第19章 手放す理由
翌朝。
「ナオト、おはよう」
「・・・おはよう」
「ご飯、できてるで」
テーブルには、いつもと同じように朝食が並んでいた。
けれど、以前のような明るさはなかった。
昨夜の喧嘩が、二人の間に残っていた。
直人は黙って席につき、香奈と向かい合って朝食を食べた。
何か話そうと思っても、言葉が出てこない。
香奈もまた、いつもなら話してくれる大学のことや友達のことを、何も話さなかった。
食事を終えると、香奈は身支度を整えた。
「・・・じゃあ、行ってくるな」
「・・・うん」
玄関の扉が閉まる。
直人はしばらく、その場から動けなかった。
昨夜のことを謝れば、元に戻れるのだろうか。
そう思う一方で、ケイゴの家に泊まったという香奈の言葉が、頭から離れなかった。
問い詰めたいことは、いくらでもあった。
けれど、何を聞けばいいのかさえ、分からなくなっていた。
それから数日後。
香奈が大学から帰ってきた夜、夕食を終えた二人はリビングで過ごしていた。
香奈はソファに座り、スマートフォンを操作している。
直人は隣に座っていたが、二人の間に会話はほとんどなかった。
そんな中、香奈が何気ない調子で口を開いた。
「ナオト、今日ケイゴとでかけてくるな」
直人の手が止まった。
以前なら、大学の友達と遊んでくるとしか言わなかった。
それが今では、何のためらいもなく、ケイゴの名前を口にする。
「・・・そうなんだ」
「うん。ちょっと遊んでくるわ」
「・・・分かった」
それ以上、直人は何も言わなかった。
本当は、行ってほしくなかった。
けれど、そんなことを口にすれば、また喧嘩になる気がした。
香奈は再びスマートフォンに目を落とした。
直人はその横顔を見つめてから、ゆっくりと視線をそらした。
翌日。
香奈が出かける時間になると、直人は玄関で靴を履いている彼女に声をかけた。
「・・・どこまで行くの?」
「ん?ケイゴの家やで」
あまりにも自然な返事だった。
直人は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「・・・・・・送っていこうか?」
香奈の手が止まった。
「・・・え?」
「車で。そっちまで送るよ」
香奈は一瞬、直人の顔を見た。
「・・・あ、うん」
少し間を置いてから、香奈は小さく頷いた。
「・・・じゃあ、お願い」
直人は車の鍵を手に取り、玄関を出た。
香奈もその後に続いた。
車を走らせてしばらくすると、香奈がスマートフォンを見ながら道を案内し始めた。
「次、右な」
直人はウインカーを出し、交差点を右に曲がった。
「そのまま真っすぐ行って、次の信号を左やで」
「・・・分かった」
香奈の案内には、迷いがなかった。
道を確認するために地図を何度も見直すこともない。
交差点が近づけば、曲がる方向を当たり前のように伝えてくる。
「次、そこの細い道入って」
直人は言われたとおりにハンドルを切った。
住宅街の中を進みながら、ふと思った。
——慣れてるな。
初めて来る場所なら、こんなふうに迷いなく案内できるだろうか。
もちろん、何度か来れば道くらい覚える。
ただ、それだけのことなのかもしれない。
それでも。
香奈がこの道を何度も通っている姿を想像すると、胸の奥が重くなった。
自分が知らない時間に、香奈はここへ来ていた。
何度も。
直人は前を向いたまま、ハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。
「あ、そこのマンションやで」
香奈の声で、直人は顔を上げた。
目の前に、いくつかのマンションが並んでいた。
「・・・ここ?」
「うん。」
香奈はシートベルトを外した。
「帰りはどうするの?」
「大丈夫やで。帰れるから」
「・・・・・・そっか」
香奈はドアを開けた。
「ほな」
「・・・うん」
香奈が車を降り、マンションの入り口へ向かっていく。
直人はその後ろ姿を見つめていた。
香奈は一度も振り返らなかった。
やがて、その姿が建物の中へ消えた。
直人はしばらく車を動かせなかった。
自分が送ってきた場所に、香奈とケイゴが二人でいる。
そう考えるだけで、胸が苦しくなった。
けれど、今の直人には、それ以上何もできなかった。
その夜。
直人は一人で部屋にいた。
夕食を食べる気にもなれず、ソファに座ってスマートフォンを眺めていた。
何度か香奈とのトーク画面を開いたが、メッセージを送ることはできなかった。
何を聞けばいいのだろう。
今、何をしているのか。
いつ帰ってくるのか。
それとも、本当に自分のところへ帰ってくるつもりがあるのか。
考えれば考えるほど、何も送れなくなった。
