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第22章 夢の中の君

ルミナリエで香奈と別れてから、直人は何度もあの夜を思い返していた。


久しぶりに見た香奈の笑顔。


くだらない話で笑い合った時間。


おそろいのライターを見て、懐かしそうに笑った顔。


もう恋人ではない。


それは、わかっていた。


それでも、あの夜だけは一瞬、昔に戻れたような気がした。


何も考えずに笑っていた、あの頃に。


「・・・楽しかったな」


ひとりきりの部屋で、直人は小さく呟いた。


あの夜、香奈は幸せそうに見えただろうか。


いや、そんなことを考えても仕方がない。


彼女には彼女の生活がある。


自分とは別の道を歩いている。


もう一緒に暮らすことも、毎日顔を合わせることもない。


それでも。


直人は、また香奈に会いたいと思っていた。


関西には、まだ香奈がいる。


どこかで偶然すれ違うかもしれない。


街を歩いているときに、ばったり出会うかもしれない。


もし、また会えたなら。


あの夜みたいに、少しだけでも笑い合えるかもしれない。


そんなことを考えてしまう自分がいた。


関西に残る理由なんて、もうなかった。


それでも、直人は九州に帰らなかった。


いつかまた会えるかもしれない。


その小さな可能性を、どうしても捨てられなかった。



ある夜、直人は夢を見た。


香奈がいた。


「ナオトー!なにしてんのー?」


いつもの明るい声。


「いや、別になにもしてないけど(笑)」


「なにそれー! 暇なん?」


「暇じゃないわ(笑)」


「絶対暇やん!」


香奈は楽しそうに笑っていた。


直人も笑った。


二人で暮らしていた頃と、何も変わらない。


香奈が隣にいて、くだらない話をして、何でもないことで笑い合う。


それだけの夢だった。


けれど、直人にとっては、それだけで十分だった。


目が覚めたとき、直人はしばらく天井を見つめていた。


薄暗い部屋。


隣には誰もいない。


さっきまで聞こえていた声も、もう聞こえなかった。


「・・・夢か」


小さく呟き、目を閉じる。


もう一度眠れば、また会えるだろうか。


そんなことを考えながら、直人は布団の中で丸くなった。



それから、直人は何度も香奈の夢を見るようになった。


ある夢では、二人で買い物に出かけていた。


香奈があれも欲しい、これも欲しいと楽しそうに話し、直人が笑いながら呆れていた。


またある夢では、二人で食事をしていた。


香奈が自分の好きなものを勝手に直人の皿から取っていく。


「ちょっと、それ俺のなんだけど(笑)」


「ええやん!ちょっとくらい!」


「ちょっとじゃないだろ(笑)」


「細かいなー!」


そんなやり取りをしながら、二人は笑っていた。


夢の中では、何も失っていなかった。


別れたことも。


ケイゴのことも。


あの夜、香奈と別れたときの寂しさも。


何ひとつ、存在しなかった。


そして、ある夜。


直人は、少し違う夢を見た。


「ナオトー、起きてー!」


聞き慣れた声がした。


「・・・んー?」


「もう朝やで!」


「・・・あと五分」


「またそれ言うやん!」


香奈が笑った。


直人は布団を頭までかぶった。


「・・・今日、仕事休みだからいいじゃん」


「せやけど、せっかくの休みやん! どっか行こーや!」


「・・・どこに?」


「んー・・・。とりあえず起きてから考えよ!」


「なんだそれ(笑)」


直人は笑いながら、ゆっくりと身体を起こした。


そこは、二人で暮らしている家だった。


窓から朝の光が差し込んでいる。


キッチンからは、香奈が動き回る音が聞こえていた。


いつもの朝。


何でもない一日。


けれど、直人は知らなかった。


夢の中の自分と香奈は、もう結婚していた。


一緒に暮らすことを決めて。


二人で将来を約束して。


あの頃、いつか叶えようと話していた未来に、二人はたどり着いていた。


「ナオトー!はよ来てー!」


「はいはい、今行くって(笑)」


直人は笑いながら、香奈のいるキッチンへ向かった。


