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第20章 失った居場所

家に帰っても、香奈の姿はなかった。


 玄関の扉を開けた直人は、いつものように「ただいま」と口にしかけて、やめた。


 返事がないことなど、分かりきっていた。


 リビングに入ると、二人で使っていたテーブルが目に入った。並んで食事をしたことも、

 何気ない話で笑い合ったことも、昨日のことのように思い出せる。


 けれど、もう隣に香奈はいない。


 おそらく、実家に帰ったのだろう。


 直人はそう考えながら、ひとりで夕食を済ませた。


 風呂に入り、寝室に向かう。


 いつも香奈が寝ていた場所には、もう誰もいなかった。


 目を閉じても、なかなか眠れなかった。


 何度も思い出すのは、最後に香奈と話した夜のことだった。


 泣いていた顔。


 何も答えなかった沈黙。


 そして、最後に口にした言葉。


 ——もう、終わりにしよう。


 自分で決めたことだった。


 それなのに、胸の奥が痛かった。


 翌日になっても、香奈は帰ってこなかった。


 その次の日も。


 さらに数日が過ぎても、連絡ひとつなかった。


 別れたのだから、当然なのかもしれない。


 それでも、直人は香奈への気持ちをなくすことができなかった。


 仕事をしているときも、食事をしているときも、ふとした瞬間に彼女のことを思い出す。


 帰宅して、玄関の扉を開けるたびに、もしかしたら帰ってきているのではないかと考えてしまう。


 もちろん、そんなことはなかった。


 もう一度やり直したいのか。


 それとも、ただ会いたいだけなのか。


 自分でも、よく分からなかった。


 ただ、香奈のいない生活を、すぐに受け入れることはできなかった。


 そんなある日、直人はスマートフォンを手に取った。


 連絡先の中から、香奈の父親の名前を探す。


 何度か迷った末に、メッセージを送った。


『少しお話しできませんか』


 しばらくして、返事が届いた。


『分かった。いつがいい?』


 直人は、父親と会う約束をした。



 待ち合わせたのは、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。


 先に来ていた父親は、直人の姿を見つけると軽く手を上げた。


「久しぶりだね。どうしたんだ?」


「・・・急にすみません」


「いや、構わないよ。それで、話というのは?」


 直人はすぐには答えられなかった。


 何から話せばいいのか、ずっと考えてきたはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。


 それでも、話さなければならなかった。


「・・・カナのことなんです」


 父親は、静かに頷いた。


「・・・俺、カナと別れました」


「そうか・・・」


「でも、今でもカナのことが好きなんです。どうしても、気持ちがなくならなくて・・・」


 口にすると、胸が苦しくなった。


「一緒に暮らして、いつか結婚しようって約束もしてました。俺は、本当にカナとの将来を考えていたんです」


「・・・そうだったんだね」


「でも、いろいろなことがあって・・・どうしたらいいのか、分からなくなってしまって」


 直人は一度、視線を落とした。


 ここから先を話すべきなのか、まだ迷いがあった。


 けれど、今さら隠しても意味がないと思った。


「・・・カナ、風俗の仕事をしていたんです」


 父親の表情が変わった。


「・・・何?」


「俺には、別の仕事だって話してました。でも、本当は違っていて・・・。それに、店のオーナーとも関係があったみたいなんです」


 父親は何も言わなかった。


「薬も使っていたそうです。本人から聞きました。俺、どうにかしてあげたいと思って・・・辞めてもらおうとしたんですけど」


 直人は、言葉を選びながら続けた。


「・・・本当に辞められたのか、今でも分かりません」


 父親は黙ったまま、直人を見つめていた。


「それだけじゃないんです」


 直人は、喉の奥が詰まるのを感じた。


「大学に戻ってから、ケイゴっていう男と関係を持っていたみたいで・・・。俺と暮らしている間も、二人で会っていたんです」


 ケイゴの家に泊まると言われたこと。


 帰ってきても、何も話してくれなかったこと。


 自分が何を聞いても、香奈は答えてくれなかったこと。


 そして、最後には別れることになったこと。


 直人は、それらをひとつずつ話した。


 父親は、途中で口を挟むこともなく、最後まで聞いていた。


「・・・俺、どうすればよかったんでしょうか」


 直人は顔を上げた。


「カナのことが好きなんです。今でも、本当に好きで・・・。でも、どうしたらいいのか、もう分からなくて」


 助けてほしかった。


 答えが欲しかった。


 香奈をよく知っている父親なら、自分の知らない何かを教えてくれるかもしれない。


