第13章 関西で始まる新しい生活
新幹線を降りると、懐かしそうに周囲を見回す香奈の姿が目に入った。
「やっぱり帰ってきたって感じするわ!」
香奈は嬉しそうに笑いながら、直人の手を握った。
「ナオト、こっちやで!」
「ちょっと待って。そんなに急がなくても、逃げないから」
「だって、久しぶりの関西やもん!」
弾むような足取りで歩く香奈を見て、直人も自然と笑みがこぼれた。
東京を離れると決めてから、いろいろなことを考えた。
俳優になるという夢。東京で過ごした時間。そして、これからの自分の人生。
迷いがなかったわけではない。
それでも、今は香奈と一緒にいる。
その選択を後悔したくなかったし、自分で選んだ未来を、自分の手でいいものにしていきたかった。
「そういえば、これからご両親のところに行くんだよね?」
「せやで!マンションも用意してもらったし、ちゃんとお礼言わなあかんやろ?」
「そうだね。俺も改めて挨拶しないと」
「大丈夫やって!パパもママも待ってると思うで!」
香奈はそう言って、また笑った。
その笑顔を見ながら、直人は小さく息を吐いた。
これから始まる生活に、不安がないわけではない。
でも、いつまでも不安ばかり抱えているわけにもいかなかった。
まずは、できることから始めよう。
香奈の実家に着くと、両親が二人を迎えてくれた。
「いらっしゃい。長旅で疲れただろう」
父親が穏やかな声で言った。
「お久しぶりです。本日はお時間をいただいて、ありがとうございます」
直人は姿勢を正し、頭を下げた。
「それから、マンションを用意していただいて、本当にありがとうございます。おかげで、これから二人で生活を始めることができます」
「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ」
父親は微笑んだ。
「香奈が暮らす場所でもあるんだからね。安心して生活できるなら、それが一番だ」
「ありがとうございます」
直人はもう一度頭を下げた。
母親も、柔らかな表情で二人を見ていた。
「香奈、久しぶりの地元でしょう?大学も始まるし、これから忙しくなるわね」
「せやねん!大学も行かなあかんし、やることいっぱいやわ!」
「そうね。でも、無理はしないようにね」
「分かってるって!」
いつもの調子で返す香奈を見て、直人は少し安心した。
以前、東京で両親と会ったときは、どこか緊張していた。
自分が俳優を目指していることを、母親がどう思っているのかも気になっていた。
今も、完全に認めてもらえたとは思っていない。
それでも、こうして二人の生活を応援してくれていることはありがたかった。
「それで、直人君」
父親がこちらを向いた。
「これからの生活については、どう考えているんだい?」
直人は一度、隣に座る香奈を見た。
香奈もこちらを見て、小さく頷いた。
「まずは仕事を見つけようと思っています。東京でやっていたこととは違いますけど、今は生活を安定させることが大事だと思うので」
「そうか」
「香奈との生活を、できるだけ自分の力で支えていきたいと思っています。マンションまで用意していただいて、本当にありがたいです。
でも、それに甘えるだけじゃなくて、自分でもちゃんと働いて、二人で生活していきたいんです」
言葉にすると、改めて自分の決意がはっきりした気がした。
父親はしばらく直人を見つめていたが、やがて穏やかに頷いた。
「そういう気持ちでいてくれるなら、私も嬉しいよ。最初から何もかも一人で背負う必要はない。
困ったことがあったら、遠慮せずに相談してくれればいい」
「ありがとうございます」
「二人が幸せに暮らしてくれることが、私たちにとっても一番だからね」
「パパ、ありがとな!」
香奈が嬉しそうに父親の腕に寄り添った。
その様子を見て、直人も自然と笑顔になった。
ここには、自分たちを応援してくれる人がいる。
そのことが、心強かった。
用意してもらったマンションに着くと、直人は部屋の中を見回した。
広さは、東京で暮らしていたワンルームとは比べものにならなかった。
「うわあ、やっぱり広いなあ!」
香奈は荷物を置くなり、部屋の中を歩き回った。
「ここ、うちの好きな家具置いてもええんやろ?」
「もちろん、いいんじゃないかな」
「じゃあ、ソファーも欲しいなあ。あと、テーブルも変えたいし」
「いきなり全部買うの?」
「ええやん!せっかく新生活やねんから!」
香奈は楽しそうに笑った。
直人も笑いながら、段ボールを部屋の隅へ運んだ。
香奈は昔から、欲しいものがあると迷わず口にする。
自分とは少し金銭感覚が違うのだろうと思うこともあった。
けれど、今はそんなことを気にするより、二人の生活を整えることが先だった。
「とりあえず、今日は荷物を片づけよう。家具は少しずつ考えればいいよ」
「はーい!」
返事だけは素直な香奈に、直人は苦笑した。
