第17章 知らない時間
関西での生活にも、すっかり慣れてきた。
朝になれば仕事へ向かい、夕方には家に帰る。
カナは大学へ通い、帰ってくると、その日にあった出来事を楽しそうに話してくれる。
東京にいた頃とは、生活が大きく変わった。
俳優になるという夢を追いかけていた頃は、明日のことさえ分からなかった。
仕事が決まるかどうかも、いつまで東京で暮らせるのかも分からない。
今は違う。
毎日仕事があり、帰ればカナがいる。
それが当たり前になりつつあることを、ナオトは少し不思議に感じていた。
休日の昼下がり。
「ナオト、今日のお昼どうする?」
ソファに寝転がっていたカナが、スマートフォンを見ながら尋ねた。
「どうしようか。何か食べたいものある?」
「んー・・・パスタ!」
「昨日も麺類だった気がするけど」
「ええやん!好きなんやもん」
カナは悪びれる様子もなく笑った。
「じゃあ、食べに行く?」
「行く!準備してくるわ!」
そう言うと、カナは勢いよく立ち上がった。
その様子を見送りながら、ナオトは小さく笑った。
二人で出かけ、気になっていた店で昼食を食べた。帰りにはスーパーに寄り、夕食の食材を買って帰る。
特別なことは何もない。
それでも、こうして一緒に過ごす時間が、今のナオトには心地よかった。
帰宅してからは、二人で夕食を作った。
カナが野菜を切り、ナオトがフライパンで肉を炒める。途中でカナが味見をしようとすると、ナオトはその手を軽く避けた。
「まだだって」
「ちょっとくらいええやん!」
「もうすぐできるから」
「ケチやなあ」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら料理を完成させ、二人で食卓を囲んだ。
食後はソファに並んで座り、テレビを見ながらくつろぐ。
カナが何かを思い出したように、スマートフォンを手に取った。
「そうや、ナオトに見せたい写真あんねん」
「写真?」
「大学で撮ったやつ!」
カナは画面を操作しながら、ナオトの隣へ寄ってきた。
「これな、友達とお昼食べに行ったときの写真!」
「へえ、いい店だね」
「せやろ? ここのデザートがめっちゃおいしかってん!」
画面には、料理やデザートの写真が並んでいた。
そのあとも、友達と撮った集合写真や、講義の合間にふざけて撮った写真を見せてくれた。
カナは写真を一枚ずつ説明しながら、楽しそうに笑っている。
「大学、楽しそうだね」
「楽しいで! 最近は友達ともよう遊ぶようになったしな」
「そっか。よかったね」
「うん!」
カナが笑顔で答えた。
大学に戻る前は、生活がどう変わるのか少し心配していた。でも、今の様子を見ていると、そんな心配はいらなかったらしい。
ナオトは、彼女が自分の世界を広げていくことを嬉しく思った。
しばらく写真を見ていると、一枚の写真に目が留まった。
何人かの学生が並んで写っている。その中に、見覚えのある男がいた。
「・・・あ、この人、前の旅行の写真にもいたよね?」
何気なく口にすると、カナは画面を見ながら答えた。
「そうだっけ?」
「うん。何枚か写ってた気がする。この人、名前なんていうの?」
「ケイゴやで。大学の友達やで」
「ケイゴくんか・・・・・・」
ナオトはもう一度、写真に目を向けた。
旅行のときにも見かけた顔だった。
別に、珍しいことではない。同じ大学の友達なら、一緒に旅行へ行くこともあるだろうし、写真に何度も写っていたって不思議ではない。
そう思いながら、ナオトは何気なく尋ねた。
「ケイゴくんって彼女いるの?」
口にしてから、自分でも少し不思議に思った。
どうしてそんなことを聞いたのだろう。
カナは少し考えるようにして答えた。
「わからへん。いないんちゃう?」
「そっか」
ナオトはそれ以上、何も聞かなかった。
ケイゴに彼女がいるかどうかなんて、自分には関係のないことだ。
