おはよう」
少しだけ、沈黙が流れた。
香奈は布団の中で身を起こし、直人の顔を見た。
「・・・昨日、ごめんな」
「・・・いや、俺こそごめん」
直人はすぐに答えた。
「香奈は何も悪くないのに、あんな言い方して・・・本当にごめん」
香奈はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「・・・もうええよ」
「・・・うん」
「でも、ナオトがあんなこと言うん、初めてやったから、びっくりしたわ」
「・・・本当にごめん」
「もう謝らんでええって(笑)」
香奈は直人の腕を軽く叩いた。
直人も、ようやく少し笑うことができた。
完全に元どおりになったわけではない。
それでも、昨日よりは普通に話せる気がした。
二人は起き上がり、簡単な朝食を用意した。
食事をしながら、香奈はいつもの調子で話しかけてきた。
直人もそれに答えた。
少しずつ、二人の間にいつもの空気が戻ってきていた。
それから数日が過ぎた。
直人の生活は、相変わらずだった。
昼間はオーディションの情報を探し、必要な準備をする。
夕方からは居酒屋でアルバイトをして、夜に帰宅する。
香奈は家で過ごし、直人が帰ると、その日にあったことを楽しそうに話してくれた。
「今日な、めっちゃおもろい動画見つけてん!」
「また動画?(笑)」
「またって何やねん! おもろいもんは何回見てもおもろいねん!」
「はいはい(笑)」
「絶対ちゃんと聞いてへんやろ!」
そんなやり取りをして、二人で笑う。
直人にとって、こういう時間は大切だった。
俳優としての仕事は、思うように進んでいない。
それでも、家に帰れば香奈がいる。
一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、同じ布団で眠る。
そんな毎日が、直人を支えていた。
あの夜のケンカも、少しずつ過去のことになっていくように思えた。
その夜、直人はいつもより早く眠りについた。
アルバイトの疲れもあって、布団に入るとすぐに眠気がやってきた。
どれくらい眠ったのだろう。
ふと目を覚ますと、隣に香奈がいなかった。
部屋は暗く、時計を見ると、まだ夜中だった。
「・・・香奈?」
小さく呼んでみたが、返事はない。
トイレにでも行っているのだろう。
そう思って目を閉じかけたとき、玄関のほうから声が聞こえた。
誰かと電話をしているようだった。
直人は、ぼんやりと耳を澄ませた。
「・・・うん、分かってるって」
香奈の声だった。
いつもの明るい声とは違い、周りを気にしているような小さな声だった。
「せやから、もうちょっとだけ待ってほしいねん」
少し間が空いた。
相手の声は聞こえない。
「・・・うん。ほんまに、ごめんな」
直人は目を開けた。
誰と話しているのだろう。
関西の友達だろうか。
それとも、以前働いていたという飲み屋の関係者だろうか。
考えていると、再び香奈の声が聞こえた。
「もう少ししたら戻るって!ちゃんと考えてるから・・・」
戻る。
その言葉が、耳に残った。
どこに戻るのだろう。
実家だろうか。
それとも、昔働いていたという店だろうか。
直人には分からなかった。
「・・・うん。分かった。また連絡するな」
やがて、電話が切れた。
足音が近づいてくる。
直人は慌てて目を閉じた。
香奈が布団に入ってくる気配がした。
少しして、香奈の手が直人の腕に触れた。
「・・・ナオト」
小さな声だった。
直人は寝たふりを続けた。
香奈は、それ以上何も言わなかった。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。
直人はゆっくりと目を開けた。
暗い天井を見つめる。
電話の内容は、ほとんど分からなかった。
ただ、香奈が誰かに謝っていたこと。
そして、「もう少ししたら戻る」と言っていたこと。
それだけが、頭に残っていた。
昔の職場の人だろうか。
香奈にも、自分の知らない付き合いがある。
一緒に暮らしているからといって、すべてを知っているわけではない。
直人はそう考え、目を閉じた。
けれど、その夜はなかなか寝つけなかった。