荷物を整理し、必要なものを買い足しているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
夕食は近くの店で簡単に済ませた。
帰り道、香奈は直人の腕に自分の腕を絡めた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「これから、ずっと一緒やな」
直人は隣を見た。
「そうだね」
「東京におったときも楽しかったけど、これからはもっと一緒におれるな!」
「うん。そうだね」
直人は香奈の手を握り返した。
この街で、どんな生活が待っているのだろう。
まだ何も始まっていない。
だからこそ、自分たちで作っていけるものもあるはずだった。
それから直人は、仕事探しを始めた。
求人情報を調べ、条件の合いそうな職場へ連絡を入れた。
俳優の仕事を完全に諦めたわけではない。
いつか、また挑戦したいという気持ちは残っている。
ただ、今は生活を支えるための仕事が必要だった。
何日か求人を探すうちに、屋外で体を動かす仕事を見つけた。
経験はなかったが、働きながら覚えていけるという。
面接を受け、採用の連絡が来たとき、直人は思わず声を上げた。
「よし・・・!」
スマートフォンを握ったまま、何度も採用の連絡を確認した。
これで、ひとまず仕事が決まった。
大きな一歩とは言えないかもしれない。
それでも、自分で探して、自分で決めた仕事だった。
その日の夕方、帰宅した香奈に報告すると、香奈は目を輝かせた。
「えっ、ほんまに決まったん!?」
「うん。外で体を動かす仕事だけどね」
「すごいやん! ナオト、頑張ったなあ!」
香奈は嬉しそうに直人の腕に抱きついた。
「これで新しい生活も安心やな!」
「まだこれからだよ。仕事も始まってないし」
「それでもやん! 最初の一歩やろ?」
そう言われると、確かにそうだった。
「・・・ありがとう」
「なんでお礼言うん?」
「いや、応援してくれるのが嬉しいから」
「当たり前やん!うちはナオトの彼女やで!」
香奈は胸を張って笑った。
直人も笑った。
自分の選んだ道を、こうして喜んでくれる人がいる。
それだけで、もう少し頑張れる気がした。
仕事が決まったことを報告するため、直人は香奈と一緒に再び両親のもとを訪ねた。
「仕事が決まったのか。それはよかった」
父親は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。これから頑張っていこうと思います」
「通勤はどうするつもりなんだい?」
「電車で通うことも考えていますが、勤務先によっては車があったほうが便利かもしれません」
直人がそう答えると、父親は少し考えてから口を開いた。
「それなら、うちに置いてある車を一台使うといい。少し古い車だけど、通勤には十分だと思うよ」
「えっ・・・いいんですか?」
「もちろん。使わずに置いておくより、役立ててもらったほうがいいからね」
「でも、そんな・・・」
「遠慮しなくていいんだよ。これから仕事を頑張るんだろう?」
父親は笑った。
「ありがとうございます。本当に助かります」
直人は深く頭を下げた。
車まで用意してもらえるとは思っていなかった。
両親の厚意に甘えてばかりではいけないと思う一方で、こうして助けてもらえることがありがたかった。
「パパ、うちも大学に行くのに車があったら便利やねんけどなあ」
隣で香奈が、何気ない調子で言った。
「そうだな。大学まで通うなら、車があったほうが便利かもしれないね」
「ほんま? やった!」
「じゃあ、香奈の分も用意しようか」
「えっ、いいん!?」
直人は思わず父親を見た。
「そんな簡単に決めていいんですか?」
「通学に必要なんだろう? それなら、あったほうがいい」
父親は当たり前のことのように答えた。
数日後、カナの通学用にプリウスが用意された。
車を見た香奈は大喜びだった。
「うわあ、めっちゃええやん! パパ、ありがとう!」
「気をつけて運転するんだよ」
「分かってるって!」
その様子を見ながら、直人は改めて二人の家庭環境の違いを感じていた。
自分にとって車は、簡単に買えるものではない。
けれど、香奈の家では、必要だと判断すれば自然に用意できるものなのだ。
驚きはあった。
それでも、直人は父親の厚意を素直にありがたいと思った。
いつか自分も、こうして誰かを支えられる人間になりたい。
そんなことを考えながら、直人は譲ってもらった車の鍵を握りしめた。
新しい生活が始まってから、毎日は少しずつ忙しくなっていった。
直人は朝早く起き、仕事へ向かう。
慣れない仕事は想像していた以上に体力を使った。帰宅するころには、腕も足も重くなっていることがあった。
それでも、働いた分だけ一日が終わったという実感があった。
一方、香奈も大学へ通い始めた。
久しぶりの大学生活は、思っていた以上に忙しいらしい。