食卓には、二人分の朝食が並んでいた。


香奈は椅子に座り、直人の顔を見て笑った。


「今日、どこ行こっか?」


「んー・・・カナの行きたいとこでいいよ」


「えー! またそれー?」


「だって、カナが行きたいとこなら、俺も楽しいし(笑)」


香奈は一瞬だけ黙った。


それから、照れたように笑った。


「・・・・・・なにそれ。ずるいやん(笑)」


「なんでだよ(笑)」


二人の笑い声が、部屋に響いた。


直人は幸せだった。


特別なことなんて、何もなかった。


ただ、香奈が隣にいる。


明日も、その先も、きっと隣にいてくれる。


それが当たり前になった未来。


直人が本当に欲しかったものが、そこにはあった。



目が覚めた。


直人は、ゆっくりと目を開けた。


薄暗い部屋。


カーテンの隙間から、弱い光が差し込んでいる。


隣には誰もいなかった。


キッチンから音が聞こえることもない。


朝食の匂いもしない。


「・・・・・・・・・」


直人は、何も言わなかった。


しばらく天井を見つめていた。


さっきまで、確かに幸せだった。


香奈がいて。


一緒に暮らしていて。


これからもずっと一緒にいられると思っていた。


それなのに。


目を覚ませば、何も残っていない。


直人は布団を握りしめた。


「・・・なんだよ、それ」


声が震えた。


目の奥が熱くなった。


けれど、涙がこぼれるまでには、少し時間がかかった。



それからも、直人の生活は続いていた。


ただ、以前と同じようにはいかなかった。


朝、目が覚めても、なかなか起き上がれない。


仕事に行かなければならない。


そう思っても、身体が動かなかった。


最初は、一日だけだった。


疲れているのだろう。


少し休めば、またいつもどおりに戻れる。


そう思っていた。


けれど、休む日が増えていった。


仕事に行けない日が続き、職場から連絡が来ても、返信することができなかった。


スマートフォンを手に取る。


画面を見る。


返信しなければいけないことはわかっている。


それなのに、何もできなかった。


やがて、部屋も散らかり始めた。


脱いだ服は床に置いたまま。


食べ終わった容器も、片付けずに積み重なっていく。


食事も適当になった。


何かを買いに出ることさえ面倒で、空腹を感じても、そのまま横になっていることがあった。


貯金は少しずつ減っていった。


このままではいけない。


そんなことは、直人にもわかっていた。


けれど、どうすればいいのか、考えることさえ億劫だった。


以前の自分なら、何かを変えようとしたかもしれない。


俳優になる夢を追いかけていた頃なら、こんな毎日を何とかしようと、必死になっていたはずだった。


でも、今は違った。


何かを頑張ったところで、香奈が戻ってくるわけではない。


何かを成し遂げたところで、隣に香奈がいてくれるわけではない。


そう考えると、何もする気が起きなかった。


それでも、直人にはひとつだけ、楽しみが残っていた。


眠ること。


夢の中で、香奈に会うこと。


眠っている間だけは、何も失っていなかった。


だから直人は、夜になると布団に入った。


明日を迎えるためではなく、もう一度、あの夢を見るために。



そんな日々が続いた、ある日のことだった。


直人のスマートフォンが震えた。


久しぶりに聞く通知音だった。


画面を見ると、香奈の名前が表示されていた。


直人は、しばらくその名前を見つめていた。


そして、ゆっくりとメッセージを開いた。


『ナオト、久しぶり』


たったそれだけの言葉だった。


けれど、直人の胸は大きく揺れた。


香奈から連絡が来た。


それだけで、心臓が少し速くなった。


何かあったのだろうか。


どうして連絡してきたのだろう。


また会いたいと思ってくれたのだろうか。


そんな期待が、一瞬だけ頭をよぎった。


続けて、メッセージが届いた。


『実はな、うち結婚することになってん』


直人は、画面を見つめたまま動かなかった。


何度も読み返した。


結婚。


その二文字が、頭の中で繰り返された。


相手は、聞かなくてもわかっていた。