夜も遅くなった頃、スマートフォンが震えた。
香奈からだった。
『今日は泊まってくる』
短い一文。
それだけだった。
直人は画面を見つめた。
『分かった』
そう返信しようとして、指が止まった。
本当は、聞きたかった。
どうして泊まるのか。
どうして自分のところへ帰ってこないのか。
けれど、何を聞いても、きっとまた同じことになる。
直人はしばらく迷ったあと、短く返信した。
『・・・分かった』
送信したメッセージは、すぐに既読になった。
それきり、香奈から返事はなかった。
直人はスマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。
いつもなら隣にいるはずの香奈がいない。
そのことが、今まで以上に大きく感じられた。
同じ部屋で暮らしているのに。
恋人同士のはずなのに。
自分は今、香奈がどこで何をしているのかさえ、分からない。
直人は目を閉じた。
眠ろうとしても、なかなか眠れなかった。
それからも、同じようなことが何度か続いた。
香奈はケイゴと出かけるようになり、帰りが遅くなる日も増えた。
直人が送っていくこともあった。
初めてのときは、香奈の案内を聞きながら走った道。
けれど、何度か通ううちに、直人も道を覚えてしまった。
どの交差点を曲がるのか。
どの道を進めばいいのか。
ナビを使わなくても、自然と車を走らせられるようになっていた。
そのたびに、直人は思った。
自分は、どこへ向かっているのだろう。
香奈をケイゴの家まで送り届ける。
香奈は当たり前のように車を降りる。
直人は一人で家へ帰る。
そんなことを繰り返すうちに、いつしか、それが二人の日常の一部になっていた。
ある日、香奈が泊まって帰ってきた朝。
「ただいま」
「・・・おかえり」
香奈はバッグを置き、そのまま部屋着に着替えに行こうとした。
「・・・ご飯、食べた?」
「うん」
「・・・そっか」
それ以上、会話は続かなかった。
香奈はスマートフォンを手に取り、ソファに腰を下ろした。
直人も、それ以上は何も聞かなかった。
聞きたいことは、まだあった。
けれど、聞くのが怖かった。
答えを知ることが怖いのか。
それとも、もう自分が何を聞いても、香奈の気持ちは変わらないと分かっているからなのか。
直人には、自分でも分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
二人で描いていた未来が、少しずつ遠ざかっている。
それだけは、はっきりと感じていた。
数日後
直人は、ケイゴの家を訪ねた。
インターホンを鳴らすと、しばらくして男が顔を出した。
写真で見た男だった。
「こんにちは」
「・・・こんにちは」
「・・・どちら様ですか?」
「・・・カナの彼氏です」
ケイゴの表情が変わった。
「・・・え?」
「・・・とりあえず、話しませんか?」
ケイゴはしばらく直人を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「・・・分かりました」
直人は部屋に通された。
見知らぬ部屋だった。
けれど、香奈はここに何度も来ていたのだろう。
さっきまで一緒にいたのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、直人は小さく息を吐いた。
ケイゴが向かいに座った。
「・・・カナとは、いつから知り合いなんですか?」
「・・・東京にいた頃からです」
直人は、香奈と出会った頃のことを話し始めた。
配信を通じて知り合ったこと。
初めて会った夜のこと。
少しずつ連絡を取り合うようになり、いつの間にか一緒にいることが当たり前になったこと。
二人で暮らし始めたこと。
そして、直人が香奈と一緒に生きていくために、東京を離れて関西へ来たこと。
ケイゴは黙って聞いていた。
「・・・結婚の話も、してたんです」
直人は、少しだけ視線を落とした。
「いつか結婚しようって。こっちで一緒に暮らして、いつか家族になろうって」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。
あのときは、本当にそうなると思っていた。
二人で買った指輪を見て、香奈が笑っていたこと。
結婚したら左手の指輪を買ってほしいと言われたこと。
その一つ一つが、今では遠い出来事のように感じられた。
「・・・でも、最近、ケイゴくんのことをよく聞くようになって」
直人はケイゴを見た。
「・・・カナが、ケイゴくんの家に泊まったって聞きました」
ケイゴは何も答えなかった。
直人は続けた。
「・・・俺には、分からないことが多すぎるんです」
