第18章 すれ違う心
関西での暮らしにも慣れ、直人と香奈はそれぞれの生活を送っていた。
直人は朝から仕事へ向かい、香奈は大学へ通う。帰宅する時間が合えば一緒に夕飯を食べ、休日には二人で出かける。
そんな毎日は、少しずつ形を変えていた。
香奈が大学の友達と過ごす時間が増えたのだ。
サークルの集まりや、授業終わりの食事。
以前なら休日の予定を二人で決めることも多かったが、最近は香奈が友達と出かける日も珍しくなくなっていた。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
香奈が大学生活を楽しんでいるのは、直人にとっても嬉しいことだった。
それでも、二人で過ごす時間が減っていくことに、寂しさを感じていないわけではなかった。
けれど、直人はその気持ちを口にしなかった。
せっかく大学に戻り、新しい生活を楽しんでいる香奈に、そんなことを言いたくなかったからだ。
それに、自分だって仕事がある。
お互いに自分の時間ができるのは、自然なことなのだと思っていた。
ある日の夕方。
仕事から帰ってきた直人が着替えていると、リビングにいた香奈が声をかけてきた。
「ナオト、今日の夜ご飯、先に食べといてくれる?」
「ん? どうしたの?」
「大学の友達とご飯行くことになってん!」
「ああ、そうなんだ」
直人はクローゼットから部屋着を取り出しながら答えた。
「何時くらいに帰ってくる?」
「んー、まだわからへん。そんな遅くならんと思うけど!」
「そっか。気をつけてね」
「はーい!」
いつもと変わらない、何気ない会話だった。
香奈はスマートフォンを手に取り、出かける準備を始める。
直人も、それ以上は気にしないつもりだった。
けれど、ふと、以前見せてもらった大学の写真が頭に浮かんだ。
何枚もの写真に写っていた、同じ男。
ケイゴ。
直人は、気づけばその名前を口にしていた。
「・・・またケイゴくんもいる?」
香奈はスマートフォンから顔を上げた。
「おると思うで!」
あまりにも自然な返事だった。
隠す様子も、言いよどむ様子もない。
ただ、いつもの調子で答えただけだった。
それなのに、直人の胸の奥で、何かが引っかかった。
「・・・そっか」
そう言って終わらせるつもりだった。
別に、ケイゴが一緒にいるからといって何かあるわけではない。
大学の友達なのだから、一緒に食事をすることだってあるだろう。
頭では、そう理解していた。
それなのに。
「・・・・・・それなら、ずっとケイゴといたらいいやん!」
気づいたときには、言葉が口から出ていた。
香奈の手が止まった。
「・・・は?」
その声を聞いて、直人は自分が何を言ったのか理解した。
こんなことを言うつもりではなかった。
ただ、少し寂しかっただけだ。
最近、二人で過ごす時間が減ったことが気になっていただけ。
ケイゴの名前が出たことで、どうしてか胸の奥がざわついただけだった。
けれど、今さら言い直すこともできなかった。
「何それ。急にどうしたん?」
「・・・別に」
「別にって、今の何なん?」
香奈の声に、少しずつ苛立ちが混じっていく。
「最近、友達と出かけることが増えたからって、そんな言い方せんでもええやん」
「そんなつもりじゃ・・・」
「じゃあ、どういうつもりなん?」
直人は答えられなかった。
本当の気持ちを説明できればよかった。
寂しかった。
もう少し、自分との時間も大切にしてほしかった。
ただ、それだけだった。
でも、それをそのまま伝えることができなかった。
自分でも、こんなことで苛立っていることが情けなかったからだ。
「・・・もういいよ」
直人は目をそらした。
「好きにすればいいじゃん!」
言った瞬間、後悔した。
香奈の表情が変わったのがわかった。
「・・・何なん、それ」
「だから、好きにすればって言ってるだろ」
引っ込みがつかなくなっていた。
本当は、行かないでほしいわけでもない。
ケイゴと会うなと言いたいわけでもなかった。
ただ、そんなふうに突き放したいわけではなかった。
それでも、直人は自分の言葉を取り消せなかった。
