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第12章 この街で見つけたもの

それから、三か月ほどが過ぎた。


 東京の街は、相変わらず忙しなく動いていた。


 直人は居酒屋で働きながら、俳優のオーディションを受け続けていた。


以前よりも経験は増えた。小さな仕事をもらうこともあった。


それでも、思い描いていたような大きなチャンスには、なかなか巡り合えなかった。


 オーディションに落ちれば、悔しかった。


 同年代の俳優がテレビに出ているのを見れば、羨ましいと思うこともあった。


 それでも、次こそはと応募を続けた。


 東京に来たときに抱いていた夢は、今も直人の中に残っていた。


 一方で、香奈との生活も続いていた。


 二人でご飯を食べ、くだらないことで笑い、休日には一緒に出かける。


 香奈は相変わらず明るく、家の中ではよく喋った。


 直人が仕事から帰ると、その日にあったことを楽しそうに話してくれる。


買い物に行けば、気に入った服を見つけて嬉しそうに見せてくる。


 そんな日々を、直人は幸せだと思っていた。


 ただ、香奈の秘密を知る前と、まったく同じ気持ちでいられるわけではなかった。


 ふとした瞬間に、あの夜の会話や、スマートフォンに届いたメッセージを思い出すことがある。


 それでも、隣で笑う香奈を見ていると、今はこの時間を大切にしたいと思った。


 そんなある日の夜だった。


 夕食を終え、二人でソファに座っていたとき、香奈がぽつりと言った。


「・・・なあ、ナオト」


「ん?」


「うち、そろそろ大学行かんと、やばいかもしれへん」


 直人は、手に持っていたスマートフォンから顔を上げた。


「大学?」


「うん。休学もずっと続けられるわけちゃうしな。そろそろ、ちゃんと考えんとあかんねん」


「・・・そっか」


 香奈は、少し困ったように笑った。


「このままずっと東京におるわけにもいかへんやろ?」


 その言葉を聞いて、直人はすぐには返事ができなかった。


 香奈が大学に戻るなら、関西へ帰ることになる。


 そうなれば、二人は離れて暮らすことになるのだろうか。


 東京と関西。


 簡単に会える距離ではない。


 仕事が終わって帰宅したとき、隣に香奈がいない生活を想像した。


 朝、目を覚ましても、香奈の寝顔を見ることはできない。


 何か面白いことがあっても、帰宅するまで話せない。


 今まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなる。


 そう考えたとき、直人は自分が何を望んでいるのか、はっきりと分かった気がした。


 俳優になりたい。


 その気持ちは、今も変わらない。


 東京に残れば、これまでと同じようにオーディションを受け続けられる。いつかチャンスが巡ってくる可能性だってある。


 けれど、それと同じくらい、香奈と一緒にいたかった。


 どちらかを選ばなければならないとしたら。


 直人は、しばらく黙って考えた。


 そして、顔を上げた。


「・・・俺も、関西に行こうと思う」


「・・・・・・え?」


 香奈が目を丸くした。


「関西って・・・うちと一緒に?」


「うん」


「でも、ナオト、東京で俳優やるために頑張ってきたやん」


「うん。分かってる」


「オーディションとか、これからどうするん?」


 直人は少しだけ笑った。


「まだ分からない。関西に行ったって、俳優を続ける方法はあるかもしれないし」


 簡単なことではないと思う。


 東京にいるからこそ受けられる仕事もある。今まで築いてきたものを、一度手放すことにもなる。


 それでも、直人は自分の気持ちを曲げたくなかった。


「夢を諦めたいわけじゃないんだ」


 香奈は黙って直人を見つめていた。


「でも、俺は香奈と一緒にいたい」


「・・・ナオト」


「香奈が大学に戻るなら、俺も一緒に関西に行く。そうしたいって、俺が思ったんだ」


 香奈はしばらく何も言わなかった。


 やがて、その目に少しずつ笑顔が戻ってきた。


「・・・嬉しい」


 声が、わずかに震えていた。


「めっちゃ嬉しい・・・!」


 香奈は直人に抱きついた。


 直人も、その背中に腕を回した。


「ほんまに、ええの?」


「うん」


「東京で頑張ってきたのに・・・」


「俺が決めたことだから」


 そう言うと、香奈は直人の胸に顔を埋めた。


「・・・ありがとう、ナオト」


 その声を聞きながら、直人は彼女を抱きしめていた。


 不安がないわけではなかった。


 これからどうなるのか、自分にも分からない。


 それでも、自分で決めた。


 香奈と一緒に生きていく未来を選んだのだ。


     


