第11章 変わらない日々
朝、目を覚ますと、隣で香奈が眠っていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、香奈の頬を照らしている。
「・・・ん」
香奈が小さく声を漏らし、寝返りを打った。
そして、ゆっくりと目を開ける。
「・・・ナオト?」
「おはよう」
「・・・おはよぉ」
まだ眠そうな声でそう言うと、香奈は直人の胸元に顔を寄せた。
「・・・あと五分」
「昨日もそれ言ってたよ」
「今日は十分・・・・・・」
「増えてるじゃん(笑)」
「ええやん、別にぃ・・・」
香奈はそう言って、直人の服をぎゅっとつかんだ。
直人は思わず笑った。
「・・・なあ、ナオト」
「ん?」
「ナオト今日バイト休みやろ? お台場行ってみたい!」
香奈は勢いよく顔を上げた。
「お台場?」
「うん! ナオト、行ったことある?」
「あるよ。だいぶ前だけど」
「えー! うちも行ってみたい!」
香奈は目を輝かせた。
「海もあるし、買い物もできるんやろ? なんか楽しそうやん!」
「今日行くの?」
「うん! あかん?」
香奈は直人の顔を覗き込んだ。
「いや、別にいいけど(笑)」
「やった!」
香奈は嬉しそうに笑い、直人の腕に抱きついた。
「ほな、早よ準備しよ!」
「分かったから、ちょっと落ち着いて(笑)」
「だって楽しみやもん!」
香奈はそう言って、ベッドから勢いよく起き上がった。
その様子がおかしくて、直人はまた笑った。
今日は、きっと楽しい一日になる。
二人は身支度を済ませ、家を出た。
電車を乗り継いでお台場に向かう間も、香奈は窓の外を眺めたり、スマホで行きたい場所を調べたりしていた。
「なあナオト、ここも行ってみたい!」
「もう決めてるの?」
「だって、行きたいとこいっぱいあるもん!」
「全部回れるかな(笑)」
「回れるって! 大丈夫や!」
香奈は自信満々に答えた。
直人は笑いながら、彼女のスマホを覗き込んだ。
目的地に着く頃には、香奈の気分はすっかり高まっていた。
お台場に到着すると、香奈は周囲をきょろきょろと見回した。
「うわぁ・・・! すごっ!」
「そんなに?(笑)」
「だって、めっちゃ広いやん!」
香奈は直人の腕に自分の腕を絡めたまま、あちこちに視線を向けていた。
「あっ、ナオト!あっち行ってみよ!」
「ちょっと、そんな急がなくても逃げないから(笑)」
「ええから、早よ!」
直人の腕を引っ張りながら、香奈は楽しそうに歩いていく。
気になる店を見つければ立ち止まり、ショーウィンドウを眺めては直人に感想を求めた。
「なあ、これかわいない?」
「かわいいんじゃない?」
「なんか適当やなぁ!」
「いや、ほんとにかわいいと思うよ(笑)」
「ほんまかぁ?」
香奈は疑うような目を向けたあと、すぐに笑った。
その笑顔を見ていると、直人まで楽しくなってくる。
昼食を食べたあとも、二人は店を巡った。
香奈が気に入ったものを見つけるたびに、直人を呼び止める。
直人が少し疲れた顔を見せると、香奈はわざとらしく頬を膨らませた。
「もう疲れたん?」
「いや、ちょっと歩いたなって(笑)」
「まだまだこれからやで!」
「はいはい」
「ほら、行こ!」
香奈は直人の手を握り直した。
直人は握られた手に少しだけ力を込めた。
こんなふうに二人で出かけるのは、何度経験しても嬉しい。
特別なことをしているわけではない。
ただ、一緒に歩いて、話して、笑っているだけ。
それなのに、香奈といると東京の街が少しだけ違って見えた。
「・・・ナオト!」
「ん?」
「写真撮ろ!」
香奈はスマホを取り出し、直人の隣にぴったりと寄った。
「ほら、もっとくっついて!」
「もう十分近いでしょ(笑)」
「ええから!」
香奈は直人の腕に抱きつき、顔を寄せた。
シャッター音が鳴る。
「見せて!」
画面を覗き込んだ香奈が、声を上げて笑った。
「めっちゃええやん、これ!」
「そう?」
「うん! ナオト、ちょっと顔固いけど(笑)」
「そんなことないだろ!」
「あるって!」
香奈は笑いながら、もう一枚撮ろうとスマホを構えた。
今度は直人も、少しだけ笑ってみせた。
