第14章 それぞれの日常
関西での生活が始まってから、少しずつ時間が過ぎていた。
朝は早い。
目覚ましが鳴る前に目を覚ます日もあれば、鳴ってからもしばらく布団から出られない日もある。
東京にいた頃は、昼近くまで眠っていることも珍しくなかった。けれど、今はそういうわけにもいかない。
仕事がある。
自分で決めて、この街に来た。
だから、簡単に弱音を吐くわけにはいかなかった。
「ナオト、起きてる?」
隣から声がした。
「・・・・・・起きてるよ」
「絶対うそやん。目ぇ閉じてるやん」
「目を閉じてても起きてることはあるだろ」
「ないない。ほら、はよ起きて!」
カナに肩を揺すられ、直人はようやく布団から上半身を起こした。
カナはすでに着替えを済ませていて、いつもの明るい笑顔を浮かべていた。
「今日も仕事やろ?」
「そうだよ」
「頑張ってな!」
「カナも大学だろ。お互い頑張ろう」
「うん!」
そう言って笑うカナを見て、直人も自然と笑顔になった。
特別な会話ではない。
けれど、こういう朝を一緒に迎えられることが、今の直人には嬉しかった。
仕事には、少しずつ慣れてきた。
もちろん、楽な仕事ではない。
重いものを運び、外で身体を動かし、慣れない作業に戸惑うこともある。仕事が終わる頃には、腕も脚も疲れ切っていた。
東京にいた頃、俳優になることばかり考えていた自分が、今は一日中身体を動かして働いている。
人生は、思っていたとおりには進まない。
それでも、仕事を終えて帰る場所がある。
玄関のドアを開ければ、カナがいる。
「おかえりー!」
その声を聞くたびに、直人は今日も一日が終わったのだと実感した。
「ただいま」
「今日も疲れた?」
「まあ、さすがにね」
「お疲れさま! ご飯できてるで!」
リビングに入ると、テーブルには夕食が並んでいた。
カナが作った料理を食べながら、大学であったことを聞く。
授業のこと。
久しぶりに会った友人のこと。
講義中に眠そうにしていた学生のこと。
話の内容は、どれも特別なものではなかった。
それでもカナは、今日一日で起きた出来事を全部伝えたいかのように、楽しそうに話してくれた。
「それでな、その子がめっちゃおもろくて!」
「へえ、そんなことがあったんだ」
「そうやねん!ナオトにも会わせたいわ」
「機会があればね」
「うん!絶対紹介する!」
カナは嬉しそうに頷いた。
直人は箸を動かしながら、その話を聞いていた。
自分が知らないカナの時間が、ここにはある。
当たり前のことだった。
東京にいた頃も、カナにはカナの生活があった。大学に通い、友人と過ごし、自分の知らない場所で時間を過ごしていた。
今は、その生活が再び動き始めただけなのだ。
それを嬉しく思えた。
カナが楽しそうにしていることが、直人にとっても嬉しかった。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「今日のご飯、おいしい?」
「うん。おいしいよ」
「ほんま?よかった!」
カナは満足そうに笑った。
直人は、そんな彼女を見ながら思った。
こういう生活を続けていきたい。
特別なことがなくてもいい。
仕事から帰って、一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、同じ布団で眠る。
そんな毎日を、これからもカナと過ごしていきたかった。
休日の朝だった。
直人がコーヒーを飲んでいると、カナが隣に座ってきた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「今日、どっか行かへん?」
「いいけど、どこに行くの?」
「神戸! 三宮っていうところに行こうと思ってんねん!」
「三宮?」
聞き慣れない地名に、直人は首を傾げた。
「神戸にある街やねん。お店もいっぱいあるし、買い物するんも楽しいで!」
「へえ、そうなんだ」
「ナオト、まだ神戸行ったことないやろ? せっかくやし、うちが案内したる!」
カナは得意げに笑った。
「それは楽しみだな」
「任せとき!おいしいお店も教えたるからな!」
カナは嬉しそうに立ち上がると、出かける準備を始めた。
直人も笑いながら、その後ろ姿を見送った。
初めて訪れる街を、カナと一緒に歩く。
それだけで、今日はいい休日になりそうな気がした。
出発の準備を済ませ、二人は駐車場へ向かった。
カナが助手席に乗り込むと、すぐにシートベルトを締めた。
「ナオト、準備できたで!」
「はいはい。そんなに急がなくても、逃げないよ」
「だって、久しぶりに三宮行くんやもん!」
「何か見たいものでもあるの?」
「んー、特に決めてへん! お買い物して、おいしいもん食べて、いっぱい遊びたい!」
「ずいぶん欲張りだな」
「休日くらいええやん!」