 翌日、直人は居酒屋の店長に退職の意思を伝えた。


「関西に引っ越すことになりまして・・・」


 店長は少し驚いた顔をしたが、直人の話を最後まで聞いてくれた。


「そうか。急な話で驚いたけど、事情があるなら仕方ないな」


「すみません。急に」


「いや、謝ることじゃないよ。今まで頑張ってくれたしな。残りの日もよろしく頼むよ」


「はい。ありがとうございます」


 頭を下げながら、直人はこの店で働き始めた頃のことを思い出していた。


 東京に来たばかりの頃、右も左も分からなかった。


 慣れない街で生活するため、仕事を探して、ようやく見つけた居酒屋だった。


 最初は仕事を覚えるだけで精いっぱいだった。注文を間違えたり、料理を出すのが遅れたりして、何度も失敗した。


 それでも、ここで働くうちに、少しずつ東京での生活に慣れていった。


 俳優の仕事がうまくいかず、落ち込んでいた日もあった。


 そんなときも、次の日にはまたここに来て、仕事をした。


 この店は、直人の東京生活を支えてくれた場所の一つだった。


 その日の勤務が終わったあと、直人は武田さんに声をかけた。


「武田さん、ちょっといいですか」


「ん? なんだよ、改まって」


「俺、関西に引っ越すことになったんです」


「・・・は?」


 武田さんは、手にしていたグラスを拭く手を止めた。


「関西?お前、実家関西だっけ?」


「いや、彼女と一緒に住むために」


「おいおい、マジかよ」


 武田さんは目を丸くしたあと、呆れたように笑った。


「お前、東京まで何しに来たんだよ」


 直人も苦笑した。


「・・・俳優になるためですよ」


「だよなあ。俺もそう聞いてたんだけどな」


「はい」


「なのに、彼女と一緒に関西へ帰るってか」


「・・・そうなりました」


 武田さんは、直人の顔をしばらく眺めていた。


 いつものようにからかってくるかと思ったが、今度は少し違った。


「まあ、お前が決めたんならいいんじゃねえの」


「・・・いいんですかね」


「俺に聞くなよ。決めたのはお前だろ」


 武田さんは、いつもの調子で笑った。


「ただな、直人」


「はい」


「東京でうまくいかなかったからって、ここで過ごした時間まで失敗だったことにするなよ」


 直人は、返事をするのを忘れた。


「俳優になれたかどうかだけが、東京に来た意味じゃないだろ。


 仕事して、いろんな奴と会って、彼女とも出会った。そういうのも全部、お前がここで過ごした時間なんだからさ」


「・・・武田さん」


「まあ、俺みたいな独身のおっさんが偉そうに言うことでもねえけどな」


「いや、そんなことないです」


「お、なんだ? 急に素直じゃねえか。関西に行く前に、俺のことが恋しくなったか?」


「それはないです」


「即答かよ!」


 武田さんが大げさに肩を落としたので、直人は思わず笑った。


 こんなふうに、くだらないことで笑うのも、もうすぐ最後になる。


 そう思うと、少し寂しかった。


「・・・今まで、ありがとうございました」


 直人は改めて頭を下げた。


「おう。こっちこそな」


 武田さんは、軽く直人の肩を叩いた。


「向こうでも頑張れよ。俳優も、彼女との生活も」


「はい」


「あと、たまには連絡しろよ。有名になったら、俺が知り合いだって自慢してやるから」


「まだ有名になってないですよ」


「だから、なったらって言ってんだろ!」


 二人はまた笑った。


 直人は、もう一度だけ店内を見渡した。


 いつものカウンター。いつものテーブル。忙しい時間帯には、何度も走り回った厨房。


 ここで過ごした日々は、決して華やかなものではなかった。


 それでも、直人にとって大切な時間だった。


 そう思いながら、直人は店をあとにした。


     