それから数日、香奈はいつもどおりに過ごしていた。
直人がバイトから帰れば笑顔で迎え、一緒にご飯を食べ、テレビを見て笑う。
ときには、次の休みに行きたい場所の話もした。
直人は、こういう日々がずっと続けばいいと思っていた。
だからこそ、香奈が何かを隠しているのかもしれないという考えは、できるだけ頭から追い出していた。
そんなある日の夜。
二人でテレビを見ていると、テーブルに置いてあった香奈のスマホが震えた。
香奈は画面を確認した。
ほんの一瞬、表情が止まったように見えた。
「・・・ごめん、ちょっと電話してくるな」
そう言って、玄関のほうへ移動した。
直人はテレビを見続けた。
しばらくすると、かすかに声が聞こえた。
「・・・うん」
少し間が空く。
「・・・分かった。また連絡するな」
数分もしないうちに、香奈は戻ってきた。
「誰から?」
直人は何気なく尋ねた。
香奈は一瞬だけ直人を見た。
「・・・昔の知り合い」
「そっか」
直人はそれ以上聞かなかった。
香奈はスマホを置き、テレビのほうを向いた。
「なあ、これ見て!めっちゃおいしそうやない?」
画面には、料理を紹介する番組が映っていた。
「ほんとだ。今度食べに行こうよ」
「ええな!約束やで!」
「うん、約束」
香奈は笑った。
直人も笑い返した。
それで話は終わった。
けれど、直人の頭には、あの夜の電話が残っていた。
香奈は何かを抱えているのだろうか。
そう思うこともあった。
それでも、香奈が自分から話してくれない以上、無理に聞くのも違う気がした。
直人は、いつか話してくれることを信じることにした。
数日後の夜。
直人がバイトから帰ると、香奈は夕飯の準備をしていた。
「おかえり、ナオト!」
「ただいま」
「もうちょっとでできるから、座って待っとってな!」
「うん、ありがとう」
直人はテーブルに座り、スマホを取り出した。
そのとき、少し離れた場所に置かれていた香奈のスマホが震えた。
画面が明るくなり、通知の一部が目に入った。
『いつまで休むつもりだ?そろそろ戻ってこい』
直人は、思わず画面を見た。
誰からのメッセージなのだろう。
以前、電話で聞いた言葉が頭をよぎった。
『もう少ししたら戻るって!』
そのとき、香奈が料理を持ってきた。
「ナオト、お待たせ!」
直人は顔を上げた。
「・・・香奈」
「ん?」
「今、スマホにメッセージ来てたけど・・・」
香奈の動きが止まった。
「・・・誰から?」
一瞬の沈黙。
「・・・昔の職場の人」
「・・・飲み屋?」
香奈は答えなかった。
直人は、香奈の顔を見つめた。
「・・・香奈?」
「・・・うん」
その返事は、小さかった。
直人は少し考えてから、もう一度尋ねた。
「・・・本当は、飲み屋じゃないの?」
香奈は何も言わなかった。
さっきまで聞こえていたテレビの音が、妙に大きく感じられた。
「・・・香奈、ちゃんと答えてくれよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・もしかして、本当は飲み屋じゃないの?」
香奈はうつむいたままだった。
「・・・うん」
直人は息をのんだ。
「・・・じゃあ、何?」
香奈は答えなかった。
「何の仕事してたんだよ?」
「・・・・・・・・・」
「なんで黙るんだよ。さっきから、ずっとそうじゃん」
香奈は唇を結んだ。
直人は、できるだけ落ち着いて話そうとした。
「・・・ちゃんと話してくれよ」
「・・・ほんまにごめん」
「・・・そんなに、俺に知られたくないことなの?」
香奈は答えなかった。
「・・・夜のバイトで、飲み屋以外って何があんの?」
「・・・ごめん・・・」
「・・・マジで何?」
直人の声が、少しずつ強くなっていった。
「なに?キャバクラ?風俗?なに?」
香奈は顔を上げなかった。
「・・・うん」
直人は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「・・・は?」
「・・・・・・・・・」
「いや、どっちよ?」
香奈は何も答えなかった。
直人は、香奈のうつむいた顔を見つめた。