カナが笑う。
直人もつられて笑い、エンジンをかけた。
車を走らせると、窓の外の景色が少しずつ変わっていった。
知らない道。
見慣れない街並み。
東京とも、九州とも違う景色だった。
直人は運転に集中しながらも、ときどき周囲の風景に目を向けた。
「ナオト、こっちの道で合ってるで!」
「分かってるよ」
「ほんまに? ナビ見てる?」
「見てるって」
「ならええけど!」
カナは楽しそうに笑った。
その声を聞きながら、直人は思った。
知らない街を走っているのに、不思議と不安はなかった。
隣にカナがいる。
それだけで、初めての場所も少しだけ身近に感じられた。
三宮に着くと、二人は車を駐車場に停め、街へと繰り出した。
駅の周辺には人が行き交い、通りにはさまざまな店が並んでいた。
直人は、歩きながら周囲を見回した。
「結構、人が多いんだな」
「休日やからなあ。平日でも多いけど!」
「そうなんだ」
「ほら、あっちにお店いっぱいあるで!」
カナは直人の手を引き、商店街の方へ歩いていった。
気になる店を見つけるたびに足を止め、店先の商品を眺める。
「これ、かわいない?」
カナが手に取ったのは、小さなアクセサリーだった。
「かわいいんじゃない?」
「ちゃんと見てる?」
「見てるよ」
「ほんまかなあ」
カナは笑いながら、別の商品も手に取った。
直人はそんな様子を眺めていた。
東京で暮らしていた頃も、カナと買い物に出かけたことは何度もあった。
けれど、今は少し違う。
この街は、直人にとって初めての場所だ。
どこに何があるのかも分からない。
カナが立ち止まる店も、何気なく曲がる道も、直人には新鮮だった。
その街を、カナが当たり前のように歩いている。
自分の知らない場所を、彼女が教えてくれる。
そんなことが、なんだか嬉しかった。
「ナオト、次あっち行こ!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「よろしい!」
カナは満足そうに頷いた。
直人は笑いながら、その後を追った。
昼が近づくと、二人はカナが以前から気になっていたという店で食事をすることにした。
店内は落ち着いた雰囲気で、窓際の席からは通りを歩く人たちの姿が見えた。
料理を待つ間、カナはメニューを見ながら楽しそうに話していた。
「ここ、前から来てみたかってん!」
「そうなんだ」
「友達が前に来たことあるって言うててな、おいしかったって!」
「じゃあ、ちょうどよかったね」
「うん!」
運ばれてきた料理を口にすると、カナは目を輝かせた。
「おいしい!」
「本当だ。おいしいね」
「な? 連れてきてよかったやろ?」
「うん。ありがとう」
直人が素直にそう言うと、カナは少し照れたように笑った。
「えへへ。どういたしまして!」
食事をしながら、二人はいろいろな話をした。
仕事のこと。
大学のこと。
これから住んでいく街のこと。
直人は仕事で覚えたことを話し、カナは大学であった出来事を話した。
話題が尽きることはなかった。
食事を終えて店を出ると、カナが直人の手を握った。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「今日、楽しいな!」
「うん。楽しいよ」
「また来よな!」
「そうだね。また来よう」
カナは嬉しそうに笑った。
直人も、その笑顔を見て笑った。
その後も二人は、いくつかの店を見て回った。
カナが服を見ている間、直人は店内をゆっくり歩いた。
カナは気に入った服を見つけると、直人のところへ持ってきた。
「ナオト、これどう思う?」
「似合うと思うよ」
「まだ着てへんやん!」
「いや、カナなら似合うかなって」
「適当やなあ!」
そう言いながらも、カナは嬉しそうだった。
試着を終えて出てきたカナを見て、直人は頷いた。
「うん、似合ってる」
「ほんま?」
「本当」
「ほな、これにしよかな!」
カナは鏡の前で何度か姿を確かめ、それを購入することにした。
直人は、彼女が会計を済ませるのを待ちながら、店内を見回した。
彼女は気に入ったものを見つけると、迷わず手に取ることがある。
その金銭感覚の違いに驚くこともあったが、今では少しずつ慣れてきていた。
何より、カナが楽しそうにしている姿を見るのが好きだった。
店を出ると、カナは買った服の入った袋を大事そうに抱えた。
「今日はええ買い物できたわ!」
「よかったね」
「ナオトは何か欲しいものなかったん?」
「今日は特にないかな」
「ほんまに? 遠慮せんでええんやで?」
「遠慮じゃないよ。また欲しいものがあったら買うから」
「そっか!」
カナは納得したように頷いた。
それから、二人はカフェに入った。
買い物の合間に一息つきながら、冷たいコーヒーを飲む。