 引っ越しの日が近づくにつれ、部屋の中から少しずつ荷物がなくなっていった。


 棚に並んでいたものを段ボールに詰め、クローゼットの服をまとめ、使わなくなったものを処分する。


 二人で暮らしてきた部屋が、少しずつ広くなっていく。


「これ、持っていく?」


 香奈が、棚の上に置いてあった小物を手に取った。


「うん。持っていこう」


「ほな、こっちに入れとくな」


 香奈は段ボールの中にそれをしまった。


 いつもと変わらないやり取りだった。


 香奈は関西での生活を楽しみにしているようで、荷造りをしながらも、これから行きたい場所や食べたいものの話をしていた。


「関西戻ったら、久しぶりにあそこのお店行きたいねん」


「どこ?」


「昔、よう行ってたお店。めっちゃおいしいねんで!」


「へえ。じゃあ、今度連れていってよ」


「もちろんやん!」


 香奈は嬉しそうに笑った。


 直人も笑い返した。


 けれど、荷物が減っていく部屋を見ていると、少しずつ実感が湧いてきた。


 もうすぐ、この部屋を出ていく。


 東京に来てから、ずっと暮らしてきた場所だった。


 初めて一人で借りた部屋。


 仕事から帰ってきて、疲れた体を休めた部屋。


 香奈と出会い、彼女がここに来て、一緒に暮らすようになった部屋。


 嬉しいことも、苦しいことも、ここで経験した。


 それらが全部、段ボールの中に収まるわけではない。


 それでも、荷造りを終えるたびに、ここでの生活が少しずつ遠ざかっていくような気がした。


「・・・ナオト?」


「ん?」


「なんか、寂しそうやで?」


 香奈が顔を覗き込んできた。


「・・・そうかな」


「そうやって。東京、好きやった?」


 直人は少し考えた。


「好きか嫌いかって言われたら、難しいな」


「なんで?」


「楽しいこともあったけど、しんどいことも多かったから」


「・・・そっか」


「でも、来てよかったとは思ってるよ」


 香奈は、直人の言葉を聞いて微笑んだ。


「・・・うん」


 それ以上、二人は何も言わなかった。


 窓の外には、いつもと変わらない東京の街が広がっていた。


     


