第23章 あの日
スマホの画面には、ナオトからの返信が表示されていた。
『おめでとう』
たった一言だった。
カナは、その文字をしばらく見つめていた。
結婚することを伝えたら、ナオトはどんな反応をするんだろう。
少しは驚いてくれるだろうか。
それとも、何か聞いてくれるだろうか。
そんなことを考えながらメッセージを送った自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
ナオトは、ちゃんと祝福してくれた。
それなのに。
「・・・なんやねん、うち」
小さくつぶやいて、スマホを伏せた。
自分で選んだ道だった。
ナオトと別れたあと、ケイゴと一緒に過ごす時間が増えて、いつの間にか結婚の話が出るようになった。
ケイゴは優しかった。
一緒にいて楽しいし、困ったときには助けてくれる。
少なくとも、これから先も一緒に生きていける相手だと思った。
だから、結婚することを決めた。
それなのに、ナオトに報告したとき、自分がどんな返事を期待していたのか。
カナには、よくわからなかった。
「・・・もうええやん」
そう言って、スマホをバッグにしまった。
いつまでも過去のことを考えていても仕方がない。
これからは、ケイゴと生きていくのだから。
そう自分に言い聞かせた。
ケイゴとの結婚生活は、穏やかに始まった。
二人で暮らす部屋を探し、家具をそろえ、毎日の生活を作っていく。
休日には一緒に出かけた。
外で食事をしたり、映画を見たり、何でもないことで笑い合ったり。
恋人だった頃とは違う、夫婦としての日常がそこにはあった。
カナも、幸せだと思う瞬間はたくさんあった。
ケイゴが隣にいることが当たり前になっていく。
朝起きれば顔を合わせ、夜になれば同じ家に帰る。
そんな生活を続けるうちに、少しずつ時間が流れていった。
ナオトのことを思い出すことが、なくなったわけではなかった。
ふとした瞬間に、昔一緒に行った場所や、何気ない会話が頭に浮かぶこともあった。
けれど、思い出したからといって、何かが変わるわけではない。
カナは、そのたびに目の前の日常へと気持ちを戻した。
自分で選んだ人生を、ちゃんと歩いていこうと思っていた。
この先も、ずっと。
そう思っていた。
それから、時間は過ぎていった。
ケイゴとの結婚生活は、ずっと順調だったわけではない。
些細なことで喧嘩をすることもあれば、価値観の違いを感じることもあった。
それでも、カナは夫婦として暮らし続けていた。
けれど、結婚して二年近くが経った頃。
ケイゴの浮気が発覚した。
最初は、何かの間違いだと思った。
けれど、問い詰めると、ケイゴは最後には認めた。
カナは傷ついた。
信じていた相手に裏切られたことが、ただ悲しかった。
その後、ケイゴに借金があることもわかった。
二人の間にあった信頼は、少しずつ失われていった。
何度か話し合いをした。
けれど、一度壊れたものを元に戻すことはできなかった。
やがて二人は、離婚することを決めた。
離婚してから、しばらく経ったある日のことだった。
スマホに、一件のメッセージが届いた。
画面に表示された名前を見て、カナの手が止まった。
直人のお母さんだった。
懐かしい名前だった。
ナオトと一緒に九州へ帰ったとき、優しく迎えてくれた人。
自分のことを、本当の娘のように可愛がってくれた人。
「・・・おばさん?」
カナは、小さくつぶやいた。
どうしたんだろう。
そう思いながら、メッセージを開いた。
『香奈ちゃん、久しぶりね。突然ごめんなさい。少し、お話ししたいことがあります』
カナは画面を見つめた。
胸の奥が、ざわついた。
ナオトのことだろうか。
もう何年も会っていない。
最後に会ったルミナリエの夜を、ふと思い出した。
「・・・ナオト」
名前を口にした途端、胸が少しだけ苦しくなった。
カナは、しばらく迷ってから返信した。
『お久しぶりです。どうしたんですか?』
送信したあと、スマホを握りしめた。
返事が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。
やがて、画面に新しいメッセージが表示された。
『・・・直人がね、亡くなったの』
カナは、その文字を何度も読み返した。
意味がわからなかった。
いや、意味はわかっている。
ただ、頭がそれを受け入れられなかった。
「・・・・・・え?」
声が漏れた。
スマホを持つ手が震えた。
何かの間違いだと思いたかった。
もう一度、画面を見る。
そこには、同じ言葉が並んでいた。
直人が亡くなった。
「・・・うそやん」
小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
最後に会った夜。
笑って、話して、手を振って別れた。
「またね」と言った。
また会えると思っていた。
それなのに。
「・・・ナオト・・・?」
呼びかけても、返事はなかった。
スマホの画面が、ぼやけていく。
カナは、声を押し殺して泣いた。
最後に会った夜のことを、何度も思い出した。
あの夜、ナオトをルミナリエに誘ったのは、ただ久しぶりに会いたかったからだった。
・・・いや。
本当は、もっと別の理由があった。
もう一度、ナオトに会いたかった。
声が聞きたかった。