声が少しかすれた。
「カナが何を考えてるのかも。俺とのことをどう思ってるのかも・・・」
直人は一度、言葉を切った。
本当は、こんな話を他人にしたくなかった。
香奈のことを、誰かに話したくなかった。
けれど、もう自分一人では抱えきれなかった。
「・・・それと、もう一つ」
直人は、ゆっくりと口を開いた。
「カナ、前に東京で、飲み屋の仕事をしてるって言ってたんです」
ケイゴは頷いた。
「・・・でも、本当は違いました」
直人は、香奈本人から聞いたことを話した。
バーではなく、風俗の仕事をしていたこと。
店のオーナーとも関係があったこと。
そして、そのオーナーと一緒に薬物を使ったことがあったこと。
ケイゴの表情から、少しずつ驚きが広がっていった。
「・・・そんなこと、全然・・・」
「・・・本人から聞きました」
直人は静かに答えた。
「・・・もう辞めてもらったけど、本当に辞められたのか、俺にも分からない」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
信じたかった。
香奈が本当に辞めてくれたのだと。
もう二度と、そんなことをしなくていいように、自分がそばにいられるのだと。
けれど、今はもう、その自信さえなかった。
しばらく、部屋に沈黙が落ちた。
直人は顔を上げた。
「・・・ここまでの話を聞いて、君はカナのことをどう思う?」
ケイゴはすぐには答えなかった。
視線を落とし、しばらく考えているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・正直、驚いてます」
「・・・うん」
「そんなことがあったなんて、全然知りませんでした」
ケイゴは一度、言葉を切った。
そして、直人の目を見た。
「・・・でも」
少しだけ、声が震えていた。
「・・・好き、です」
直人は黙っていた。
「カナが何をしていたとしても、俺は・・・カナのことが好きです」
その言葉を聞いた瞬間、直人は何も言えなくなった。
ケイゴは、香奈のことを好きなのだ。
それも、きっと本気で。
香奈が自分に隠していたことを、ケイゴは知らなかった。
ケイゴもまた、何も知らないまま、香奈と一緒に過ごしてきたのかもしれない。
直人は、少しだけ息を吐いた。
「・・・いつから付き合ってるの?」
ケイゴは困ったような顔をした。
「・・・付き合ってる、というか・・・カナが大学に復帰して、彼氏と別れたって言った後からです。そこから、二人で会うことが増えて・・・」
「・・・・・・そっか」
香奈は、直人と別れたとケイゴに伝えていた。
それがいつだったのか。
どういうつもりで、そんなことを言ったのか。
直人には分からなかった。
ただ、自分と暮らしていた時間のすぐ隣で、別の関係が始まっていた。
そう考えると、胸の奥が冷たくなった。
直人はふと思い出し、尋ねた。
「・・・カナが九州に行ったことは、知ってる?」
「あ、知ってます。家族旅行に行くって言ってました」
「・・・写真とか、送ってきた?」
「はい。結構たくさん送ってくれました」
ケイゴはスマートフォンを手に取った。
「これです」
画面には、見覚えのある景色が映っていた。
地元の駅。
母親に借りた車で立ち寄った場所。
二人で食べた料理。
香奈が楽しそうに撮っていた風景。
直人は、画面を見つめた。
どれも、自分が香奈と一緒に見た景色だった。
けれど、写真の中に直人はいなかった。
二人で撮った写真も、香奈と並んで写った写真も。
一枚もなかった。
香奈は、自分が撮った景色だけをケイゴに送っていた。
「・・・楽しそうだったので、いい旅行だったんだなって思ってました」
ケイゴはそう言って、少し笑った。
直人は、画面から目を離せなかった。
香奈は、母親にも気に入られていた。
母親と一緒に笑っていた。
二人で過ごした時間は、直人にとって大切な思い出だった。
いつか結婚したら、また一緒に帰ってこよう。
そんなことも考えていた。
けれど、香奈はその時間を、ケイゴにも見せていた。
自分の存在だけを切り取って。
直人は、ゆっくりと視線を落とした。
「・・・ありがとう」
「・・・いえ」
直人は立ち上がった。
「・・・今日は帰るね」
ケイゴも立ち上がった。
「急に来て驚かせてごめんね」
「・・・いえ」
それ以上、二人は何も話さなかった。
直人は玄関を出た。
ケイゴを責める気にはなれなかった。
彼もまた、香奈からすべてを聞かされていたわけではない。
それでも。
ケイゴは、香奈が何をしていたとしても好きだと言った。
その言葉が、直人の胸に残っていた。
自分も、ずっとそうだったのかもしれない。