その沈黙が、答えのように感じられた。
「・・・・・・風俗やろ?」
香奈は何も答えなかった。
直人は、ゆっくりと椅子の背もたれに身体を預けた。
「・・・いつから?」
「・・・大学一年くらいから」
「・・・・・・・・・大学一年?」
「・・・うん」
直人は、しばらく何も言えなかった。
大学一年。
二人が出会うよりも、ずっと前からだった。
自分が知らない香奈の生活が、何年も続いていた。
「・・・じゃあさ」
直人は、ようやく口を開いた。
「こないだ関西に帰ったとき、バイトしてるって言ってたのも・・・」
言葉が途切れた。
「・・・あれも、風俗ってこと?」
香奈はうつむいたまま、小さく答えた。
「・・・ごめん」
直人は、ゆっくりと息を吐いた。
「・・・・・・マジかよ」
怒鳴りたいわけではなかった。
ただ、頭が追いつかなかった。
あのとき、香奈は昔働いていた飲み屋を手伝っていると言った。
夜の連絡が遅くても、電話に出なくても、直人はそれを信じていた。
自分が疑わなかったことが、今になって胸に刺さった。
「・・・で、これからどうしていくの?」
直人は尋ねた。
香奈は少し迷ってから答えた。
「・・・ほんまは、辞めたいねん」
「辞めたいって……辞められないってこと?」
「・・・うん」
「なんで?」
「元々、大学卒業するまで働くって約束で入ってて・・・」
「・・・でも、辞めたいって言えばよくない?」
香奈は答えなかった。
「そりゃ、店の人には迷惑かかるかもしれないけど、辞めたいなら辞めればいいじゃん」
直人には、そうとしか思えなかった。
仕事を辞めたいなら、辞めればいい。
もちろん、簡単なことではないのかもしれない。それでも、そこまで悩む理由が分からなかった。
「・・・でも、辞めたら・・・」
「うん?」
「もしかしたら、大学とか親にバラされるかもしれへん……」
「・・・・・・・・・は?」
直人は顔を上げた。
「バラされるって・・・何を?」
香奈は黙っていた。
「・・・店の人、そんなこと言ってるの?」
「・・・直接は、言われてへん」
「じゃあ、なんで・・・?」
香奈はうつむいたまま、指先を握りしめていた。
直人は、その様子をじっと見つめた。
「・・・・・・そこまでして辞められないって、変じゃない?」
香奈は何も言わなかった。
「・・・オーナーと、何かあるの?」
香奈は、すぐに首を横に振った。
「・・・何もない」
返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
「・・・本当に?」
「・・・・・・うん」
「じゃあ、なんでそんなに辞めるのを怖がってるの?」
「それは・・・」
香奈は言葉を濁した。
「大学や親にバラされるかもしれないから?」
「・・・うん」
直人は少し考えた。
「・・・それ以外にも、何かあるんじゃないの?」
香奈はうつむいたままだった。
「・・・香奈」
「・・・・・・・・・」
「オーナーと、そういう関係なの?」
その瞬間、香奈の表情が固まった。
「・・・ちゃう」
小さな声だった。
直人は何も言わず、香奈を見つめていた。
「・・・本当に?」
香奈は唇を噛んだ。
しばらくして、消えそうな声で言った。
「・・・・・・ごめん」
その一言で、直人には十分だった。
「・・・そっか」
直人は視線を落とした。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
「・・・でも!」
香奈が、慌てたように顔を上げた。
「でも、ナオトと会ってからは一回もない!」
直人は顔を上げた。
「・・・何が?」
「・・・オーナーとは、ナオトと会ってからは一回もそういうことしてへん!」
香奈の声が、少し震えていた。
「ほんまやねん・・・。それだけは、ほんまやから・・・」
直人は、すぐには答えられなかった。
香奈が嘘をついていたことは分かった。
でも、今の言葉まで嘘なのかは、直人には分からなかった。
「・・・オーナーは、なんでそんなに香奈を戻したがってるの?」
しばらくして、直人は尋ねた。
香奈は迷いながら答えた。
「・・・うち、店で一番人気やったから」