「おっ、ええやん!」
「何その評価(笑)」
「百点満点中、九十点!」
「残り十点は?」
「もっと笑顔!」
香奈はそう言って、自分から直人の頬に顔を寄せた。
またシャッター音が鳴った。
二人で写真を確認しながら、しばらく笑い合った。
そのときの香奈は、本当に楽しそうだった。
直人も、心から楽しかった。
夕方になると、空の色が少しずつ変わり始めた。
二人は海沿いを歩いていた。
昼間の賑やかさから少し離れ、海風を感じながらゆっくりと歩く。
香奈は直人の手を握ったまま、景色を眺めていた。
「・・・なんか、ええなぁ」
「何が?」
「こういうの」
香奈は海の方を見たまま答えた。
「ゆっくり歩くんも、景色見るんも。なんか、落ち着くやん?」
「そうだね」
「来てよかったわぁ」
そう言って、香奈は直人の肩に寄りかかった。
直人は彼女の歩く速さに合わせた。
しばらくすると、香奈が顔を上げた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「夜ご飯、何食べたい?」
「急に現実的だな(笑)」
「だってお腹空いたもん!」
「そうだな。せっかくだし、どこかで食べて帰ろうか」
「やった!うち、ちょっとおしゃれなとこがええ!」
「じゃあ、探してみよう」
二人はスマホで店を探し、夜景の見えるレストランへ向かうことにした。
香奈はその間も、直人の手を離さなかった。
レストランに入ると、窓の向こうには東京湾の夜景が広がっていた。
遠くにはレインボーブリッジの明かりが見える。
案内された窓際の席に座ると、香奈は思わず息を漏らした。
「・・・うわぁ」
「気に入った?」
「うん。めっちゃ綺麗・・・」
香奈は窓の外を眺めながら、嬉しそうに笑った。
「こんなとこでご飯食べるん、なんかええなぁ」
「よかった」
「ナオト、センスあるやん!」
「いや、店を選んだだけだから(笑)」
「そういうとこも含めてやん!」
香奈は楽しそうに笑った。
料理が運ばれてくると、二人は今日一日のことを話しながら食事をした。
香奈は昼間に見つけた店の話をしたり、撮った写真を見返したりしていた。
「これ、ほんまにええ写真やと思わへん?」
「うん。いいと思うよ」
「やろ?これ、待ち受けにしよかな」
「そんなに気に入ったの?(笑)」
「当たり前やん。ナオトとの写真やで?」
香奈は少しも迷うことなく答えた。
直人は照れくさくなり、グラスに手を伸ばした。
香奈はそんな直人を見て、また笑った。
食事が進み、会話が少し途切れた頃だった。
香奈はナイフとフォークを置き、窓の外に視線を向けた。
しばらく夜景を眺めていたあと、ゆっくりと直人の方を向いた。
「・・・ナオト」
「ん?」
「今日、連れてきてくれてありがとう」
いつもの明るい声とは少し違う、素直な言い方だった。
直人は一瞬、返事に迷った。
「・・・どうしたの、急に(笑)」
「ええやん、別に。お礼くらい言わせてや」
香奈は少し照れたように笑った。
「初めてのお台場やし、ナオトと一緒に来れて、ほんまに嬉しかったんよ」
「・・・そっか」
直人も笑った。
「俺も、香奈と来れてよかったよ」
香奈はテーブル越しに手を伸ばし、直人の手を握った。
「また一緒に来ような」
「うん。また来よう」
二人は手をつないだまま、しばらく窓の外を眺めていた。
直人は思った。
こうして隣で笑ってくれる香奈がいる。
一緒に出かけて、同じものを食べて、くだらない話で笑い合う。
自分が欲しかった幸せは、こういうものなのかもしれない。
俳優として成功したい。
いつか大きな仕事をもらって、今よりもっと余裕のある生活をしたい。
そして、香奈をいろんな場所へ連れていきたい。
今日みたいに、彼女が笑ってくれる場所へ。
直人は、そんな未来を自然に思い描いていた。
その未来の隣には、当たり前のように香奈がいた。
家に帰ると、すっかり遅い時間になっていた。
「はぁー、楽しかったぁ!」
香奈は靴を脱ぎながら、満足そうに伸びをした。
「そんなに楽しかった?」
「めっちゃ楽しかった! また行きたい!」
「じゃあ、また行こうよ」