 そんな期待が、直人にはあった。


 しかし、父親の口から出てきたのは、思いもしなかった言葉だった。


「なぜ、それを私に話したんだ?」


「・・・え?」


「カナのことが好きなんだろう? 大事に思っているんだろう?」


「・・・はい」


「だったら、ずっと我慢して、黙っているべきだったんじゃないのか?」


 直人は、言葉を失った。


「・・・我慢、ですか?」


「そうだ。好きで大事に思っているのなら、彼女の過去も含めて受け止めるべきだったんじゃないのか。

なぜ、わざわざ私にそんな話をする必要がある?」


「・・・俺は、カナを責めたいわけじゃなくて・・・」


「じゃあ、どういうつもりなんだ?」


 父親の声が、少し強くなった。


「娘が何をしていたか、誰と関係を持っていたか。そんな話を、どうして私に聞かせるんだ?」


「・・・ただ、どうすればいいのか分からなくて・・・」


「それなら、二人の問題だろう。君とカナの間で解決するべきことじゃないのか?」


 直人は俯いた。


 違う。


 そうじゃない。


 ただ、誰かに聞いてほしかった。


 自分ひとりでは抱えきれなかった。


 それだけだった。


「・・・俺は、本当にカナのことを大事に思っていたんです」


「なら、なおさらだ」


 父親は、冷たい声で言った。


「大事に思っていた相手の秘密を、こんなふうに私に話すのか?」


 何も言い返せなかった。


 父親の中では、直人が何を考えていたのかなど、もう関係ないのかもしれなかった。


 娘の秘密を打ち明けた。


 娘の過去を暴露した。


 父親には、そうとしか受け取れなかったのだ。


 直人は、ただ黙って座っていた。


 自分が何か間違ったことをしたのだろうか。


 香奈を大切に思っていたことも、今でも忘れられないことも、何ひとつ伝わらなかった。


 喫茶店を出るとき、父親は以前のように直人を気遣う言葉をかけなかった。


「・・・それじゃあ」


「・・・はい。今日はありがとうございました」


 直人が頭を下げても、父親は小さく頷いただけだった。


 その背中を見送りながら、直人は自分の相談が何も届かなかったことを知った。



 それから数日後。


 仕事を終えてマンションに帰ると、リビングに人影があった。


「・・・え?」


 そこにいたのは、香奈の父親だった。


「おかえり」


「・・・どうして、ここに?」


「合鍵を持っているからね。少し様子を見に来たんだ」


 父親はソファに座ったまま、部屋を見回した。


「・・・ずいぶん散らかっているな」


 テーブルの上には、朝に食べたパンの袋と、飲みかけのペットボトルが置かれていた。


「・・・すみません。片付けます」


「仕事には、ちゃんと行っているんだろうね?」


「・・・・・・はい」


「そうか」


 父親はそれ以上何も言わず、しばらくして帰っていった。


 直人は、少しだけ違和感を覚えた。


 以前の父親なら、こんなふうに一方的な言い方はしなかった。


 けれど、考えすぎなのかもしれないと思った。


 そのときは、そう考えることにした。



 それからも、父親は突然やって来た。


 直人が仕事から帰ると、すでに部屋にいることもあった。


「・・・今日は休みなのか?」


「いえ、仕事から帰ってきたところです」


「そうか。もう少し生活を整えた方がいいんじゃないか?」


 別の日には、洗濯物が干しっぱなしになっていることを指摘された。


 また別の日には、帰宅した直人に、仕事を変えるつもりはないのかと聞いてきた。


 ひとつひとつは、些細なことだった。


 けれど、訪問のたびに何かを指摘される。


 自分の生活を監視されているような気がした。


 それでも直人は、反論しなかった。


 ここは、香奈の両親が用意してくれたマンションだった。


 世話になった相手に、強く言い返すこともできなかった。


 何より、今は誰かと争う気力さえ残っていなかった。


 そして、父親は訪問するたびに、同じ話を持ち出すようになった。


「ところで、直人君」


「・・・はい」


「いつまでも、この部屋に住み続けるのはよくないんじゃないか?」


 直人は、手を止めた。


「・・・どういう意味ですか?」


「ここは、カナのために用意したマンションだろう?」


「・・・はい」


「もうカナとは別れたんだろう? だったら、いつまでもここに住むのは違うんじゃないかと思ってね」


 父親は、まるで当然のことを話すように言った。


 直人は何も答えられなかった。


 ここには、香奈との思い出が残っている。


 一緒に料理をしたキッチン。


 二人で並んで座ったソファ。


 いつか結婚しようと約束した、あの夜。


 どこを見ても、香奈のことを思い出す。


 それでも、この部屋だけは手放したくなかった。


 自分たちが一緒に暮らした場所だったから。