「・・・・・・一番?」
「・・・うん。お客さんも多かったし、店にも必要とされてたんやと思う」
直人は黙って聞いていた。
「それに・・・オーナーは、うちとそういう関係やったから・・・。戻ってきてほしいんやと思う」
直人は、何も言えなかった。
香奈は少しだけ顔を上げた。
「・・・でも、ナオトと会ってからは、ほんまに何もないねん」
「・・・分かった」
直人はそう答えた。
けれど、本当に分かったわけではなかった。
香奈の言葉を信じたい気持ちと、今まで隠されていたことへのショックが、胸の中でぶつかり合っていた。
「・・・それだけ?」
直人は、ふと思い出したように尋ねた。
「・・・え?」
「オーナーのこと。ほかにも、何かあるんじゃないの?」
香奈は再び黙った。
その沈黙に、直人は嫌な予感を覚えた。
「・・・香奈?」
「・・・オーナー、薬もやってて・・・」
直人は眉をひそめた。
「・・・・・・薬?」
「・・・うん。覚せい剤とか、マリファナとか・・・」
直人は言葉を失った。
「・・・・・・香奈も?」
香奈は、ゆっくりとうなずいた。
「・・・何回か、一緒に使ったことある」
直人はしばらく、香奈を見つめていた。
風俗の仕事。
オーナーとの関係。
そして、薬。
自分が知っていた香奈とは、あまりにも違う話だった。
「・・・なんで・・・」
思わず口から出た。
けれど、その先が続かなかった。
香奈はうつむいたまま、何度も謝った。
「・・・ほんまにごめん」
「・・・・・・・・・」
「ナオトには、知られたくなかってん・・・」
直人は、すぐには答えられなかった。
香奈を責めたい気持ちはあった。
どうして今まで隠していたのか。
どうして自分に話してくれなかったのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
それでも、香奈が話している間、直人は何度も言葉を飲み込んだ。
「・・・辞めたいんだよね?」
もう一度、直人は尋ねた。
香奈はうなずいた。
「・・・うん。ほんまは、辞めたい」
「・・・そっか」
直人は視線を落とした。
今までのことを、すぐに受け入れることはできない。
香奈を信じていたからこそ、ショックだった。
それでも、香奈が本当に辞めたいと思っていることは、伝わってきた。
「・・・分かった。少し考えさせて」
「・・・・・・うん」
時計を見ると、窓の外は少しずつ明るくなっていた。
二人とも、ほとんど眠っていなかった。
直人は小さく息を吐いた。
「・・・今日は、もう寝よう」
「・・・うん」
それ以上、二人は話さなかった。
布団に入っても、直人はすぐには眠れなかった。
すぐ隣に香奈がいる。
それなのに、今までよりずっと遠くにいるように感じられた。
直人は目を閉じた。
知らなかった香奈の過去。
自分に話してくれなかったこと。
それでも、香奈を嫌いになれない自分。
何を考えればいいのか、まだ分からなかった。
ただ今は、少しだけ眠りたかった。
昼過ぎ、直人が目を覚ますと、香奈はすでに起きていた。
布団の上に座り、スマホを眺めている。
「・・・おはよう」
直人が声をかけると、香奈は顔を上げた。
「・・・おはよう」
それだけだった。
直人は起き上がり、洗面所で顔を洗った。
部屋に戻ると、香奈はさっきと同じ場所に座っていた。
直人もその隣に腰を下ろし、スマホを手に取った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
同じ部屋にいるのに、それぞれが別の時間を過ごしているようだった。
直人はスマホの画面を眺めながら、昨夜の話を思い返していた。
聞いたことは多すぎて、まだ頭の中で整理できていなかった。
ふと、直人は顔を上げた。
「・・・昨日言ってたのって、関西の何て店?」
香奈は少しだけ視線をそらした。
「・・・・・・名前はええやん」
「別に名前くらいよくない?」
香奈はすぐには答えなかった。
直人も、それ以上は急かさずに待った。
少しして、香奈が小さな声で答えた。
「・・・・・・・・・エンジェル」
「・・・エンジェル?」
「・・・うん」