香奈はしばらく直人を見つめていた。
「・・・もうええわ」
そう言うと、手に持っていたバッグを置いた。
「・・・別に、出かけるなら行けばいいじゃん」
「そういう問題ちゃうやろ!」
香奈の声が大きくなった。
「ナオトがそういう言い方するからやん!」
「・・・・・・・・・」
「もう知らん!」
香奈はバッグを持ち直し、そのまま玄関へ向かった。
「香奈・・・」
呼び止めようとした。
けれど、その先の言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
玄関のドアが閉まった。
部屋に残された直人は、しばらくその場から動けなかった。
言いすぎた。
それは、わかっていた。
けれど、今さら追いかけて何を話せばいいのだろう。
謝ればいいのか。
寂しかったと、正直に言えばいいのか。
直人はスマートフォンを手に取った。
香奈にメッセージを送ろうとして、やめた。
今、何かを送っても、余計にこじれる気がした。
その夜、香奈は帰ってこなかった。
最初は、少し頭を冷やしているだけだと思った。
そのうち帰ってくるだろう。
そう考えていた。
けれど、時間が過ぎても連絡はなかった。
日付が変わり、深夜になっても、スマートフォンは静かなままだった。
直人は何度も画面を確認した。
電話をかけようかとも思った。
けれど、さっきのやり取りが頭をよぎり、指が止まる。
自分から突き放すようなことを言ったくせに、今さら心配して連絡するのもおかしい気がした。
それでも、落ち着かなかった。
どこにいるのだろう。
ちゃんと帰ってくるのだろうか。
何かあったのではないか。
考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりが浮かんだ。
結局、直人はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
翌日の昼過ぎ。
玄関のドアが開く音がした。
「・・・ただいま」
香奈の声だった。
リビングにいた直人は、すぐに顔を上げた。
「・・・おかえり」
香奈はバッグを置き、靴を脱いだ。
少し疲れたような顔をしていたが、ひどく落ち込んでいるようにも見えなかった。
直人は、何か言おうとした。
けれど、香奈のほうが先に口を開いた。
「・・・なあ、ナオト」
「・・・ん?」
「うちら、もうあかんのかな」
直人は黙った。
香奈は視線を落としたまま続けた。
「最近、なんかうまくいかへんやん」
「・・・・・・・・・」
「昨日みたいなんも、もう嫌やし」
少しの沈黙が流れた。
そして、香奈は小さな声で言った。
「・・・もう、やめようか?」
「・・・何を?」
「二人でいること」
直人の胸が、嫌な音を立てた気がした。
香奈は顔を上げた。
「・・・もう別れる」
直人は何も言えなかった。
昨日、自分が口にした言葉が頭をよぎる。
好きにすればいい。
あのときは、ただ腹が立っていただけだった。
本当に別れたいわけじゃなかった。
香奈がいなくなるなんて、考えてもいなかった。
それでも、昨日からずっと気になっていたことがあった。
「・・・昨日は、どこにいたの?」
香奈は少しだけ顔を上げた。
「・・・ケイゴの家」
「・・・・・・え?」
思いがけない答えに、直人は聞き返した。
「ケイゴの家に泊まってた」
直人は言葉を失った。
写真の中で、何度も香奈の隣に写っていた男。
ケイゴ。
その名前と顔が、頭の中に浮かんだ。
「・・・なんで、ケイゴくんの家に?」
香奈は苛立ったように直人を見た。
「好きにすればって言ったのはナオトやろ」
「・・・・・・それは・・・・・・」
直人は言い返せなかった。
確かに、自分が言った言葉だ。
けれど、本当に家を出ていくなんて思っていなかった。
まして、ケイゴの家に泊まっていたなんて。
「・・・待って」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
香奈は顔を上げた。
「・・・何?」
「・・・俺は、別れたくない」
直人は香奈を見つめた。