 けれど、父親はその場所にいることさえ、許さないかのようだった。



 ある日の夜。


 直人が帰宅すると、また父親が来ていた。


 リビングのテーブルには、直人が朝に置いていった食器が残っていた。


「・・・まだ片付けていないのか」


「・・・すみません」


「仕事も大事だが、生活もきちんとしないといけないだろう」


 直人は、黙って食器を片付け始めた。


「それで、ここを出る話は考えているのか?」


 手が止まった。


「・・・まだ、考えられていません」


「そうか」


 父親は短く答えた。


「でも、いつまでもこのままというわけにはいかないだろう?」


 その言葉を聞いた瞬間、直人の中で何かが切れた。


 もう、ここにいたくない。


 帰ってきても気が休まらない。


 誰かの顔色をうかがいながら、自分の生活を続けることにも疲れていた。


 香奈を失った。


 そのことだけでも、十分すぎるほど苦しかった。


 なのに、どうしてここにいることまで責められなければならないのだろう。


「・・・・・・分かりました」


 直人は、静かに答えた。


「・・・・・・・・・出ていきます」


 父親は、少しだけ直人を見た。


「そうか。それがいいと思うよ」


 それだけだった。


 直人がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか、父親が知ろうとすることはなかった。



 引っ越し先は、自分で探した小さな部屋だった。


 以前のマンションと比べれば、ずっと狭い。


 設備も、周囲の環境も、決して恵まれているとは言えなかった。


 それでも、ここなら誰かが突然入ってくることはない。


 誰かに生活を指摘されることもない。


 自分のことは、自分で決められる。


 荷物を運び終えた夜、直人は床に座り、部屋を見回した。


 家具も少なく、まだ何もないに等しい部屋だった。


 静かだった。


 あまりにも静かで、かえって寂しさが込み上げてきた。


 ここには、香奈との思い出はほとんどない。


 けれど、それは香奈を忘れられたという意味ではなかった。


 むしろ、何もない部屋にいると、彼女と過ごした時間ばかりが浮かんでくる。


 直人はスマートフォンを手に取った。


 香奈とのトーク画面を開く。


 最後のやり取りから、時間が止まったようになっていた。


 メッセージを送ろうとして、やめた。


 今さら、何を伝えればいいのか分からなかった。


 会いたい。


 声が聞きたい。


 もう一度、隣で笑ってほしい。


 そんな言葉ばかりが浮かんでは、消えていった。


 直人はスマートフォンを伏せた。


 そして、ひとりで眠りについた。



 それから、数か月が過ぎた。


 仕事に行き、帰ってきて、食事をして眠る。


 そんな生活を繰り返すうちに、直人は少しずつ一人暮らしに慣れていった。


 以前より、考え込む時間は減った。


 それでも、香奈のことを完全に忘れられたわけではなかった。


 街で似た後ろ姿を見かければ、思わず振り返る。


 何気ない会話の中で、香奈がよく使っていた言葉を耳にすれば、胸の奥が少しだけ痛む。


 忘れようとしているのか。


 忘れられないままでいるのか。


 自分でも、もうよく分からなかった。


 ただ、以前のように毎晩、香奈のことばかり考えて眠れなくなることはなくなっていた。


 そうして、少しずつ日々を過ごしていたある日のことだった。


 仕事を終えて帰宅した直人は、スマートフォンに届いていた通知に気づいた。


 画面を開く。


 送り主の名前を見た瞬間、指が止まった。


 香奈だった。


 久しぶりに届いたメッセージ。


『ナオト、久しぶり』


 たったそれだけの言葉だった。


 直人は、しばらく画面を見つめていた。


 何か用事があるのだろうか。


 今さら、どうして連絡してきたのだろう。


 いくつもの考えが頭をよぎる。


 返信しようか迷っていると、もう一通、メッセージが届いた。


『会えない?』


 直人は息を止めた。


 忘れようとしていた。


 少しずつ、一人で生きていこうとしていた。


 それなのに、たった一言で、心の奥に押し込めていた気持ちが揺れ動いた。


 さらに、香奈から続けてメッセージが届く。


『今度、ルミナリエ一緒に行かへん?』


 直人は、画面を見つめたまま動けなかった。


 会いたい。


 その言葉を、どれだけ自分も伝えたかっただろう。


 もう一度会ったら、何かが変わるのだろうか。


 それとも、また傷つくだけなのだろうか。


 答えは出なかった。


 ただ、香奈からの連絡を無視することはできなかった。


 直人は、ゆっくりとスマートフォンを握り直した。


 止まっていたはずの時間が、再び動き出そうとしていた。





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