隣で笑いたかった。
そして、心のどこかで期待していた。
もしかしたら、ナオトが自分を引き止めてくれるんじゃないかって。
「戻ってこいよ」
そんな一言を、言ってほしかった。
自分から別れたくせに。
自分でケイゴを選んだくせに。
それでも、ナオトにそう言ってもらえたら、まだ自分は特別なんだと思えた気がした。
本当は、謝りたかった。
ごめんね、と。
傷つけてごめん。
信じてくれていたのに、ごめん。
大好きだったのに、素直になれなくてごめん。
言いたいことは、いくつもあった。
けれど、いざ目の前にすると、何一つ言えなかった。
ナオトは、昔みたいに笑ってくれた。
一緒にくだらない話をして、何度も笑った。
その時間が嬉しかった。
嬉しかったからこそ、苦しかった。
もう一度、あの頃に戻りたい。
そう思ってしまう自分がいた。
けれど、ナオトは言った。
「ちゃんと幸せになってね」
その言葉を聞いたとき、カナは笑っていた。
いつもどおりに振る舞って、何でもないことのように受け止めた。
でも、本当は違った。
そんなこと、言わんといて。
そう思った。
幸せになってほしいなら、どうして引き止めてくれへんの。
どうして、うちのことをもう一度選んでくれへんの。
そんなことを考えてしまった自分が、嫌だった。
自分から手放したのに。
今さら、何を期待しているんだろう。
帰り際、ナオトは一度、カナを見送った。
そして、遠ざかっていく自分を呼び止めた。
「カナー!」
振り返ると、ナオトが笑って手を振っていた。
「カナー! ばいばい!」
カナも笑って、手を振り返した。
あのとき、もう一度戻って、ナオトのところへ走っていけばよかったのだろうか。
「ごめん」と伝えて、もう一度だけ抱きしめてもらえばよかったのだろうか。
それとも、ナオトも本当は、まだ自分のことが好きだったのだろうか。
答えは、もうわからない。
あの夜、ナオトは最後まで優しかった。
だからこそ、カナは何も言えなかった。
そして、あの夜が二人で会って話す最後の日になるなんて、思ってもいなかった。
ナオトが亡くなったと聞いてから、何度も九州へ行こうと思った。
お母さんに会いたかった。
ナオトがどんなふうに過ごしていたのか、最後に何を思っていたのか、聞きたいことはたくさんあった。
それなのに、いざ行こうとすると、足が止まった。
お母さんに会ったら、本当にナオトがいなくなったことを認めなければならない気がした。
もう二度と会えない。
もう二度と、あの声を聞くこともできない。
そんな当たり前のことが、どうしても受け入れられなかった。
そして、もうひとつ。
どうしても考えてしまうことがあった。
ルミナリエで会ったとき、ナオトは笑っていた。
昔みたいに冗談を言って、くだらないことで笑って。
まるで、何もなかった頃に戻ったみたいだった。
だから、カナも笑えた。
でも。
あの夜、ナオトは本当はどんな気持ちだったんだろう。
自分と別れてから、どんな毎日を過ごしていたんだろう。
寂しくなかったのかな。
苦しくなかったのかな。
一人でいる夜に、うちのことを思い出すことはあったんかな。
もう一度会いたいって、思ってくれたことはあったんかな。
考えれば考えるほど、聞きたいことが増えていった。
あの夜、ナオトは九州に帰ろうかと話していた。
関西にいる意味がない、と。
もしかしたら、ずっと寂しかったのかもしれない。
もしかしたら、うちと別れたことを、ずっと引きずっていたのかもしれない。
それとも、もう前を向いて、新しい人生を歩こうとしていたのだろうか。
わからない。
何ひとつ、わからなかった。
あの夜、もっと聞けばよかった。
ナオトがどんな気持ちで毎日を過ごしていたのか。
何を考えて、何に悩んでいたのか。
本当は、何を伝えたかったのか。
でも、聞けなかった。
自分の気持ちを隠して、笑って、またねと言って別れた。
それが最後になるなんて、思ってもいなかった。
「・・・ナオト、寂しかったん?」
つぶやいても、答えは返ってこなかった。
もう、聞くことさえできなかった。
カナは、顔を覆った。
ナオトがどんな気持ちで生きていたのか。
その答えを知ることができないまま、自分だけが生きていく。
それが、たまらなく苦しかった。
一年が経った。
ナオトが亡くなったという事実を、完全に受け入れられたわけではなかった。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。
一緒に暮らしていた日々。
くだらないことで笑い合った時間。
時には喧嘩をして、それでも隣にいるのが当たり前だった毎日。
そして、ルミナリエの夜。
最後に交わした「またね」という言葉。
もう二度と、その続きを話すことはできない。
それでも、いつまでも逃げているわけにはいかなかった。
お母さんにも会いたかった。
ナオトが生きていた時間を、少しでも知りたかった。
カナは、ようやく決心した。
九州へ行こう。
直人が育った家へ。
直人のお母さんに、会いに行こう。
ずっと行きたかった場所へ、今度こそ。
カナは、静かに息を吐いた。
「・・・ナオト」
その名前を口にしてから、ゆっくりと顔を上げた。
今度こそ、ちゃんと向き合うために。
カナは、直人の実家へ向かうことを決めた。