直人は、その名前を頭の中で繰り返した。
「・・・そっか」
それだけ言って、再びスマホに目を落とした。
香奈も何も言わなかった。
会話は、そこで終わった。
直人は、聞いたばかりの店名を検索してみた。
いくつかの検索結果が表示された。
その中に、店の公式らしいサイトがあった。
直人はページを開いた。
店の紹介や料金案内が並んでいた。
その画面を見ているうちに、直人は何とも言えない気持ちになった。
ここで香奈は働いていた。
自分が知らない時間に。
自分が知らない場所で。
そう考えると、胸の奥が重くなった。
直人はスマホを閉じた。
それ以上、見る気にはなれなかった。
夕方、直人はバイトに出かけた。
「行ってくるね」
「いってらっしゃい!」
香奈はいつもどおり、明るい声で答えた。
直人も、いつもどおりに笑ってみせた。
けれど、家を出てからも、さっきの会話が頭に残っていた。
エンジェル。
その名前を、何度も思い返していた。
バイトの休憩時間。
直人はスマホを取り出した。
さっきは見るのをやめたはずだった。
でも、どうしても気になっていた。
もう一度、エンジェルのサイトを開く。
今度は、在籍女性の一覧を探した。
何人もの女性の写真が並んでいた。
顔には目元を隠す加工がされている。
直人は何気なくスクロールしていた。
そのとき、一人の女性の写真に目が止まった。
髪型。
輪郭。
雰囲気。
目元は隠れている。
それでも、見覚えがあった。
直人は画面を拡大した。
何度も見た顔だった。
一緒に買い物をしたときの顔。
くだらない話をして笑っていた顔。
自分の隣で、安心したように眠っていた顔。
「・・・香奈、だよな・・・?」
プロフィールを開いた。
そこには、直人の知らない香奈の情報が並んでいた。
そして、紹介文の中に、ある言葉が目に入った。
人気No.1。
直人は、しばらくその文字を見つめていた。
意味は分かる。
でも、すぐには実感が湧かなかった。
自分の知っている香奈と、画面の中にいる女性。
同じ人間のはずなのに、二人がどうしても結びつかなかった。
直人は、もう一度写真を見た。
見間違いであってほしい。
そう思いながらも、画面を閉じることができなかった。
プロフィールをさらにスクロールすると、口コミの欄があった。
何件ものレビューが並んでいる。
直人は、何気なく一つ目を開いた。
『人懐っこくて、とてもかわいい方でした。初対面なのに自然と話せて、あっという間に時間が過ぎました』
次のレビュー。
『笑顔がかわいくて、話しやすい。こっちの話も楽しそうに聞いてくれるし、また会いたいと思える方でした』
さらに下へスクロールする。
『明るくてノリがよく、一緒にいるだけで楽しい気分になれます。気遣いもできるし、人気があるのも納得です』
直人の指が止まった。
人懐っこい。
話しやすい。
よく笑う。
どれも、直人が香奈に感じていたことだった。
初めて会った夜、関西弁で楽しそうに話していた香奈。
一緒に暮らすようになってからも、くだらない話で笑い合った香奈。
自分が落ち込んでいるとき、隣で励ましてくれた香奈。
直人は、画面を見つめた。
レビューを書いた男たちは、香奈のことを褒めていた。
その言葉の一つひとつが、直人の知っている香奈と重なっていく。
もちろん、香奈が人懐っこくて、明るくて、話しやすいことは、何もおかしくない。
でも、直人にとっては違った。
自分が好きになった香奈の魅力を、知らない男たちも同じように感じていた。
自分だけが知っていると思っていたわけじゃない。
それでも、画面の向こうに並ぶ言葉を読むたびに、胸の奥が重くなっていった。
直人はスマホを握り直した。
もう読むのをやめようと思った。
けれど、指は止まらなかった。
次のレビューを開く。
また、香奈を褒める言葉が並んでいた。
直人は、ゆっくりと息を吐いた。
自分が知っている香奈は、嘘だったのだろうか。
一緒に笑った時間も、何気ない会話も、二人で過ごした夜も。
そんなことまで疑いたくない。
それなのに、画面に並ぶ言葉を読むほど、何を信じればいいのか分からなくなっていった。
直人はスマホを伏せた。