ケイゴだ。


あの夜、香奈は言っていた。


最近は、あまりうまくいっていないと。


それでも、二人は結婚することになったのだ。


直人は、あの夜のことを思い出した。


久しぶりに笑い合った時間。


「ちゃんと幸せになってね」と伝えたこと。


別れ際、もう一度だけ名前を呼んだこと。


「カナー! ばいばい!」


香奈が笑って手を振り返してくれたこと。


あのとき、直人は思っていた。


またね、と。


いつか、また会えるかもしれない。


そんな小さな期待を、心のどこかに残していた。


けれど、香奈は結婚する。


自分ではない誰かと。


そして、これからは、その人と人生を歩んでいく。


直人は、スマートフォンを握りしめた。


本当は、嫌だった。


祝福なんてしたくなかった。


結婚しないでほしい。


まだ、自分のことを好きでいてほしい。


そう言ってしまいたかった。


けれど、そんなことを言える立場ではなかった。


自分から別れを告げたのだ。


香奈に幸せになってほしいと、あの夜、自分の口で伝えたのだ。


それなのに、今さら何を言えるというのだろう。


直人は、ゆっくりと文字を打った。


『おめでとう』


送信した。


それだけだった。


しばらくして、直人はスマートフォンを伏せた。


それ以上、何も送らなかった。


香奈から返事が来たとしても、もう会話を続けることはできない気がした。


彼女の結婚を喜べない自分を、見せたくなかった。


まだ好きなのだと、知られたくなかった。


いや。


本当は、もう知られたところで、どうにもならないのだとわかっていた。


直人は、ゆっくりと目を閉じた。


部屋は静かだった。



夜になった。


直人は、布団に入っていた。


カーテンは閉めたまま。


部屋の明かりもつけていなかった。


スマートフォンは、手の届くところに置いてある。


けれど、もう画面を見る気にはなれなかった。


香奈は結婚する。


その事実は、何度考えても変わらない。


直人が関西に残っていた理由。


いつかまた会えるかもしれないという、小さな期待。


それも、もう持ち続けることはできなかった。


それでも、直人は目を閉じた。


眠れば、また会えるかもしれない。


夢の中なら、香奈は隣にいてくれる。


一緒に暮らして、笑い合って、何年先も変わらずにいてくれる。


現実では叶わなかった未来が、そこにはある。


直人は、ゆっくりと息を吐いた。


そして、眠りについた。



朝。


直人は、ゆっくりと目を開けた。


薄暗い部屋だった。


床には脱いだ服が散らばり、テーブルには食べ終わった容器が残っている。


隣には誰もいなかった。


直人は、しばらく布団の中にいた。


夢の中では、香奈が笑っていた。


二人は結婚していた。


一緒に暮らしていた。


明日も、その先も、ずっと一緒にいられると思っていた。


けれど、目を覚ませば、そこには何もなかった。


直人は、ゆっくりと身体を起こした。


ベッドの端に座り、ひとりきりの部屋を見つめた。


何かを考えようとしても、何も浮かばなかった。


ただ、静かだった。


誰もいない。


誰も話しかけてこない。


これから何をすればいいのかも、わからなかった。


直人は、そのまま座っていた。


夢の中では、あんなにも幸せだったのに。


現実には、何も残っていなかった。


それでも、夜になれば、また眠るのだろう。


もう一度、香奈に会えるかもしれないから。


直人は、ひとりきりの部屋で、静かに過ごしていた。


目を閉じれば、香奈に会える。


隣で笑う香奈がいて、くだらない話をして、同じ部屋で眠る。


そんな当たり前の日々が、夢の中にはある。


目を覚ましている時間よりも、夢の中で過ごす時間のほうが、ずっと幸せに感じるようになっていた。


まるで、自分はまだ夢の中にいるのだと、


そう思い込もうとしているかのように。


現実の世界で生きているのか、それとも夢の続きを待っているだけなのか。


直人には、もうわからなくなっていた。



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