「ほんま?約束やで!」
「はいはい(笑)」
香奈は笑いながら、直人に抱きついた。
「ナオト、好きやで!」
「・・・はいはい」
「なんやねん、その反応!」
「いや、嬉しいよ(笑)」
「もう!」
香奈は直人の胸を軽く叩いたあと、もう一度ぎゅっと抱きついた。
直人も彼女を抱きしめた。
しばらくして、二人は着替えを済ませ、ベッドに腰掛けた。
香奈はスマホで今日撮った写真を見返していた。
「なあ、これ見て!」
「ん?」
「この写真、めっちゃ好き!」
画面には、海を背景に笑う二人が写っていた。
「これ、送っとくな!」
「うん、ありがとう」
「うち、あとでアルバム作ろかな。今日の写真、全部入れて」
「そんなに撮ったっけ?」
「撮ったやん! ナオトが覚えてへんだけやって!」
香奈は笑いながら、写真を整理し始めた。
直人はその横顔を眺めていた。
今日の思い出を、香奈も大切にしてくれている。
そう思うと、嬉しかった。
この先も、こんな日が続けばいい。
何年経っても、二人で出かけて、写真を撮って、同じように笑っていられたらいい。
直人は、そんなことを考えていた。
ベッドに入る頃には、日付が変わりそうになっていた。
香奈は直人の隣に潜り込み、いつものように体を寄せた。
「・・・ナオト」
「ん?」
「今日、ほんまに楽しかったな」
「うん。楽しかった」
「また行こうな」
「うん。また行こう」
香奈は満足そうに笑い、直人の胸元に顔を埋めた。
しばらく静かな時間が流れた。
そのとき、香奈がぽつりと言った。
「・・・そういえば、仕事のことなんやけど」
直人は香奈の方を向いた。
「仕事?」
「うん」
香奈は少しだけ顔を上げた。
「うち、もう辞めたで」
直人は一瞬、言葉の意味を考えた。
「・・・辞められたの?」
「うん。辞めるってきっぱり言ったらなんとかなった!」
香奈は、いつもどおりの明るい声で答えた。
「そっか・・・」
直人は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった・・・」
「心配かけてごめんな?」
「いや、いいよ。香奈がちゃんと辞められたなら、それで」
「うん。もう大丈夫やから!」
香奈はそう言って、直人にくっついた。
直人は彼女の肩を抱き寄せた。
香奈があの仕事を辞めたいと思っていたことも、辞められない事情があると話していたことも、直人は覚えている。
だからこそ、辞められたと聞いて安心した。
もう、あのことで香奈が悩まなくていいのなら。
自分たちの生活を、少しずつ前に進められるのかもしれない。
「・・・よかったね」
直人がそう言うと、香奈は小さくうなずいた。
「・・・うん」
そして、直人の胸に顔を寄せた。
「・・・ありがとな、ナオト」
「何が?」
「いろいろ」
それ以上、香奈は何も言わなかった。
直人も、無理に聞こうとは思わなかった。
今は、彼女の言葉を信じたかった。
香奈が本当に辞めたのか。
直人には、それを確かめる方法はなかった。
けれど、香奈は辞めたと言った。
だったら、信じようと思った。
そうしなければ、これから先も一緒に暮らしていくことは難しい気がした。
直人は、香奈の髪をそっと撫でた。
「・・・おやすみ」
「・・・おやすみ、ナオト」
香奈は直人の胸元で目を閉じた。
直人も目を閉じた。
今日一日、本当に楽しかった。
香奈と手をつないで歩いたこと。
二人で写真を撮って笑ったこと。
夜景を眺めながら、また来ようと約束したこと。
どれも、嘘ではなかった。
香奈と過ごす時間は、今も幸せだった。
それは、間違いない。
だからこそ、直人は思う。
これからも、こうして一緒にいられたらいい。
明日も、明後日も。
何でもないことで笑い合いながら、同じ毎日を過ごしていけたらいい。
香奈は、もう仕事を辞めたと言った。
直人は、その言葉を信じたいと思った。
ただ、心の奥に残る小さな引っかかりが、完全になくなったわけではなかった。
それでも今夜は、考えないことにした。
隣には、大好きな香奈がいる。
今は、それでいい。
そう思いながら、直人は静かに目を閉じた。