ただ、何度か写真で見かけた男が、どんな人なのか少し気になった。それだけだと思った。
「これも見て!みんなで撮ったやつ!」
カナは次の写真を表示した。
ナオトもそちらへ目を向け、ほかの写真を眺めた。
会話はそのまま別の話題へ移り、ケイゴのことは、それ以上話に出てこなかった。
その夜、二人はいつもどおり一緒に眠った。
それから数日後。
仕事から帰ると、カナが出かける準備をしていた。
「あれ、どこか行くの?」
「うん。今日、大学の友達とご飯食べに行くねん」
「そうなんだ。何時ごろ帰ってくる?」
「んー、そんな遅くならへんと思うで!」
「分かった。楽しんでおいで」
「はーい!」
カナは笑顔で返事をすると、玄関へ向かった。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まり、部屋が静かになった。
ナオトは着替えを済ませ、ひとりで夕食を食べた。
テレビをつけ、スマートフォンを眺め、特に目的もなく時間を過ごす。
しばらくして、ふと、この前見た大学の写真を思い出した。
ケイゴという男。
旅行の写真にも、大学で撮った写真にも写っていた。
今日も一緒にいるのだろうか。
そんな考えが浮かび、ナオトは少しだけ眉を寄せた。
別に、気にするようなことではない。
カナには大学の友達がいる。友達と食事に行くことだって、ごく普通のことだ。
自分だって、仕事仲間と過ごす時間がある。
それなのに、どうして気になったのだろう。
ナオトはスマートフォンをテーブルに置き、ソファの背もたれに体を預けた。
少し考えて、ようやく気づいた。
——ああ、嫉妬してるのか。
そう思うと、なんだか自分がおかしくなった。
会ったこともない男に、どうして嫉妬する必要があるのだろう。
ケイゴがどんな人間なのかも知らない。カナとどれくらい仲がいいのかだって、写真だけでは分からない。
ただ、カナが自分の知らない場所で、自分の知らない人たちと過ごしている。
その中に、何度か写真で見かけた男がいる。
それが少し気になっただけだ。
ナオトは小さく息を吐いた。
カナを疑っているわけじゃない。
彼女が大学で友達と過ごすことを、嫌だと思っているわけでもない。
ただ、自分の知らないカナの時間があることを、今までより少しだけ意識した。
それだけだった。
「ただいまー!」
玄関から、聞き慣れた明るい声がした。
「おかえり」
時計を見ると、思っていたより少し遅い時間だった。
「楽しかった?」
「うん! めっちゃ楽しかったで!」
カナは靴を脱ぎながら、今日あったことを話し始めた。
友達と食べた料理がおいしかったこと。みんなでいろいろな話をして、思った以上に時間が経っていたこと。
ナオトは相づちを打ちながら、その話を聞いた。
カナは楽しそうだった。
その表情を見ていると、さっきまで胸の奥にあった小さな引っかかりも、いつの間にか薄れていった。
「また今度、その店行ってみたいな」
「ええで!今度一緒に行こ!」
「うん、そうしよう」
カナは満足そうに笑うと、着替えるために寝室へ向かった。
その後、二人で遅めの夕食を食べ、ソファでくつろいだ。
カナが隣に座り、ナオトの肩に寄りかかる。
ナオトは自然に彼女の肩へ腕を回した。
「眠くなってきたなあ」
「今日はもう寝る?」
「んー、もうちょっとだけこうしてたい」
「じゃあ、もう少しだけ」
カナは小さく笑い、ナオトの肩に頭を預けた。
いつもと変わらない夜だった。
ナオトは、腕の中にいるカナを見つめた。
自分の知らない友達がいて、自分の知らない時間がある。
それは、きっと当たり前のことなのだろう。
すべてを知っていなくても、信じていればいい。
ナオトはそう思い、カナの肩をそっと抱き寄せた。
カナは何も言わず、彼に寄り添っていた。
二人の間に、何かが変わったわけではない。
ただ、ナオトの中には、ケイゴという名前と顔が、以前より少しだけ鮮明に残っていた。