 引っ越し前日の夜。


 夕食を終えたあと、直人は香奈に言った。


「・・・香奈、ちょっと行きたいところがあるんだけど」


「ん? どこ?」


「東京タワー」


「・・・東京タワー?」


 香奈は不思議そうに首を傾げた。


「ええけど、急にどうしたん?」


「・・・最後に、もう一回行っておきたくて」


 香奈は少しだけ目を丸くしたあと、笑顔で頷いた。


「ええやん!行こ!」


 二人は家を出て、東京タワーへ向かった。


 電車に揺られながら、香奈は楽しそうに話していた。


 直人も相槌を打ちながら、窓の外を眺めていた。


 東京の街を走る電車に乗るのも、これが最後になるかもしれない。


 そう思うと、何気ない景色まで、いつもとは違って見えた。


 東京タワーに着くと、二人は展望台へ上がった。


 窓の向こうには、無数の光が広がっていた。


 ビルの明かり。走り続ける車のライト。遠くまで続く街並み。


 どこまでも広がっているように見える東京の景色を、直人は黙って眺めていた。


「・・・きれいやなあ」


 隣で、香奈が呟いた。


「うん」


 直人は、しばらくその景色を見つめていた。


 そして、静かに口を開いた。


「・・・俺さ、東京に出てきたばっかりの頃、ここに来たことがあるんだ」


「え、そうなん?」


「うん。まだ何も仕事が決まってなくて、これからどうなるかも分からなかった頃」


 直人は窓の外に目を向けた。


「あの頃はさ、ここから見える景色の中に、どれくらい人がいるんだろうって考えてたんだ」


「・・・・・・人?」


「うん。この街にいる人、全員」


 直人は少しだけ笑った。


「いつか、この景色の中にいる人たち全員が、俺の名前を知ってくれる日が来るって思ってた」


 香奈は何も言わず、直人の横顔を見つめていた。


「俳優になって、有名になって。テレビに出て、いろんな人に名前を覚えてもらって・・・。

そういう未来が、本当に来るって信じてたんだよ」


 口にしてみると、少し恥ずかしかった。


 あの頃は、本気だった。


 何の根拠もなかったけれど、自分ならできると信じていた。


 この街で暮らしていけば、いつかきっと夢に届く。


 そう思っていた。


「・・・すごい夢やな」


 香奈が言った。


「そうだな。今思えば、ちょっと大きく考えすぎてたのかもしれない」


「そんなことないやん」


 香奈は、まっすぐ直人を見た。


「ナオトなら、ほんまにそうなってたかもしれへんやん」


 直人は、すぐには答えなかった。


 もし、このまま東京に残ったら。


 もし、これから大きな仕事に巡り合えたら。


 もし、何年か先に、自分の名前を知ってくれる人が増えたら。


 そんな未来を、考えなかったわけではない。


 今でも、夢を叶えたい気持ちは残っている。


 俳優になるために東京へ出てきた自分を、なかったことにするつもりはなかった。


 それでも。


 直人は、もう一度、窓の向こうに広がる景色を見渡した。


「・・・でも、今はちょっと違うんだ」


「・・・え?」


 直人は、香奈の方を向いた。


「この景色の中にいる人たち全員に、俺の名前を知ってもらうことよりもさ」


 一度、言葉を切った。


 自分の中にある気持ちを、確かめるように。


「この景色の中にいる誰よりも、俺は幸せになってやるんだって思ってる」


 香奈が目を見開いた。


「・・・ナオト」


「もちろん、俳優の夢を諦めたわけじゃないよ。今だって、できることなら叶えたいと思ってる」


 直人は、正直にそう言った。


「でも、俺がこれからどこで何をして生きていくのか、自分で決めたかったんだ」


 そして、香奈の手を握った。


「俺は、香奈と一緒にいたい」


 香奈は、うつむいた。


 直人は、彼女の顔を覗き込もうとした。


 すると、香奈が握られた手を強く握り返した。


「・・・うちも」


 小さな声だった。


「うちも、ナオトと一緒におりたい」


 直人は笑った。


「うん。だから、幸せになろうな」


「・・・うん!」


 香奈は、笑顔で頷いた。


 二人は手をつないだまま、もう一度、窓の向こうに広がる東京の街を眺めた。


 明日、この街を離れる。


 ここで叶えたかった夢は、まだ途中のままだ。


 それでも、直人は思った。


 いつか、この選択をしてよかったと心から思える日が来るように。


 この街にいる誰よりも、幸せになってやる。


 そう、決めた。


     


 翌朝。


 部屋の中には、もうほとんど荷物が残っていなかった。


 最後に忘れ物がないかを確認し、二人は部屋を出た。


 鍵を返す前に、直人は一度だけ振り返った。


 何もない部屋。


 初めて東京で暮らし始めたときには、ここでどんな日々を過ごすことになるのか、想像もできなかった。


 夢を追いかけて、悔しい思いをして、香奈と出会った。


 この部屋で過ごした時間は、これからも自分の中に残り続けるだろう。


「・・・ナオト?」


 香奈に呼ばれ、直人は振り返った。


「・・・うん。行こう」


 二人は駅へ向かった。


 ホームに立ち、電車を待つ。


 東京の朝は、いつもと変わらず忙しなかった。


 行き交う人々。響き渡るアナウンス。電車が近づいてくる音。


 直人は、その景色を眺めながら、東京に出てきた日のことを思い出していた。


 俳優になりたかった。


 有名になりたかった。


 故郷にいる家族や友人に、自分の名前を誇らしく思ってもらいたかった。


 その夢は、まだ終わっていない。


 けれど、今は別の未来へ進もうとしている。


 自分で決めた道だ。


 後悔しないと言い切れるほど、強くはない。


 それでも、選んだことを後悔にしないために、これからを生きていこうと思った。


「・・・ナオト?」


 香奈が、隣から顔を覗き込んできた。


「ん?」


「これからも、ずっと一緒やで」


 直人は、香奈の顔を見た。


 いつもと変わらない笑顔だった。


「・・・うん」


 直人は、その手を握り返した。


 やがて、電車がホームに滑り込んできた。


 扉が開き、二人は乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 ゆっくりと、電車が動き始めた。


 窓の外の景色が、少しずつ後ろへ流れていく。


 見慣れた街並みが遠ざかっていく。


 直人は、窓の外を見つめていた。


 東京で過ごした日々。


 叶わなかった夢。


 出会った人たち。


 そして、隣にいる香奈。


 すべてを胸に抱えたまま、直人は前を向いた。


 香奈の手を、もう一度だけ強く握る。


 この選択が正しかったのかは、まだ分からない。


 それでも、自分で選んだ未来だ。


 いつか、心から幸せだと思えるように。


 直人は、走り続ける電車の中で、静かにそう願った。




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