何があっても、香奈を信じたかった。
何を知っても、香奈のそばにいたかった。
けれど、もう限界だった。
直人は、ゆっくりと歩き出した。
家に帰ると、香奈はリビングにいた。
「・・・おかえり」
「・・・ただいま」
香奈はスマートフォンを置き、直人を見た。
「・・・今日、仕事やったん?」
「・・・うん。ちょっと出かけてた」
「・・・そっか」
香奈は、それ以上聞かなかった。
直人はしばらく彼女を見つめていた。
ここで話すこともできた。
けれど、二人で暮らしてきたこの部屋で、最後の話をする気にはなれなかった。
「・・・・・・カナ」
「ん?」
「・・・ちょっと、話があるんだ」
香奈が顔を上げた。
「何?」
「・・・外で話さない?」
「・・・外?」
「うん。少し歩きながら話したい」
香奈は不思議そうな顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「・・・分かった」
二人は上着を羽織り、家を出た。
夜の街を、二人で並んで歩いた。
いつもなら、香奈が先に話し始めていた。
今日あったことや、大学の友達のこと。
目に入った店を見て、今度一緒に行こうと言うこともあった。
けれど、その夜は違った。
香奈は何も話さなかった。
直人も、すぐには口を開けなかった。
しばらく歩いたところで、直人は足を止めた。
「・・・カナ」
「・・・なに?」
香奈が振り返る。
直人は彼女の目を見つめた。
「・・・もう終わりにしよう」
香奈の表情が固まった。
「・・・・・・え?」
「・・・・・・別れよう」
香奈は、何かを言おうとして口を開いた。
けれど、言葉が出てこなかった。
「・・・なんで?」
やっと出てきた声は、小さかった。
直人はすぐには答えなかった。
何から話せばいいのか、分からなかった。
聞きたいことは、山ほどあった。
ケイゴの家に泊まった理由。
自分には見せなかった顔。
九州で一緒に過ごした時間を、別の男に送っていたこと。
そして、二人で約束した未来。
どれも、今さら問い詰めたところで、戻ってくるものではなかった。
直人は、ゆっくりと口を開いた。
「・・・もう、疲れたんだよ」
直人の声が、少し震えた。
「なんでケイゴの家に泊まるんだよ?」
香奈は何も答えなかった。
「なんでケイゴと二人で、同じベッドで寝るんだよ?」
「・・・・・・・・・」
香奈の表情が歪んだ。
「なんでいつもカナの横にはケイゴがいるんだよ・・・!」
直人は、抑えきれなくなった感情をぶつけるように声を上げた。
「俺は・・・俺は、カナの彼氏だろ・・・?」
言い終えた途端、声がかすれた。
「なのに、なんで俺じゃないんだよ・・・。なんで、いつもケイゴなんだよ・・・」
香奈は俯いたまま、唇を噛んでいた。
「・・・ナオトだって、うちのこと何も分かってくれへんやん」
「・・・そうかもしれない」
「うちだって、いろいろあったんやで……!」
「・・・うん」
直人は、頷いた。
香奈にも、何か事情があったのかもしれない。
自分の知らない苦しさがあったのかもしれない。
それでも、今はもう、何も考えられなかった。
ただ、聞きたかった。
どうして自分では駄目だったのか。
どうして、二人で約束した未来の隣に、いつも別の男がいたのか。
けれど、香奈は答えなかった。
その沈黙が、直人には何よりも苦しかった。
香奈の目に、涙が浮かんだ。
「・・・ナオトだって、うちのこと信じてくれへんやん……」
「・・・信じたかったよ」
直人は、小さく答えた。
「ずっと、信じたかったんだよ・・・」
香奈は何も言わなかった。
直人は、もう一度だけ彼女を見つめた。
これ以上話しても、何も変わらない。
そう分かっているのに、気持ちを止めることができなかった。
「・・・もう、終わりにしよう」
香奈は顔を上げた。
目には涙が浮かんでいたが、その表情には、悲しみだけではない何かが混じっていた。
「・・・なんなん、それ・・・」
声が震えていた。
「ナオトは、うちのこと何も分かってへんくせに・・・!」
「・・・カナ」
「もうええわ!」
香奈は右手を握りしめた。
薬指には、直人とおそろいで買った指輪があった。
二人で選んだ指輪。
いつか結婚したら、左手の指輪を買ってほしい。
そう言ったとき、直人は笑って頷いてくれた。
その指輪を、香奈は乱暴に外した。
「・・・っもう!」
腕を振り抜く。
指輪は夜の暗がりへ飛んでいき、道の脇の草むらへ消えた。
小さな音がした。
けれど、どこに落ちたのかは分からなかった。
香奈は草むらの方を一瞬だけ見た。
探そうとはしなかった。
直人は、その動きを見ていた。
けれど、指輪がどこへ落ちたのかまでは分からなかった。