「今日な、久しぶりに友達と会ってん!」
夕食を食べながら、香奈は楽しそうに大学の話をした。
「へえ、どうだった?」
「めっちゃ楽しかった!みんな全然変わってへんねん!」
「それはよかったね」
「せやろ?やっぱ大学ってええなあ!」
香奈は嬉しそうに話し続けた。
さらに、香奈は近所のスーパーでもアルバイトを始めた。
「大学だけやと時間もあるし、ちょっと働こうと思って!」
「そうなんだ。無理はしないでね」
「大丈夫やって!ナオトも仕事頑張ってるんやし、うちも頑張る!」
そう言って笑う香奈を見て、直人は嬉しくなった。
二人とも、それぞれの場所で新しい生活を始めている。
東京にいたころとは、毎日の過ごし方も変わった。
仕事で疲れて帰る日もあれば、大学であったことを香奈が楽しそうに話してくれる日もある。
忙しいからこそ、一緒に過ごす時間が前よりも大切に感じられた。
休日には二人で買い物に出かけたり、近くの店で食事をしたりした。
特別なことがなくても、隣に香奈がいる。
それだけで、直人はこの街に自分の居場所ができ始めているように感じていた。
ある休日、二人は大阪の繁華街へ出かけた。
久しぶりにゆっくり買い物をしようという話になり、街を歩きながら店を見て回った。
「ナオト、ここ入ってみよ!」
香奈が立ち止まったのは、アクセサリーショップだった。
「アクセサリー?」
「うん! ちょっと見たいねん!」
店内には、さまざまな指輪やネックレスが並んでいた。
香奈はショーケースを覗き込みながら、楽しそうに指輪を眺めている。
「これ、かわいない?」
そう言って指差したのは、シンプルなデザインの指輪だった。
「確かに、いいね」
「こういうの好きやねん。派手すぎへんし、普段からつけられそうやろ?」
直人も隣に並んで、ほかの指輪を見た。
せっかくなら、二人でお揃いのものを買うのもいいかもしれない。
「・・・お揃いで買う?」
直人がそう言うと、香奈は驚いたように顔を上げた。
「えっ、ほんまに?」
「うん。せっかく一緒に来たんだし」
「やったあ!」
香奈は満面の笑みを浮かべた。
二人でいくつかの指輪を試し、最終的に選んだのは、飾りすぎないシンプルなデザインだった。
派手ではないけれど、二人でつけるにはちょうどいい。
直人は自分の指に指輪をはめた。
香奈も同じ指輪を右手の薬指にはめ、嬉しそうに手をかざした。
「見て、ナオト!めっちゃええやん!」
「うん。似合ってるよ」
「ナオトも似合ってるで!」
二人は並んで手を見つめた。
同じ指輪をつけている。
それだけのことなのに、なんだか特別な気持ちになった。
「なあ、ナオト」
「ん?」
香奈は自分の右手を眺めながら、少しだけ声を弾ませた。
「結婚したら左手の指輪買ってな」
直人は一瞬、言葉に詰まった。
結婚。
まだ具体的に考えたことはなかった。
仕事を始めたばかりで、生活もようやく落ち着き始めたところだ。
それでも、香奈といつか結婚する未来を想像すると、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「・・・うん。いつか、ちゃんと買おう」
「絶対やで!」
「分かってるよ」
「約束な!」
香奈は小指を差し出した。
直人は笑いながら、その小指に自分の小指を絡めた。
「約束」
香奈は満足そうに笑った。
店を出たあとも、二人は何度も指輪を眺めた。
大阪の街を歩きながら、香奈はこれから行きたい場所や、二人でやってみたいことを楽しそうに話していた。
直人はその話を聞きながら、これから先のことを考えた。
仕事を頑張って、生活を安定させて。
いつか、もっと広い家に住めるかもしれない。
今より余裕ができたら、また俳優の仕事に挑戦できるかもしれない。
そして、香奈と結婚する日が来るのかもしれない。
まだ、何も決まってはいない。
それでも、未来を想像できることが嬉しかった。
東京を離れたことが正しかったのか、今でも時々考えることはある。
けれど、香奈と手をつなぎ、同じ指輪をつけて歩いている今は、少なくとも間違いだったとは思わなかった。
直人は隣にいる香奈を見た。
「なあ、香奈」
「んー?」
「これからも、よろしくな」
香奈は一瞬きょとんとしたあと、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「なにそれ!当たり前やん!」
そう言って、香奈は直人の腕にぎゅっと抱きついた。
「うちら、ずっと一緒やで!」
「・・・うん」
直人は笑って頷いた。
右手の薬指にある指輪が、夕方の光を受けて小さく輝いていた。
二人で選んだ、二人だけの指輪。
その指輪を眺めながら、直人は思った。
この街で、香奈と一緒に幸せになろう。
自分で選んだこの未来を、いつか本当に正しかったと思えるように。
今はただ、そう信じていたかった。