窓の外を眺めていると、カナがテーブルの上に置いた手を、直人の手に重ねてきた。
右手の薬指には、お揃いの指輪が光っていた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「こういう休日、ええなあ」
「うん。いいね」
「仕事も大学もあるけど、こうやって一緒に出かけられる時間があるん、嬉しいわ」
直人は、重ねられたカナの手を握った。
「俺も嬉しいよ」
「ほんま?」
「本当だよ」
カナは満足そうに笑った。
直人は、窓の外へ視線を向けた。
知らない街。
知らない景色。
その中に、自分たちの時間が少しずつ増えていく。
東京を離れると決めたとき、正直、不安がなかったわけではない。
俳優の夢をどうするのか。
この先、どんな仕事をしていくのか。
自分の選択が正しかったのか。
考え始めれば、答えの出ないことはいくらでもあった。
それでも、今こうしてカナと過ごしている時間は、確かに幸せだった。
この幸せを、自分の選択で守っていきたい。
直人は、重ねた手をもう一度握り返した。
帰り道、カナは助手席で楽しそうに話していた。
「今日な、あのお店もよかったし、ランチもおいしかったし!」
「うん」
「また行きたいとこ増えてもうたわ!」
「じゃあ、次の休みにでも行こうか」
「ほんま? やった!」
カナは嬉しそうに笑った。
直人は前を見ながら、つられて笑った。
今日一日、特別なことがあったわけではない。
買い物をして、ご飯を食べて、街を歩いただけだ。
それでも、楽しかった。
初めて訪れた街を、好きな人と一緒に歩く。
その時間が、直人には何より大切だった。
それからも、二人の生活は続いていった。
直人は仕事に出かけ、カナは大学へ通う。
帰宅すれば一緒に夕食を食べ、休日には二人で出かける。
お互いに忙しい日もあったが、二人で過ごす時間は変わらず大切だった。
そんなある日の夕食中、カナが箸を置いて顔を上げた。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「今度な、大学の友達と集まることになってん」
「へえ、そうなんだ」
「サークルの子らとか、久しぶりにみんなで会おうって話になって!」
カナは楽しそうに話した。
「いつ行くの?」
「今度の休みの日! 日帰りやから、夜には帰ってくると思うで」
「そっか。いいんじゃない? 楽しんでおいでよ」
「ええの?」
「え、何が?」
「いや、ナオトも休みやったら、一緒におりたいかなって思って」
そう言われて、直人は少し笑った。
「そりゃ、一緒にいられるなら嬉しいけどさ。大学の友達とも、久しぶりに会いたいだろ?」
「うん!めっちゃ久しぶりやねん!」
「じゃあ、楽しんでおいで」
「ありがとう、ナオト!」
カナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、直人も嬉しくなった。
自分が関西に来たことで、カナは大学に戻ることができた。
友人と会い、授業を受け、以前の生活を取り戻していく。
それは、直人が望んでいたことでもあった。
カナには、カナの人生がある。
直人には、直人の人生がある。
その二つが重なって、二人の生活になっている。
だから、いつも一緒にいなければならないわけではない。
お互いに別々の時間を過ごして、帰ってきたらまた一緒にいられる。
そんな関係でいられたらいいと思った。
「ナオト?」
「ん?」
「なんか考えごとしてた?」
「いや。何でもないよ」
「ほんまにー?」
「本当だって」
カナは少し疑うように目を細めたあと、すぐに笑った。
「まあ、ええわ!」
そして、再び箸を手に取った。
「そうや! その日、帰りになんかお土産買ってきたろか?」
「いいよ。気にしなくて」
「えー、なんか買いたいやん!」
「じゃあ、カナがおいしいと思ったものでも買ってきてよ」
「任せとき!」
カナは胸を張った。
直人は笑った。
いつもどおりの会話だった。
何も変わらない、二人の夜だった。
集まりの日、カナは朝から楽しそうだった。
いつもより少し時間をかけて身支度を整え、鏡の前で髪を直している。
「そんなに楽しみなんだ?」
直人が声をかけると、カナは鏡越しに振り返った。
「そらそうやん!久しぶりに会う子もおるしな!」
「そっか。気をつけて行っておいで」
「うん!」
カナは鞄を手に取り、玄関へ向かった。
靴を履いてから、ふと思い出したように振り返る。
「ナオト、今日何するん?」
「特に決めてないかな。ゆっくりするよ」
「そっか。ほな、また連絡するな!」
「うん。楽しんでおいで」
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
玄関のドアが閉まった。