香奈は空になった右手を握りしめ、唇を震わせた。
直人は何も言えなかった。
二人で選んだ指輪だった。
いつか結婚しようと約束した、その未来の象徴だった。
それを香奈自身が投げ捨てた。
その光景が、直人の胸に深く突き刺さった。
長い沈黙が落ちた。
香奈は俯いたまま、肩を震わせていた。
直人も、泣きそうになるのを必死にこらえていた。
本当は、別れたくなかった。
今でも、香奈が好きだった。
けれど、好きだという気持ちだけでは、もう一緒にいられなかった。
「・・・ナオト・・・」
香奈が、かすれた声で呼んだ。
直人は顔を上げた。
「・・・なに?」
「・・・うち・・・」
香奈は何かを言いかけたが、続けられなかった。
直人は、そんな彼女を見つめた。
もう、何を言われても、元には戻れない気がした。
「・・・俺はもうカナを好きじゃない」
口にした瞬間、自分の胸がひどく痛んだ。
嘘だった。
そんなこと、思えるはずがなかった。
それでも、そう言わなければ、いつまでも離れられない気がした。
香奈の目から、涙がこぼれた。
直人は唇を噛んだ。
そして、最後に一つだけ伝えた。
「・・・ケイゴくんはカナのこと大好きなんだってよ・・・」
香奈の顔から、表情が消えた。
「・・・なんで・・・ケイゴの名前が出てくるん?」
直人は、少しだけ間を置いた。
「・・・全部聞いた」
香奈は俯いた。
その顔から、さらに血の気が引いていくように見えた。
やがて、震える声で呟いた。
「・・・ナオト、ごめん・・・」
直人は何も答えなかった。
「・・・ほんま、ごめん・・・」
香奈の頬を、涙が伝っていた。
直人は、その姿を見つめた。
何度も見た顔だった。
笑っている顔も。
怒っている顔も。
眠そうに目をこする顔も。
自分に甘えてくる顔も。
全部、好きだった。
一緒に暮らしてきた部屋も。
二人で買った食器も。
いつか結婚しようと約束した未来も。
簡単に手放せるものなんて、一つもなかった。
それでも、もう戻れなかった。
直人は、小さく息を吐いた。
「・・・今日はもう帰ろうか」
香奈は俯いたまま、頷いた。
二人は、しばらくその場に立っていた。
けれど、どちらからともなく、少しずつ距離ができていった。
「・・・俺は、どっかそのあたりに泊まるよ」
直人がそう言うと、香奈は顔を上げた。
何かを言いたそうに唇が動いた。
けれど、声にはならなかった。
直人は、香奈から目をそらした。
そして、歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ってしまえば、また戻りたくなる気がしたから。
背後から、香奈の声は聞こえなかった。
ただ、足音だけが、少しずつ遠ざかっていった。
直人は、近くの公園のベンチに座っていた。
泊まる場所を探す気にもなれず、ただ歩いているうちに、ここへたどり着いていた。
ポケットから煙草を取り出す。
一本くわえ、もう一つのポケットからライターを取り出した。
紺色の本体に、細い銀色の幾何学模様。
香奈と初めて会った夜に、おそろいで買ったライターだった。
直人は火をつけた。
小さな炎が揺れ、煙草の先に火が移った。
ゆっくりと煙を吸い込み、吐き出す。
ふと、あの夜のことを思い出した。
初めて会った夜。
二人で並んで煙草を吸ったこと。
香奈の手には、白い花が描かれた淡いピンク色のライターがあった。
「これ見たら、今日のこと思い出すんやろなあ」
香奈は、そう言って笑っていた。
あの頃は、これからもずっと一緒にいられると思っていた。
東京で暮らしていた日々。
二人で見た景色。
関西へ来ると決めた日。
九州の実家で、母親と楽しそうに話していた香奈。
そして、いつか結婚しようと約束した夜。
一つ一つの思い出が、胸の中によみがえってくる。
どれも、嘘だったとは思いたくなかった。
一緒に笑った時間も。
自分を抱きしめてくれた夜も。
隣で眠っていた朝も。
全部が偽物だったなんて、思いたくなかった。
けれど、今はもう、香奈の隣に自分はいない。
直人は手の中のライターを見つめた。
「・・・今思い出しても、意味ないよ・・・」
小さく呟いた声は、夜の静けさに消えていった。
煙草の煙が、ゆっくりと空へ上がっていく。
直人はもう一度、煙を吸い込んだ。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が痛かった。
隣に香奈がいない。
それだけのことが、どうしようもなく寂しかった。
直人はベンチに座ったまま、しばらく動かなかった。
手の中には、あの夜の思い出が残っていた。
けれど、思い出だけでは、もう何も取り戻せなかった。