「・・・俺の彼女は、みんなの彼女なんだ・・・」
口にした途端、胸の奥が苦しくなった。
自分の彼女なのに。
一緒に暮らしているのに。
誰よりも近くにいると思っていたのに。
自分の知らない香奈が、こんなにもたくさんいる。
直人は、しばらく伏せたスマホを見つめていた。
やがて休憩の終わりを告げる時間になり、直人は何事もなかったように立ち上がった。
けれど、その言葉だけは、頭から離れなかった。
バイトを終え、直人が家に帰ると、香奈がいつもどおり出迎えた。
「おかえり、ナオト!」
「・・・ただいま」
「今日な、めっちゃおもろい動画見つけてん! あとで一緒に見よや!」
香奈はスマホを見せながら、楽しそうに話していた。
直人も笑って返そうとした。
「・・・なにそれ(笑)」
「めっちゃおもろいやろ?(笑)」
いつもと変わらない香奈だった。
けれど、直人はどこかぎこちなかった。
昼間に見たサイトのことが、何度も頭をよぎる。
人懐っこくて、かわいい。
話しやすくて、一緒にいると楽しい。
そんな言葉が、香奈の笑顔と重なっていた。
それでも直人は、何も言わなかった。
二人で夕飯を食べた。
いつもなら、今日あったことや、テレビの話、次の休みにどこへ行くか、そんなくだらない話で盛り上がる。
今日は香奈が話しかければ直人も答えたが、直人から話題を振ることはほとんどなかった。
食事を終え、二人で食器を片づけたあと。
直人は、テーブルの前に座ったまま、少し迷っていた。
「・・・香奈」
「んー?」
スマホを触っていた香奈が顔を上げる。
「・・・昨日の話だけどさ」
香奈の表情から、笑顔が少し消えた。
「・・・・・・うん」
直人は一度、言葉を切った。
何を聞きたいのか、自分でも分からなくなりそうだった。
本当は、聞きたいことがたくさんある。
でも、今はそれよりも先に伝えたいことがあった。
「・・・香奈が店を辞めたいって言ってたこと、考えてたんだ」
香奈は直人を見つめた。
「・・・うん」
「俺には、まだ分からないことも多いけどさ。どうしたら辞められるのか、一緒に考えたい」
香奈は、何も言わなかった。
「・・・だったらさ、俺、どうにかするから!」
思っていたよりも、強い声が出た。
「・・・・・・え?」
「いや、簡単にどうにかできるって意味じゃないよ。でも、香奈が本当に辞めたいなら、一人で抱えなくていいから」
直人は香奈の顔を見た。
「店のこととか、オーナーのこととか、俺にはまだ分からないこともあるけど……でも、一緒に考えることはできるだろ?」
香奈はうつむいた。
「・・・ナオト」
「・・・ん?」
「・・・なんで、そんな優しいん・・・?」
直人は、すぐには答えられなかった。
自分だって、傷ついていないわけじゃない。
聞いたことを、全部受け入れられたわけでもない。
それでも、香奈が本当に辞めたいと思っているなら、力になりたかった。
直人は、少しだけ笑った。
「・・・だってさ」
香奈が顔を上げる。
「俺は、香奈といて幸せだよ」
香奈は何も言わなかった。
「一緒にご飯食べたり、くだらない話したり。家に帰ったら香奈がいてさ・・・そういう毎日が、俺は好きなんだ」
直人は、できるだけいつもどおりの声で話した。
「だから、香奈にも幸せでいてほしいんだよ」
そう言って、直人は笑った。
本当に、そう思っていた。
香奈と過ごす毎日は、幸せだった。
一緒に暮らせることが嬉しかったし、これから先も隣にいてほしいと思っている。
それは、今も変わらない。
・・・変わらないはずだった。
昼間、スマホの画面に並んでいた言葉が、ふと頭をよぎる。
直人は、そのことを考えないようにした。
今は、香奈の前で笑っていたかった。
「・・・ナオト」
香奈の目が、少し潤んでいた。
「・・・ありがとな」
「・・・うん」
直人はうなずいた。
そのまま、二人はしばらく向かい合っていた。
香奈が少しだけ笑った。
直人も笑い返した。
それでも直人の胸の奥には、まだ整理できない気持ちが残っていた。
香奈といて幸せだ。
それは本当だった。
だからこそ、知らなかったことを知るのが、こんなにも苦しかった。