部屋の中が、急に静かになった気がした。
直人はしばらく玄関を眺めていたが、すぐにリビングへ戻った。
せっかくの休日だ。
久しぶりに一人でゆっくり過ごすのも悪くない。
洗濯を済ませ、部屋を片づけ、昼食を食べる。
普段は仕事があるため、後回しにしていたことを片づけているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
カナからメッセージが届いた。
『みんなと合流したで!』
続けて、楽しそうな顔のスタンプが送られてくる。
直人は思わず笑った。
『よかったね。楽しんでおいで』
そう返信すると、すぐに返事が来た。
『うん!』
それだけのやり取りだった。
けれど、カナが楽しんでいることが伝わってきて、直人は嬉しかった。
自分も、自分の時間を過ごそう。
そう思って、直人は久しぶりに映画を観ることにした。
俳優を目指していた頃は、映画を観るたびに、演技や表情の作り方ばかり気にしていた。
今でも、そういう癖は抜けていない。
この役者の目線はどうしてこんなに自然なのか。
この台詞は、どうしてこんなに心に残るのか。
考え始めると、やっぱり演技のことが頭から離れなくなる。
直人は小さく息を吐いた。
やっぱり、好きなのだと思った。
今は別の仕事をしている。
関西に来て、生活も変わった。
それでも、俳優になりたいという気持ちまでなくなったわけではない。
いつか、もう一度。
そのためにも、今は目の前の生活を大切にしよう。
直人は映画に視線を戻した。
夕方を過ぎた頃、カナから連絡があった。
『今から帰るで!』
直人は、ちょうど夕食の準備を始めようとしていたところだった。
『気をつけてね』
そう返信し、冷蔵庫から食材を取り出した。
しばらくして、玄関のドアが開いた。
「ただいまー!」
「おかえり。楽しかった?」
「めっちゃ楽しかった!」
カナは靴を脱ぎながら、弾んだ声で答えた。
「久しぶりに会えた子もおってな、みんな全然変わってへんかった!」
「へえ、よかったね」
「ほんまに! なんか、大学戻ってきたんやなあって感じしたわ」
そう言って、カナは笑った。
直人はその表情を見て、よかったと思った。
東京にいた頃、カナが大学を休むと決めたときのことを思い出す。
あの頃は、二人で過ごす時間が増えることを喜んでいた。
けれど今、こうしてカナが大学での生活を楽しんでいる姿を見ると、それもまた嬉しかった。
カナには、ここでの生活がある。
直人が知らない友人がいて、直人が知らない思い出がある。
そのすべてを知っている必要はない。
これから、少しずつ知っていけばいい。
「なあ、ナオト」
「ん?」
「今日な、仲いい女の子にナオトの話もしてきてん!」
「俺の?」
「そう! 今、一緒に住んでる彼氏がおるって!」
直人は少し照れくさくなった。
「そんな話したんだ」
「するやろ、普通!」
「まあ、そうか」
「みんな、どんな人なんって聞いてきたで!」
「何て答えたの?」
カナは、少しだけ得意げな顔をした。
「優しくて、一緒におったら落ち着く人って言うた!」
直人は思わず笑った。
「何だよ、それ」
「ほんまのことやもん!」
「そう?」
「そうやで!」
カナは直人の隣に座ると、肩に頭を預けてきた。
「うち、ナオトと一緒におれて幸せやで」
不意にそんなことを言われ、直人は返事に困った。
何度も聞いた言葉だった。
それでも、何度聞いても嬉しかった。
「・・・俺もだよ」
そう答えると、カナは顔を上げて笑った。
「えへへ」
直人は、その頭をそっと撫でた。
窓の外では、街の明かりが一つずつ灯り始めていた。
ここでの暮らしも、少しずつ当たり前になってきた。
朝起きて、仕事に行く。
帰ってきて、カナとご飯を食べる。
休日には一緒に出かけたり、それぞれの時間を過ごしたりする。
そんな毎日の中で、二人の未来は少しずつ形になっていく。
東京にいた頃は、何者かにならなければいけないと思っていた。
俳優として成功して、自分の名前を知られるようになって。
そうなれば、自分の人生を胸を張って歩けるのだと思っていた。
でも今は、少し違う。
もちろん、夢を諦めたわけではない。
いつか、もう一度挑戦したい。
その気持ちは変わらない。
ただ、それと同じくらい大切なものができた。
隣で笑っているカナ。
同じ家に帰り、同じ食卓を囲み、同じ未来を考えてくれる人。
この人と一緒に幸せになりたい。
直人は、そう思っていた。
「ナオト?」
「ん?」
「明日も仕事やろ?そろそろご飯にしよ!」
「そうだね」
二人は立ち上がり、夕食の準備を始めた。
特別なことは何もない。
けれど、直人は思う。
こんな毎日が、ずっと続けばいい。
カナと一緒に、この街で生きていく。
今は、それだけで十分だった。




