第6話 王都からの手紙
辺境に来てから三ヶ月が過ぎた頃、王都から一通の封書が届いた。
宛先は、グレイ辺境伯領にいるリゼット・ローゼンバーグ。差出人の名前はなかったが、封蝋には王家の紋章が刻まれていた。
封を開けると、中には一通の正式な通知と、もう一通の手紙が入っていた。
一つは、王太子エドワードと異母妹メアリーの婚約が正式に国内外へ発表されたという、儀礼的な報告。
そしてもう一つは、エドワードからの私信だった。そこに綴られていたのは、あまりにも都合のいい願いだった。
『リゼット。急な手紙を許してほしい。
今、王宮の執務がどうにも回らなくなっている。君がこれまで引き受けてくれていた書類の処理や、各所との調整が、これほど難しいものだったとは思っていなかった。メアリーも懸命に支えようとしてくれているが、彼女の力では到底追いつかないのだ。一度だけでいい。王都に戻って、私に会ってくれないか。直接、君に話がしたいことがある』
手紙を読み終えたリゼットは、乾いた笑いを漏らした。
「……今更、何を言い出すのかと思えば」
あんなにも誇らしげに『メアリーを愛している』『素直に笑い、泣き、感情を見せてくれるメアリーを選ぶ』と切り捨てておきながら、いざ自分たちの無力さで足元が揺らぎ始めると、都合よく、過去の婚約者を頼ろうとしている。
呆れを通り越して、もはや滑稽だった。
けれど、かつてエドワードを一途に慕っていた頃を思い出し、胸がチクリと痛んだ。もう関係ない。そう思っているのに、胸の奥は重かった。
リゼットが手紙を前に黙り込んでいると、執務室のドアがノックされた。
入ってきたアーヴィンは、机の上の封書に目を留めた。
「王都からか?」
「……ええ」
「何かあったのか?」
「王太子殿下からよ。王都に戻ってきてほしいそうなの」
「……それで、そんな顔をしているのか」
「どんな顔よ」
「戻るかどうか、迷っているように見える」
「まさか」
リゼットは即座に首を横に振った。
「あんな息の詰まる場所、二度とごめんだわ。ただ……人間って、ここまで身勝手になれるものなのねって、少し呆れていただけよ」
「……なら、無視すればいい」
アーヴィンはあっさりとそう言った。
これまでの周囲の人間なら、『王太子の命令なのだから従うべきだ』『元婚約者として力になってあげなさい』と、リゼットに無茶な役割を押し付けていただろう。
しかし、アーヴィンは違う。彼は灰色の瞳で、リゼットをまっすぐに見つめた。
「会いたいなら、行けばいい。だが、会いたくないなら、戻る必要はない。決めるのはお前だ。誰の指図も受ける必要はない」
その言葉は、驚くほど軽やかで、そして温かかった。
けれど、不思議だった。
アーヴィンには、幼い頃から親しい女性がいると聞いている。そんな彼が、どうして自分にここまで親身になってくれるのだろう。
そんな疑問が、一瞬だけ胸をよぎった。
(……いえ。余計なことを考えるのはやめましょう)
誰かの期待に応えなくていい。
誰かに決められる必要もない。
私がどうしたいか――それだけでいい。
胸の奥で渦巻いていた迷いが、すっと消えていくのが分かった。
「……そうね」
リゼットは小さく息を吐き出すと、エドワードからの手紙を綺麗に折り畳んでから、暖炉の火に放り込んだ。
赤い炎がパチパチと音を立て、王太子の身勝手な手紙を灰に変えていく。
「行くわけないわ。私はここで、私のやるべきことをやるだけよ」
すっきりと晴れ渡った笑みを浮かべたリゼットを見て、アーヴィンはふっとかすかに口の端を持ち上げた。
その横顔を見つめながら、リゼットの胸の奥で、止まっていた何かがほんの少しだけ動き始めていた。
◇
その頃、王都の王城では――。
静まり返った王太子執務室で、エドワードは山積みにされた書類を前に、頭を抱えていた。
かつてリゼットが座っていた向かい側の机には、今ではメアリーが座っている。
「殿下、これ……次の貴族会合の資料ですが、どこを確認すればいいのか分かりませんわ」
薄紅色のドレスに身を包んだメアリーの前にも、未処理の書類が山のように積まれていた。だが、その手は一向に進んでいない。
そもそも、貴族間の複雑な派閥関係や領地間の利害対立といった基礎知識すらないメアリーにとって、難解な公文書の文言は、ただの呪文のようなものだった。
「すまない、メアリー。少し待ってくれ。今、こちらの収支報告書を……」
エドワード自身も、頭痛をこらえながら必死にペンを走らせていた。
だが、いくら筆を動かしても、処理すべき書類は減るどころか増えていく。
各部署からは『調整がついていない』『予算の承認が下りない』と連日のように苦情が舞い込み、王宮全体の歯車が明らかに狂い始めていた。
――以前は、どうやって回っていた?