「昨日は、ごめん。あんな言い方するつもりじゃなかったんだ」
「・・・・・・」
「最近、二人でいる時間が減って、ちょっと寂しかったんだと思う。でも、それをちゃんと言えなくて・・・あんな言い方をした」
香奈は何も答えなかった。
「ケイゴくんと会うなとか、そういうことを言いたいわけじゃない。ただ・・・」
直人は言葉を探した。
「・・・別れたくないんだ」
もう一度、そう伝えた。
香奈はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「・・・うちだって、こんなことで別れたいわけちゃうよ」
「・・・うん」
「でも、昨日のナオトの言い方、ほんまに嫌やった」
「・・・ごめん」
「うちが誰と遊ぶか、そんなに気になるん?」
直人は少し迷った。
「・・・気にならないって言ったら、嘘になる」
香奈の目が、ほんの少し動いた。
「でも、だからって、あんな言い方していいわけじゃなかった。ごめん」
直人は頭を下げた。
香奈はしばらく彼を見ていたが、それ以上責めることはしなかった。
「・・・もうええよ」
その声には、まだ少し不満が残っていた。
けれど、直人はそれ以上、何も言えなかった。
別れずに済んだ。
今は、それだけでよかった。
ケイゴの家に泊まっていた理由も、本当は聞きたかった。
けれど、今それを問い詰めれば、また同じことになる気がした。
直人は、その疑問を胸の奥にしまい込んだ。
その日の夜。
二人は一緒に夕飯を食べていた。
会話は少なかったが、険悪な雰囲気ではなかった。
香奈はいつもどおりにテレビを見て、直人もそれに相づちを打った。
少しずつ、普段の空気に戻っているように思えた。
けれど、直人の中には、昼間の会話がずっと残っていた。
ケイゴの家に泊まっていた。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
食器を片づけ、二人でソファに座ったあとも、直人は落ち着かなかった。
聞かないほうがいい。
今は、せっかく仲直りしかけているのだから。
そう思っていた。
それでも、どうしても気になってしまった。
「・・・香奈」
「んー?」
「・・・昼間の話なんだけど」
香奈がテレビから視線を外した。
「何?」
「昨日言ってた、泊まったって・・・・・・どういう意味?」
香奈の表情が、わずかに変わった。
「・・・もうええやん、その話」
「いや、よくないだろ」
「なんでよ! 好きにすればって言ったの、ナオトやん!」
「それはそうだけど・・・だったら何してもいいの?」
「いいんちゃう? 別に」
直人は、思わず香奈の顔を見た。
「・・・じゃあ、何?一緒に寝たってこと?」
香奈は露骨に嫌そうな顔をした。
「マジ、そういうのウザイ」
「・・・・・・」
それ以上、言葉が出なかった。
香奈は再びテレビに目を向けた。
話は終わりだと言わんばかりだった。
直人は、何かを確かめたかった。
ケイゴの家で何をしていたのか。
どうしてそこに泊まったのか。
自分が知らない時間に、二人の間で何があったのか。
けれど、香奈は何も答えなかった。
肯定もしなければ、否定もしない。
その態度が、直人を余計に苦しめた。
自分が勝手に疑っているだけなのかもしれない。
昨日、あんな言い方をした自分が悪いのかもしれない。
香奈が怒るのも、無理はないのかもしれない。
そう考えようとした。
それでも、一度頭に浮かんだ疑問は消えてくれなかった。
隣に座る香奈は、いつもと変わらない恋人のはずだった。
直人の知っている笑顔も、声も、何も変わっていない。
なのに、ほんの少しだけ、遠くにいるような気がした。
直人はそれ以上、何も聞かなかった。
聞けば、また彼女を怒らせてしまう。
また、出ていってしまうかもしれない。
そして今度こそ、本当に戻ってこなくなるかもしれない。
そう考えると、言葉を飲み込むしかなかった。
テレビの音だけが、静かな部屋に流れていた。
隣に香奈がいる。
それなのに、直人は彼女の知らない時間を、初めてはっきりと意識していた。