ふと、そんな疑問がエドワードの脳裏をよぎる。
リゼットがそばにいた頃は、彼が政治的な大枠を決めさえすれば、細かな調整や書類の不備はすべて彼女が整えてくれていた。
リゼットの存在がどれほど大きかったのか。彼女を失って初めて、エドワードは身をもって知らされていた。
「ねえ、殿下……。やっぱり、お姉様にお願いしましょう。お手紙のお返事は、まだかしら……」
メアリーが不安そうにエドワードを見つめた。
「ああ……まだ返事はない。確かに届いたはずなのだが、おかしいな」
エドワードは苦い表情でペンを置いた。
――その頃、執務室の外では、エドワードの三人の側近たちが小声で話していた。
「おい、なぜ、こんなにも書類の決済が滞るんだ? 遅すぎるだろう」
「うん。俺たちが代わりにサインするわけにもいかないしな……」
「このままだと、どんどん書類が溜まっていくぞ。どうする?」
「もともと、第一王子のマクシミリアン殿下のほうが優秀だったのだろう」
「ああ。ただ、前王妃殿下が出産の際に亡くなられて、第一王子殿下は後ろ盾を失われた。それで、王妃殿下を正妃に迎えられた翌年に、エドワード殿下がお生まれになったわけだ」
「つまり、王妃殿下のお子である第二王子殿下を王太子に据えられたというわけか」
「ああ。王妃殿下はゼンダック公爵家のご出身だ。対して、第一王子殿下の亡くなられた母君は伯爵家のご出身。どちらを立太子させるかは、決まったようなものだったわけだ」
「マクシミリアン殿下は、いずれ王家を離れて、公爵家を興される予定だったな」
「ああ。レーベン侯爵令嬢ビクトリア様との婚姻が整えば、王家を離れて公爵位を賜り、公爵家を興されることになっている」
「それなら……マクシミリアン殿下を王太子にされたほうが、執務も捗るのではないか? 俺も政策についてお話ししたことがあるが、知識も判断力も、物事を動かす手腕も桁違いだったぞ」
「わかる! 器がでかいというか、なんというか。マクシミリアン殿下には、人を自然と従わせるような貫禄があるよな」
「おい、声が大きい!」
「だが、実際そうだろう。エドワード殿下の執務は、リゼット侯爵令嬢が支えていたようなものだった」
「それを今になって思い知らされているわけか」
「しかも、諸外国にも『王太子の新たな婚約者』としてメアリー嬢を正式に通知したばかりだ。今さら王太子を交代させるなど、簡単にはできまい」
「……リゼット侯爵令嬢さえいてくださればな」
「まったくだ。困ったものだ」
「俺たちの側近としての立場も危ういな……。このままというわけにもいかんだろうな」
「ああ。家とも、今後について相談しておかないとな……」
側近たち三人は顔を見合わせ、深いため息をついてから、重い足取りで執務室へと戻っていった。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




